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第一章 旅人と剣士 2


 ロプノールは一つの湖と六つの湖からなる王国である。
 中心の湖のみが移動せず、残り六つは等間隔に、毎年砂の時期を待って移動する。一体どのようにしてその湖の移動がなされているのかは誰もしらない。無論どの位置に次の湖が定まるのかも。ただ、起こっている。それだけが人々にとっての事実であり、世界の摂理だった。
 移動する湖に政の府が置かれていては、不都合が出る。首都は当然、唯一移動しない湖に据え置かれた。
 褐色の大地から切り出した石をくみ上げて作られた小さな都市は、傍らに美しい青の輝きを据え置いて、鳥の止まり木よろしく四六時中大いに賑わっている。
 人々のほとんどが、日中火ぶくれを防ぐために頭からすっぽり外套を被る。ただその色は鮮やかだ。布は湖の水と同じく大地から削りだした染料を使って染め上げる。大胆な色彩が目に痛い。光と日陰が濃かった。
 人ごみをぬって幾度も階段を上り、入り組んだ通路を抜け、王宮の裏口に身を滑り込ませる。身分証明書を提示することはなく、見知った警備兵に軽く敬礼をして、そのまま奥へと抜けた。王宮はどこから運んできた素材を使っているのやら、街の赤煉瓦とはまた違って、白が美しい石造り。磨かれた表面に移動する自分の影が写る。かつかつと靴音を響かせながら外套を脱ぐシファカの目に、ちらりと壁にかかる絵画が過ぎった。
 足を止めて見つめる。実は、暇さえあれば見つめている絵画。
 描かれているのは、青い水に抱かれる美しい都市だ。一見、シファカの見知らぬ国を描いたようではあるが、よくよく見ればそれはこの不毛の王国を描いたものであると判る。誰かが、この土地に水溢れることを夢見て描いたのだろう。この不思議な蒼に、シファカはいつも惹かれている。
 絵画を見つめていたシファカの耳に、高い声が届いた。
「おねーさまー!」
「エイネイ」
 振り返り、シファカは再び歩き出した。見えてくるのは中庭。そしてその向こうからぶんぶんと大きく手を振ってくるのは、双子の妹だった。ひょいと柵を越えて、シファカは中庭に入り、妹に歩み寄った。
 ムラのある玻璃を張り合わせた天井をもつ中庭は、外套なしでも日光を謳歌できる。砂が入ってくることもないせいか、ここばかりは豊かに緑が茂り潤っていた。水は湖から引いていて、そして絶える事が無い。
 妹のエイネイは自分と同じ十九歳。豊かな黒い髪を二つに分けて頭の両脇で結い上げ、薄桃色の爪が光る白く細い指を、可愛らしい唇にあててころころと笑う。愛らしい容貌、明るいその表情と気さくな質は、誰よりも人を惹き付けた。白くてふわふわの妹。抱きしめるだけでいい匂いがする。そしてこの妹は、二月[ふたつき]と待たず、この国の皇太子妃になることが決定していた。
 胸に飛び込んできた妹を、きゅっと軽く抱きしめてシファカは笑った。
「馬鹿だなぁ。埃だらけになっちゃう」
「ナドゥはお元気でしたか? お姉さま」
「うん元気そうだった」
 剣も借りてきたよ、と手に握る布包みをかるく掲げる。片手にずしりとくるそれは、普段シファカが使っているものとは重量がまるで異なる。あの刀をナドゥから貰う以前は、これと同じ型のものを使っていたはずなのに。こうも負担に思うなんて先が思いやられる。
 エイネイはシファカの持つ包みに視線を落とし、ほんの少し顔をしかめた。この少女は、自分が武器を振り回して身体を張ることをあまりよく思っていない。もともとそんなふうに感じられていたけれども、先日<輿入れの宣>の最中に襲撃にあい、シファカが怪我をしてから露骨に顔をだすようになった。今日だって、街へ一人で出かけることに散々文句をいってきたのだ。やれ怪我をしているのだから療養しろだの、危険だの、護衛をつけるべきだの。
 一応、エイネイの護衛役の長であるシファカに護衛をつけては、本末転倒ではないか。
 その上、最近特にエイネイの婚礼に際し、城周辺がきな臭いのだ。この間は小火騒ぎがあったし、その前は女官の一人と衛兵二人が刺殺される事件があった。この状況で、自分一人に大事な手勢はさけない。裂く必要もない。
「団長」
 中庭の入り口に立っていたセタが唇の端を笑みに引き結んで歩み寄ってくる。上背に圧倒されそうになりながらもシファカは微笑を返した。
「御免。泥を落としてくるからもう少しだけ待っててくれるかな」
「そりゃいくらでも。つか団長少し今のうちに休んだほうがいいぜ? 美容に悪いんじゃねぇのか?」
「ばぁか。誰に何の話をしているんだ」
 双子で基本的な造りは同じだとしても、横に並ぶエイネイと自分では、雲泥の差だった。エイネイはほんのりと色づいた象牙色の肌と、黒いつややかな髪、たおやかな柔らかい身体。反して自分は、鍛え抜かれた少年のような体躯をしている。肌はよく日に焼けて小麦色。長い黒髪だけが唯一自分を少女として押しとどめている。少年のような自分の体は決して嫌いではない。この良く動いてくれる身体があるから、自分はこうして剣を握っていられるのだ。
「いやいや、団長だって磨けば玉葱のように白い肌がでてくるかもしれない」
「余計なお世話だよ、セタ」
 やけに絡んでくるセタに嘆息しつつ、シファカは呻いた。
「可愛くない団長だな〜!!」
 がば、と彼に腕を肩にまわされ、エイネイから引き剥がされる。暑苦しいその体の中で、シファカはもがいた。何せ彼の体は自分よりも一回り近く大きい。その圧迫感たるや、シファカを押しつぶしそうなほどなのだ。必死で体を押し返しながらシファカは猛然と抗議した。
「団長が可愛くあったって仕方がないだろ! いたたたセタやめ」
「殿下の朝の杯に毒が盛られた」
 耳元に不意に届いた囁きに、シファカは動きを止めた。セタの真剣な目と目を合わせた瞬間に、彼の体が自分からエイネイの手によって引き剥がされた。
「セタ! お姉さまが苦しがっているではありませんか! やめてくださいませ!」
 エイネイの非力な手で、実際自分とセタが引き剥がせたのかどうかというとそうではない。事実、エイネイの手から飛びのくように、セタが身を引いたのが実際だ。セタは苦笑しながら、けれども至極真面目に、シファカを見据えてきた。
「ロタが呼んでいたぞ、団長」
 ロタから話を聞けということなのだろう。シファカは頷き、しがみついたままの妹をゆっくりと押しやった。
「御免ね。エイネイまた後で。ほら、そんな風にしがみつくから埃だらけだ。またアムに怒られるよ」
 エイネイ付きの女官アムネーゼは、毎回口を尖らせてエイネイの行動に不平を漏らしている。アムはエイネイが可愛くて仕方がない反面、彼女の天真爛漫すぎて警戒心やつつしみを飛び越えてしまう部分に頭を痛めているのだ。
 エイネイはアムが口うるさくて仕方がないらしく、わざと彼女を憤慨させるようなことばかり――無論可愛らしい範囲に留まってはいるのだが――をしていた。こうやって埃まみれになるのも、自分への愛情表現だけではなく彼女への嫌がらせも含まれているのかもしれない。結局口で咎められて、不機嫌になるのはエイネイ自身なのに。
「じゃぁ頼むね、セタ」
「無論ですよ」
「すぐにお戻りになってねお姉さま。今アムが美味しいお茶とお菓子を用意しているの。会食の前にすこし頂きましょうよ」
「エイネイ。私は遊びでエイネイの傍にいるわけじゃないんだけど」
「あらお姉さま。たまには息をお抜きにならないと怪我の治りだってよくありませんわよ」
 子供のように頬を膨らませてそう主張して譲らないエイネイに、シファカは苦笑せざるを得なかった。
 エイネイの言葉はとても正論なのだが、如何せん、今は時期が時期だけにそういう訳にもいかない。彼女とて判らぬはずもないのだ。まがりなりにも次期皇太子妃、渦中の人なのだから。
 あれだけ危険な目に遭いながらも休息の必要性を護衛役に訴えることができるのは、彼女の物事に動じない度量の大きさのためか、それとも単に、たった一人しかいない血族を思いやってか。
 シファカは微笑を取り繕って踵を返した。握る剣がとても重かった。手が、酷く痺れるほどに。


「幸い大事にはいたらなかった」
 長いため息を落としながら、薄い金の髪を撫で付けた壮年の男が呻いた。裾口につる草の刺繍が施された清潔な白い長衣。右肩から斜めがけにされた月の意匠を銀糸で縫いとった濃紺の布は宰相の証だ。この荒野において、夜を照らすもの、という意味である。
 体格はこの国の国民らしく、無骨で大柄。日に焼け、また蓄えられた髭や彫りの深い顔立ちから、このように建物の中に篭っているのは、全くといっていいほど似合っていない。護身用の短剣を腰に吊るし、その僅か上で手を組んでいる。
 不毛の王国宰相、ロタ・メイ・ディオは窓際に立ち、外を眺めつつ渋面になりながら言葉を続けた。
「が、毒見を行った女官が一人大事だ。薬師に見せてはいるが、今夜が峠だろうといわれた。殿下は酷く落ち込んでおられるが、騒ぎにしたくはないと緘口令[かんこうれい]をお敷きになられた」
「陛下には?」
「奏上してはおらん。だがお耳には入っているのかもしれない。相変わらず寝台から抜け出ることはならなくとも、お耳の早いお方だから」
「エイネ……妃殿下には?」
「お耳には入れてはいない。が、アムネーゼが一時席を突然外したことに対しては怪訝に思われているかもしれない」
「アムがどうして?」
「危篤のものはアムネーゼの親類だ。リムエラを知っているか」
 シファカは静かに瞼を伏せた。その名前には聞き覚えがある。宮城上がりの際にアムネーゼから直々に紹介を受けた。まだ幼さを引きずるその娘は、アムネーゼの姪、だったはずだ。彼女が娘のように可愛がっていた、少女を、確かリムエラといった。
「一度顔を見させたが、アムネーゼはすぐに妃殿下の下へ戻った。事実を知れば、妃殿下は動揺なさるだろうと」
 まだ、輿入れの宣から幾日も経っておらず、先日は女官と衛兵が刺殺されたばかりだ。こう立て続けにものが起こると、さすがのエイネイでも精神が参るだろうとの配慮。シファカは腰に下げている剣の柄を無意識のうちに探り、力をこめて握り締めた。
「……賢人議会って何者なのかな」
「それが判れば私も苦労はしない。だが今回のことでますます用心をしなければならなくなった。陛下の杯に毒を盛るなどと、中の人間しかできぬからな」
 ロタの口調には焦燥があった。彼もまた、疲労の色が濃い。ここ最近一睡もしていないのではないかと、思うほど。
 賢人議会。
 そう呼ばれる集団が、王権移譲を求めて活動をし始めたのは、シファカがまだ幼い頃のことである。
 一体どこの出身で、どのように現れ、そして結束したのか全く判らない。
 ただ、彼らはロプノーリア王家ではなく彼ら自身こそ、この国に君臨すべきであると主張した。
 最初は何か冗談であると一笑したが、奇襲行為が繰り返されるようになるとそうもいかなくなってくる。いつの間にか近隣に散らばる部族の若衆を取り込み、その組織は大きく膨れ上がるようになっていた。
 王陛下の護衛団長を勤めていたシファカの父が、その奇襲によって命を落とし、その後を追うように病弱であった母も亡くなったのはシファカが十の頃だ。また王陛下自身も傷を受け、もう長い間、寝台に縛り付けられていることを余儀なくされている。賢人議会の動きはしばらくの間鎮静化していたのだが、また近頃ぶり返してきた。皇太子への、王権移譲が近いからであろう。
「剣の修理へはもう行ってきたのか?」
 重たい雰囲気を振り払うように、ロタは別の話題を口にする。シファカは少し笑って答えた。
「うん。三日後だって。それまでこれが代役を務めてくれるよ」
 ぽんぽんと腰の剣の柄を叩きながら、ふとロタの渋い顔が目に入った。きょとんと首をかしげてその顔に見入る。
「どうかしたロタ?」
「いや……実は武器の発注を頼もうと思っていたのをすっかり忘れていてな。ついでだから頼もうと思って、遣いもだしていないのだ。明日もう一度ナドゥ師の下へ遣いにいってくれるか」
「…………それは、かまわないけど……だけどエイネイの護衛」
「それはセタとロルカが勤めてくれる。行ってきてはくれまいか。実は個人的にナドゥ師へ預けたい書簡もあるのだ。あまり信用の置けないものは使いたくないのでな」
 そういって彼は大きな机から綺麗に畳まれ蝋で閉じられた書簡を取り出しシファカに渡してきた。護衛以外の雑用を押し付けられることはままあることだ。他の国はどのような機構であるのか知らないが、不毛の王国では役職はほとんど名ばかりといっていいものが大概で、皆が何かの役職を兼任している。
 それでもシファカは、念入りに蝋の上に押された印章に視線を落とし、思わず口を[つぐ]まざるを得なかった。
「……シファカ?」
「あ? あぁいいよ判った。……明日朝もう一度行ってくるよ。ただ」
 瞼を閉じて、閉じた唇をさらに引き結ぶ。口の奥で、歯と歯が擦れ、きしむ音がした。
護衛の役は、セタとロルカが勤める。
 他にも大勢とはいわなくとも、確かに護衛役はいる。
 それはまるで、自分はいらないと、言われているような。
「ただ、なんだ」
 怪訝そうに眉を寄せて、ロタが尋ねてくる。
 シファカは頭を払って微笑んだ。ごまかしのように。
「ただ、そんな風に中の人まで疑わなきゃいけなくなったんだなと思うと、哀しくなっただけだよ」


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