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第九章 その眼差しが重ね見る 1


 どうしてそこまで、と問われると自分が誰かに訊きたいと答えるだろう。
 きっかけをいうのなら、大事な人々にいたるところが似ていて気になった、というところだが、そんなもの最終的な理由になりえないことを、自分は知っていた。
 愛情。
 それしかありえない。無償の愛情というものだ。
 馬鹿だといわれてもいい。ただそれはたった一つで全てを壊せるほど、とても強く、なりふり構わないものだともう知っていたから、いいわけをするつもりはなかった。
 ただ恐れていたのは、失うことだった。
 たとえば雪に塗りこめられて、銀色に染まった冬の朝。
 たとえば花びら散る樹の下、春の蒼穹が目に痛い昼。
 そのときに感じたどうしようもないほどの喪失感を、再び覚えることが怖かった。


 賢人議会による反乱は、ほんの半月足らずで幕を閉じた。
 ハルシフォン・ダラゴナ・ロプノーリアは各集落の代表者を収集、賢人議会を招いて会議を行い、国の新たな方向性を模索すると共に、湖の新たな研究に乗り出す。また、王家が隠してきた国の歴史も一般にあらわにした。
 死者にむけて大々的に国葬が執り行われる。永きに渡って国の安寧に努め続けた国王ウルムトを筆頭に、敵味方含めての国葬。厳粛な雰囲気に包まれ、昼も夜も、どこもかしこも、喪中に相応しい静寂に包まれていた。


「お姉さま」
 揺り起こされて目をこすると、妹が瞳を揺らして顔を覗き込んでいた。夢現のままぼんやりと面をあげる。どうして妹がここにいるのだろうと首をかしげると、ふわりと何かを肩に掛けられた。毛布だ。
「お姉さまが風邪を引いてしまっては元も子もないと思います。お眠りになられるのでしたら、何か上におかけになりませんといけませんわ」
「……うん。ありがと」
「お茶をいれますわ。どうぞお温まりになられて?」
 ふわりと笑ってエイネイはいい、シファカに別の椅子を勧めた。腰を下ろしていた椅子を離れる際に、立ち上がったままついその椅子の傍ら、寝台で眠っている男の横顔を見た。硬く閉じられた瞼。頬は幾分赤みを帯び、呼吸も大分落ち着いてはいたが、それでも額の汗は飽くことなく滲み出てくる。シファカは彼の額から滑り落ちていた布を拾い、水につけて軽く絞る。額と首の汗をそっと拭ってやって、もう一度水で洗い、畳んで額にきちんと添え置いた。
「容態はどのようでいらっしゃいますの?」
 シファカはエイネイが腰を下ろす椅子の対に、身を沈めた。
「わからない。一応峠は越したって、医者は言ってる」
 エイネイがお茶を差し出してくる。夕焼け色をした、甘い芳香のするお茶だった。疲労の溜まっている身体に、その甘さが染み通る。ほう、と吐息を吐いて、シファカは目線をジンに戻した。
 あの時、大勢に伴われて医者はすぐにやってきた。見たことのない老人は、賢人議会直属の医師だったという。詳しくはしらないが、彼の適切な処置に、ジンは命を救われた。
 が、出血によって発熱し、ジンはそのまま、昏睡状態から回復せずにいる。
 時々うわごとのように何かを呟くが上手く聞き取れない。シファカができることといったら傍にいて、噴出す汗を拭ったり身体を拭いたり着替えさせたりということだった。
 驚愕したことが一つある。彼の身体のことだ。
 包帯のせいもあり、露出している肌は僅かだ。それでもはっきり見て取れるほど、多くの傷跡が彼の肌に残っていた。それは矢傷であったり、剣で斬られた跡であったり、やけどの跡であったりする。どれも古い傷であったが、火照って血が廻る身体は、くっきりとその輪郭を浮かび上がらせた。中でも一番酷い傷は肩口から腹部にかけて斜めに走る傷で、それは完全に塞がっていたものの、皮膚は少し盛り上がって硬くなっていた。
 以前、一度上半身裸の彼をみたことがある。しかしあの時は慌てていた上、頭に血が上っていたし、まったく気づかなかった。
 一体この人は、どんな人生を歩んできたというのだろう。傭兵でさえ、こんなに傷はないだろうという有様だった。
 思えば、自分はジンのことを何もしらないのだ。
 ジン、という名前が本当であるのかどうかすら確証がもてない。
 目が覚めれば、話したいことがたくさんあった。
 謝りたいことがたくさんあった。
 たった一言、告げたいことがあって。
 温かいその両腕で、力強く抱きしめてくれることを、シファカは望んだ。
「……さま。お姉さま」
「え?」
「もう、お話ちゃんと聞いていらっしゃいます?」
 口先を尖らせ、つんと拗ねてみせるエイネイに、シファカは苦笑を浮かべた。
「ごめん」
「……かまいませんわ。本当に、人のお姉さまをこれだけ疲れさせて。蹴り飛ばしたら目覚めないのかしら」
「エイネイ」
「冗談ですわお姉さま」
 心底真面目な表情で語った妹を言い咎めると、にっこり微笑んでくる。唖然としていると、妹は茶器を掲げてそ知らぬ顔をして見せた。
「……お茶、おかわりはいかがですかお姉さま」


 寝ずの看病、というほどでもないが。
 できることといったら付き添いぐらいである。シファカの身体を心配して頻繁に出入りするのはもっぱらエイネイだった。現在ハルシフォンは事後処理に方々を駆け回っていて、セタもそれの付き添いで滅多に顔を見せない。ロタを含む賢人議会側は軟禁状態にあるということだが、詳しくは聞かされていなかった。
 やってきたエイネイとはお茶を飲んで、会話をする。珍しく妹のほうが聞き手だった。実は会話をすることはあまりなれていないのだが、妹はにっこり微笑んで一つ一つにきちんと相槌を打ってくる。母親のことを口にすると、自分よりも彼女のほうが烈火のごとく憤慨をあらわにするものだから、こちらがたしなめる羽目になった。自分ばかりではなく、妹にも母親が散々嫌味の限りを尽くしていたという事実は驚きであるが、だいたい母親が死んで十年以上、お互いにその事実に気づかなかったということのほうが珍妙といえば珍妙である。シファカはエイネイと笑い、泣き、時に声を潜めて会話をして、あぁやはり自分が子供なのだな、ということを納得したりもした。
 一頻り会話を終えると、エイネイは茶器を携えて帰っていく。時にアムネーゼが彼女を引きずって帰ることもあった。どうやらエイネイは、婚礼その他もろもろの準備を放り出してきているらしい。今夜のように夜ではなく、昼に現れるときは、たいていそうだった。
 喪に服している今、婚礼などしばらく延期になるに決まっているであろうし、なんとなく一人でいると思考が暗い方に傾きがちであるので、諸々のことを放り投げてやってくるエイネイの存在はありがたくもあったから、口うるさくいうことはしなかった。
 それに、妹とこれだけ多く会話の時間を持つのは、初めてのことであったから。


 ぱたん、と扉が閉じて。
 妹が消えたその向こうを見透かすように、しばらく扉を眺めていたシファカは、背後で響いた小さな呻きにはっとなった。ジンに駆け寄ると、手がふらふらさまよっている。何かを求めているのだと察して握りなおすと、うっすらと目が開いた。
 目の焦点が自分を捕らえる。これほどまでにきちんと意識が戻るのははじめてのことだ。
 喜色と安堵に笑みが浮かんで、シファカは思わず名を呼んだ。
「ジン」
「……あれ」
 ジンの唇が、昏睡して初めて聞き取れる音を紡ぐ。
が。
「……髪、切ったのレイヤーナ……」
 呼ばれた名前は、シファカのものではなかった。
(……だれ?)
 おそらく熱で意識が混乱しているのだと察してシファカは思わず誰何の声を上げそうになるのを堪えた。汗ばんだ彼の手を、震える手でどうにか握り返した。笑もうとするが、顔の筋肉が上手く動かない。胸中がさっとどす黒いもので塗りつぶされ、きりきりと締め付けられるような痛みを覚えた。
 ジンの眼は焦点の合わぬまま、部屋をぐるりと一瞥し、彼はうっすらと笑みを浮かべた。
「婚礼の準備……ほったらかして、きたんでしょ……シノちゃんに、怒られるよ」
「……こんれい」
「うん……あ……ラルトは……」
 上半身を起こそうとするジンを、シファカは慌てて押さえつけた。力が上手く入らないのか、強いられるがままジンは再び枕に頭を埋める。
 まだ、シファカがシファカであると、わかっていない。
 シファカは微笑を浮かべることに成功した。無理に起こすわけにはいかない。今は、ジンが名を呼ぶ人の、振りをしてでも寝かしつける必要があった。
「……うん。大丈夫だから。もう少し眠ってジン」
 出来る限り優しく言ったつもりだった。自分の乱暴といっていい言葉遣いを、その人も使っているわけではないだろう。優しく、甘く、労わるように。
 ジンは微笑んで、また安心したかのように目を閉じた。また、顔が苦悶に歪みだす。もう一度汗を拭ってやって、シファカはその布を握り締めながら、額を寝台の上に押し付けた。
『……最初は、とても似ていて気になったんだけど』
 あぁ、と落胆がこみ上げる。そうだ。そうだったと、忘れてはいけないことを忘れていたと。
 自分が、どうしてジンにかまわれていたのか。
 その理由。
『……俺のとても大事な人に』
 レイヤーナ。
 たった一度彼の口から愛おしそうに零れた名前は、シファカの心に焼印のように刻まれた。
 朦朧とした意識とはいえ、間違われるぐらいなのだから似ているのだろう。
(婚礼って、言った)
 婚礼の、準備、と。
 誰の。
 だれと、だれの。
(やだ)
 顔もわからない誰かが、ジンの心に巣食っている。
 事実は残酷にシファカの胸を抉り、涙腺を刺激した。
 じわりと、顔を押し付けている掛け布に涙が染み出す。
 双子の妹と自分を重ね合わせて、身代わりのように見る人は多く居たけれど。
 他でもないジンに、誰かの身代わりのように見られているのは、嫌だった。
「…………っつ」
 きりきりと、身体に絡み付いている糸を引き絞られているような痛みが、身体と心を支配する。
 号泣するわけにはいかなかった。そうすれば、ジンが起きてしまうだろうし、誰かがやってくる可能性もある。
 代わりにシファカは、顔を強くジンの身体に押し付けて、嗚咽を殺した。
 布の上に、爪を立てながら。


(……あれ)
 いつの間に眠ったのだろうと、シファカは身体を起こした。目をこすり、そして自分が眠っていた場所を確認して驚愕する。
「……どこ、ここ」
 白い、平原。
 純白、いやいっそ銀と呼んでいい色の平原だ。青白い光が表面を照り返し、目に痛いほどの眩しさを覚える。立ち上がると、ぱらぱらと白い粉が身体から零れ落ちていった。触れるとひんやりと冷たく、体温を受けてそれはじわりと溶けて消える。不思議なものに包まれた純白の空間は、静かで、呼気すらもその色に染め上げた。
 遠くに、人の列が見えた。
(お母様?)
 最初に、その列の中に母の顔を見つけた。険しい表情で真っ直ぐ前を見て、列からはみ出さずに行進している。
「おか……お父様?」
 その母の横に、父を見つけた。父と共に亡くなった兵士たちも。リムエラとロルカの顔もちらりと見えた。
 死者の葬列。
 ぞっとなる。あれは、死者の葬列だと。魔女に傷つけられ眠りにつく主神が、彼の寝床に死者を招く、その行進であると。
 ふとシファカは、葬列に今にも加わろうとしている男の背を見つけた。よく見知った背中だ。
「ジン!」
 走り出そうとしたシファカは、そのジンと向かい合う形で、女性が佇んでいることを認めた。
 年は自分と同じか、やや年上か。美しい長い黒髪を背に流した、細面の女性だ。理知そうな眉と、すっと筋の通った鼻。憂いを帯びた瞳。象牙色の絹のような肌。理想的な曲線を描く身体。自分とは対照的な柔らかな雰囲気をかもし出す女性だということが、遠目にもわかった。
 その彼女が、ジンの手を引いていた。
「ジン! 待ってよ!」
 走り出して、気がついた。
 シファカの身体は幾分か小さくなっていて、丁度父が死んだときの、あの無力な童女の身体だった。走っても走っても、手足を振り回しても少しも追いつかない。さらに足元に敷き詰められた白い粉がシファカの身体の動きを制限した。
「ジン、ジン、やだ! いっちゃやだ!」
 子供のわがままさをもって、シファカは泣き叫びながら出来る限りの力を振り絞って足を進めた。だが最終的に足をとられて躓いてしまう。顔面から倒れこんで、白い粉がぱぁっと花びらのように舞い上がった。
 口の中に、粉が入って冷たい。
 追いつかない。
 追いつけない。
 面をあげると、今まさにジンが列に向かって足を踏み出そうとしていた。
 もう、間に合わない。
 シファカは膝を抱えて、泣いた。かつてないほど、物心ついてから初めてというほど、シファカは号泣した。喉が千切れそうな声をあげて、ぽろぽろ零れる涙も鼻水もそのままに、ぐちゃぐちゃの顔を粉の中に顔を突っ伏して。
「ばかーばか。いかないでよぉ。ひとりにしないで。いかないで。ジンのばかぁあああぁ」
 ひくひくと鼻をすする。すすれば涙がでてくる。しゃくりあげて呼吸が上手くいかず、息苦しい。頭が割れるように痛い。心臓がばくばくと音を立て、血流が耳に五月蝿い。
 どうして。
 どうして自分はこんなにも非力なのだろう。
 どうして自分はこんなにも無力なんだろう。
 弱くて、弱くて、子供で。
 嫌になる。
 白い粉をかき集めて抱きしめていると、末端の神経が痺れてきた。このまま眠れば、どうなるのだろう。もしかしたら死ぬのかもしれない。あの葬列に加わることができるのかもしれないと、一瞬思った。
 身体を丸めて目を閉じる。
 ふと、脇の下に手を差し入れられて、ふわりとその身体が浮いた。
「……ジン」
 目を開けると、すぐ傍に求めた顔があった。酷く困惑している表情だった。
 ここぞとばかりにシファカはしがみつき、背中まで回らない腕に力をこめた。
ジンはシファカの体を抱き上げ腕に抱え、ぎゅっと一度抱きしめる。そしてそのままシファカのつけた足跡を辿るように、彼はさくさくと粉を踏み分けて歩き始めた。
 ゆりかごのような震動が、泣きつかれたシファカの睡魔を刺激する。首に回した腕は硬く固定したまま、シファカはうとうとと、舟を漕ぎ。
 そしてそのまま、目を閉じた。


 さらさらと、頭を撫でられている。
 遠くに鳥の啼きが聞こえて、朝だということを夢現の意識で確認した。手が、頬を撫でている。温かなぬくもりが妙にくすぐったくて、くすくすと笑いながら、もう一度眠りの世界にもぐりこむことを試みた。
 が、手が、それを阻む。
 ほんの少し硬い表皮を持つ手は、シファカの髪を梳き、頬を撫で、唇に触れ、やりたい放題だった。一体なんなのだと目を閉じたままシファカは眉をしかめる。いや、そもそもこの手は誰の手だ。起き掛けでまだはっきりしない意識下、手を動かしてその手を捕らえる。重い瞼をあげると、男の手が目に飛び込んできた。
 一気に、覚醒する。
「………っつ」
 がば、と腕に力をこめて上半身を起こすと、いだ!という悲鳴が返ってきた。慌てて身体を引くと、顔をしかめているジンがいた。傷口に触れてしまったらしい。もしかしたら、その周辺を押さえつけてしまったのではないか。シファカはぞっとしながら布団を跳ね上げ白い布が巻かれた傷口を確認した。
「ごご、ごめん! 大丈夫!?」
「あっ……うー大丈夫……あ、でも少し痛いねーやっぱり。あははは」
 傷口が開いていないことを確認して安堵に胸を撫で下ろしたのもつかの間、シファカはきちんと返答があったことを認識してジンの顔を見つめた。青白い顔をしてはいるが、きちんと両の目を開けて、シファカを見据えている男がそこにいる。
 何を言うべきか逡巡していると、ジンが柔らかく微笑んだ。
「おはようシファカ」
「――――っ」
 シファカは反射的にその頭をごん、と殴りつけていた。
「……っいったー! えー何なんで俺殴られてんの!?」
「知るか!医者呼んでくるから大人しくしてろ!」
 かつかつと踵の音も高々に、真っ直ぐに扉の元へと歩く。乱暴に扉を開くと、侍女をつれたエイネイとぶつかった。
「あ、あらやだお姉さま!? どこへおいでになられますの!?」
「医者呼んでくる!」
 妹たちの横をすり抜けてシファカは廊下へと踏み出し、足は逃げ出すかのように自然と駆け足となる。
 背後から、妹たちの喜声が響き渡っていた。


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