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第八章 閉じ込められた歴史 3


 頭が真っ白になった。
 彼らが、一体何を語っているのか、一瞬判らなかった。
 だが、シファカの脳裏を記憶の波が襲い、ロルカの姿をその記憶の中佇む男に重ね合わせることができた。
 あの、灼熱の場所で。
 シファカの目の前で、既に虫の息だった父に、とどめの刃をつきたてた男。
 あの覆面の中から覗いていた男の眼差しは、確かにロタのものだった。そうだと、判ってしまった。
「……父様を」
 シファカは一歩、踏み出した。ず、と剣の切っ先が床を滑って摩擦音を立てる。平衡感覚が失われ、嘔吐感が喉を這い登った。
 頭が、痛む。
 どこからか声がする。

 ははうえの、こえ。

『顔も見ていなかったというのこの役立たず犯人を挙げることができないというのならあんたが殺したも同然よシファカ』
「お父様を」
『あんたが死ねばよかったのよシファカ。お前がね。お前が殺したのよお前がお前がお前がお前が』
「……殺した?」
 父を殺した犯人を、殺せ。
 そうすれば、この母の声から解放される。
 呪縛が、解かれる。
 お前は、許される。
 深層意識から、泥の中から囁かれるように、何かの声がしている。
(違う。違う違う違うもう惑わせないで。お願いだからもう――)
 意識の向こうで、母が微笑む。
 あの、狂気の微笑を浮かべて一言命じる。

『殺せ』

 どくんと。
 なにかが大きく鼓動した。
「シファカ!」
 手のひらに肉を切る感触が伝わってきたのは、耳元で声が弾けるのとほぼ同時であった。
 ふわりと、抱きしめられる。淡い色の髪が首をくすぐり、シファカは幾度か瞬きをした。水の匂い。背中に回される腕の力も、温度も、身体かたちも、よく覚え知っている。
面をあげると微笑するジンの顔があった。
(あぁやだなにこのひと)
「……う、動けたの。生きてるの?」
 冷たくなっていたはずなのに、今自分を抱きしめるこの人は温かい。
 恐々とジンの唇に触れると、それが、笑みを象った。
「うん」
 ジンが頷いて、片腕でシファカの身体を抱いたまま、もう片方の手を頬に触れさせてくる。少し、温かい。
 亜麻の双眸が、柔らかく細められる。
「……心配した?」
「するよ! だってあのとき、し、死んでしまうかもって」
 河に落下したとき自分を庇って、ぶつかって。頭から血がでていた。死んでいてもおかしくはないのだから。
 あぁ、でも、こんなにちゃんとしゃべっているなら大丈夫だ。
 よかったと頬を寄せて、その肩越しに、眼球が零れんばかりに目を見開くロタを見つけた。その瞬間、かたん、と音がする。自分の手から、剣が落ちた音だった。
(おかしい)
 奇妙だ。いつの間に自分はロタにこんなに接近したのだろう。いつの間にここまで部屋に踏み込んでいたのだろう。自分は確か、入り口に立っていて。
(ロタの声を、聞いて)
 そうしたら。
 お母様の。
 声が。
『殺せ』
「……ジン?」
 ジンの身体から、力がぬける。
 がくんと崩れ落ちた彼を慌てて抱きとめシファカは膝をついた。ぽたた、と水滴の零れる音。なに、と顔をしかめて己の手をみると、その手は、赤く染まっていた。
「……あ……え?」
 傍に、血に染まった剣が落ちている。
 シファカが、兵士から奪って持ってきた剣。
 それが、ジンの血に、染まっている。
 ぐら、とジンの身体が傾いで、シファカを巻き込んで倒れた。ジンの表情が苦悶に歪み、額に珠の脂汗が浮かんでいる。顔色の悪さは、先ほど川から這い出たとき以上だった。彼は脇腹を押さえ、身体を折り、唇を引き結んでいた。
 その手に触れると、うっすらとジンの瞼があがった。吐息と共にかすれた音が、シファカの耳に運ばれる。
「……シファカ……」
「え……あ……や」
 今自分は、何をした?
(私、いま)
 ロタを殺そうとして。
 その代わりに。
 ジンを。
「―――――――っやっぁあああああぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁ!!!!!!」
 喉が潰れるほどの叫びを上げて、シファカはジンに縋りついた。今度こそ、命がぬけていってしまうのがわかった。温かいと思った手が急激に冷えていく。目からぽたぽたと零れていく雫。口に入って塩辛かった。
「やだ、ねぇ、ごめん、わたし、なに。やだねぇジン。死なないで。死んだらやだ。ね、なんかいって。ごめんなさい。ごめんごめ。ジン! お願いやだ死なないで! 死なないで死んだらやだ。やだやだ」
 縋りついた身体は、荒い呼吸に上下を繰り返している。瞳が優しくシファカを見つめ返していたが、その唇は血の混じった泡を吐くだけで言葉を紡がない。ぞっとした。彼が居なくなる。自分が、殺す。父のように誰かに殺されるのではない。こんどこそ、他でもない自分の手で。 
 彼が、死ぬ。
 それは、生々しく、シファカの意識を侵食した。世界中からかき集めたかのような重たさの恐怖がシファカを押しつぶさんと圧し掛かる。泣きながら自分が斬り付けてしまったらしい腹部に手をやるが、出血は当然止まらない。もともと水を含んで湿っていた衣服は、あっというまに血を吸い上げどす黒く変色していった。
「団長!」
 飛び込んできたのは、セタだった。振り返ると、衛兵を引き連れたハルシフォン達が入り口で棒立ちしている。上の階の制圧は済んだのだろうか。だが、そういったことを問いただす余裕がシファカにはなかった。
「宰相! あんたなぁ! ふざけんのもいい加減にしやがれ!!!!」
 シファカの脇をすり抜けて、セタがロタにつかみかかる。襟首をセタに捻り上げられたロタは、どん、とその背を青い柱に押し付けていた。
「俺はあんたが、この国を愛しているように思ってた!」
 セタが叫んだ。
「だから俺達はあんたを信用したんだ! さっき賢人議会の奴らを抑えたけど、やつらあんたが降伏しなけりゃ断固として戦うってきかねぇんだ! あんだけ、戦いたくなさそうにしてんのに! あんたの一声で、全部終わらすことが、できるんじゃねぇか! あんたもあいつらも、俺に、俺達に謝って、こんなこと馬鹿げているって思いながら、なんでそれで止められなかったんだよ!?」
 シファカは、ジンの身体にしがみ付きながら、セタの言う通りだとぼんやり思った。
 本当に、その通りだ。
 こんな不毛なことを。
 彼らは何故、やめることが、できなかったのだろう。
「お姉様」
 そっと、エイネイがシファカの肩を抱きかかえるように傍らに腰を落とした。美しい衣服の裾が血で汚れることすら、彼女はかまわないようだった。
「止血をしなければ、この男は本当に死んでしまいますわ。私には手当てのことはわからなくて――お姉様でしたら、お分かりになられるでしょう?」
 狼狽している場合ではないと、エイネイがやんわりと諭している。なれない血の臭いが原因だろうか、彼女は蒼白だった。それでも妹はシファカを支えんと、傍らにいる。
 エイネイの手の震えに我に返る。シファカは涙の浮かんだ目尻を、赤く染まった手の甲で拭いながら、呼吸を整えた。
「今、味方につけた人たちがお医者を呼んでいますわ。頑張って……」
 エイネイがそう励ましてきた。我侭で、守るべき対象だった妹は、シファカが思うよりもうんと気丈だった。
 意識は混乱していても、やるべきことを与えられれば訓練された身体が自動的に次の行動に移る。傷口を確認して、どこが傷ついているのか、動脈か、静脈か、内臓か、そういったものを判別する。幸い内臓は傷ついていない。傷自体も浅いようであったが、動脈が傷ついているように見えた。薄桃色の肉が見えて、シファカの身体に釣ったような痛みが走った。
 エイネイに手渡された布をシファカは鼻をすすりながらジンの身体に巻きつける。死にいく仲間たちに、幾度も施したことのある応急処置。必死で行うのはいつものことだが、今回ばかりは手が震えて上手く布が結べない。指が滑って、体中を襲う戦慄から歯がかちかちとなった。まるで、凍えているかのように。
「愚かだ。一体何故私を庇った」
 ロタが言う。それはセタの肩越しにジンに問いかけたというよりも、驚愕から自然に零れた呟きのようだった。
「……あんたを……かばったわけじゃないよ」
 ジンのかすれた声が響いて、シファカは怒鳴りつけた。
「しゃべらないでよ!」
 布を縛りながら、喉から零れる言葉は、もはや言葉になっていない。かすれるような響きでもって、しゃべらないで、と繰り返す。
 ジンの手がそっと上がって、シファカの頬に触れてくる。その指が、涙を拭った。
「だいじょうぶ。だって俺、しねないから。こんな、ところでしんだら、怒られる」
 ははは、と笑って、ジンは言った。
「ジン」
「……わらってシファカ。おれ、シファカに泣かれるのは、本当に、つらい」
 つらいから。
 わらって。
(このばか)
 この期に及んで何をいいだすのか、と思えばそんなことを。もうちょっと他に言うことがないのであろうか。それでもシファカは、無理やり笑みを作った。彼が望むのならそうしたかったし、笑うことで、意識もまた明確になってくる。
「ロタ」
「……殿下」
 シファカの横をすり抜けたハルシフォンが、ロタと対峙した。
「これは僕からの頼みだ。上の人たちを説得してほしい。穏便に、全てを収めよう。もう、全部終わったんだ」
 歴史を捻じ曲げることも。
 真実を閉じ込めることも。
 賢人議会たちを蝕んだ不幸も。
 全て終わったのだ。
 そう、ハルシフォンがロタに告げた。
「これからは、一緒に生きていくことができる。本当の意味で」
 偽りだったとはいえ、賢人議会のほとんどはごく普通に上で生活を営んでいた。もう、彼らを嘘が苛むことはない。本当の意味で、彼らはこの不毛の王国を踏みしめる民となるのだ。
「頼みではいけません」
 ロタは言った。
「ご命令を。陛下」
「……上に私と共に行き、全てを収める。この暴動を終わらせることを、命ずる」
 ロタは静かに頭を下げて、セタの手の中から抜け出し、歩き出した。
 セタが、シファカの傍らで立ち止まる。
「……ロタ?」
「恨み言は後で聞く」
 静かに自分を見下ろしてくる男を、シファカは見上げた。
 父をころしたひと。
 ウルムトをころしたひと。
 何時だって、自分に優しかった人。
 なのにどうして。
 彼も認めた二つの罪は、決して許されるべきものではない。憎みたいのか、泣きたいのか、この胸に広がる痛みをどう説明したらいいのか判らない。
 ただ、苦しい。
 息が苦しい。
 静謐な光を灯す目を細めて、ロタが口を開いた。
「医者を連れてすぐに戻ってこよう」
「ロタ」
「お前は、この男についているといい。シファカ」
 ロタがそれだけ言い残して身を翻す。急いた二人分の足音が響き、ばたん、と扉が閉じられた。遠ざかっていく足音も、また焦りが滲んでいた。
皆が医者を呼んでいる。けれど、大丈夫だという安堵は欠片もなかった。
 取り残されたエイネイもセタも、何も言わない。シファカの意識から、物言わぬ彼らの存在はみるみるうちに消えていった。
 しんと静まり返った部屋。ジンの荒い吐息が場違いのように響いている。シファカはジンの身体に寄り添うように身体を横たえた。背中に触れると、固まった血のあと。自分を庇って岩に衝突したときのものだ。先ほどこれで、すでに出血したのだ。傷口自体それほど酷いものではなくとも、失血死する恐れがあった。
 ジンは目を閉じ、唇を引き結び、無言で痛みに堪えていた。なんて強い人なんだろう。泣き言一つ言わないで。
 凍えないようにその身体をしっかりと抱く。血がぬけると、寒さを覚えることをシファカも知っている。
「……ごめん」
 ごめんジン。
 よわくてごめん。
 自分をしっかり、持っていたなら。
 自分をきちんと、保てていたなら。
 ジンはシファカの弱さを知っていた。
 それをきちんと抱きとめてくれていた。
 ジンの髪を梳く手は赤黒く、乾いた血が爪の中に入って醜い。どうしてお姫様のような手じゃないんだろう。ジンが、可愛そうだと思った。
 傷口には触れないように、体を圧迫しないように気をつけて、抱きしめる腕に力を込める。
 苦しさを、初めて愛しいとシファカは感じた。この痛み、この苦さ、この男に対する全ての感情を、愛しいと。
 それなのに、今抱きしめている男の体からは、命が消えかけている。
 泣いてはいけない。
 ジンがつらいといった。
 けれども涙が。
 こぼれて。
 こぼれて。
 顔が見えない。
 笑えない。
「……ごめんなさい」
 シファカは額を額に触れさせた。間近できちんとみると、初めてみたときに思ったとおり、やっぱり綺麗な顔だった。自分は、その輪郭を、確かに綺麗だと思い、そして見とれたのだ。
 指先でその輪郭をなぞってみる。口元から零れた血の泡をきゅっとふき取って、そこに唇をそっと重ねた。
 それを苦いと思うのは、血の味のせいばかりではないだろう。


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