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第七章 そうしてヴェールは取り払われた 3


 歩けば歩くほど、その造りに驚嘆させられる。
 もぐりこんだ無人の町は、シファカが今まで見たことも無いほど洗練された構造をしており、途中いくつもの部屋を見つけた。保存の魔術の陣形だろう、その上に集められ布を被せられた調度品はどれもすばらしく、どこから運び込んだのか見当も付かない。広さは判らないが、かなりのものなのだろう。もしかしたら面積は町全体のそれに匹敵するのかもしれない。よくよく研磨された壁の表面は鏡のようだ。冷たいわけでも温かいわけでもない。材質は、王宮のものと同じ。
 初めはあれこれと推論を立てながらロルカと会話を交わしていたシファカだが、やがてその口数も減り始め、最後には沈黙ばかりが続くようになった。
 自分たちは今、何か触れてはいけないものに触れている。
 この国という存在を根底から覆す、何かに触れている。
 禁断の箱を開けるかのような薄ら寒さが、背筋を這い登っていく。
「……水音だ……」
 そろそろ同じ造りの回廊に飽いたころ、シファカは遠くに響く水音を鼓膜に捕らえた。刀を握り締めて駆け出す。ロルカが後を追ってくる。
 水音は足を踏み出すたびにその音量を増し、そしてどの類の音であるのかを明確にさらした。
 落下音。
 水の、落下音だ。
 ぱっと開けた視界に、シファカはつんのめる。美しい蝶の模様が掘り込まれた手すりに突っ込む形になった。慌てて手すりを掴み、宙に投げ出されそうになった身体を支えた。そうして身を乗り出す形でシファカが目にしたものは、まさしく目を疑いたくなるような、ありえないもの――。
「うそ」
 広大な、街だった。
 白亜で統一された街だ。それが、シファカの眼前に広がっている。その様相は美しく、建物の高低までも完璧に統一され、区画ごとに噴水と思しき――シファカも絵で見たきりであるし遠目なので確証はないのだが――彫刻、そして長椅子が据付けられていた。ゆったりと横幅のとられた道は、色目鮮やかな石がはめ込まれ、文様を描き出している。それでもシファカの目に無機質と映るのは、植物が欠片も見られないことと、人影が存在しないことが原因であるのだろう。
 その街の脇を、滝がすべり落ち、河が流れていた。
 勢い盛んな河だ。位置的に言えば丁度シファカの真下である。見たことも無い量の水が、ごうごうと音と飛沫を立てて流れている。岩肌むき出しの壁面に下へと下る階段がすえつけられており、丁度シファカが建つ場所はその踊り場に当たった。
(こんなことって、ありえるのか)
 腰を落として、手すりに額をつける。唇と身体が、戦慄に打ち震えた。
 たったいま、目にしたものが幻想でないというのなら、この国は一体なんなのだ。
 賢人議会という一族の正体を隠し続けてきたように、この国はまだ何の秘密を隠し持っているというのだ。
 かつ、と横にロルカの足が映る。
「……何なんだろう。王家は一体、何を隠して――ロルカ?」
 シファカは面を上げ、そして思考が命令を下すよりも先に、身体が刀を引き抜いていた。ぎん、という金属が衝突する音が耳朶を叩き、目前で火花が散った。
 驚愕の眼差しで、シファカは円月刀を振り下ろしてきた男を見上げた。
「ロルカ!?」
「すみません団長。大人しく眠っていて欲しいだけです!」
「大人しく眠っていて欲しいとぬかすやつが、剣を振り下ろしてくるな!」
 力比べは分が悪い。女のシファカと男のロルカでは、勝負は端から付いているし、自分の刀は力比べには向いていない。ひきつけられるだけひきつけて、刀を滑らせ一気に引き抜く。円月刀の切っ先が肩を傷つけていったが、そのままロルカの懐に飛び込んで刀を返した。
 肉を切る感触に、顔をしかめる。ぽたりと頬に零れ落ちてきた生暖かさ。
「いったいどうしたっていうんだ!」
「貴方も大人しくしていればよかったんだ団長……! どうして貴方もリムエラも、余計なことに足を突っ込む!?」
 剣戟の間に挟まれるロルカの言葉は悲鳴じみていた。
「は? リムエラ?」
「毒の器を、奪い取らなければ――奪って、呷らなければ、あんな、あんなことに」
「……ちょっとまってどういう」
 ロルカが踏みとどまって、再び刃を返してくる。その角度に、はっとなった。一瞬先に、切り殺される自分が見える――。
 と。
 ぞひゅっ
「……か」
 ロルカが、かは、と赤黒いものを吐き出した。水音を立てて床に叩きつけられたそれが、血の塊だということは目にせずとも判別が付く。それよりもまず、ロルカの腹から突き出ている刃に、シファカの視線は引き寄せられた。
 見覚えのあるわずかに湾曲した刃。肉厚の鋼。その切っ先。
「……うっかりするとすぐこれだ。俺も気がゆるんだものだよ」
「……お前」
「……ジン」
 水滴をぽたぽた零す髪を片手で掻き揚げながら、嘆息したのはジンだった。右手が引き抜かれる。ロルカの腹から覗いていた銀が肉の中に引っ込んでいく。円月刀がロルカの手から滑り落ちて、シファカの横でかたかたその刀身を振るわせた。じわりと広がっていく紅い水の中に膝を突いて、シファカは呆然と、男を見上げる。
 ロルカもまた、身体を圧し折り、膝をついて、忌々しげにジンを顧みていた。その眼光は鋭いが、瞳の焦点が合っていない。ジンの眼差しは冷ややかで、それはいつだったか見たことのある、突きつけられるだけで心の臓が萎縮し止ってしまうような、鋭利な刃物のようであった。
「……裏切りで俺を出し抜こうなんて百年早い。お前みたいな三流役者、俺が張っていないと思ってた? 何のために俺の傍につけたと思ってるのさ。シファカに先に行かれてしまったのは、俺のうかつだった。それがなければ、単にお前が動き出すのを待つだけでよかったんだけどね」
「ジン、何を、いって」
 ジンが淡々と吐き出す言葉は、不可解な記号のようにシファカの心をすり抜けていく。
 ジンの目が動く。シファカを捕らえる。シファカが身構える一方で、ふわりと、彼は厳しくあったその目元を緩めた。
「よかった無事で」
 それは、真の安堵の言葉だった。
 ゆっくりと、立ち上がって、二人の男をシファカは見比べた。
 一人は血を吐いて膝をついている。数年間仲間として一緒に働いて、けれど今しがたシファカに刃を向けた男だ。
 一人は血にぬれた剣片手に佇んでいる。付き合いの長さは一月。もっと短いかもしれない。暴力的な痛みと、糖蜜のような甘さをシファカに与える男だ。柔らかく微笑んでいるのに、着衣に血が付着している姿は凄惨で、一瞬、どちらを庇うべきか、どちらを信じるべきか、迷った。
 突然起こった状況にシファカの頭は飽和状態だったのだ。
 ず、と、足がすべる。
「え」
「シファカ……!」
 腰の辺りにどん、と衝撃がある。手すりだ、と思ったのもつかの間、シファカの身体はそれを超えて宙へ踊りだしていた。ジンがシファカの手首を捉えたのは一瞬だった。血で滑って、手は離れ、シファカの身体はそのまま重力に引かれ、ごうと流れる水めがけて落下していく。
 自分の手を放してしまった男の決断は早かった。
 ジンは迷うことなくひょいと手すりを乗り越えて落下した。それをみて驚愕したのはシファカのほうだ。ジンはシファカの身体を空中で抱きとめ、包み込んで、そしてそのまま、岩肌むき出しの壁に叩きつけられた。
「っつ……」
「ジ」
 衝撃で土塊が崩れ、背中を幾度かぶつけて、それでもジンの腕が離されることは無い。
 はなせ、というよりも前に。
 白い飛沫が目の前に上がった。


 縁を乗り越え飛沫を上げる水の中へ。
 何の躊躇いもなかった。
 そのことに、自分自身で驚愕した。


 ぱしゃ
 男の襟首を引きずって、シファカは岸に上がった。身体を何とか起こして、河に流されてしまいそうな男を、渾身の力をこめて引き上げる。完全に男の体が陸上に上がったことを確認して、シファカは肩で喘いだ。ぜ、ぜと肺が奇妙な呼吸音を上げている。唾を嚥下し、呼吸をどうにか落ち着けると、指一本動かすことすら億劫な身体に喝を入れた。
 ずるずると膝で床を這って、ぐったりと昏睡して動かない男の頬を叩く。
「ジン」
 ここまで泳ぎ自分を運びながら、岸の一歩手前で意識を失った男の名を、シファカは震える声で呼んだ。
 ジンは呼吸こそしていたものの、起き上がる気配がない。顔色が悪く、寝そべる無機質な石畳と全く同じ色をしていた。唇が青い。硬く閉じられた瞼は震えることすらなく、浅く上下を繰り返す喉と胸を見なければ、死んでいると思えた。
 頬を叩いても反応がない。シファカは苦しそうな呼吸を楽にしてやるべく、とりあえずその首にそっと腕を差し入れた。瞬間、ぬるりとした感触に顔をしかめる。ジンの気道を確保してやってから、震える手を、目を閉じて引き抜く。瞼をゆっくりあけると、そこにはジンの血でべっとりとぬれた己の手があった。
 手が、つめたい。
 つめたいよ。
「ジン」
 ジンは身体を跳ねさせて、幾度か咳き込み、水と赤黒い血の塊を吐露した。詰まっていたものがぬけて、少し楽になったのか、呼吸が穏やかなものに変わる。だが、顔色は土気色のままだ。
 その手を握って、さする。シファカ自身の手も相当冷えていたが、ジンの手はそれ以上だった。
 いつだったかシファカの頬に触れた手。あの時は氷そのものだと思ったものだが、今ほどではない。以前触れた手は冷たくとも、人としての血の温度を宿している手だった。 これは、違う。

 死にゆくひとの、手だ。
 荒野で死んだ、父と同じ手だ。

 かつん、と。
 足音が背後でする。シファカはその主を確かめるべく振り返り、居るべきではない人物をそこに見た。
「……ロタ?」
 白い宰相の衣装に身を包んだロタが、そこにいる。
 だが奇妙な話だ。ロタは今別の集落にセタと一緒に赴いているはずである。だがロタの傍にはセタの姿もなく、荒野をさすらってそれなりにみすぼらしくあった壮年の男の身なりが、かっちりと整えられている。ロタの周囲には幾人も人がいて、その中には見たことの無い人物も、またいつか共に食事を囲んだことのある人物もいた。
「……死んだのか、その男」
「死んでない」
 あまりにも冷徹な響きを含む声は、確かにロタのものであった。即座に反論しつつ、確証が持てなくてついシファカは尋ねてしまう。
「……ロタ、なのか?」
「あぁ」
 淡白に頷いた男は、抑揚に掛ける声音で言葉を続けた。
「驚くべきところはどこなのか。お前の行動力か。それともその男の力か。いや、どちらもであるのだろうな」
「……なに、ロタ。一体どういうこと? 説明して」
「王陛下を弑し奉ったのは私だ」
「…………は?」
 静謐に吐かれた告白にシファカは耳を疑った。身体の神経が一瞬閉じられる。次の瞬間蘇った五感は、頭痛と眩暈、そして混乱を引き連れていた。
「…………な、ね、え?」
「賢人議会は私たち<水柱の一族>の通称だ。……お分かりいただけたか。シファカ・メレンディーナ」
「……ロ、タ?」
「その男も抜け目が無い。おそらくあの、集落で初めて食事を共にした時点で私たちのことを勘繰っていたのだ。議会側であると。だからこそあんな人選を行ったのだろう。上手く議会側とそうでない側、均等に人数が振り分けられていた。人を集めてまたここに戻ってくるのに、時間がかかってしまったよ。ぎりぎり、間に合ったがな」
 シファカはジンを振り返った。辛そうに浅い呼吸を繰り返す男。ほんの少し寄せられた眉と、額にびっしりと浮いた珠の脂汗。
「……なんで、こんな、こと」
「お前は賢い」
 ロタは目を細めてシファカを睥睨し、そんなことを言い出した。
「シファカ。お前は自分を相当卑下しているようであるがな、お前は相当賢いよ。胆力もある。女の身ひとつ、剣一つを頼んで、一番下から次期皇太子妃の護衛の長をもぎ取った。それは私の欲目によって、王陛下の欲目によって任ぜられたのではない。お前が、それ相応の努力と苦心を代価として支払い、私たちが認めてそうなったのだ。惜しいことだ。もし男であったのなら、誰もがあっさりとその実力を認め、お前は怯える必要もなく、人の上に立つことができたであろうに」
 手放しの賞賛に、シファカは息を呑んだ。それは感動からではない。裏があるのではないか、という勘繰りからである。
ロタはふっと弱弱しく笑んで、片手を上げた。
「お前を妹君の元へ連れて行こう」
「え。ちょ、ま、は、離っ」
 ジンから引き剥がされて、数人がかりで床にうつぶせに押し付けられる。背中に回された手首を縄で縛られ、そのまま身体を強引に引きずられた。
「離して! どうするんだ!?」
 ロタは答えない。シファカを見ようともしない。その視線は静かに横たわるジンに注がれている。シファカはずるずると奥へと引きずられながら、視界から消えていくジンを追いつづけた。
 ぞっとする。
 殺される。
 あのひとが。
「ジ――」
 けれども口を塞がれて、最後まで名前を呼ぶことはできなかった。


「シファカ」
「お姉さま」
「団長」
 シファカの身体が押し込められたのは、広い応接間に似た部屋だった。招力石の灯りが部屋を照らし、整えられた調度品を浮かび上がらせている。先客は、ロタが宣言したとおりエイネイであり、また彼女に寄り添うようにして佇むハルシフォンであり、ロタと共に集落を回っていたはずのセタだった。
 久方ぶりに見る妹は、思ったよりも元気そうだった。飛びついてシファカの縄を解いてくる。ぐすぐす鼻を鳴らしながらひどいひどいとシファカの縄跡に向かって繰り返し呟く妹に、急に愛しさがこみ上げる。あぁ自分は、この妹を助けたかったのだ。少し幼くて、奔放で。この妹に覚えるのは、嫉妬ばかりではない。確かな愛情もそこには存在する。
「大丈夫だったかいシファカ?」
「殿下」
「……この非常時だもの。ハルでかまわないよシファカ」
 苦笑を浮かべそう返してくるハルシフォンもまた、元気そうではある。ただ幾許か疲労の色がその顔色に見え隠れしていた。扉はぴっちりと閉じられてはいるが、部屋の調度品はよく揃っている。おそらく不自由はない軟禁生活だったのではないかと、シファカは踏んだ。
「団長」
「セタ。ロタと一緒に行ってた、んだよね?」
「あぁ……。団長、ロタには会ったのか?」
「会ったよ」
 即答すると、セタは全ての状況を飲み込んだかのように瞑目し、口を閉ざした。一体どういう風にしてセタがこの場所につれてこられたのか、詳しく聞かずともなんとなく察しはつく。
 シファカは苦々しく、視線を床に落として呻いた。
「……ロタが、賢人議会の人間だったって」
 ロタ・メイ・ディオ。
 この国をよく導き支えてきた宰相だ。シファカの父と王を、兄のように慕っていた。公正な判断と公正で清廉潔白。生真面目すぎるきらいがあるほどの、気持ちのよい男が、シファカの知る彼だ。
『王陛下を弑し奉ったのは私だ』
 冷えた眼差しで、そっけなくそう述べたロタ。
 自分に、刃を向けてきたロルカ。
 一体、何が起こっているのだろう。
 シファカは両手で顔を覆い、嗚咽を殺した。
「お姉さま。大丈夫ですか?」
「……うん御免。大丈夫」
 顔から手を放すと、不安げに顔を覗き込んでくる妹の顔がある。抱きしめると、こんなときでさえ甘い匂いがした。彼女の体を離して、ハルシフォンを真っ直ぐ射抜く。彼はたじろぐこともなく、腕を組んでシファカの視線を受け止めた。
「……私、湖の下に街が沈んでいるのを見ました」
「……そう」
「湖の下に入り口があって、そこからここまで入ってきた。地下にあんな町が広がっているなんて、私は知りませんでした」
 腕の中のエイネイと傍らに佇むセタは、唇を引き結んで訝しげな表情を浮かべるだけだ。ただハルシフォンだが、静かに瞼を閉じてシファカの言葉に納得している。
「……驚かないっていうことは、やっぱり知っていたのですか、殿下」
「僕は王族だから。父上が崩御された。今残るたった一人の王族だ。この<不毛の王国>のことは知り尽くしている。代々口伝で残されるこの国の歴史を、僕は全て知っている。この湖の王国が、どうして不毛の王国と呼ばれるに至ったのか、その経緯も全て」
「殿下」
「椅子に座ろう。疲れたでしょうシファカ。ロタは親切でね。お茶も用意してくれている」
 ハルシフォンはエイネイにお茶を入れるように指示して、おいで、とシファカに手招きをした。セタの険しい表情にだろう、彼のほうをちらりと見やって、ハルシフォンはひっそりと苦笑を浮かべた。
「……望まれるままに、全てを語ろう。二人とも、こっちにきて座って」


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