BACK/TOP/NEXT

第七章 そうしてヴェールは取り払われた 1


 階段を下りて、縞瑪瑙を受け取るために手を伸ばすと、その手首を掴まれた。
「……夜、寝てなきゃだめだよといったのに、どこへいこうとしていたの?」
「地下下水道の入り口を探せばいいんだろう? 今夜は月も星もある。灯りは十分だよ」
「……シファカ」
「はやるな、といわれても、でも無理だ。大丈夫。見つけたら戻ってくるから」
 離して、と手を振るとジンはあっさりと手首を手放してくる。シファカは腕に抱えていた靴を床に落として、足を入れた。ジンの横をゆっくりと、しかし大またですり抜ける。
「シファカ」
「……この国から出て行くつもりだったんだろ」
 彼の呼びかけに応えて、シファカは足を止め、けれども背を向けたまま言葉を紡いだ。
 どうして声が震えている気がするのだろう。男が国を出て行く。それは判りきっていたことだし、いつ居なくなってもいいように、もう散々酷い言葉だって彼に吐いた。今居なくなろうが明日居なくなろうが、自分には関係ない。
「いいよ。もう、大丈夫だ。ロルカだっているし、なんとか探し出して、国を取り戻して見せるよ。ロタだって、他の集落に助けを求めているわけだし、私は、一人なわけじゃないんだ。今なら、出て行けるよ。あのキャラバンについて外に出してもらえれば穏便に他の国までいけるんだろう?」
「シファカ」
 目を閉じる。耳は塞ぐわけにはいかないから、ただその声を、聴かないふりをする。
 今なら合点がいった。この町を出奔したあの夜、どうしてジンがそんなにも備えよく様々なものを用意していたのか。
 彼は、国を出て行くつもりだった。だから、水に食糧に火種、あの短時間でそれだけのものをきちんと用意できていたのだ。そんなことにも気づかなかった。自分の鈍さを呪いたい。
 長い間、引きとめた。多分不安定だった自分のせい。この男は、なんだかんだと優しいから。不安定な相手を、放っておけないたちなのだと思うから。
 こんどこそ、きちんという。曖昧ないいかたではなくて。
「ありがとうジン。でももう、どこにでも行ってしまっていいよ。私たちはもう、大丈夫だ」

 わたしは、もう、だいじょうぶ。
 だいじょうぶ。
 えいねいをひとりでまもれるよ。
 まもれる。

 誰も巻き込んではいけない。本当は、一人で守り抜かなければならなかった。
 自分の傲慢さは知っている。
 自分のわがままさは承知している。
 自分が、傷つきたくないだけなのだと知っている。
 けれども、父のように、父の部下たちのように、命を落としていってしまう誰かを見るのはもう嫌だった。
 その責めの瞳を、見るのはもういやだった。
 どうしてなの、と繰り返した母。
 なんであんたが、と繰り返した、命を落とした男たちの妻と恋人たち。
 ジンに大事な人がいるのなら。
 自分に付き合って、怪我でもして、その人を泣かす必要はないじゃないか。
 自分みたいな人間に、ジンみたいなすごい人間が付き合う必要はまったくない。
 ふと。
 影がさしてシファカの手に男の手が触れた。反射的に振り払う。けれども乱暴に両肩を掴まれて、背筋に痛みが走り抜けるほどの勢いで、壁に押し付けられた。
「痛っ」
「……そんな顔をして、大丈夫なんていうもんじゃないよ」
「そんな顔ってどんな顔だよ!?」
 ぎ、と肩の骨がきしむ。こういうとき、ジンは男なのだとまざまざと思い知らされる。普段労わりをもって触れてくる手は、力の差を忘れさせるから。
 けれども、ジンの握力は、うんと強い。剣が手から離れていかないように鍛えられているそれ。
「何度でも言うよ。頼むから、そんな顔しないで」
「だから!」
「前に一度言ったと思う。俺が首を突っ込んでいるのは俺の勝手。迷惑ならば口を出さない。けれどもう決めてしまったから」
「何を!?」
「傍に居るっていったでしょう」
 熱に浮かされた夢の中。
 自分を抱きしめて、彼は言った。
『ちゃんと、傍にいるから』
「いなくていい」
 この男は、心をかき乱していくから。それが痛くて痛くてたまらないから。
 だからいらない。
 いらないんだ。
 別に自分は生きていたいわけじゃない。できれば息を潜めてひっそりと、命を消化できるならそれでいい。なのにこの男の存在は、自分が今傲慢にも、生きようとしていることを実感させてしまうから。
『あんたがかわりに死ねばよかったのよ!』
『笑ってシファカ』
 心が、引き裂かれそうで悲鳴を上げている。
 相反することを、言わないで。
「離してジン」
 今、唯一貫けるのは、エイネイを探し出すこと。彼女を守ること。
 それは、自分の意志でもあるから。
 可愛くて憎い、誰よりも幸せであって欲しい誰よりも苦しんで欲しい、たった一人の肉親。
 誰よりも生きていて欲しい双子の妹。
 彼女を探し出すことは、他でもない自分の意志だから。そうであるはずだから。
 今はそれだけ、考えればいい。
「離して」
 亜麻色の瞳に自分の輪郭が映っている。厳しい表情を浮かべて。彼の目を通してみる己の風貌は少年のようだ。
 顔に、影が差し、頭が固定された。ただならぬ気配に、怯えの感情が背中を粟立たせる。心臓が早鐘のように打って、脳が警告を発する。その腕から、抜け出せ、と。
 けれども、一瞬遅かった。
「……ジン――っん」
 ごっ、と後頭部が壁に当たる。
 唇が乱暴に塞がれて、呼吸に詰まった。
「んんっ……う、じ、ジンっ」
 唇のわずかな隙間から、どうにか名を呼ぶが返事はない。噛み付くような口付けは、シファカから呼吸と思考を奪った。身体を押し返そうとすればその腕ごと抱きしめられる。ずずず、と背中が壁をすべった。
 あのときと同じだ。集落の天幕の中で性急に、乱暴に口付けをうけたときと。ただ今回は時間が長く、まるで陵辱するかのように優しさの欠片も無かった。抱きしめられている身体が痛い。歯と歯が触れてかちんと時折音を立てる。手足をばたつかせて抵抗を見せても反応はない。やがて呼吸に必要な空気を欠乏した身体は、力を失って衣服の上からその背中に爪を立てるだけに留まってしまった。助けを求めるように、さ迷い震える指を髪に差し入れ、ぐっとひっぱる。少し長いジンの髪を、いつも一括りにしている紐がぱらりととけ、シファカの指に絡みついた。
 抵抗力を失ったシファカの口に、舌が突如割って入ってきた。
 その感触に驚愕して、唇に歯をたてる。がり、という音と鉄の味。男の顔がしかめられて離れた隙に、渾身の力をこめてシファカはのしかかっている体を突き放した。自由になった手を使って、その頬を平手打ちする。ぱん、という小気味よい音が響いて、男の動きが止まった。
 荒い、シファカの呼吸音だけが、部屋に響いていた。
 じわりと、涙が滲んだ。ジンは頬を叩かれた状態のまま、視線をそらして黙りこくっている。
「……っ……っつ」
 思わず号泣したい衝動に駆られつつ、それをどうにか押し込めてシファカは叫んだ。
「じ、ば、馬鹿! どっかいって! もうこないで! もう私に関わらないでよ!」
 シファカは這い出るようにして男の体から抜け出た。床に落ちていた刀を引っつかみ、一言だけ吐き捨てる。
「大嫌い」
 そうして、居室を飛び出した。


「……派手になにやらかしおった」
 ナドゥは床に膝を抱えるようにして腰を落としている男に声をかけた。少女のかけていく足音だけが響いて、やがて消える。刀は持って出たようだから、大事無いだろう。彼女の肩書きは伊達ではなく、彼女が実力で勝ち取ったものなのだから。本人は己の実力を過小評価している節があるが。
 それはともかく、今は目の前で項垂れている男だ。いつも結わえているはずの髪は解けて、彼の表情を完全に隠している。頭を手で拭って、ジンがくぐもった声で呻いた。
「……傷つけたいわけじゃないんだ」
 面を上げたジンの頬はわずかに赤い。思いっきりひっぱたかれた跡だとすぐにわかった。唇が少し傷ついていた。いったい何をしたのかは、なんとなく予想がつく。
 こちらの可愛い孫同然の娘に、この男は手をだして、返り討ちにあった。そんなところだ。
 けれどもその結果をせせら笑ってやる気も失せるほど、男は消沈していた。
「……傷つけたいわけじゃない。あんな、あんなふうに笑わせたいわけじゃない。あんなふうにいわせたいわけじゃない。あんな、あんなふうに、なかせた、い、わけじゃ。俺は、俺はただ、俺は」
「大事なのだとどうしていってやらない。馬鹿な奴だなお前は」
 あの少女は、自分が大事にされていることは口に言ってやらないとわからない。それほど、彼女の周囲は彼女を傷つけたのだから。
「愛していると、どうして――」
 そのたった一言に、彼女は飢えている。そしてその言葉が、安易に吐くことの出来る言葉でないことも知っている。それは呪いを解く鍵のように、彼女の心を溶かすだろうに。
 彼女の心をこじ開けようとすれば、あの少女は意固地になって拒絶するだけだ。
「愛していない」
 ジンの返答は早かった。その意外な返答に、ナドゥは目を剥く。
 男の、あの少女に対する眼差しはいつも優しくて愛情にあふれていた。本人が自覚していようがなかろうが、それは事実だった。あの少女に執着し、かまい、抱きしめて、微笑んでやって。

 あれは、愛しい女を慈しむ男の目だ。

 それが判らないほど、自分は耄碌していないつもりだ。
 大体厄介ごとには絶対関わりたくはないと宣言していた男が、あの少女のためになら首を突っ込み、今まで滅多に頼まれても貸すことの無かった知恵を無条件に与えるのである。それだけでも驚嘆に値する。それで、あの娘を愛していない?
 愛してもいないのに、あんな目をして少女を惑わすな。
 口を開きかけたナドゥは、消え入るようなジンの呻きを耳にした。
「愛したら、また、失ってしまう」
 ジンは泣きこそしてはいなかったが、その声に涙が滲んでいた。そんな気がした。ナドゥは冴え冴えとした亜麻色の双眸、整った異国の顔を、同情と悲哀の眼差しでもって見下ろした。
「だから、愛していない」
 男は再び顔を抱えた膝に埋めた。そうしていると子供のようだと思う。迷子の、子供だと。
 まるで己に言い聞かせるように、男は弱弱しく繰り返す。
「あいして、いないんだ」
 それは、自分に言い聞かせるかのような、哀愁をもってジンの口から搾り出された。
 ジンは、かなり酷薄な気性の持ち主だ。
 誰とでも打ち解けるが、きちんと線を引き、いざとなれば手のひらを返したかのように切り捨てられることもナドゥは知っていた。
 誰もが舌を巻くほどの膨大な知識と決断力、実行力、自分の身を守るには十分すぎるほどの武具の知識と技術を身につけて。
 どうしてそこまで、怯えているのだ。
 たった一言の、愛の言葉を囁くことに。
「……国ってさ」
 ぽつりと、ジンが言葉を落とす。
「どうして、安定していられないんだろう。たくさんの人を傷つけて、たくさんの犠牲を払って、そうまでして存在する意義とは何だろう。俺はいろんな国を見て回ったけれども、たくさんの屍と血と想いを犠牲にして、誰かを裏切り、誰かを憎んで、国を作る。そうまでして一度創られたのなら、ずっと、安定していることってできないものなのかな」
「お前何を」
「判ってしまうんだ」
「……何が」
「シファカが、傷つくのが」
「は?」
「俺の国は、そういう国だったから」
 その言葉を最後に、ジンは黙り込む。言葉の一つ一つに関連性は全く見受けられないのだが、彼の中ではきちんと完結している方程式なのだろう。ただ、男が少女の未来をひどく案じていることだけはわかった。
「……鋼というのはな、ジン」
 普段こちらでさえ飲まれてしまう老成した感性の持ち主であるから、ジンがまだ二十代の若い男だということを忘れていた。いい大人ではあるが、だが子供の自分を引きずっていてもおかしくはない。ナドゥ自身、何事にも区切りをつけて達観して物事を見られるようになったのは、死というものの足音を聞くようになったつい最近のことなのだ。
「叩かねば朽ちていくものだ。幾度も熱い熱に通し、叩いてこそ、美しい銀と切れ味が保たれる」
 言葉を紡ぐことが得手ではないことは、ナドゥは重々承知していた。目の前で膝を抱える男が求める言葉を、きちんと言ってやることはできない。ただ、思ったことを口にしてやることしか。
 ジンが、頼りない子供のように憔悴した面を上げた。
「国もまた同じではないのか。錆が出るたびに、人の想いと血潮の熱を与えて叩くのだ。国をよりよくしていくために。もしくは、それ以上――たとえば世界を、よりよくしていくために」
 ジンはぼんやりとどこかを眺めていたが、小さく笑うと立ち上がった。
「じっちゃんが言いたいことはなんとなく判る」
「そうか」
「ありがと」
 泣きそうに笑う男だ。
 笑いながら、実際は泣いているのかもしれない。年をとるごとに泣くことは難しくなるが、この男は泣き方をしらないのではないかとさえ思える。
「お前」
 ナドゥはため息をつきながら、ジンが初めてシファカを見かけたときのことを思い返した。
『窮屈そうに生きている子だね』
 そうこの男は評していたが、ナドゥにしてみればジンのほうがよっぽど。
「窮屈な生き方をしているな」
「……は?」
 ジンもシファカも、もう少し器用にわがままに生きて見せればいいのに。わがままではない生き方などありえない。人間は生きているだけで業を背負っているものだから。
「……どうした?」
 ふと、目を厳しく細めた男にナドゥは首をかしげた。突如、ジンは何かに弾かれたように飛び出して階段を駆け上っていく。慌ててそれを追いかけて、一番奥の客室で立ち尽くしているジンの姿を視界に入れた。
「どうしたんだおい?」
 ジンの足元に、何か白い鳥のような図形が描かれている。いつの間にこんなものを描いたのだ、とジンに視線を送る。幾度が目にしていたから、それが彼の時折使う、『まじない』だということはわかった。
「ジン?」
 ジンは息を呑んで、拳を握りこんでいた。そのまま踵を返して彼の部屋へと入っていく。ジンが覗き込んでいた部屋はもぬけの殻。それについても言及したいところではあるが、ジンのうろたえようのほうに、どうしても意識は引っ張られた。
 ジンは外套と青龍刀を引っつかんで飛び出してきた。足早に階段を下りていく。だん、と拳を壁に叩きつけて、彼は低く呻いた。
「やられた……!」


 こつこつこつこつ
 乾いた足音だけが、静寂に支配された夜の通りに響き渡る。石畳を叩く踵の音は、孤独と肌寒さを際立たせて、耳にこびり付くような余韻を残した。
 シファカは嘆息して赤く腫れた目をこすった。ずっと鼻をすすって空を見上げる。今日の空は仄白く、星の瞬きが霞んでいるのはおそらく自分の瞼が腫れていることとは関係ないはずだ。それほど、今日の夜は明るかった。
 唇が痛い。自分で傷つけてしまったのだと知る。舐めれば少し血の味が舌先に滲んで、それがシファカの涙腺を刺激した。
 わけが判らなかった。ただ、嫌いという文字だけが頭を埋め尽くす。嫌い嫌い嫌い大嫌い。泣きすぎて頭が痛い。自分はこんなに泣き虫であっただろうか。自問を繰り返しても、回答は現れない。
 唇に、指を触れさせる。傷口とは別に、痺れがあった。先ほどの行為の、名残。
 酷く乱暴で、性急で、余裕がなく、息が詰まった。ジンが持ち合わせる、甘さ、優しさ、温かさ、そういったもの一切合財からかけ離れていた。
 だからこそ余計に哀しい。その行為がもつ意味を、シファカだって知らぬわけではないのだ。普通の少女ならば誰もがあこがれ夢見る行為の片鱗。ただシファカの場合少女らしく焦がれることはなく、自分からはとても遠い手が届かないものとして、妹が夢見心地で語る言葉一つ一つを意識の隅に追いやっていただけだが。
 それでも、こんな風に自分がその口付けをうけるなんて。
 そしてそれがこんなに痛いものだなんて思いもよらなかった。
 哀しさと困惑が交ぜになって、胸中を潮のように満たしていく。
『そばにいる』
 彼が、シファカに贈った言葉。夢ではなかったのだ。嘘でもそういってくれたこと、それを貫こうとしてくれていることが嬉しい。けれど同時に哀しい。あの男は旅人だから。出て行こうとしているじゃないか。いなくなろうとしていたじゃないか。
 優しい嘘で胸を抉っていくのなら、最初から触れないでいて。
 後で喪失感を以って私を苦しめるのなら、最初から触れないでいて。
 あんな口付け、欲しくは無い。
 むしろその携える剣で、殺して欲しかった。
(こんなことばかり、考えてちゃいけないんだ)
 ずっと鼻をすすって、頬を己で叩いて気合を入れる。とりあえず、地下下水道の入り口を探さなければ。町は入り組んでいて、いたるところに路地と壁がある。小さな町であるはずなのに、その構造は迷宮のようだ。ジンには大きいことをいっておきながら、自分があまりこの町に詳しくないことを、シファカは自覚していた。彼につれられて、町を歩き回った。そのときの驚きや感動、初めて味わった町の飲み物の甘さ、お腹を抱えて笑ったことや、ジンの甘い声が思い出されて欝になる。
 眉間に皺を刻み、大きくため息をついたところで、シファカは自分の足音と重なるもう一つの足音を聞き取った。
「団長?」


BACK/TOP/NEXT