第六章 私が貴方に望むのは 1
「地図をもってきて」
シファカの腕を引きながら、元の天幕に戻って開口一番ジンは言った。命令にとても近い口調だった。
首をかしげるロタや部族の長、男衆にジンは手馴れた様子で次々と指示を出していく。
板の上に地図を広げたジンは、湖の移動する場所をつっと線で結び円を描いた。
「部族はこの線中心に散らばっているってことだよね。湖が移動するのもこの線上だけ?」
「そうだが……」
部族の長が低く答える。急に口出しを始めたジンという男に胡散臭そうな視線を投げかけている。第一、襲撃役の男衆たちのほとんどを返り討ちにしたのはこの男なのだ。未だに彼の衣服に付着している血液が、生々しくその事実を主張していた。
「水脈の地図は?」
「は? 水脈の地図?」
「湖があるっていうことは、どこかに水脈があるっていうことだ。移動する原理は考えないにしても、これだけ豊かな水の量をたたえる湖が合計七つ。水脈がないと考えるほうがおかしい。表面に河のあとが見られないから、多分地下水脈だ。北の湿地帯から水は流れてきていると考えたほうが普通だよね。南の砂漠にまで行き渡っていないところをみると、山をぬけて海に流れ込んでいると考えたほうが普通か……で、あるのないの水脈の地図」
「……古い河の地図なら」
「そう。じゃぁそれもってきて。あ、同時に部族の位置全部教えて。宰相閣下と副団長と兵士その一、それからシファカ。町の細かい地図書いて。城門の位置も、城の秘密の抜け道も、思いつく限り全部」
「ちょ、おい待て」
矢継ぎ早に出される指示に圧倒されかかった集落の男が、震えた声で抵抗を試みようとする。
「なんで俺たちまで手伝わなければならないんだ?」
「今更手伝わないっていうつもり? 俺たちを殺しきれなかったとしたら、その先人だか賢人だかしらないけど、相手はなんて思うかな。湖の移動を止める方法? それが本当にあるのだとしたら、わざわざ相手に教えてもらわなくてもいいじゃん。俺たちどうせお姫様と皇太子殿下助けにゃならないからそのついでじゃん? どうせ賢人議会に尻尾振って付いていって待っているのは、今よりも悲惨な結果だけだと俺は思うけれどもね。それよりも自分たちの手で奪われた人たち奪回して、王家に恩売っておいたほうがあとあと楽かもよ? もしかしたら湖の移動をとめることのできる方法をあんたらが握れるかもしれない」
ジンは、口数は多いほうではあるが。
こんな風に威圧的に、まくし立てる姿は初めてみた。相手を挑発するかのような内容。圧倒される男に、ジンは嘲笑とも取れる薄笑いを浮かべて、冷ややかに言った。
「わかったなら邪魔するな。で、そこのじっちゃん」
「じ」
じっちゃん、と呼ばれた長は即座口端をひくりと持ち上げたが、さすがは長に選ばれるだけあるのか、忍耐力でもって穏やかに対応した。
「なんだ?」
「ヒトと食糧と水貸して。代価は奥さんたちの救出だよ」
「……あてはあるのか」
「さっきも言ったけど、地下水脈の存在だ。城が襲撃されたとき、賢人議会は城の真ん中から現れたって、確かそんなこと言ってたよね? 副団長」
「え? あぁ……」
頷くセタを確認して、ジンは誰かが持ってきた古い河の地図を広げた。現在の地図と重ね見て、こんこんと指先で城の位置を叩く。
「地図で見てみると、城は昔あった古い河のど真ん中。地下水脈はその周囲が空洞になっていることが多い。特にこういう荒野ではね。一番考えられる可能性は、相手はこの地下水脈の傍、つまり地下を根城にしているってことだ。どうやって出入りしているのかわからないけれども、少なくとも町のどこかには入り口があると考えていい。えーっと、昨年奥さん方連れて行かれた湖の位置は?」
男の一人が恐る恐る地図に指を伸ばす。するとジンは顎に手を当てて唸った。
「ありがと。この位置なら昔の川の傍だ。この荒野のいたるところに、実際は地下への入り口があるのかもしれない。それを確認しに行くほどの余力はないけど、町だったら的がある程度絞れる。少人数で町の中に乗り込んで、確認しにいく」
「だがお前は人を貸せといわなんだか?」
「そうだよ。特にこの集落出身の人間が必要だ。十中八九、賢人議会の人間は他の集落にも根を張っているはずだ。確かシファカ、先月婚礼の挨拶のときに襲われたんだったよね? 俺たちだけが顔を覗かせれば拒絶か襲撃のどちらかになるだろう。そうならないように、あんたらを仲間に組み込んで話し合いの席を設けてもらう。町を占拠した相手の人数はかなりあった……っていうことは、いくつかの集落から仲間を引き入れていると考えたほうがいい。これから行動を起こすのに、仲間の供給源がほこほこあってはたまらない。集落ごとに協定を結んで、少なくとも無干渉の位置についてもらわないと。宰相閣下と副団長はそっちいってもらって、俺とシファカは町組にしようか」
口元に手を当てて、ぶつぶつと何かを繰り返し呟いているジンに、シファカはもとより周囲一同が唖然となった。
そうこうしている間にジンは鮮やかに策を組み立てていく。まるで音楽を紡ぐように。指を動かし、人を動かし、地図をなぞって、再び思考に没頭する。
(このひとは、だれ)
シファカは刀を握り締めながら男を見下ろした。おどけて、軽薄な言動をやめない男。自分にいつもかまいたがって、実はちょっと料理と掃除洗濯が得意で。
剣がものすごく強くて。
(このひとは、だれ)
それだけではない。
「シファカ?」
仰ぎ見てきたジンが柔らかく微笑む。その微笑が、ぐにゃりと湾曲する。たん、と地についた膝に衝撃が走り、かしゃん、と刀の落ちる音がした。
声が、遠ざかって、途切れた。
夢をみた。
繰り返し見る夢を。
『どうして生まれてきたの』
母の口癖はそれだった。異国の国から流れ着いてきた両親は、自分たちを腹に宿したことをきっかけにこの不毛の王国に居ついた。父は一生のと呼べる親友――当時即位したばかりのウルムトを得て嬉々としていたが、母はそうではなかったのだ。母はこの国の暑さと、埃っぽさと、女性の身分の低さに不満を持っていた。生まれてきた双子の姉妹を憎んでいたが、ことのほか父に可愛がられていたシファカを憎んでいるようだった。
母は気候が合わず、病気がちになった。その腹いせを全てぶつけるように、思いつく限りの罵詈雑言を、幼いシファカに投げかける。
『いやらしい子あさましい子女の癖に剣などもって、可愛げもひとつもないエイネイのように笑って見せたらいいのにいっつも口を引き結んで何を考えているのかわかりやしないあぁもうどうしてこんな子うんでしまったのかしら私の病気もこの退屈もあのひとが帰ってこないことも全部あなたのせいよ、シファカ』
嘲笑、侮蔑、憐憫、嫉妬、憎悪、嫌悪。
あてつけのようにエイネイを可愛がって見せる母。母は嫉妬しているのだ。実の娘に。剣を持ち、父の傍を離れることがない実の娘に。そのことを理解することができるほど自分は大人ではなく、ただどうしたら気に入られるのか、方法を必死になって探した。けれどもそんなもの、みつかりっこなかったのだ。母も母の周囲の大人たちも、可愛らしいエイネイだけが大事。自分は生まれなかったほうがよかった。その二つだけが、事実になった。
地方平定、視察の馬車。
そこにはウルムトがいて、父が居た。母に支配された家に残されることに恐怖を覚えた自分は、彼らの馬車にこっそりと乗り込んでいた。父は叱ったが、ウルムトは仕方がないだろうと笑った。兵士たちも奇異な子供を、つまらない荒野にある娯楽のように可愛がってくれた。女ほど表裏の激しくない世界は、シファカのオアシスのようなものだった。地方へ出かける父に、自分はかならずくっついていった。父も次第に何も言わなくなった。剣の稽古のものとは明らかに違う痣が、体中に目立ち始めていたから。
突然の賢人議会の襲撃に、皆が命落としたのは、シファカが十になるかならないかの頃だった。多勢に無勢。まるで獲物をなぶるかのように、皆は殺された。足手まといはシファカであり、けれどもそのシファカを生き延びさせるために、死ななくてもいいものが大勢死んだ。父もまた、その一人だった。
冷えていく父の手のひら。うめき声。大地にしみこんでいく紅い水。くるなという悲鳴。それでも足をむけてしまった愚かな自分。
生き残ったのは脚の腱を切られ動くことができなくなったウルムトと、無傷のシファカだけだった。
『なんでお前なの。なんでお前が生き残ってるの』
母は繰り返し、一つの言葉しか知らぬ鸚鵡のようにそう告げる。父を失った家は、ウルムトの好意によって傾くことはなかったものの、次々とその使用人を失っていった。
『なんでお前が生まれてきたの。なんでお前が残っているの。お前さえ生まなければ。お前さえ生まなければ。お前さえお前さえお前さえ』
ごめんなさいお母様。
ごめんなさい。
母は死ぬ間際に言いつける。
『あの人を殺した人を殺しなさい。それができないというのなら、あんたのその命でもってエイネイを守りなさい。何も出来ないできそこないが。それぐらいして見せて。でないと死んだあの人が浮かばれないわ。役立たずの娘なんかのために、命を投げ出すなんて』
ごめんなさい。
繰り返しても繰り返しても、謝罪に母は納得しない。けれども今なら自分は母のことを理解できる。自分のために冷たくなっていった優しい人たち。自分というつまらない命のために、どうして彼らが死んでいかなければならなかったのだろう。
あの人たちの家族には、死んでもあやまりきれないの。
エイネイのようには笑えない。笑っていきたら、彼らが亡霊として足をつかみそうで。
生きたい帰りたいと呻いていた人たち。その人たちを差し置いて、笑ったりなんか。
できない。
できない。
ごめんなさい。
まもれなくてごめんなさい。
べつのばしょでわらっていました。
いもうとのそばにいませんでした。
ごめんなさいおかあさま。
ごめんなさいおとうさま。
ごめんなさいみんな。
ごめんなさい。
「ジン……?」
額に当てられた水を含んだ布。かさついた手が優しく髪をなでてくる。朦朧とする意識のなか、シファカは傍らに腰掛けるジンの姿を見つけた。
「やっぱり、疲れてたんだね」
ジンは膝になにか本のようなものを載せていた。栞を挟んでそれを閉じる。シファカは場所を探るべく視線をめぐらせた。が、頭が働かず判断が付かなかった。
ナドゥの居室ではない。
場所が広くて、布が天井に張ってあって。
ここは、集落の天幕の中だ。
「町に戻ることになったからね。情報収集の為に」
寝起きの状態で、まだ意識が覚醒していないらしい。霞がかった思考の向こうで、シファカはジンの言葉を聞いた。
情報収集。確か、地下水脈や空洞がどうのこうのと言っていた。
そこに、エイネイやハルシフォンがいるだろうとも、言っていた。
「妹さんも、皇太子殿下も、きっと、ちゃんと生きてるよ」
シファカの思考を読み取ったかのように、ジンが呟いてくる。シファカはぼんやりと妹の姿を瞼に思い浮かべた。
エイネイ。
酷く扱われていないかな。死んでいない?死んでいたら、私は。
「えいねいがしんでたら、あたしどうなるんだろう」
言葉を覚えたばかりのような拙さで呟くと、ジンが笑った。
「死んでないよ」
「でももし、しんでたら」
「シファカ。あまり暗い方向へ意識を走らせるのはよくない。それはシファカの悪い癖だよ」
シファカは額に触れているジンの手を探り当て、握りこんだ。ジンの指がシファカの指に絡む。
シファカの手を包むジンの手は、優しい。彼はシファカの手を柔らかく握り返して、腰を捻って空いている手で、汗で張り付いた髪をよけてくれる。とてもくすぐったかった。こんなこと、幼い頃以来だ。熱を出したシファカに、ハルシフォンとエイネイがつききりで看病してくれたときを思い出した。
相変わらずひやりとしている手のひら。
ひやりとしているのに、どこか、温かくすら感じられる手のひら。
「夢を見た……」
「夢?」
「うん……」
シファカに触れようとする手のひらは、いつも優しい。それが痛い。胸に痛い。夢の残滓が苦い感情を胸のうちに染みのように落としていく。助けてと、手を伸ばしたくなる。
そんなこと、自分には許されていないというのに。
「むかしね。わたしのせいで、たくさんのひとがしんでしまったの」
喉がく、と鳴った。唇を噛み締めて、涙を堪えた。
どうして、ジンの前ではこんなにも泣きたくなるのか。
どうして、ジンの前ではこんなにも胸中を吐露してしまいたくなるのか。
これではいけないと思う。今までずっと自分の胸の内だけに秘めていた感情。秘めていた涙。そういったものが、ジンの前では零れ出る。
いけないと、思いながら。
「わたしみたいに、つまんないひとのために、しんでしまったの」
零れ出る。
涙と感情。
「わたしだけがいきのこった。かちのないわたしだけが。また――エイネイがしんで、わたしがいきのこるようなことなんかになったら、わたしはいきていられない」
生きては、いられない。
シファカは顔を両手で覆いながら、繰り返した。
「いきてなんか、いられない……」
助けなければ。
エイネイを。
「くるしいよ……」
母から与えられた存在意義。失われてしまった自分の居場所。
それでも自分は命を絶つことを許されないのだ。
父が生かし、母が存在意義を与えた。エイネイを守ること――それを終えぬ限り、シファカは一人ぼっちのまま生き続けなければならない。
死に場所を求めて、いつも剣を振るっている。
「しにたいよ……」
許して。
命を懸けてあの子を守るから。
可愛いあの子を守り抜くから。
全部、終わるその日を、シファカは死の境界に立ちながら待っている。
「……熱が、高い」
ジンがシファカの頬に手を添えて、苦々しい口調で呟く。ぼんやりとその顔を見つめる。整った顔形。伸びた髪と、無精髭と。
どうしてそんなつらそうな顔をして私をみるの。
「……シファカ。お願いだからそんなこというのはやめて欲しい」
「……でも、エイネイが」
「妹さんはね、どうだっていいんだよ。いやどうだってよくはないんだろうけど……あのねシファカ。たとえ妹さんが死んだって君は生きていていいし、幸せを追いかけていいんだ。なんでそんなことを言うの。死にたいだなんてそんなことをい、う……」
口元に手を当てて、ジンが口ごもる。一瞬血の気がさっと引いたように見えた。沈黙が落ちて、天幕の外で炊かれているらしい篝火の、爆ぜる音が耳に届く。
「……俺は生きていて欲しいよ」
やや置いて、ジンがため息をつきながら沈黙を破った。
「俺は、生きていて欲しいよシファカに。生きて幸せになって。シファカ、もっと自分を大事にして。俺も偉そうなことはいえないけれども」
「ジン」
「……俺がいるよシファカ」
柔らかく手のひらが包み込まれる。ジンがシファカの手を持ち上げて、その指先に口付けを落とした。乾いた冷たい唇が、熱で感覚を失っているはずの指先にその温度を刻む。
「……ジン?」
「俺がちゃんとそばにいるから」
冷えてもいない掌を温めるように、きゅっと握り締めてジンが微笑む。どうして彼は、いつもこんな風に笑いかけてくれるのだろう。ぼんやりと上目遣いに男を見やる。痛さと切なさが入り混じった表情を浮かべ、震える声で彼は繰り返す。
「ちゃんといるからシファカ」
まるで神聖な誓いのように。
「だから笑って」
自分のために笑えないというのなら、俺のために笑ってと。
ジンが呻き、握りこんだシファカの手を額に当てて項垂れる。
「……本当に?」
あぁこれは。
これは夢だ。
現実に、こんな言葉を自分のために吐いてくれる人間がいるなんて嘘だから。
きっとこれは自分の熱が作り上げた妄想だから。
泣きたい気持ちで、今起こる全てを否定したシファカに、ジンは優しく微笑みかける。
「本当に」
恐る恐る、シファカは男の身体に手を伸ばした。すると、それを待ち構えていたかのようにジンは性急にシファカを掻き抱いた。その勢いに思わず目を剥く。が、決して痛くは無かった。
柔らかいジンの髪が首筋を掠める。体温が混ざり、とくとくという心音が響いた。
あたたかい。
温かかった。
抱きしめている身体。そしてそこから流れてくる感情。
それらが温かい。
かすかに薫る匂いがある。雨や湖で嗅ぐ匂い。流れる清らかな水の匂いだ。生き物を育てはぐくむ水の匂い。
土に水がしみこむように、乾いた心に男の優しさが染み透る。
夢なら夢でよかった。あの、死者の手がどこまでもシファカの足を捉える夢に比べれば、こんな風に優しく抱きしめられる夢はなんて幸福なものなのだろう。
その肩に頬を寄せながら、シファカは微笑んだ。
自分を掻き抱く男の頬に、伝うものがあると、気付かずに。