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第五章 宴と毒と口付けと 1


 あの日もこんな風に襲われた。
 とても寒い夜の荒野。
 怖くて一人でどこまでも走った。
 そうして手に入れたのは。
 無駄な己の命と、それを生かすために払われた、たくさんの死だったのだ。


「はい」
 目の前に出されたものをみて、シファカは目を見張った。果物の殻で作られた水筒だった。黙ってそれを受け取ると同時、中で水の揺れる音がする。いつの間にこんなものを用意したというのだろう。思わず仰ぎ見ると、そこには微笑む青年の姿がある。
「喉渇いたでしょ。飲んで」
「ジン、でも」
「がばがば飲まれると困るけど、でもまだ二つあるから大丈夫。それはシファカちゃんの分。俺の分もあるから、安心して」
 ぽんぽんと軽く頭を叩かれる。労わりのこもったやり方だった。ジンはその場を離れ、向かい側で横になっているセタの元へと歩いていく。別にセタが情けないわけではない。実際この時間、眠れるものならば眠ってやり過ごしたほうがいいのだ。
 日中、荒野の温度は果てしなく上がる。その暑さは南の砂漠とそう変わらない。足場がしっかりと固まっているだけ、歩きやすく、砂漠よりか幾分ましだと思わなければならない。これが南の砂漠なら、駱駝無しでは単純に道を行くことすら難しい。
 ジンの足音を聞きつけ起き上がったセタに、彼が筒を渡す。セタの受け取った筒はシファカの見たことのないもので出来ていたが、水筒のようだった。それに口をつけたセタの動く喉が見える。
 ――自分たちは今、国内にある部落に向かっている。
 集落を目指そう。シファカはそう提案した。あの町に戻らぬと決めたからには、場所を移動する必要があった。荒野にはいくつも大地棚と呼ばれる高低があり、日差しをやり過ごしたり野宿したりする場所には困らないものの、それでもいつまでも何も無い大地のど真ん中に留まっているわけにはいかない。それに、早く現在の町の状況をそれぞれの部族に知らせなければならなかった。
 不毛の王国は中心の湖周辺にだけ、町があるわけではない。小さな部族の集落がいくつも点在している。移動する湖の周辺に彼らは居を構え、一定期間――湖の移動が始まるまで、そこに留まるのだ。
 砂の時期はまだ始まっていない。先日<婚礼の宣>で集落を回ったときと、湖の位置は変わっていないはずだった。
 ジンはシファカの提案をあっさり承諾し、セタにも異論はなかった。
 けれども、不安になる。
 本当に自分の選択は、間違っていないのだろうか。
 もし。
 もし、エイネイやハルシフォンたちが殺されていたとしたら?
 もし、あの時引き返していればそれが間に合ったとしたら?
 もし――……。
「シファカちゃん」
「え?」
 いつの間にか傍らにジンが膝をついている。膝を抱えるシファカの手を握りこみながら、彼は心配そうに顔を覗き込んできた。
「大丈夫? シファカちゃんも、眠ったほうがいい」
「――大丈夫。ただ、ちょっと考えごとしていただけだから」
 ジンのその手を振り払って弁解する。身体が気だるいのは確かだが、かといって弱音を吐くことは許されない。
 ジンは危険だ。ついうっかり弱音を吐いて、甘えたくなるから。
 そして、彼自身もそれを許すから。
 たとえその優しさが、自分にむけられているものではなく、透かし見ている誰かに対してだとしても。
「お腹すいた?」
 ジンが微笑んで、平焼きのパンを差し出してくる。保存の利く、硬めに焼かれたパンだ。驚いて、シファカは目を瞠った。
「……どうしたのコレ?」
「持ってきた」
「……あの状況でどうやってこんなもん用意できるんだよ……」
「焼いてあったのを持ってきただけだよ。蒸し菓子と一緒に作ってあったんだ」
 なんとも、用意のいいことだ。
 シファカは大人しくそれを受け取った。ほんの少し千切って口の中に放り込む。後はジンに返した。
「もう少し食べておいたほうがいい」
 ジンはそれを受け取らぬまま、顔をしかめて言った。
「でも集落まではもう少しあるんだ」
「それでも、いつ食べれるかわかったもんじゃない。それから食べたら少し寝て。今まで歩き通しだったんだから」
「それはジンも同じじゃないか」
 ジンもまた、歩き通しだったことには変わりはない。むしろ彼のほうが疲れているはずだった。自分を背負って湖まで歩き、あまつさえ泳ぎまでしたのだ。こんなときにそんな形で労わられたとしても、ちっとも嬉しくはない。
「俺はいいよ。気にしなくて」
「ジン!」
「この三人の中で、一番大事なのは君だから」
 とても真摯なその響きに、シファカは思わず呼吸を止める。横になっていたはずのセタまでわずかに身体を浮かせている。
(何を、言い出すんだこの男……!)
 顔を紅潮させながら胸中で呻く。が、ジンはそんなシファカの心中を知ってか知らずか、にこりと笑ってこう続けた。
「皇太子妃の双子の姉である君が、部族の長にこの火急を知らせるのに一番信憑性がある人物だ。俺は流れ者だし、セタだってそれほど地位があるわけじゃないじゃんね」
「――………」
「……え? なに? 違う? あ、もしかしてセタってそれなりに信頼のある身分のひと?」
 きょとんと目を丸めるジンに、シファカは背中をむけながら横になった。外套をかけ布代わりに頭から被って、低く呻く。
「……お休み」
「え? シファカちゃん?」
「ほっといて馬鹿アホとんちんかんボケあっちいって! 今からあんたの言う通り寝るんだ文句ある!?」
「……いや、ないけど」
「お休み!」
 シファカは怒鳴りつけると、体中の穴という穴全てを防いでしまいたい気分に駆られた。少しおいて、じゃり、というジンの足音が響き、ゆっくりと遠ざかっていく。
(馬鹿みたいだ)
 唇を噛み締め、身体を赤子のように丸める。何かを期待していたわけではない。ただあまりに真剣に囁かれたので、勘違いをしてしまった――ただ、それだけのことなのだ。
(苦しい)
 苦しい苦しい。泣きそうになりながら思う。胸を締め付けるこの感情が、一体何なのかは判らない。ただ、苦しかった。ジンはいつもそうだ。初めて出逢ったその瞬間から、その言動一つ一つで自分の心を容易くかき乱す。放っておいてほしい。どこかへ行ってほしい。いつもそう願う反面、いざこの男がどこかへ遠ざかってしまうと、酷い虚無感に襲われるのだ。他に考えるべきことはたくさんあるのに、それで一杯になってしまう。
 エイネイのこと、ハルシフォンのこと。ロタを筆頭とする王宮の皆。それから、暗殺されたという国王陛下。占拠された町、会えなかったナドゥ。これからどうするのか。
 しっかりしなければ、ならない。
 これから何をすべきか、きちんと組み立てて。
(……ごめんエイネイ)
 守ると誓ったのに、守りきれなくて。
 まもれなくて、ごめんなさいおかあさま。
 やがて思考は移り変わり、少しずつ暗がりへと墜ちていく。
 全ての音が遠ざかり、意識が途切れるまで、時間はそうかからなかった。


「……あんた結構酷なことするよな」
 シファカに彼自身の分の外套を着せ掛けるジンに、セタは頬杖をつきながら呻いた。身を隠している大地棚の影には、シファカの規則正しい寝息が響いている。面を上げたジンは、どうやら言葉の意味を理解しかねたらしく、真顔で尋ねてきた。
「……どういう意味?」
「そのまんまの意味だ。団長かわいそうだぜアレ」
「……よく言ってる意味がわからないんだけど」
「お前本気でそれ言ってる?」
「うん」
 ジンの言葉には虚偽の欠片もみられない。彼は本気で、彼が行う行為の残酷さを理解していないようだった。
 傍目からみていて、明確なのである――シファカは、ジンに惹かれている。本人は否定するだろう。もしかしてシファカ自身わかっていないのかもしれない。気丈に常に振る舞い、自分たちと同等それ以上の働きをする少女は、彼女と同年代の少女が胸ときめかせる色恋事には非常に鈍い。鈍いというよりも、それに気を配る余裕がなかっただけだろう。男の身でも時折窮屈に感じられることが多々ある世界。ジンに言われるまで、あまり考えてみたこともなかったが、その世界で女の身であるシファカが生きようとすることは、風当たりが強いどころではないはずだ。さらに言えばシファカはエイネイの姉君。その権力に群がろうとする輩、女として卑下する輩が居ないわけではない。近しい自分たちにでさえ、シファカは必ず一歩、置く。
 まるで、怯えているように。
 そのシファカが無条件に信用して、頼っている。ここまで歩いてくる道程においても、シファカはジンと言葉の応酬を交わし、笑いもした。エイネイについて気が気でない様子ではあるが、きちんと状況を把握して次にすべきことを見極めている。それが安堵感から生まれてくる余裕のおかげだというのなら、その余裕はジンが傍にいる、というその事実から来ているようである。
 が。
 彼女が安心している、という姿を見るのは微笑ましいというよりもどこか痛々しく見える。この非常事態だから、というだけではないだろう。シファカは一人で立とうとする。彼女は泣いて男に縋る女ではない。むしろ嫌悪する。ここでは甘えてもいいだろうという時点でさえ、彼女は一歩引いている。必死でこらえている。
 その彼女に。
 甘えさせるようなことを言って突き放すのは、とても残酷だ。
 そんな風に、甘やかしているくせに。
 寝息を立て、ほんの少し身体を震わせたシファカを認めるやいなや、ジンは足音を殺して彼女に歩み寄り、自分の外套を着せ掛けた。頬に零れた髪を指で払って、軽く頭を撫で、柔らかい眼差しで見下ろすのだ。それを起きている間にされているのなら、たとえ本人にその気がなくとも勘違いする。それほど甘やかしているのに。決定的なところで、ジンはシファカを突き放す。
 甘い夢に、冷水をかけるように。
「あんた、ことが治まったらどっか行くつもりだろ」
 ジンに水を手渡しながら、セタは呻いた。
 ジンが、顔をしかめた。
「水は」
「荷物の中には二つしか入ってなかったはずだ。あの水をまるまるシファカにやるために、嘘ついたよなあんた」
 彼は苦笑すると黙って水を受け取り、喉を鳴らして身体を潤した。セタやシファカはこの国に生まれ育った人間であるから乾燥にはなれている。しかし他の国から流れてきたジンは違うはずであった。相当喉が渇いているに違いないのだ。
「ありがと。でもこれ副団長が持っておいてくれるよね?」
「なんで俺のことふくだんちょーふくだんちょーって呼ぶんだよ……」
「いいじゃん副団長なのは確かなんだから、硬いこと言わない」
「……で、俺の最初の質問には答えてくれてないのかよ」
 曖昧に笑い、きゅっと栓をして水筒を押し付けてくるジンに、セタは憮然と口を尖らす。この男はいつもそうだ。普段は気にならないが、真剣に人が尋ねているときにはぐらかされると少し頭にくる。
「おい――……」
「この国はでるよ」
 肩をすくめて、ジンが答える。
「俺にはやることがあるから、一箇所には留まれないんだ。なかなかいい国だけど。ここ」
「……シファカは……どうするんだ」
 ジンは曖昧に笑っただけだった。口の端を笑みに吊り上げ、けれども目元は泣き出しそうに細めて、肩を揺らしながら喉を鳴らす。呆然とその様子を見ていたこちらに、ジンは何も言わぬままごろりと横になった。欠伸を一つかましながら、彼は軽く伸びをする。
「俺しばらく寝るね」
「ジン!」
「おやすみぃ」
 ひらひらと手を振って次の瞬間には寝息を立てているジンに、呆れかえる。だがこれから揺り起こしても、彼は起きないだろうし、たとえ起きたとしても答えないだろう。ジンもシファカも、こういうところは非常によく似ている。シファカとすでに数年の付き合いを経て、彼女の強情な部分を熟知している身としては、追求することの不毛さも身に染みていた。
「……とりあえず、俺がしばらく起きて番してなきゃならないってことじゃねぇか……」
 一体どこに怒るべきやら。すやすや寝息をたてる二人を見つめながら、セタはがっくり肩を落とし、手近な石を軽くあらぬ方向へと投げつけた。


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