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第三章 嫉妬 3


「これをナドゥの元へ」
 ロタに呼び出されたシファカは、露骨に顔をしかめた。シファカの書簡を見える目は、地獄の通牒をみるかのような目だったはずだ。書簡を持っているロタが怪訝そうな顔をし、首をかしげた。
「どうした?」
「……これ、私がもっていかなければ駄目か?」
「は? 忙しいのか?」
「書類が少し溜まってて」
「……ふむ。だが早々に処理してしまわなければならないものなど、まだ無いだろう。それにまた夜まで仕事を入れるようになったのなら、終わっているはずじゃないのか?」
 妙に鋭い意見に、シファカは内心ため息をつかざるを得なかった。実際書類は当の昔に片付いてしまっている。夜まで仕事をいれるようになると、するための時間がありあまるからだ。
「信用できる者しか、今回は使いたくはなくてな」
「……大事な書類なの?」
「賢人議会の動きが大人しいというのが気になるのだ。大事をとってだ」
 なら何ゆえ自分が行かなくてはならないのか、という言葉をシファカは飲み込んだ。今までシファカはナドゥの元へ行く仕事ならたいてい嬉々といっていい様子でこなしていたし、ロタもそれを知っている。雑用を引き受けるのは、よくあることだ。
「……判った。いくよ」
 しぶしぶ頷いて、シファカは書簡をうけとった。


 夜の工房は人の姿もまばらだ。忙しい時期を別とすれば、基本的に工房の火は早めに落とされる。火種もキャラバンから買い込まなければならないこの国において、高温の炎を生み出す火種はとても貴重だからだ。
 奥の居室は静かで、明かりは全て落とされていた。後片付けをしていた若衆の一人を捕まえてシファカは尋ねた。
「ナドゥは?」
「今区画会合だよ。帰ってくるのもう少し後なんじゃねぇ?」
「そか」
「城の遣いか?」
「まぁ……頼まれ物だよ」
「だったら奥で待っとけば? シファカ相手には親方も何もいわねぇだろ」
「……いいよ。また明日くる」
 明日の早朝に来れば平気だろう。急ぎではないとロタも言っていた。朝の巡回を誰かに代わって貰ってまたくればいい。
 戸口へ歩き始めたシファカに、会話をしていた若衆の一人が、慌てて声をかける。
「おいシファカ! もう夜遅いぞ。今から城に帰るったって」
 今から城に帰っても、ほんの数刻仮眠すればすぐに夜明けだ。ぎりぎりまで仕事をしてくるのを渋っていたためにこんな時間になったわけであるが。
「あ、ジン。丁度いいところに……」
 背後の男が声をあげる。シファカはびく、と身をすくませた。よりによって一番面を合わせたくなかった相手が、出口に立ちはだかっていたからだ。
「親方に用事だってシファカ。親方は?」
「まだ呑んでるって。迎えにいった意味なしだよー」
 湧き上がる笑い声にまぎれて、シファカは彼の横をすり抜けようとした。が、手首を捕らえられる。目だけ動かして睨みつけると、ジンはその視線をものともせずに、にっこり微笑んだ。
「もう外暗いから、朝お帰りよ。じっちゃんも明け方には帰ってくるだろうしね。お仕事あるしね」


「お仕事最近忙しい?」
「……うん」
 突然手紙をだして、行かないことを一方的に決めたのに、ジンはそれについては何も追求しなかった。まるで医者のように、きちんと食べているかだとか、眠っているかだとかばかり訊いて来る。一つ一つ頷き返すが、言葉は続かない。どうしてこんなに、バツの悪い気分に陥っているのかもわかっている。腹を立てていたとはいえ、自分が我侭を言ったことは否めないのだ。
 ことん、と冷えたお茶の入った高杯がシファカの目の前に置かれた。目を合わせないようにうつむいたままそれに手を伸ばそうとすると、彼に手首を捻り上げられた。
「いっつ……何するんだ!」
 上目遣いに男を睨め付けて、シファカは声を張り上げた。視線の先、少しだけ哀しげに瞳を揺らし、笑うジンの顔があった。
「ようやくこっち見た」
「……え?」
「ごめんね乱暴して。でも全然俺の顔見ようとしないもんだから、ちょっと意地悪をしたくなった」
 ぱっと手を放してジンは笑う。しかしいつもよりも少しだけ陰りがある。
 シファカが口を開くより前に、背を向けられてしまった。
 両手で拳をつくり、シファカは膝の上にそれを押し付けた。自分は、おそらく、とてもひどいことを、している。
 普通だったら、怒ってしまうのは当たり前だ。ロタや短気なセタ、付き合いの長い仲間たちに対してでさえこんな態度を取れば、あっさり自分は切り捨てられるだろう。
 馬鹿な自分。最初から最後まで、能天気に笑っている男だったから、どんな態度をとってもどこか許してくれると思っていたのか。
「……あの」
「なんか食べる?」
 茶瓶を片付ける手を止めて、ジンが振り返る。
「晩御飯は食べてきた? お腹すいてない? いいものあるんだけど食べる?」
 いつものように、にこりと微笑まれる。シファカは自分が急にとても矮小な存在に思えた。下唇を噛み締めて再び俯く。ジンが首をかしげて歩み寄ってくることが、気配で読み取れた。
「シファ」
「ごめんなさい」
 子供みたいだ、と思う。最初に悪いのはあのトリシャとかいう女だ。腹が立って、ジンに当たった。きちんと考えれば、彼はシファカに対してなにか悪いことをしたわけではないのに。自分から頼んで稽古に付き合ってもらっていたのに、勝手に苛立って、突然やめると言い出して、顔も見せないで。会っても具合の悪さから顔を向けないで。
(あぁもうやだ。なんで泣いてばかりなんだろ)
 ぽたぽた零れた水滴を吸って、膝の上に染みが出来る。泣く、という行為は遠い昔、男の世界で生きると決めたときに置き去りにしてきたはずなのに。この男と出逢ってからこっち、なぜか泣いてばかりだ。
「シファカちゃん顔上げて。泣かないで。泣かれると俺どうしたらいいかわかんなくなっちゃうから」
 床に膝をついて、ジンが顔を覗き込んでくる。その顔を見ると、絶対もっと泣きたくなる。理由はわからないが、確信があった。きつく瞼を閉じて、その顔を見ることを全身で拒否して、シファカは鼻をすすった。
「シファカちゃん。俺に対して何か悪いことした? 何もしてないじゃんね?」
「……む、むかついたの」
「え?」
「……は、らがたったの。あ、あの、あんなの、が恋人って、ジンのくせに、趣味悪いって、すごく、なんかいやだった。いやだったの」
「……トリシャのことをいってんの?」
 ひく、としゃくりあげて頷く。するとジンが少し笑った。怪訝に思って薄く瞼をあげると、優しい顔がすぐ傍にあって、頭をゆっくり撫でられた。
「トリシャは俺の恋人でもなんでもないよ。彼女、旦那持ちだし」
「…………は?」
「最近旦那さんが冷たいんだって、あてつけに俺に遊ぼう遊ぼういってくるだけだよ。俺は流れ者だし、この町の定住者じゃないから丁度いいんだと思う。この国の住人の顔見知りに誘いかけて、泥沼化するのもちょっとね。そこを行くと俺は、何かあっても出て行くだけで全て片が付いちゃうから」
 すんすんと鼻をすする。頭の中で今言われたことを整理して、シファカは尋ねた。
「……そ、それって、愛人?」
 ジンは肩を少しこけさして、呆れまじりの困惑の表情を浮かべた。髪を撫でる手を止めぬまま。
「……あのねーシファカちゃん。俺とトリシャは本気何にもないの。……旦那持ちの女の人と遊ぼうっていう気は起こんないの。なんでそんな風に勘違いするかなーもう」
「……だ、だって……」
 口付けしていたくせに、という言葉を飲み込んだ。が、ジンは眉を寄せて追求してくる。
「……だって、何?」
 ぐ、と息を呑んだ後、ぼそぼそと先ほど飲み込んだ言葉を口にすると、今度は爆笑された。
「あははははははははは!」
「な、なによそんなに笑うこと?!」
「えーいやーうーん。かわいいねーシファちゃん。むちゃくちゃ可愛い。すごく可愛いよ。ものすごく。そりゃ頬ぐらいにはね。この国ではどうかしらないけれども、挨拶代わりにする国だってあるよ。見境なく俺はするわけじゃないけど、鬱陶しかったら拒否する手段に使ったりすることもある。あはははもぅ本気かわいいなー。かわいー」
 立ち上がったジンにぐりぐりと頭を撫で付けられる。顔を赤く染めていくのは羞恥心だ。ばっとその手を振り払いながら、シファカは声を張り上げた。
「馬鹿! やめろ!」
「いや怒った顔もかわいーいだっ!」
 足を思いっきり踏み抜いてやると、ジンは涙目で屈みこんだ。全身で呼吸を繰り返して、男を見下ろす。目元を必死にこすって、涙の後を拭き消した。ジンが、子犬のように見上げてくる。
「……もう。乱暴はよくないよシファカちゃん」
「よけーなお世話だ!」
「ははは。うん……でも」
 何事もなかったかのようにジンは立ち上がり、ぐしゃぐしゃになったシファカの髪を撫で付けた。再び払いのけようと手を掲げるが、とても優しく細められた目が自分を見下ろしていて、思わずシファカは体の動きを止めた。
「この間はごめんね。トリシャが失礼なことを言って。彼女の代わりに謝らせて」
 ごめんね、と柔らかく囁かれる。そうなってしまえば、頷くしかない。
「……うん」
 シファカの頬に彼の冷たい手が当てられ、親指の腹が目じりの涙をぬぐった。一瞬後には、ジンはすでにその場を離れていた。台所に向かって、歩き出している。
「さて。俺ねー。今朝蒸し菓子なるものを作ってみたのだよ。なかなかの出来だと思うんだけど、おひとつどう?」
 台所の戸棚を空けて、蓋のついた器をジンは取り出す。見たことのないふわふわの物体を掲げる彼に、シファカは憮然としながら首を縦に振った。


 日当たりを保つために大きく切り取られた窓は、同時に月の明かりも良く取り込む。
招力石の明かりに照らされた文字を目で追う作業にもそろそろ疲れてくる。眼鏡をとり、眉間を揉み解していると、かたんと音がした。
「……誰だ?」
「失礼いたします」
 するりと部屋に滑り込んできた影に、目を凝らす。声は聞きなれたものではあるが、少し様子がおかしかった。月明かりを受けて青白く輝くものが、何かわからぬほど自分は耄碌[もうろく]してもいない。
「……貴様」
「……お許しください陛下」
「……貴様は」
 手探りで寝台脇に置かれた剣を探す。鞘から刃を引き抜き、噛み締めた歯の狭間から搾り出すようにして呻いた。
「賢人議会」
「我らの時は止まったままだったのです」
 がたん、と燭台の倒れる音。
 寝台の天蓋に吊り下げられた招力石が、振り子のように揺れていた。


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