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第三章 嫉妬 2


 訓練場にすると観衆がついてしまって集中できない。
 そういうとジンは町の中で手ごろな広場を探し出してきてくれた。湖の傍の、公園だ。草が茂るこの場所は土が軟らかく、たとえ叩きつけられたり転倒したりしても、さほど体を痛めつけない。最初の日は遠足みたいなものだった。お茶と果物と平べったい固焼きのパンをジンが用意していて、そこまでの道程町をぐるりとみてまわった。気分転換の意味も含めて、あちこち連れて歩いてくれたのだと、後でよく判った。
 シファカは自分でも驚くほど、何年も暮らしてきた湖の町のことを知らなかったのだ。
不毛と呼ばれる大地に横たわる湖は、シファカが思っている以上に恩恵を与えていること。この小さな国が皮肉にも不毛の大地によって侵略と略奪から守られていること。通りに並んだ果物の数は想像したよりも多く、手をつけたことがなかった露天の飲み物は甘い。金属の風鈴が奏でる音がとても綺麗なことも、その音が響く路地は異世界に通じるように、幻想的で、とても涼しくあることも、その風が、湖が作り出しているものであることも。

 何も知らなかった。

 仕事の予定を少し緩め、定時にナドゥの工房へ寄って、忙しさに目が回る勢いの工房からジンを借り受ける。どうせ家事手伝いしかできないのだからといってジンは笑い、ナドゥもそいつがいると邪魔だと主張するので遠慮なくジンには付き合ってもらった。戻ってきた刀はあえて使わず、まず短剣の使い方から習いなおす。ジンの技量は目を見張るものがあり、武具についての知識も半端ではなかった。この国の誰よりも、その見識は広い。
「シファカちゃんの動きは決して悪くは無い。むしろ驚いちゃうぐらいだよ」
 体の動き方一つ一つを洗いなおす。簡単な組み手をして、背中から叩きつけられ、シファカはそのまま大の字になってジンの言葉に耳を傾けていた。
「この国の誰よりも、少なくとも俺がこないだ相手した兵士たちの誰よりも、綺麗な動きをしている。なのに無理に男の動きを真似しようとするものだから、どこかぎこちなくなってしまうんだ。それが一瞬の隙になってしまう。無理に背伸びするよりも、きちんとひとつひとつ固めていったほうが効率がいい」
 組み手をするたびに思うのだが。
「ジンの動きってなんか踊っているみたいに綺麗だよね」
「そう?」
 初めての稽古から、かなりの日数が経っていた。
 いつも通りの稽古の後の帰り道、先行く背中に語りかけるとジンは少し考えて言葉を返してきた。
「……この国では、どうかしらないけれど、俺の国では武具演舞っていうものがあるんだ」
「ぶぐえんぐ?」
「そう。武器をもって踊るの。綺麗に踊れているっていうのは動きに無駄が無いっていう証拠だから、それぞれの武具の舞で一番の人が、その武器の名手でもある。実際の実力は、経験だとかがそれに付加されるんだけど」
 最近気づいたことである。
 ジンは自分のこと、とりわけ出自のことになると歯切れが悪い。具体的な地名は言わないし、家族は、友人は、恋人はといった話を決して聞かない。考えれば不思議な男である。まだ若くしてかなりの国を見て回っているようであるし、その見識は宰相のロタすら上回っているようだった。しかし一体自分がどういう存在であるのか、旅の目的は何であるのかということすらジンは語らない。そういえば、一体いつまでこの国に居る予定なのだろう。先行く背中をながめながら物思いにふけっていると、ふとジンが怪訝そうにこちらを顧みた。
「シファカちゃん?」
「は? ……え、なに」
「ぼっとしているとはぐれるよ」
 ジンが苦笑しながらシファカの手をとる。確かに大通りに出たせいで周囲の人々の往来が増えた。ただでさえこの国の大半を占める民族に比べれば、体が一回り小さいシファカはつい埋もれてしまう。だからといって、手を繋がれるほど自分が幼く頼りないわけでもない。
「そんなに頼りない存在に見えるのか?」
「あははは。そうだね。みえるかもね」
 放せと握られている手を上下に振ってみるが、手は硬く繋がれたままだ。ジンは人ごみを掻き分けて、シファカの歩きやすい道を作りながら進んで行く。抗議する気力も湧かず、結局手はそのままにしておいた。
 かまわれる、ということは悪い気はしない。
 人いきれでむっとする往来の中で、彼のいつもひやりとしている手は、シファカの中にこもる熱を下げているかのように気持ちがよかった。誰かと手を繋ぐなんて何年ぶりだろう。シファカは自問した。とても幼い頃にエイネイと手を繋いだのが最後だったと思い出した。
「……その演舞、剣はジンが国で一番だった?」
 気恥ずかしさから、かなり複雑な表情を浮かべているだろう自分の顔をみられたくなくて、シファカはうつむきながら尋ねた。
 ジンは、答えない。
「……ジン?」
 声は聞こえているはずだ。いくら街の雑踏の中だとはいえ、とても近い距離だから。ジンは一度体を震わせると、珍しくため息をついてみせた。
「俺は一番なんか狙えないよ、シファカちゃん」
 少しだけ肩越しに向けられた顔には、苦笑が滲んでいる。なんだか泣いているように見えて、シファカは思わず腕にもう一方の指を添え、口を開いた。
「ジ――ふぐっ」
「うわっ」
 突如ジンの体がとまって、シファカは思いっきり顔面を彼の背中に打ち付けることになった。痛む鼻を押さえながら何事かと顔をあげる。するとジンの肩越しに、くるくるの金の髪が見えた。むせ返りそうな甘い匂いが鼻につく。
「ちょっとジン!しばらく見ないと思ったらなぁにこんなところで油売ってるのよ!」
 聞き覚えのある声だった。目をぱちぱち瞬かせる。するとジンが困惑したような声で、女の名前を呼んだ。
「トリシャ」
「全然お店来てくれないし。工房は忙しそうだけどジンは関係ないでしょ」
 女の勢いに、何事かと目を見張った人々が自分たちをよけて歩き始める。空間が開いたことで女はジンから離れて、豊満な体を見せびらかすように仁王立ちしてみせる。その勢いに気おされて、思わずジンの背後に隠れようとする、が。
「暇しているはずなのに一体なにして――って……あら?」
「…………こ、こんにちは」
 腰を引く必要もない。無論声を震わせる必要性も。男相手ならば台頭に渡り合うことも平然と出来るが、実をいってしまえば、女の類がシファカは苦手だった。同性なのに理解できないことが多いからだ。もしエイネイが双子の妹でなければ、自分は真っ先に敬遠していただろう。
「……ダレ」
「ダレって失礼な言い方だよトリシャ。シファカ、こっちはトリシャ。この近隣で衣装屋をしているんだよ。トリシャ、こっちはシファカ」
 トリシャ、と紹介された女は腕を組み、嘗め回すようにシファカを眺めた。左の刀の鞘を握り締め、眉根を寄せてその視線を対峙する。ジンは困惑した表情のままだ。この状況に心底困っているのは、彼自身のようだった。
「…………ちまいこね」
「…………な」
「ジン、子供を相手にするのはよくないわ。何この子がりがりで、いったいこんなののどこがいいの」
「ちょ」
「しかも真っ黒に日に焼けてるし、土だらけじゃないの。やぁねあせくっさい。ジン、ちょっといいものがはいったんだけど見ていかない?こんなところで油売ってるってことは、暇なんでしょ」
「……あんたね……」
 勘違いされていることはよくわかるし、言われていることもあながち間違ってはいない。確かに自分はやせぎすで、女としての丸みにもふくよかさにもかけるが。
「勝手に勘違いして初対面の人間にそんな言い方はないだろう……!」
「シファカ」
 ジンの手を放して、外套のフードを深く被りなおす。ジンが口を開きかけているが、それを制するようにシファカは早口でまくし立てた。
「あんたも私にわざわざ付き合う必要はこれっぽっちも無いんだジン。先約があれば、そうといってくれればいいよ。じゃぁね」
「シファ」
 シファカは素早く人の往来の中に身を紛れ込ませて、路地の中に入り込んだ。夢中で城の方角に向かって走る。うねる見知らぬ路地裏を駆け抜け、よく知った大通りに出てシファカは目を手の甲でこすった。
「……なんで涙が出るんだ……?」
 夢中で走ったから、涙腺がおかしいのだと思うことにする。理由は検討も付かないが、胸の辺りが酷くもやもやしていた。
 腹が立った。とても無性に腹が立っていた。
 初めてジンとであった翌日、朝もやの中で彼から頬に口付けを受けていた女があれだと気がついた自分に。そして初対面の人間に悪びれもせずあんなことをいえてしまう女と付き合っているジンに。
 酷く、涙が零れてしまうほど腹が立った。


 城に帰って、夜警の仕事を一つ入れる。気分が高ぶって眠れそうもなかったからだ。二人一組で夜警は行われるので、退屈することはない。いつもよりも饒舌にシファカはよく相手にしゃべりかけ、くだらないことで笑い、くたくたになってから明け方、眠りに付いた。
 そこまではいい。
 起きた時間がすでに、太陽の沈みかける時間であったということは、かつて無いことだった。どうしてそこまで眠ることができたのか。飛び起きてセタに時間を確認すると案の定、もう仕事の時間は過ぎている。なぜ誰も起こしに来なかったのかと問いただすと、エイネイの采配でシファカはそのまま放って置かれ、夜警の仕事には別の人間が入ったということだった。
「なんでそんな余計なことをしたんだ?」
 低めた声音にエイネイの体が小さく震える。まるで射すくめられた小動物のように。
「……だって、お姉さまお疲れなのだと思って」
 エイネイの采配は、ある意味ありがたい。けれどもそれは、エイネイの立場で決してしてはならぬことだった。彼女は次期皇太子妃、王妃であるのだから。些細なことが権力の乱用に外から見えると、どうして彼女は判らないのだろう。
「……疲れていてもするのが仕事なんだよ。エイネイ、勝手にそんなことをエイネイの立場でもうしてはいけないんだ。わかってよ。可愛らしくだけで王妃が務まったりしたら、町中の娘みんなが王妃になれるんだよ!」
 ばん、と机を叩く。怯えにか、エイネイは一瞬目を瞑り、ぽろりと涙をこぼして執務室を出て行った。 翻った衣装の裾の残像に、シファカは思わず頭を抱えた。
 椅子に崩れ落ちるように腰を落とす。すると横でセタがため息混じりに批難した。
「……言いすぎだぜ団長」
「……わかってる」
 深くため息をついて、シファカは顔を両手で拭った。八つ当たりだと判っている。酷く乱暴な言い方をした。少々の注意をいつまでも引きずって傷つくエイネイではない。すぐに立ち直るだろう。おそらく涙が零れたのは、滅多に怒鳴らない自分が声を荒げたことに対する驚きだと推測する。
「疲れてんなぁ団長」
 セタが苦笑しながら呻いた。
「……代わってもらった人にあとで礼をいわなくちゃならないよな……。あーもー自分なにやってるんだろ本当に。エイネイには当たるし、果てしなく眠れるし。仮眠とるだけのつもりだったのに」
「まぁ疲れているんだったら仕方がないんじゃないのか団長。今んところ、やっこさんの動きも活発でないみたいだし。最近結構マシになったけど、もともと団長は働きすぎなんだろうよ。昨日だって夜警夜通しで入ってたんだろ? そんなことしたら身体壊すって、姫さんにも散々言われてるだろうに」
「う。だけど、眠れなかったんだ。……あー書類溜まってるの、処理しなきゃならないな」
 団長ともなれば、机仕事も無論ある。与えられた小さな執務室の机の上には、今日中に処理されるべき書類が山と積まれている。頭痛にこめかみを押さえると、セタがにやりと笑って言った。
「書庫でやってくるのはどうだ? あそこなら居眠りし放題だ」
「馬鹿。居眠りしていたら全然書類もすすまないじゃないか」
「まぁ、そりゃそうだが」
 シファカと同じく副団長として書類を片付けているセタはあっさり同意する。書類が終わらないと後々ロタの制裁が怖い。彼は力に物を言わない代わりに、ずいぶんとえげつない方法でいじめてくれるから、なかなか侮れないのだ。
「大体エイネイは私に甘いんだ。そんなことじゃいけないっていうことが、なんで判らないんだろう。そりゃ今回は私が悪いんだけれども、公私の線引きがきちんとできなきゃ、次期王妃だって務まらないだろうに」
「……ま、それが判るにはちょっとお姫さんは綺麗なところにいすぎたのかもな。最近、俺も思う」
「そう?」
「そうだな。……ま、今回は説教よりもまず目の前の敵を、って感じだ。お姫さんへの説教や愚痴はあとにしておけよ」
「……そだね」
 軽く書類をぱらぱらとめくって必要な書籍を確認する。ほとんどは承認や確認の書類であるが、中には調べ物もある。やはり書庫へ行ってやったほうが効率がよいか。
(コレを抱えてあっちまで行くのは骨だよな……)
 執務室から距離のある、陰気臭い書庫を思い返し、シファカは深々ため息をついた。


 書庫の机の上に乱暴に書類の束を置くと、煙のように埃が舞い上がった。思わず咳き込んで窓の傍へと駆けよる。夜気がふわりと頬を撫で、シファカは上着の前を掻き合わせた。
(……今日、いかなかったな)
 時間を寝過ごしてしまったせいではある。が、もしかしたら時間に上手く起きられなかったのは、寝過ごしてしまうことで理由づけしたかったのかもしれない。
 工房へ、足を運ぶこと。
 シファカはもう滅多な用事がない限り、あちらへ足を踏み入れないことにひそかに決めていた。明日手紙を出せばいい。もういかないからと。自由に時間は使ってくれていいと。
(大嫌いだ)
 大嫌い大嫌い。大嫌いだ。
 あの軽薄さも、人の心に容易く踏みいってくるところも、誰にでも振りまかれる優しさも
人に好かれる人徳も。
 ジンという男の全てが大嫌いだ。
 シファカは頭を振って書棚から必要な文献をいくつか引き抜いた。椅子を引いて席に着き、書類に筆記具の先を走らせていく。招力石の柔らかい明かりが周囲を照らす。いくらか書類を片付け、必要な書籍を探しにいき、再び席に付く。そういった作業を黙々とこなし、幾許か経った頃、偶然開いた書籍に、シファカはその文字を見つけてしまった。
「武具、演舞」
 それは辞書だった。世界各国の事項を字引くための。本当はその隣の頁にある文章を読むべきであったのだが、指と目は自然に“武具演舞”の項に引き寄せられていた。
 無意識に、読み上げる。
「……武具を用いて行われる演舞。祭事の際に用いられることが多い、武芸の一種……東大陸で、盛ん」
 東大陸。
 俺の国はね、シファカちゃん。
『四季が綺麗な国だよ。この国はいつも暑いじゃんね? 俺の国は一年中気候が移ろっていて、暑かったり寒かったりするんだ。もちろん予測できないっていうわけじゃなくて、はる、なつ、あき、ふゆって四つの季節が順番に廻ってくる。とても綺麗だよ。どの季節にもその季節なりの美しさがある』
 ジンが語る異国の話で、一番好きだったのは彼の国の話だ。地名は語られることがない。四季の話は本で読み知っていた。東と西、そして北の大陸の一部においては四季がある。どんな不思議なものなのだろうと、幼い頃はエイネイと想像をめぐらせた。きちんと順番に四つの季節が廻ってくることも、シファカはジンの口から直接きくまで知らなかった。それほどシファカは、いやシファカだけではなくこの国の人間は、外の世界に無知だ。

 荒野に閉ざされた不毛の王国。

 ジンとの会話は驚きに満ちていた。柔らかい口調で語られる話一つ一つが好きで、稽古のあと、お茶を飲みながら話を聞く時間が好きだったことは、否定できない。
 おもむろに、シファカは刀の項も開いてみた。シファカが今腰に下げているものと酷似した絵が描かれている。
 注釈を、目で追った。
(水の帝国で考案された武具。鋼を極限まで鍛え上げた刀身は殺傷力が高く、その薄い刀身を裏切って耐久度もまた高い。芸術品としても珍重される。……水の帝国、って、東大陸、だよね?)
 記憶の箱をひっくりかえす。シファカの知識が正しければ、水の帝国はすなわち東大陸に古くから君臨する大国、裏切りの帝国ブルークリッカァのことだ。
 彼がその国から来たとは限らない。刀は東大陸全域で広く使われているとあるからだ。が、その近隣からやってきたことは、間違いないだろう。思えば裏切りの帝国は数十年酷い混乱状態にあるという。新しい皇帝がシファカが十の頃に即位したとの話は聞いたが、かつての栄華の面影もなく、滅び去るのは時間の問題だろうといわれていた。もしかしたら、その混乱を逃れて世界を放浪している人なのかもしれない。
 それに、東大陸は、四季がくっきり分かれていることでも有名な大陸だ。
 東大陸。
 そんな遠くから、彼は来たのだろうか。
(だめだ)
 ばん、とシファカは勢いよく本を閉じた。机に突っ伏して歯を食いしばる。考えたくない。あんな男のことは何一つ。
 だというのに、どうしてこんなにも、繰り返し考えてばかりいるのだろう。
 どうしてこんなに、胸が痛いのだろう。
 もう会わない。
 絶対に会ったりしない。絶対にだ。
 彼は旅人だ。そのうち、この国から消えてくれるから。
 だからそれまで耐えればいい。この、胸の痛みに。
 シファカはそう己に言い聞かせ、緩慢な動作で書類を手に取る。けれども涙が滲んで、視界がかすみ、仕事をきちんと再開できるようになるまで、ほんの少し時間を要した。

 大嫌い。


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