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第三章 嫉妬 1


 翌日。
 ジンは王宮に現れなかった。その次の日も。その次の日も。
 仕事を普段通りこなしつつ、シファカは訓練場で一通り鍛錬を行った。エイネイの茶会や会食に護衛として付き添い、ロタと警備の打ち合わせをし、時折王陛下の散歩に付き合う。いつも通りに笑っていられる。よく休んだおかげだろう身体が軽く、多少のことがあっても精神はぶれなかった。エイネイのわがままぶりを諭し、兵士たちの小競り合いを仲裁し、日誌をつけて、一日を閉じる。
 部屋に戻る道すがら、洗濯場に寄って干していたものを回収。くたくたになりながら暗闇に沈む自室に戻り、明かりもつけずにシファカは寝台に倒れこんだ。
(今日も来なかったな)
 枕を抱えながら指を折って数えてみる。今日でジンの姿を見なくなってから四日目だった。
 あれだけ邪険に扱って、目の前に二度と現れないで欲しいと思ったのに。
出逢って言葉を交わしたのはたった三日間だけだというのに。
 このなんともいえない空虚さは何だ。
 刀の修復はまだ終わっていないらしい。もし終われば、ナドゥのところから遣いがやってくるはずだった。まだ連絡一つ寄越してきていないということは、つまりはそういうことだ。他に、ナドゥの工房にいく理由もない。
 鍛錬は王宮の訓練場でといったのに。
 ジンはこない。かといって、彼に会いに行くためだけに、ナドゥの工房を訪れるのも悔しい気がした。
『放っておけなかった』
(馬鹿馬鹿しい)
 シファカは枕を抱え込みながら、胸中で毒づいた。
 自分はそんなに不安定に見えるのだろうか。周囲の誰も気づいているそぶりは見せないというのに。居るとしたら唯一王陛下のみだ。けれども彼は彼で理由がある。
『ごめん』
 そんなふうにあやまらないで。
 悪いのは自分だと、思い知らされる。いつから自分は笑いかけてきてくれた人間を、あんなふうに無碍[むげ]に扱うようになったのだろう。例え鬱陶しかったとしても、もう少し別の断り方があっただろうに。
 最初の最初から、ジンに対しては苛立ってばかりだった。
 顔を横に向けて、山と椅子の上に詰まれた洗濯物に視線を投げかける。
 シファカはのっそりと立ち上がると、ぺたぺたと裸足の足音を響かせて、椅子に歩み寄った。洗濯物の山を崩して一着の外套を取り出す。自分のものではない。ジンのものだ。この不毛の国の夜は冷えるのに、結局彼は外套なしで町の外れのナドゥの工房まで歩いて帰ったのだろう。
 ため息をついて、それを綺麗に折りたたむ。
 円卓の上に短剣と共に並べおいて、寝台に戻ると、意を決するようにシファカは布団を勢いよく頭から被った。


 朝一番に休暇願を出して、非番であったロルカに無理をいって仕事を代わってもらった。最近妙に気落ちしている彼は、仕事をしているほうが、気が晴れると言って、気前よく交代してくれた。
 ナドゥのところへいくと告げると、ロタは書簡をシファカに押し付けてくる。書簡といってもかなりの分厚さがあるそれに閉口しつつ、まだ朝霧の晴れない町をのんびり歩いた。


「……シファカ?」
 工房の入り口に立つと、気がついたナドゥが汗を拭いながら顔を上げた。
 まだ早朝だというのに工房は慌しく、人でごった返していた。すでに火を入れられてかなりの時間がたっているらしい釜戸。溶けた鉄。赤々と照らされる工房の中には、むっとした熱気がこもる。
 いくらロタが頼んでいた武器修復の注文に間に合わせるためだろうとはいっても、こんな早朝からこれほど慌しいのも珍しい。
「どうかしたの? コレ」
「あ、あぁちょっと鉱石の納入が遅れてなぁ。ようやく納入を果たしたから急いで……こぅらぁそこ! なにやってやがる!」
「す、すみません!」
 まだ若い少年がナドゥの叱責に震え上がった。ナドゥが疲れた嘆息を吐き出し、シファカに向き直る。
「刀悪いな遅れてて。今朝仕上げたから、遣いだそうと思ってたんだ」
「あ……うん。えっと、ジンは?」
「あいつは奥で仮眠とってる。商隊を迎えに行かせてたから、ここ数日寝てないらしくてな。なんだ、ジンに用事か?」
「え? あ、あぁ。ちょっと、返したいものが、あって」
 ナドゥは首を傾げたが、顎で居室のほうへいっているようにシファカに促し、再び仕事へと戻っていく。
 シファカは小さく嘆息すると、頭が割れるような怒声に耳をふさぎ奥へと進んだ。


 先日シファカ自身も泊まったジンの部屋の入り口には戸布が下りていた。その薄い布越しでもわかる、人が眠っている部屋特有の重い空気。抱えている外套の入った包みを握り締めて、シファカは立ち止まった。
(……居間に、おいておけばいいかな)
 わざわざ叩き起こすのもどうかと、シファカは思った。きちんと面と面向けて礼をいったほうが良いに決まっている。が、かといってまた顔を合わせて心穏やかに対応できるかと問われれば自信がなかった。
 握り締めた包みに視線を落とす。ため息をつき、体の向きを変えて。
「どっちらさん?」
 つま先を返しかけたその瞬間に、戸布の奥から声が響いた。
 ジンだ。
「……え、と」
「あれーシファカちゃん?」
 じゃらりという金具のこすれる音が響き、勢いよく目の前の戸布が開かれる。上半身裸のままのジンが顔を覗かせた。いかにも寝起きといった感じで、頭の毛がぼさぼさである。厚ぼったく半分まで下がった瞼を軽くこすって、彼は笑った。
「あ、ごめん。稽古つけるっていったの俺なのに、顔出せなくて」
「え、あ、い、いや、そんなのは、いいんだけど」
「あ、刀」
「あ、うん。あがってるって、きいた」
「それで来たんだ」
「じゃなくて」
 たった一つの説明にまごつく自分が情けない。シファカは黙って、持っていた包みを押し付けた。ぼふっという空気の抜ける音が響き、ジンが慌ててそれを抱えた。
「え? 何」
「外套。借りてた奴。一応洗濯したし、綺麗になってる」
「えー? 洗濯してくれたんだ。ありがとー」
 へらりと笑う男に、どう反応していいか判らない。シファカはうつむくと、早口でまくし立てた。
「こっちこそありがとう。それじゃ」
「あ、待って」
 素早く身を返したはずなのに、安易に腕がとられてしまう。怪訝さに眉をひそめていると、ジンはいつものように機嫌よく微笑んで言った。
「いいもの買ってきたんだ。下で待ってて。着替えてすぐ行くから」


「コレがいいもの?」
「そう」
 居間の席につくように言われ、大人しく待っていたシファカの目の前に出されたのは、匂い芳しいお茶だった。ほんのりと琥珀がかった色の表面に、自分自身の顔が映りこんでいる。嗅いだことの無い甘い匂い。
 どうぞといわれて、恐る恐る口をつけると、少し甘酸っぱかった。鼻腔の奥をぬけるかのような強い芳香。けれどもそれとは相反して、頭がすっと冴えたような気がした。
「俺の国のお茶の一つでさ。見かけて珍しいから買ってみたの。美味しい?」
「うん……美味しい」
「あはは。よかった」
「なんていうお茶?」
「発音できないよ多分」
 確かにジンが発音した言葉は、シファカには理解できない類の音だった。基本的な言語は世界共通であるが、やはり多少のなまりや国独特の音はある。舌をかみそうになったシファカに、ジンは笑って果物のお茶、と解説した。
「あんたは飲まないのか?」
「俺? うーん。また後でね」
 かたかたと茶葉を片付けていくジンを横目に、もしかしてこれは自分のために買われたものなのではないかという考えがシファカの脳裏を過ぎった。その愚かな考えに、シファカは頭を振ってごまかしのようにお茶をすすった。自分の為? そんなはずないではないか。自分の愚かさ加減に飽き飽きしてくる。
「あの、ジン」
 お茶の甘酸っぱさにほだされて、ついつい名前を口にする。すると振り向いたジンがぱちぱちと目を瞬かせ、とろけそうなほど甘い顔で微笑んだ。
「うわー初めて名前呼ばれた」
「……そんなに喜ぶこと?」
「えー嬉しいよ。とっても。それで、なぁに? シファカちゃん」
まさか、つい呼んでしまっただけ、とかではいけないだろうか。
 視線を泳がせながら、シファカは続けるべき言葉を急いで探した。ジンは柔らかく微笑んで言葉を待っている。
 シファカは小さく嘆息し、視線を逸らしつつ言葉を吐いた。
「……仮眠、とらなくていいのか?数日、寝てないって」
「仮眠? うん平気。いきなり稽古に付き合えなくなって御免ね。きちんと言っておくべきだった」
「……キャラバンを迎えにいったって」
「なんだかねぇ、鉱石を運んでいるキャラバンがすこし前に襲われたんだって。代わりの鉱石運んできたっていうキャラバンも護衛がいなくて動けないっていうもんだから、俺急遽迎えにいったの」
「襲われた?」
「みたいだね。お茶もう一杯いる?」
「…………もらう」
 空になった高杯を認めて、ジンが素早く茶を注いでいく。きらきら光る琥珀色から目線を上げると、真剣で、けれど柔らかく微笑む人の顔がある。キャラバンのことは気にならないでもなかったが、今はこちらのほうに意識が引っ張られていた。
 どうしてこの男は、こんな風に笑っていられるのだろう。自分はこの前散々に怒鳴り散らしたのに。
 自分がとても小さい人間に思える。シファカは膝の上で拳を握り締めて、うつむいたまま呻いた。
「……この間は御免」
「……なにが?」
「その…………どなって、わめいて」
「…………あぁそんなこと」
 ふっと影がさす。見上げた先にはジンの眼差しがあった。柔らかい目でそんなふうに見下ろされると、何か錯覚を起こしそうになる。ジンはその場に膝をついて視線を低く保つと、眼差しはそのままに、微笑んでいった。
「俺も御免ね。誰にだって触れられたくないことはあるのにね」
「ジン」
「俺の悪い癖なんだ。つい人の心を探ってしまうし、踏み込みもする。ごめんね」
 首を横に振ると、頭を軽く撫でられた。弾かれるようにして面を上げてその手を振り払う。鏡で確認したわけではないが――おそらく、自分の顔は真っ赤であっただろう。
「なにするんだ!」
「えー頭撫でただけですけれども?」
「あんたね!」
 そのまま蹴りつけるつもりで足を上げるが、卓にひっかかって先にジンに逃げられた。じっと睨みすえるが、ジンは表情を崩さない。睨めっこを続けることにも疲れ、シファカは嘆息すると、卓の上で結露の雫を零す高杯を見つめなおして低く呻いた。
「お願いがあるんだけど」
「なに?」
「……剣、稽古、復習してた、ところが、よく、わからないんだ」
 教えて欲しい、と。
 そのたった一言をいうのにどれぐらい時間を要したのかは判らない。
 が、ジンは「最初からそのつもりだっていっていたでしょう」と気前よく笑って、再びシファカの頭を撫でた。


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