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第三章 決別 1


「何か、悩み事でもあんのか?」
 宮城の部屋の明りが、少しずつ落とされていく時刻。エイの勧めで休憩がてら、ラルトはイルバ・ルスの部屋を訪ねた。手土産に小さな濁り酒の瓶。それを互いの杯に注いだあとの、イルバの第一声がそれだった。
「あるぞ」
 ラルトは嘆息しながら答えた。
「腐るほど」
「そりゃ……そうだよな。皇帝なら、あるはずだ」
 かつて、一人の王の末路を見届けた男は、杯を口元に運びながら言った。杯の中身を一飲みに仰いで、彼は微笑んだ。
「あぁ、いい酒だ」
 彼は手酌で酒を空の杯に注ぐ。その様子を見ながら、ラルトは彼が酒豪というシノの情報はどうやら本当のようだと思った。
「俺はどういった話をしてもいい。どっちがいい? あんたの悩み事を聞くのも、たわいのない異国の話をするのも、俺にとっちゃ大して差がねぇんだ。別に、最近読んだ本についてとかでもいいぜ?」
「あんたの王とは、どういう話をしていたんだ?」
「ワジール?」
「あぁ……そういう名前だったか」
 革命を起こした男より、それによって倒れた王より、彼らに板ばさみされ、政治の世界から姿を消した男のほうが有名だ。誰もが、彼の才能を惜しみ、彼の名前を忘れまいと口にするからだった。
 そうやって、政治の世界に名前だけとどめた壮年の男は、そうだなぁ、と天井を仰ぎ思案していた。
「思い出せねぇな。正直いって。まぁ、碌な話はしてねぇが、愚痴とかはやっぱ聞いてたな。あれは……あぁ、やっぱ愚痴だ」
「なら、俺も愚痴にしよう」
「なんだそりゃ」
「俺の愚痴を聞いても、呆れて笑い飛ばしてくれそうだから」
 ラルトは笑い、しかし、イルバは笑わなかった。
「いいぜ。聞こう」
 彼は杯を再び口元に運びながら、一言付け加える。
「周囲に言いふらしたりはしねぇからよ。シノに殺されるのは御免だ」
 思わず、ラルトは笑ってしまった。女官長は城の外の人間に対しても最強であるらしかった。
 さて、どの愚痴を漏らすべきかと考えて、しかしどのものを選んだとしても、内政にかかわってしまうのだった。いくら政治の世界に造詣が深い男だとはいえども、安易にあれこれを口にすることはできない。したくもない。
 愚痴りたい、と思ってはいても、愚痴れることなど、何もない。何一つ。
 そこで、初めて、ラルトはひとつの事実に行き当たった。
 ティアレは、今まで愚痴らなかったのではない。
 愚痴ることが、できなかったのでは、ないだろうか。
 ティアレが愚痴ひとつ零すことで、周囲に影響がある。例えば、彼女が一人を気に入らないという。ティアレにはそのつもりはなくとも、ティアレに気に入られなかった人間はさりげなく中枢から遠ざけられるだろう。ティアレの周囲にいる人間のほとんどがこの国の根幹に位置する人間で、それを可能にする。ティアレは、それを、知っている人間だった。
 ラルトが政務に没頭する。その理由も、必要性も、責任も、築いてきた血の河の意味も、全て知り尽くしている聡明な女。
 それが、ティアレ・フォシアナという、ラルトが選んだ女だったのだ。
 聡明であるが故に、愚痴を零せない。
 何一つ。
 それがわがままであると知っていて。
 わがままを漏らせない女。
 彼女に、愚痴を零せる友人を望むのではなく。
 他ならぬラルトが彼女のわがままと愚痴に、耳を傾けてやらなければ、ならなかったというのに。
「なんだ、愚痴らないのか?」
 ラルトは、イルバの問いかけで我に返った。
 イルバは既に酒瓶の半分を空にしている。だが少しも酔った素振りは見られない。無精ひげを生やし、髪は伸びたものを無造作に縛ったまま。だが、シノによって選ばれ与えられた上質の衣服を見事に着こなして、何気なくそこに腰を下ろしている男は、やはり単なる壮年の男ではなく、ラルトの年を上回って政治の世界を生きてきた男だと思わせる何かがあった。何より、その藍の瞳が澄んで静かだった。
 ラルトは久方ぶりに、自分が皇帝でもなんでもなく、少し頭の固くなった三十路前の男になったような気がして、そうだな、と長椅子に重心を移動させた。
「今からするのは、例え話なんだが」
 宮城では、表立っていない内容を、例え話や御伽噺として言葉を交わすことがある。
 愚痴、と言ったというのに、例え話に移動したラルトの言葉の不自然さを、王宮での作法を知り尽くした男は追求せず、一つ頷いただけだった。
「あぁ、例え話な」
 ラルトは、自らの杯に手をつけた。
「男がいて、その妻が、子供を宿している」
「へぇ?」
 イルバは片眉を軽く上げて興味を示した。誰の話をしているのか、察しが付いたのだろう。
 かまわず、ラルトは続けた。
「待望の子供だが、妻の体が、どうやら子供を生みにくい身体だとわかってしまった。生もうとすれば、命にかかわる」
「病か?」
「いや……。古い、薬だ。避花祥とも違う、子供を生ませないようにするための、呪薬みたいな」
「あぁ……あるな。女が浮気できないようにするために飲ませたりするやつだろう。魔術がかけられている類もありゃ、なんだか訳わからん薬草をごたごた混ぜたもんとか、あったりするな。えーっと、妊娠して初めて、飲んでたかどうか判ったりするんだろそれ。そいつを、その妻とやらは飲んでたってことか?」
「過去に、飲まされていた」
「なるほど。魔術の薬の類か?」
「どちらも。それも、複数。術のかかったものは、遅効性」
 複雑に作られた強力な薬もあるが、ティアレが飲まされていたものは魔術を施されて作られた丸薬らしかった。その薬に施された術はたとえ拙くとも、繰り返し口にすれば確実に身体を蝕む。魔を組み合わせた呪いというものは、そういうものだ。
「それで、子供を生まないほうがいいと、医者にいわれた。生めば、妻の命にかかわると」
 そのことをリョシュンの口から告げられて、絶望したのはティアレだけではない。
自分もまた。
「男は妻に堕胎を勧めた。妻に、死んでほしくはなかった。万が一、妻を失えば、狂うと男は思ったんだ」
「今は違うのか?」
「……妻が、あまりにも、子供を望むので」
 ラルトから家族を奪ったと、己を責め続けていた。
 もう、四年以上も、経つのに。
 いつしかその責めはティアレを追い詰めていた。すこしずつ、すこしずつ。
 ひっそりと、彼女の神経を削り取っていた。
子供を生めば、奪ってしまったものを、返してやれると、彼女は信じている。
 かたくなに、信じている。
 その瞳が、あまりにも、病んでいて、ラルトは驚愕に全てを覆された気がしたのだ。
「子供を、生んでもいいというべきかどうか、迷っている」
 彼女が、死ぬかもしれないのに。
 これ以上、何かを失うことは恐ろしい。ラルトは空になった杯を手に携えたまま、ぼんやりと天井を見つめて思う。生れ落ちてから今まで、得たものより失っていったもののほうが多い人生だ。人の道などその程度のものかもしれないが、それでも、手のひらから零れ落ちていったものはあまりに多かった。
 その中で、残されたもの。
 彼女がいる。その事実だけで十分すぎるほど、支えだったのに。
「その男は」
 イルバが言葉を切り出しながら、酒の瓶を掲げる。ラルトは黙って、空の杯を差し出した。
「子供がほしいと思っているのか?」
 酒を注ぎながらイルバが問う。ラルトは頷いた。
「あぁ……けれど妻を失うぐらいなら」
 いらない。
 いらないと思う。
 もしティアレと引き換えに子供が生まれたとすれば、自分はその子供を恨みそうだ。
「けれど、そうすれば妻に恨まれるんだろう」
「……どうだろうな」
 子供を堕胎しろといった自分を、ティアレは恨むのだろうか。
 ラルトは瞑目しながら、執務室で見た女の双眸に宿る暗さを思い返した。
「難しい例え話だ」
 イルバは自らの杯に酒を注ぎいれながら言った。
「だが、俺はまず、生んでほしくないと伝えるだろう」
「……何故?」
「意味を履き違えんなよ」
 ラルトの問いに、イルバは微笑んでいった。卓上に置かれた黒い杯に満たされた濁り酒は、描く波紋の中に、壮年の男の陰影を映した。
「生んでほしくないと言うことと、伝えるっつうのは似てるようで微妙に違う……と、俺は俺の女房に言われた」
「女房」
「故人だがな。……俺の女房も、あまり身体が丈夫な質じゃなくってな。けど、あいつは負けん気だけが強くて……子供ができたとき、俺とはさんざもめた。俺は生んでほしくない。あいつは生みたい。俺はこんなんだから、語調が一方的で。女房は俺に言ったよ。生むな生むなと五月蝿い。何故生んでほしくないのか、説明しろ、とな」
 イルバはふと笑い、杯を再び持ち上げた。
「俺が女房に子供を生んでほしくないのは、当然っちゃ当然、女房に死んでほしくないからだ。が、女房にしてみりゃ、何故死んでほしくないのか、説明しろという。不思議なもんだな。女っつうのは子供を孕むと、無意識に、いつの間にか、夫よりも腹の子供の命のほうが大事になってくんのな。その愛情を凌駕するほどの、愛情を説明して見せろという寸法だ。そうして初めて、生んでほしくないと伝えるっつうことになるんだと」
 そこまで言って、イルバは杯を再び呷る。
「子供は結局どうなったんだ?」
「生まれたよ。俺の根負けだ。……もっともその子供も、もういないがな」
 おそらく。
 彼は故国を失うと同時に、妻子を失ったのだろう。詳細は知らない。しかし、そんな気がラルトにはしていた。
「話を戻そう。その問題の男は、どうすればよいか、だっけか? つまるところ、妻を説得に掛かってみろっていうことだ。生んでほしくない。なぜか。生き延びてほしい。なぜか。そういう理由や諸々を全部ひっくるめて、男は妻に伝えたか?」
「……伝えた……いや」
 イルバの問いに、ラルトは首を横に振った。
「伝たわった、の、か。判らない」
 死ぬなと。
 生きているだけに意味があるのだとは。
 伝えた。
 だがその意味を、あの病み始めた女に、伝わったのかどうか。
「なら、伝わるまで説得しに掛かってみるこった。妻にも、どうしてそこまでして生みたいのか聞いてみるといい。事態は、そこからしか動かねぇよ」
 双方が腹を割って話し合った末にたどり着いた結論は、たとえそれが決裂だとしても納得のいくものだ。
 そうイルバに言われ、ラルトは頷いた。政治の世界は無論のこと、それは、人の世全てに通じる則だったからだ。
 この世界が、哀しくあるのは、碌に言葉を交わさずすれ違ったまま、決裂していく何かがままあるからだろう。そうして、失ってしまったものがラルトには数多くある。だから、これほど年月が過ぎても傷となって時折ラルトの胸を痛めるのだ。
 ティアレも、そうやって失おうとしている。
 それだけは、避けなければならない。
「ありがとう。参考になった」
 ラルトの言葉に、イルバはかまわねぇよ、と手を振った。もう片方の手には、空になった瓶が、さかさまのままある。
「悪い、俺ばっか飲んじまった」
 口の周りについた雫を舐めるようにして舌を出す男を、ラルトは笑った。もしこの場に他の官がいれば彼を無作法だと罵るだろう。だがそういう仕草を気負いもなくラルトの前でしてくれる人間は、ひどく限られていて、イルバの遠慮のなさが嬉しくなったためだった。


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