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第二章 多幸の採択者 4


 執務室にティアレが足を踏み入れることは滅多にない。かまわないとラルトは言ったが、ティアレは頑として首を縦に振らなかったのだ。国の政が行われる場所に、関係のないものがみだりに足を踏み入れてはならない、と。
 為政者の執着を受け、国を滅ぼして世界中を渡り歩いてきた女は、女が皇帝の傍に侍り続けることの意味を、よく理解していた。
 そのティアレがわざわざ執務室に足を運んでくる時は、何かしら、重要なことがあるときである。
 ティアレは見るからに痩せていた。頬は白く、血の気が失せている。白い繊手が衣類の裾を握り締め、背筋を伸ばして立っていた。解けた髪が頬に張り付いて唇は病のためか潤いを失っている。
 ただ、瞳の強さだけが鮮烈だ。
 その有様は、彼女が献上されてきたときを思い起こさせた。
 みすぼらしい裸衣[らい]一枚を身にまとい、手足に枷をはめられて、爪を赤黒く血に染めていた。
 瞳が、なによりも、あまりに美しく、心奪われた。
 あの時を。
「生ませてください」
 何の用事が、とラルトが尋ねるよりも前に、ティアレが口を開いた。
「生ませて、ください」
 懇願の、響き。
 ティアレはそれだけ繰り返して、静かに頭を下げる。
 ラルトは椅子の前で棒立ちになったまま、愛する女を見つめていた。
「何故そうもして生みたがる」
 どれほど長い時間が経ったのだろう。ほんの一瞬の時間が何時間も経たもののように感じられた。ラルトはどうにか搾り出した自らの声が、どこか遠い場所から響いてくるもののように感じた。
 胸中で、繰り返す。
 何故、そうまでもして、生みたがる。
 まだ、腹に宿ってまもない命が惜しいのは確かだ。初めて宿った彼女と自分の間に生まれた命。それを惜しく思わないはずがない。
 だが、ラルトにはそれ以上に、失いたくないものがあった。
「死ぬかもしれないんだぞ」
 ティアレを、失いたくない。
 自分のわがままひとつで留め置いた女。この国を背負わせてしまった。呪われているというその一点において唯一のラルトの理解者。
「死ぬかも、しれないんだぞ――……!!!」
 この四年間は、彼女がいてこそのものだった。政治ばかりで荒みがちな日々を、癒してくれたのは他でもない彼女だ。正妃として、立后するまでの一年間は単純に恋人として。立后してからは、表と裏両方の面でラルトを支え続けた。疲れたとき、奥の離宮に戻ればそこには彼女がいて、彼女の笑顔があって、口論することもあったが、そんなことですら幸せの一端でしかない。
 その、彼女が、死ぬ。
 暗殺者に殺されるかもしれないという可能性よりも、彼女の身体的理由で死ぬかもしれないという可能性のほうがよほど現実的だ。そこには、回避できる可能性が存在しないからだ。子供を生めば、高い確実で死に至るでしょう。リョシュンの言葉を聞いた瞬間、まだ見ぬ命よりも、幸せを積み重ねてきた命をラルトは迷わず選んだのだ。
「それでも私はこの子を生みたい」
「何故だ!?」
 ティアレは微笑んだ。口論していることを忘れるような、暖かい微笑だ。ラルトは一瞬呆気に取られて、女を見返した。彼女は面を再び上げ、窓の外を見つめた。
「ねぇラルト。私は貴方の立場をどうあっても理解することはできません。私は后として皇族入りしましたが、生まれながらにして背負うものの重さを、どうあっても理解することができない」
「理解できなくてもいい。傍にいることが重要なんだ」
「いいえ」
 ティアレは首を横に振った。
「いいえ、ラルト。それではやはり十分ではない。玉座に座ることの孤独を、血塗られた玉座の業を、理解する人が一人もいない。私では十分ではない。現に貴方は、たった一人で背負い込んで、そんなにも憔悴しているではないですか」
 違うといいたい。
 自分ひとりでもかまわないのだと。大丈夫だと。
 それでもティアレの言葉の意味も、ラルトは正しく理解していた。政治の世界に踏み込めない女は、確かにラルトをありとあらゆる面で支え続けるには不十分だ。
 だが。
「俺はお前に全てを支えていてほしいとは望んでいない」
 政治の世界においてまで、支えであってほしいとは望んでいない。それは、ラルトのわがままひとつでこの世界に引きずり込んだ女にとって、ひどく酷なことに思えるからだ。
「言っただろう? お前が、俺の傍で、生きていることが重要なんだよ」
 皆、いなくなった。
 誰も彼も、ラルトを置き去りにして、いなくなった。
 それを恨んでいるわけではない。ラルトを愛しながら狂って自らの命を投げた女も、彼女の手にかかって殺された男たちも、そして、迷いながらラルトを欺き続けるしかなく、最終的には袂を分かった親友も。
 恨んでなどはいない。
 それは、手元に、たった一人残されているが故だ。
 ティアレは薄く笑った。
「私も死ぬつもりはありません。誰が貴方を置いて逝こうなどと」
「なら何故」
「それでも私が生んだ子は、貴方にとって家族となり、貴方の立場を理解するものとなり、貴方の孤独を癒すでしょう」
 ラルト、と、女は名を呼んだ。
 その声音は優しく、甘いものであったが、どこか悲痛なものを滲ませている。
 ラルトは愕然とした。
 その呼び声で、ティアレの心が、擦り切れ始めていると知ったからだった。
 どうして、どうして。どうして傍にいられないの、ラルト。
 ラルトの見る世界に一瞥もくれずに、ただ愛だけを求め、それが満たされぬことに心をすりきらしていったかつての后、レイヤーナ。
 彼女とはまた別の方向で、ティアレもまた、心を磨耗させ始めていると、知ったからだった。
 聡明で、謙虚で、気高い女は、ラルトを真に愛し、そして、ラルトの孤独を癒せないことに、絶望しているのだと、知った。
「ラルト、私は貴方に沢山のものをもらった。どれだけ、それが幸せであったか」
「俺だって沢山のものをもらったさ、ティアレ。お前がいて初めて俺は、幸福の意味を知った」
 手をとるものがいて、幸福だった。
 政治の世界から離れて、笑い転げることの優しさ。家族がいることの意味合い。愛し合うもの同士で裏切り合い、殺し合いを続けてきた親族を見てきたラルトにとってみれば、ティアレの存在は救いだった。
 ただ、自分を愛してくれる。掛け値なしに、愛してくれる。そんな久しく忘れていた愛情を思い起こさせてくれるティアレの存在は、救いだった。
 呪われている。その意味の重たさと業を理解してくれている女がいることが、どれほど。
「いいえ」
 救いだった。そのラルトの想いを、女は首を横に振って否定する。
「私は貴方からたくさんのものを奪った」
「ジンのことならいうな」
 ティアレがラルトの幼馴染について己を責め続けていたことは知っている。彼女は常に、思いつめていた。
 彼女の存在が、ラルトから幼馴染を奪ったのだと。
「何度も言っただろう。罪を犯したのはあいつだ。お前じゃない。お前と俺が出会わずとも、いつか暴かれた罪だっただろう」
「それでも、暴いたのは私です。これからあの人が貴方に必要になるという時期に、あの人の罪を暴き、追いやったのは私です」
「ティアレ」
「ラルト。どうか私に、今まで与えられたものを埋めるだけの何かを作らせてください。愚かだと思ってくれてもかまわない。死ぬつもりはありませんが、死ぬ可能性があるかもしれないことは重々承知です。それでも、私はこの子を生みたい。生ませて。貴方の、家族を作らせて」
 ティアレの双眸は爛と輝き、張り付いた笑みは強張っていた。ラルトは戦慄していた。それは何時だったか見た、病んだかつての后の笑みと同じだったからだ。
 どうしてなの、ラルト――……。
 あの頃レイヤーナはラルトの腕に爪を立て、狂った笑いを浮かべては腕の中で泣き崩れた。ティアレはそういった醜態を見せているわけではない。ただ、背筋を伸ばし、ラルトと対峙しているだけだ。
 だがその今にも泣き出さんばかりに潤んだ瞳、強張った口元、病んだ、白い顔に、ラルトはどうしても既視感を覚えずにはいられなかった。
 ティアレは懇願する。
「お願い――……」
 ティアレは今まで、ラルトについて愚痴を漏らすことは皆無といってよかった。ラルトの背負うものをよく理解していた――理解、しすぎていた。
 誰が彼女をここまで追い詰めたのだろう。どうして自分は、安堵していたのだろう。いつだって離宮に戻れば穏やかに微笑み、ラルトを迎えていたティアレ。そのことに、安堵するべきでは、なかったのだ。
 甘えるべきではなかった。この女を、甘やかさなければならなかったのだ。
 誰をも戦慄させるほどの美貌を持ち合わせ、聡明すぎ、それゆえに虐げられ続けてきた女は、自らを甘やかすことを得手としなかった。シノがいつも言っていたではないか。もっと、ティアレのことを考えてやってくれ、と。
 ジンを奪ったことを、それほどまでに思いつめるほど、ラルトは彼女に、孤独を見せていたのだろうか。
 それほどまでに、罪の意識を、覚えさせて、いたのだろうか。
「ティアレ」
 この女を、失うことが恐ろしい。何よりも。
 それゆえに、死ぬ可能性が高い出産に、臨んでほしいとは思わない。
 だが――……。
 ティアレの懇願に、判ったとも言えず、だめだと拒絶することも出来ず、ラルトはただ、その場に立ち尽くすしかなかった。


 シノは本殿の回廊を、急かされるように歩いていた。腹部にはまだ治りきらない傷による鈍痛がある。無意識にその部分に手を添えてしまうのは致し方ない。それでも背筋を伸ばし、他者に負傷していると気取られないよう細心の注意を払って、シノは歩いていた。
 向かう先はシノの執務室だ。女官長という位にある手前、シノにも一室が与えられている。その部屋に足を運んでいる理由は、明日から仕事を再開することとなり、その準備を、整えるためだった。
 今日一日は、女官たちや大臣たちへの挨拶で終わってしまった。急に穴を開けたのだから、当然ではある。公式には病欠ということになっていたらしく、一月ほどの長い時間穴を空けたシノに、大抵のものはいたわりの声をかけて、帰るべき場所に帰ってきたと、安堵したものだ。
 もう少し、と角を曲がったシノはふと、目の前に差した影に驚いて足を止めた。
「あ」
「おう」
 廊下の角で、シノと同じように足を止めていた男は、シノの姿に笑みを見せ、軽く手を上げる。シノは微笑み返して、彼の名前を呼んだ。
「イルバさん」
「シノ」
 彼は笑んでシノに応じる。シノは視線をめぐらせ、彼と少し距離を置いた場所にいる兵に、軽く手を振った。自分がいるから大丈夫だという合図。僅かの間、彼は席を外してくれるだろう。
 二人きりになったことを確認したイルバが、シノに向き直って小首を傾げた。
「こんなところでうろついてて、大丈夫なのかよ?」
 彼が案じているのは怪我のことだ。シノは頷いた。
「えぇ。イルバさんは……?」
 昨日の朝別れてから今まで、イルバのことを放りっぱなしだったとシノは思い出した。自分が彼をこの城に引っ張ってきたというのに、なんと失敬なことだろう。
 しかし、シノの胸中を知ってか知らずか、イルバは軽く肩をすくめてみせた。
「まぁ悪くはねぇ扱いだ。飯も旨いしよ」
「退屈ではありませんか?」
「この国の図書館凄いのな。俺は驚いたぜ? 読んだこともねぇ本が結構ある。こいつらがありゃ、当分は退屈しねぇだろうさ」
 そういって、イルバは手に持っていた本数冊を掲げてみせる。大きな手に挟まれていたのは、かなり厚みのある書物三冊。シノならば確実に、一冊読むだけで一日はかかろうという代物だ。
 嬉々としているところをみると、退屈はしていないらしい。彼を放置していた罪悪感を抱きながら、シノは安堵の吐息を漏らした。
「なら、よかったですわ」
「今日は左僕射の位に就いてる男とか、医学生のお嬢ちゃんとか色々来てな」
「カンウ様とヒノトですか?」
「あぁ。なかなかいい組み合わせだな、ありゃ。お嬢ちゃんがちと不憫だが」
 どうやら今日したという会話で、あの二人の微妙な関係を看破してしまったらしい。シノは思わず天井を仰ぎ見た。初対面の人間がみるだけでわかってしまうぐらいヒノトの想いは露骨なのだから、そろそろ理解してやってほしいとシノも常々思っている。何より、ヒノトが不憫すぎだ。
 イルバはくつくつと、面白そうに喉を震わせていた。
「昨日は皇帝にもあったし、いい人材が揃ってる。シノ、お前が心酔するのも、わかる気がした」
「そうですか」
 シノは知らなかったのだが、イルバは政治の筋ではかなり有名な人間であったらしい。イルバ・ルスという名前だけで、ラルトが驚愕していたのだから、相当なのだろう。
 そのイルバから、いい人材が揃っているといわれることは、シノの口元を思わず緩ませた。
「けど、人遣いが荒い」
 急に機嫌を崩して、イルバが呻いた。
「人遣いですか?」
「そうだ。早速問答無用で、皇帝の話し相手とか仕事押し付けられたぜ? 都合のいい人材は有効活用とかっつてなんなんだその方針は。明日っから定期的に、話しにいく。まぁいいけどもよ。面白い話できそうだからよ」
「はぁ……なんだか貴方もよく判らないことになっていらっしゃいますねぇ」
 皇帝の話し相手という仕事をイルバに押し付けたのは、十中八九、エイだろう。ティアレがあれでは、ラルトもまた情緒が少し不安定に違いない。かといってティアレの元に足を運ぶこともできないだろう。今の事情では。
 エイの思惑が判らないわけでもない。イルバはラルトの話し相手には適任といえた。大臣たちの様々な思惑からはずれているし、見識が深い。なにより、ラルト自身がイルバに興味を持っているようにも思えたからだ。ティアレとすれ違い、その上内政で頭を痛めているラルトにとって、イルバの存在は、いい気晴らしになるだろう。
「お前はどうするんだ?」
「はい? 何がですか?」
 唐突に振られた質問に、シノは首をかしげた。どうするのだ、といわれても。これからはまた女官の仕事に戻るだけだ。そう胸中で呻いたシノは、続くイルバの問いで、彼の言葉の意味を勘違っていたことを知った。
「どれぐらい休める?」
 彼は、傷を案じているのだ。
 どう答えるべきか、と逡巡する。正直に答えれば、迫力のある声で怒鳴りつけてきそうだ。
 だが結局シノは、正直に答えることにした。隠し立てしても仕方ないことだ。
「実は……明日から、また仕事に戻ろうかと思っておりますの」
 一瞬、シノの回答に目を瞬かせたイルバが、脱力する。数拍置いて、彼は案の定、盛大に声を上げた。
「…………はぁ!? 馬鹿かお前、病み上がりだっつぅことをいい加減理解しやがれ!!」
「そんなに大きな声を出さないでくださいませ」
 おそらく席を外した彼の護衛の兵が軽く人払いをしてくれてはいると思うが、それでも誰かに聞き咎められたらどうするつもりだ。シノは嘆息して、彼を睨め付けた。
「おたくの陛下は、そんなに人遣い荒いのか?」
「違います。もちろん陛下はお休みを取るように、私にお言葉をくださいました」
 きちんと、最低でも七日は休みをとるように。
 忘れるなと、ラルトはシノに厳命した。シノももとより、そのつもりだった。無理を押してここまで来た。彼らに無事を伝え、また彼らの無事を確認することができた。それだけで、今は十分だと思ったのだ。無理に身体を痛めつけて、病に伏すようなことがあってはならないと、シノは思っている。
 しかし、ティアレと再会し、言葉を交わして気が変わった。
 彼女から、離れてはならない。
 そう思ったのだ。
「安心してくださいませ、イルバさん。もとより全ての仕事に復帰するつもりはありません。ティアレ様……妃殿下のお世話に、当分の間は従事させていただくことになるかと」
「それだけでも大変な仕事であることにゃぁ変わりねぇだろうがよ」
「いいえ。そんなことはありませんよ」
 納得のいかないらしいイルバを安堵させる意味合いを持って、シノは微笑んだ。
「あの方は、ほとんどのことをご自分でおやりになられてしまいます。私に出来ることといえば、着替えの際の僅かな手伝いと、お茶を淹れて差し上げることぐらいでしょう」
「それだったらなおさら休ませてもらえりゃいいじゃねぇか」
 イルバが、渋面になりながら反論してくる。確かに彼の言う通りかもしれない。彼女の傍にいても、女官らしい仕事はほとんどない。ティアレが全て仕事を奪ってしまうからだ。休みたいといえば、ティアレはシノに存分に休暇を与えるだろう。現に昨日も、そのようなことを口にしていた。
 しかし、休むわけにはいかない。
 否。
 彼女の傍を、離れるわけには、いかない。
「妃殿下は、今、体調が優れないようなのです」
 どこまでこの男に話してもよいのか。シノは慎重に言葉を選びながら言った。
「体調が?」
 ティアレの体調が優れないのは、どの官も知るところだ。ここまでならば、話してもかまわないだろうと見切りをつけて、シノは続ける。
「傍にいるものがいなければ、さぞや不安だと思われますので。妃殿下のお世話をさせていただいている女官はもちろん他にもいますが、四六時中、というわけにも参りません。仕事に戻ると申しましたが、正確に言えば、休暇を妃殿下のお傍に侍ることに使いたいと、そういっているだけですよ。休暇をどのように使おうと、それは当人の自由でしょう?」
「……そうか」
 まだどこか釈然としないものを覚えているのだろう。だが、イルバはこれ以上追求してくることはなかった。
 彼は肩をすくめて、口先を歪める。
「だが気ぃつけろよ。お前だって怪我人なんだ。腹何針縫ったと思ってやがる。しかもまだ日にちも経ってねぇ。抜糸だってまだなんだぜ?」
「そういう生々しい話を、廊下でしないでいただけます?」
 無理を押して動いていることは、当人であるシノが一番理解している。あえて傷の具合がどういうものであるか、忘れようとしているというのに。
「一応秘密にしておいてくださいませ」
「よくよく言い含めねぇと、お前言うこときかねぇみたいだからよ」
「他人の諫言に対する聞く耳は持っているつもりですよ」
「どうだか」
「大体イルバさんだって、骨を痛めていらっしゃるではありませんか。人のことを言えるとお思いで?」
「俺とお前じゃ丈夫さがちげぇよ。しかも俺はこれからのんびりと客人生活だ。傷なんざすぐ治る」
 きけよ、とイルバは手を振った。
「昼寝か図書館通いか話し相手のどれかだ。どれも身体を酷使するもんでもねぇし、ゆっくりと養生させてもらう。だから、俺のことはいいんだよ」
「……私も、無理な真似をするつもりは毛頭ございません」
 したくとも、出来ぬだろう。
 この、傷では。
「なら、いいけどよ」
 イルバは口元を曲げ、シノの頭を、ぽんぽんと手のひらで軽く叩いた。それは親が子供にするような、思いやりの篭ったやり方だった。そんな風に頭を叩かれるなど久しくなかったことだ。シノは思わず笑ってしまった。
「イルバさんにも、医者を手配いたしますね」
「わりぃな。ありがとよ。……俺は暇人だし、時々は顔だせよ。たいてい、図書館かもらった部屋かのどちらかだからよ。本当は俺が訪ねてぇぐれぇだが、色々と制約があってよ」
「それはかまいませんが、探し人がいるとかどうとかおっしゃられていませんでした?」
 イルバがはるばるこの大陸までやってきた理由は、確かにシノを送り届ける意味合いもあった。が、それと同時に、彼は人を探してこの大陸の土を踏んだのだ。
 不肖の弟子を探しているのだと、彼は船の中で零していた。
「オウサマが探してくれるってよ」
「陛下が?」
「あいつがやってるだろうことは、この国にとってもあんま有益なことじゃねぇっつうこった。利害一致で探してくれる。その間、俺は動かねぇでくれっていうことだ。ただし、色々お膳立てはしてくれるらしい。願ったり叶ったりだ」
「それは……よかったですわね」
 ラルトたちまでがこの国に対する害と判断して探すとは、かなりの大事である。一体、何をしようとしているのか。
 だが、それは女官であるシノの耳に入るまでには、時間を置かなければならないだろう。
 ふと、遠くで鐘がなり、シノは随分と長い間この場所で立ち話をしていたことに気がついた。ティアレがラルトの執務室から戻る前に、離宮に戻っているつもりであったというのに。
「それでは、また時間ができましたら、お邪魔させていただきます」
 慌ててシノは周囲を見回した。誰も、この会話を聞いていなければよいが。怪我のこともそうであるし、新しい客人とシノが懇意であることを、周囲に知られてしまうことはあまりよいことではない。それでなくとも、宮城の中で噂のめぐりは早いのだ。
 イルバも、さすが元宮廷人というべきか、シノの心中を察したのだろう。シノにこれ以上食い下がろうとはしなかった。護衛の兵が、戻ってきたこともある。彼はイルバとシノの会話が終わるのを待つために、少し離れて控えていた。
 イルバが笑ってシノの言葉に応じる。
「なんならこの国の、旨い酒でも持ってきてくれ」
 シノは呆れて呻く。
「そういうことでしたら、陛下にでもねだってくださいませ」
 もっとも、そんな度胸が在ればの話だが。


 ティアレは回廊の壁に背を預けながら、木目美しい天井を見上げていた。
 ラルトの執務室からの帰りだ。なぜ、その道を通ろうと思ったのかはわからない。供の女官に懇願して一人にしてもらい、気分を落ち着けるために少し庭を散策して、そして回廊に出た。
 人通りのない回廊を、奥の離宮に向かって進み始めた矢先だ。声量を落とした、男女の会話が聞こえたのは。
 女の声は、ティアレもよく知る声だった。ティアレにもっとも近しい女官、この国の女官長の声。彼女はティアレも見知らぬ男と言葉を交わしていた。きれぎれに聞こえてくる会話の内容からすると、男はこの国の客人らしい。なぜその男とシノがひどく懇意であるのかは、わからないが――。
 問題は、ティアレの耳に届いた、ひとつの事実だった。
(怪我)
 口元を押さえ、胸中でティアレは呻く。
(シノは、怪我を……)
 抜糸すら、まだ、という言葉が聞こえた。ということは、縫うほどの怪我だということだ。
 それが、シノが行方知れずになっている間に負った傷であることは間違いない。彼女は何事かに巻き込まれたが、無事、帰ってきた。一見、何事もなかったように。
 だがやはり、無傷である、などということはなかったのだ。シノは、本当に、単なる休暇明けのようにしてティアレに接したけれども、事情を知っているらしい男がひどく心配するほどに、深い傷を負っているのだ。
 その上で、ティアレの傍に、在ろうとしている。
(私が、不安定だから)
 腹に子を宿し、堕胎を勧められている。ティアレに架された責任を鑑みれば、当然堕胎すべき小さな命。けれど、その責任を放棄してでも、ティアレ自身は生みたいと願っている。
 ティアレは、傍目からみても不安定なのだろう。その上、つわりがひどく体調が優れない。いまこうして立っているだけでも、軽度の貧血を覚えるほどだ。
 ティアレの供をしていた女官のことを思えば、すぐにこの場を立ち去り、離宮に戻るべきだった。
 けれど、動けなかった。
 足が床に張り付いて、動けなかった。
 ただ、自分が情けなくて。
 情けなくて。
 子供を生みたい。
 そうして、ラルトに家族を作ってあげたい。
 それは、ティアレのわがままだった。
 ティアレが、生まれて初めて強く感じた、たった一つのわがままだ。
 けれど、それはラルトを苦しめて、親しい女官に、無理を強いて――……。
 先ほど、執務室で見つめ返した、愛する男の凍りついたような瞳を思い出す。
 ティアレは、一人で嗚咽を漏らした。
 どうすればいいのか、判らなかった。


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