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第三章 決別 2


 リョシュンについて、ティアレの検診に行く。離宮の一室で眠るティアレは、恐ろしく蒼ざめた顔をしていた。瞳はどこか虚ろで、精気がない。あまりの様相に、御殿医の長も驚いたらしい。リョシュンに言われて、ヒノトはティアレにしばらく付くように言われた。
「ティアレ、粥は食べいよ。子を産みたいのなら、体力はしっかり養わなければならぬ」
 ヒノトは女官から引き取った少し遅い夕食の並んだ盆を、ティアレの寝台の傍らにある卓に置いて言った。今日の夕食は青菜の入った粥と、杏仁豆腐というひどく味気ないものばかりだ。それでも、ティアレは最近食が進まない。彼女の血管の透けた肌はぞっとするほど美しく、そして蜻蛉のように儚げだった。
「ヒノトは、私に子を産むなとはいわないのですね」
 ティアレが小首をかしげて尋ねてくる。自分の分の夕食――こちらはごく普通の、肉野菜穀物そろったものである――に箸をつけ、平らげていたヒノトは、面を上げて肩をすくめた。
「だって、ティアレは生みたいのじゃろう?」
 子を宿したと知ったとき、滅多に感情を動かさぬ女が、涙をこぼして歓喜していた。よかった、ほしかったのだと、これでラルトに、家族を作ってやれると。
 愛する男との間に、愛情の結晶が作られた。その事実を知って喜ばぬ女はいない。ヒノトとて、女だ。その喜びは想像するだけで、胸苦しくなる。
 しかもヒノトはティアレの歓喜をその目で見ていた。それで、どうして、ティアレに堕胎を、といえるだろうか。
 ヒノトの返答に、ティアレは自嘲の笑みを、うっすらと浮かべた。
「……わからなくなりました」
「子供を、生みたいかどうか?」
「……えぇ」
 ティアレは目に見えて憔悴している。いままで愚痴ひとつ零さず、わがままひとつ通さず、責務を全うし続けた皇妃。少なくとも、この二年半の月日の間に、ヒノトはティアレが愚痴を零す姿を見たことがない。
 執務に忙殺されるラルトを送り出し、彼が疲れを癒せる空間を用意し、時に貴族たちを相手して、彼女らの陰口をやり過ごし。
 その彼女が、たった一つ望んだことは、あまりにもささやかなのに。
「堕胎したほうが、いいのでしょうね」
 ヒノトは立ち上がり、ティアレの寝台に腰を下ろした。彼女の、力ない手を取り上げる。いつもは柔らかなその手は、凍りついたように冷えていた。
「ティアレ」
 ティアレはヒノトのほうを向いて微笑んだが、その瞳はあまりにも悲しみに沈んでいた。
 子供を下ろせと、周囲から言われていることもそうだし、それを通じてラルトとすれ違っていることも、大いに彼女の心を痛めつけているに違いなかった。
「私は、ラルトの為に何をしてあげられるのでしょう」
「ティアレはラルトの為にたくさんのことをしておるよ」
 ティアレが生きている。ラルトとともに、生きている。
 そのことが一番重要なのだと、エイが言い続けている。
「こんなに迷惑をかけ続けている」
「そんなことはない。ティアレは、立派に皇妃としての仕事も、果たしているではないか」
 人として物言いが多く、医者として、半人前である自分よりも、はるかに。
 ティアレは輝かしく、そして立派だ。
「ティアレ」
 ヒノトは、ティアレの手を強く握り締めた。どこか、遠くに飛びがちである彼女の意識を、引き止めるつもりで。
「ティアレ、生みたいと思うのなら、それを貫けばよい。ティアレが生みたいと望んだ時に、周囲がどうあろうと、無事、おんしも子も、生きられる治療の方法を見つけ出す。それが妾の役割じゃ」
「ヒノト」
「おんしは、妊娠のせいで、情緒が不安定になっておるだけじゃよ。妊娠中は、情緒が安定しにくいのじゃ」
 自分の口から無意識に滑りでた説明で、ヒノトはなぜ彼女がここまで不安定なのか納得した。そう、妊婦は人によっては情緒が不安定になりやすい。つわりもひどいティアレだ。おそらく影響が精神の波まで及んでいるのだろう。
「気をしっかりもって、ものを食べて、体力をつける。健康な者も、まずそこから始めなければ、子供なぞ無事にうまれてこんのじゃから、無事生みたいと思うのなら、なおさらティアレはきちんと食べてゆかねばな」
「……そうですね」
 ティアレは微笑み、ようやっと、粥に匙をいれた。黙って食事をとる彼女をみながら、ヒノトは、ラルトは一体、何をしているのだろうと思った。
 こんなにも憔悴している女の手を。
 ヒノトではなく、本当は彼が、取るべきだろうに。
 ティアレの手を強く握り締めながら、ヒノトは目を閉じた。
 このままでは、ティアレは本当に、参ってしまう。
 ヒノトは今日の午後に閃いた考えを思い返した。準備だけは整えたものの、結局すべきかどうか迷っている。成功するかどうかわからない。ティアレを危険な目にあわせるかもしれない。そしてヒノトは、エイの信頼を裏切るだろう。
 準備をして、結局迷ったままだった。実行するかどうか、決断するにはあまりにも早急だと思ったのだ。ラルトにきちんと相談して、彼に段取りを整えてもらったほうが確実なのかとも思った。
 けれど。
 ラルトは今日も来ない。
 こんなに、ティアレは憔悴しているのに。
 奥の離宮は静まり返っていた。ティアレがよく休めるようにとの配慮だろう。傍の部屋に女官長が控えていることをヒノトは知っている。誰もが、ティアレの身を案じている。
 けれど誰も、ティアレの願いを知って、そのために努力しようとはしていない。
「心配ばかり、かけて」
 ふと、ティアレが口を開いた。彼女の粥の皿は、まだ半分ほど残っていたが、ティアレはもう残りを口にしようとはしていなかった。
「私は、心配ばかり、かけて」
 消えてしまいたい、と、彼女が口にする。
 どうすればいいのだろう。
 この場所にいては、ティアレが駄目になる。それをヒノトは痛切に感じ、そして彼女をこの場所から解き放つことこそが、彼女の心身を案じる、医者――たとえ見習いだとしても――の本分であるような気が、ヒノトにはしていた。けれど、それを実行して、果たして、ティアレの為になるのか。
 ヒノトは、瞼を伏せて胸中で繰り返した。
 どうすれば、よいのだろう……。


 皇帝と別れたイルバは、そのまま酔い覚ましのために散歩にでることにした。護衛兼見張りの兵士が、イルバに黙ってついてくる。慣れれば彼を鬱陶しいと思うこともなくなった。むしろ、助かっている。彼らは踏み入ってはならぬ場所を前もって忠告してくれるからだった。
 出てもいい中庭は、と尋ねると、護衛の兵士は本殿の一角の庭先に案内してくれた。小川が流れ、朱塗りの橋が架かっている。イルバにしてみれば変わった様式だが、形を整えられ歴史を感じさせる趣は、美しいと思いこそすれ、奇異に思うことはなかった。これが、東大陸の様式なのだろう。
 その庭をのんびりと散策しながら、イルバは先ほどまで共にいた、この国の皇帝を思い返した。
 短い面談だった。これからまた政務に戻るのだという。大国の皇帝は執務に忙殺されて、碌々休みをとることすらできぬらしい。それとも、ただ単に、彼は政務のなかに逃げているだけだろうか。
 話を聞いてやってくれないかとイルバに縋らなければならなかった左僕射の心中がわかったような気がした。皇帝は、心中のはけ口がないのだ。玉座に腰を下ろすものは孤独になりやすい。誰も、彼の名前を呼ばないから。かつてイルバが仕えていた、バヌアの王ワジールもそうだった。ワジールをワジールと呼んでいたのは、おそらくイルバだけであっただろう。
 イルバは、この国の官に縛られない。いずれはこの国から出て行くだろう人間だ。高い身分にも全く興味がない。財産、名誉にもだ。
 確かに、皇帝の話し相手には、イルバは適任といえた。皇帝は、利害が絡まぬ相手にしか、愚痴を漏らせないと、イルバは知っている。
 そして、何故シノが怪我の身を押して皇妃に付き添いたいといったのか、判った気がした。この国の皇妃は、懐妊しているのだ。そして皇帝が例え話を持ち出したところをみると、どうやら内々にすら公表されていない。なるほど、それならば確かに心配だろう。皇妃の身と精神、どちらを案じても、人が傍にいるにこしたことはない。
 つらつらと歩くうちに、随分と奥まで来たようだった。身体も温まり、イルバは衣の襟元をくつろげた。足が疲労を訴えている。周囲を見回したイルバは、休憩場所を、庭の一角に佇む東屋に求めた。
 その矢先。
 イルバは、東屋の中に、見知った顔を見つけた。
「あれ?」
「あんたは確か」
 東屋で一足先に休憩を取っていたのは、銀髪に小麦色の肌をした少女だった。
「えーっと、イルバ、といったか?」
 瞳の色は夜の闇の中にあってさえ鮮やかな緑。背丈はイルバの半分ほどしかないが、しなやかに伸びた手足を持っている。図書館で一度だけあった少女。名前はたしか。
「ヒノト、だったか」
 そう、ヒノトだ。イルバは思い出した。図書館の中で、左僕射の青年が紹介した医師見習いの少女だ。
「奇遇だな。嬢ちゃん、こんな時間に散歩か?」
 イルバはヒノトの腰掛けている長椅子に腰を落としながら、彼女に尋ねた。少女は小さく笑みを返して頷く。
「眠れんかったのでな」
 暖かいと形容するには程遠い初春の夜風が、少女の髪を揺らす。その横顔は、先だって見た子供のような振る舞いに反して、ひどく大人びて見えた。
「イルバは、何故にこんなところへ? 散歩するような刻限か?」
「その質問、そのままそっくり嬢ちゃんに返すぜ。若い女が一人で散歩するような時刻じゃねぇな」
「眠れんかったというておろう」
 そうやって、頬を膨らませる様はやはり子供のようだ。イルバは笑った。
「俺は、酔い覚ましだ。ちょっと酒を飲んでな」
「いいご身分じゃのう」
「そうだ。客人だからな」
 ヒノトは羨ましいと笑って、即座その明るさを消してしまった。イルバは少女の頭のつむじを眺めながら、小首をかしげた。
「悩み事か?」
「まぁ、いろいろとな」
「あの左僕射の兄さんと喧嘩でもしたのか」
「喧嘩なんぞしょっちゅうじゃ」
「仲良しだな」
「どこが」
 少女は、盛大に嘆息してみせた。どうやら、少女の悩み事は別件のようだ。今日はよく悩んでいる若人にあうなと、イルバは東屋の天井を仰ぎ見て、こっそりと嘆息を零した。
「イルバは、何ゆえこの国に? どこかの国の使者なのか?」
 会話の口火を切ったのはヒノトのほうだった。
「いや、使者とかそんなんじゃねぇな……」
 客人だ、といいかけて、一体どこまでこの少女に話していいものか考える。イルバが宮城に招かれている理由を、警護の兵士ですら知らぬようだからだ。イルバに付き添っている彼を探せば、彼は東屋から少しはなれたところで、直立不動のまま控えていた。
「じゃが、どっかの国の、宮勤めの人間ではないのか?」
「あん? なんでそう思うんだ?」
 イルバは確かに与えられたこの国の衣服を身につけてはいるが、身づくろいの仕方はいいほうとはいえない。切りそろえられていない赤茶の髪は、この国の官たちのようにきちんと目的あって伸ばされたものではなく、髭もきちんとそってはいない。宮仕えというには、あまりにも身なりに無頓着だ。
「エイと会話する人間は、大抵、政治に造詣ある人間じゃよ」
「学者かもしれねぇ」
 記憶喪失のシノに職を問われたとき、自分は教師と答えた。シノはそれで納得していた。
「学者? いや?学者ではないじゃろうおんし」
「……どうしてそう思うんだ?」
「学者というのは、妾の師のようなくそジジイをいうのじゃ」
「俺はクソジジイじゃないっつうことか?」
「見た目は。本当のところはどうなのじゃ?」
 あたりだ。
 元は宮仕えで、政に関わっていたと答えると、少女は嬉しそうに破顔した。
「あたった!」
 見るからに愛らしい笑顔を浮かべる少女だ。
 その笑顔に、今は亡き娘の姿が重なった。娘が死んだ年齢も、丁度この娘ぐらいの年だった。
「そのイルバは、今は何をしておるのじゃ?」
「この宮城で?」
「そうじゃ」
 イルバは眉をひそめて思案した。だが特には思いつかなかった。
「……本読んだり昼寝したり散歩したり」
 いいご身分だといわんばかりの少女の視線が突き刺さる。
「それから、愚痴を聞いたりだな」
 そんなヒノトの眼差しに耐え切れなくなって、苦笑しながらイルバは付け加えた。誰の愚痴、とは言わないが。
「愚痴?」
 ヒノトが鸚鵡返しに聞き返す。
「相談、ともいうな。俺が相談相手に適切なのかどうかは、ともかくとして」
 ふぅん、と頷き、彼女は誰の愚痴なのか、ということは訊かなかった。ただ、腕を組み、長い足をぷらぷらと揺らしたあと、彼女はイルバを見上げて請うてきた。
「ならば妾の相談にも、のってくれぬか」
 イルバは驚きに瞬いた。
「相談?」
「そうじゃ。別に、聞いてくれるだけでもよい」
「エイはどうした?」
「相談できん」
 ヒノトはきっぱりと断言して、口元をつぐんだ。喧嘩したのか、そうではなく、単純に彼に相談できぬようなことなのか。
 後者だとすれば色恋事かと、昼の図書館での微笑ましいやり取りを思い出しながら、イルバは尋ねた。
「一体、どんなことだ? 俺が相談に乗れるといっても、たかが知れてるぜ」
「難しいことではない」
 ヒノトは言った。
「ただ、少し迷っていてな」
「迷ってる」
 うむ、とヒノトは頷いた。前を見つめる緑の瞳は、確かに不安げな色に揺らいでいる。イルバは幼い横顔を見つめながら、少女の言葉を待った。
「妾の知り合いに、一人、子供ができた婦人がおるのじゃが」
 それが誰の話であるのか、明確な名前を明かすことはなかった。
 しかし皇帝の「例え話」を聞いていたイルバには、彼女の知り合いが皇妃であるとすぐに判った。
「病を得ていてな。子供を生めば、命にかかわる確率のほうが高い。よって周囲に、その夫にすら、子を作ることを反対されておる」
「あぁ」
「じゃが、妾は婦人が、どれほどそのお子を望んでいたのか、知っておる。……泣いて、喜んでおった」
「そうか」
 少女の瞳には痛切な色がある。この少女と皇妃の関係を知らないが、何せ彼女の後見人は左僕射という実質二番目か三番目に政治的権力を持つ人間なのだ。近しい、友人関係にあるのだろうとイルバは推測した。ヒノトの言う通り、皇妃は彼女の前で泣いて喜んだに違いない。そして――堕胎を勧められた。
「そのせいで、婦人は少し不安定になっておってな」
 ヒノトは続ける。
「それでも、皆はきっぱりと、婦人に堕胎を勧めるのじゃ。誰も、健康な子供を生めるように、努力しようとはいわぬ。……最高の医の術を身につけておる、妾の師ですら」
「それだけ、子供を生むことが危ういっつうことなんじゃねぇのか?」
 医学のことはイルバにはよく判らない。だが皇帝の言葉から推察するに、皇妃が口にしていただろうという呪薬はひどく禍々しいものだということが感じられた。世界には、そういうものが多々ある。イルバはそれを知っている。
「じゃが、努力だけは、してもいいはずじゃ」
 ヒノトはきっぱりといった。
「この世界には、治らぬという病がある。治せぬという傷がある。じゃが、それを諦めず、少しでも治らぬ病を減らし、治せぬ傷を治せるものにする――それが、医者の本分。そして、出来ぬことを出来ぬといって諦めず、幸せのあるほうへ努力していくことが、人の生き方では、ないのか?」
 彼女の言葉は正論だ。
 なによりもこの国がそのあり方を示している。誰もが絶望し、誰もが呪いながら二つ名を[おくりな]のように囁いた――裏切りの帝国。
 今は訪れた民、誰もが信じられぬという顔をして、この国の復興を口にする。それを成し遂げたのは、不可能を可能にするために皇帝とその部下たちが積み重ねてきた執念深い努力だ。
 だがその皇帝たちが、誰もが努力の前に匙を投げて皇妃に勧める。腹の中の命を手放せ、と。
「……なぁイルバ、教えてはくれぬか」
「……何をだ?」
「皆は、夫でさえ、迷うことなく彼女に腹の命を手放せという。婦人のな、その、いろいろを考えれば、確かにそれが正しい。婦人のお子に執着するのも馬鹿馬鹿しいのかもしれぬ。それでも。それでもじゃ」
 イルバに向き直った少女の瞳は、闇夜の暗がりにあってさえ、潤んでいると判った。そこに滲むのは焦燥と憐憫――後者はおそらく、皇妃に対しての。
「妾は医者じゃ。たとえ未熟であろうとも。そして妾の本分は、人の命を奪うことではなく救う術を探すことじゃ」
「あぁ」
「……ならば妾は、政治家としての本分を突き通し彼女に堕胎を勧めた彼女の周囲の者たちと同じように、妾も医者としての本分を突き通し、彼女が健やかにあり、そして彼女が彼女の望みをかなえることができるように、手助け、努力することは」
 少女は一度言葉を切り、唾を嚥下した。
「許されるか? たとえ――その行いが、彼女の周囲の人間を、困らせ、下手をすれば妾が好いておる男を窮地に陥れるかもしれないと、知っておっても」
 許される、ことなのだろうか。
 それは、まるで最上の罪を犯すことを迷う人間の告解のようにイルバの耳に響いた。
 イルバは言葉に詰まり、唇を引き結んだ。彼女が、たとえ見習いといえど、医を志すものとしての本分を突き通すことに迷っているということは判る。だが、それだけだ。イルバにとってすれば、少女一人がそうすることで、一体どんな不具合が生じるのか、はっきりいって想像がつかなかった。さほど、迷うことでもないような気がした。
 なにより、一人ぐらい、この少女のように深刻に、皇妃のことを案じて行動に移す人間がいたほうが、いいとイルバは思ったのだ。皇帝が皇妃に堕胎を勧めている。ならば周囲はそれに従うだろう。所詮、宮に仕えた時点で、ある意味、誰もが権力者の犬になる。
 ヒノトは、そういった[くびき]から解き放たれているように見えた。純粋に、医者として、そして皇妃の友人として、皇妃を案じているように、思えたのだ。
「いいんじゃねぇか?」
 イルバは言った。
「好き勝手やれば。皆の都合は皆の都合だ。お前が考えているのは、ただ、そのご婦人に幸せであってほしいということだけだろう。他の誰もが己の都合の為だけに動いてるんだ。お前一人ぐらい、自分勝手に、件の婦人の願いを聞き入れるために動いたところで、天はお前を罰しはせんだろうよ」
「天なぞどうでもいい。妾が考えているのは、妾の行動は、果たしてあの人の幸せに繋がるであろうかということじゃ」
 そうでなければ、努力など報われない。願いも祈りも、報われない。
 そう言って頬を膨らます少女に、イルバは笑いかけた。
「繋がるんじゃねぇのか? 一人ぐらい、そんなお節介な人間が周囲にいてくれたほうが、俺だったら嬉しいぜ?」
 違うのか、イルバは尋ね、ヒノトは判らぬと首を横に振った。だが、その曇っていた顔には笑顔が戻った。微かな笑みだが、力強かった。
「なら、頑張る。ありがとうな、イルバ」
「おう」
 少女は長椅子から立ち上がり、拳を作って己に気合を入れていた。その背中は華奢だが、とても心強い。この少女の医術の腕前がどれほどのものなのかイルバは知らないが、精神的な面だけでも、妊娠しているというご婦人――十中八九、皇妃だろう――にとって、大いに救いであるとイルバは思った。
 満足げに、微笑む。
 イルバの些細な一言が、少女の背中を大きく押してしまったのだと後悔することも、知らずに。


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