終幕 終古の帝国 4
「さって、俺も一足先にいこうかなー」
資料の角を机で揃えながら、ジンが席を立つ。まだ予定より早い時刻だが、彼の意図はすぐに読めた。
「俺も多分少ししたら追いかける」
「うん? 俺がどこへ行こうとしてんのか、判ってる?」
ジンの問いに、ラルトは笑った。
「判らないはずがないだろうが。俺もティーの顔見に行くからな」
「あーばれてますね。手水って嘘つかなくていい?」
「今更つく必要なんてないだろう」
ティアレがこの国に献上されてきた当初、嘘だとお互いにわかっていても手水を理由にして席をはずし、ラルトは奥の離宮へ足を運んだ。現在、奥の離宮に足を運ぶのはラルトだけではない。ジンもまたよく、休憩がてらあちらへと顔を出す。奥の離宮にはシファカがいるからだ。
机の上を簡単に整えたジンは、数冊の書籍と資料の束を小脇に抱えて席を離れる。そのまま真っ直ぐに執務室を出て行くかと思いきや、彼はイルバやエイと同じように、扉の前で立ち止まった。
「お前も何か俺に言いたいことでも?」
雑多な机の上に頬杖をつき、幼馴染を見上げる。一方、ジンは小さく肩をすくめ、特にはないんだけど、と前置いた。
「いい人材揃ったよね。エイとかさ。俺の目に狂いはなかったってなんか自分褒めたい気分」
「お前のおかげでそーとー苦労してたからなぁ」
「あははははは……うんごめん」
「謝るのは俺にじゃなく、エイにしろ」
「つか、何も訊いてこんしさぁ、すっげ不気味なんだけど。むしろ何で突然いなくなったんですかって責められたほうが俺すげー楽なのに」
「沈黙で以って罰する、か。ジンに不気味といわせられるようになったならたいしたもんだよ」
くすくすと笑いながら、ラルトはここにいない左僕射を賞賛した。げんなりとした様子で肩を落とす宰相に、言葉を続ける。
「本当、一癖も二癖もある人材が揃ったもんだ。お前を筆頭に」
「ええぇぇ俺!? 俺筆頭なの!?」
「お前、自分に癖がないと思ってるのか?」
ジンが沈黙を用いて、ラルトの問いに回答することを拒否する。何もいうなと、ジンの表情が告げていた。二癖どころか、癖の塊のような己を自覚しているのだろう。
「でも本当、ありがたいよ」
ラルトは頬杖をついたまま、瞼を下ろした。その裏に浮かび上がるのは、エイやシノといった人間を筆頭に、自分を支えようとしてくれている人々の姿だ。これからさらにイルバも加わり、共にこの国を作っていく。
「皆がいる。俺は、一人ではないのだと、思える」
一人ではない。
自分は、一人で玉座に腰を下ろしているわけではない。
そう、思わせてくれる、人々がいる。
「一人だと思ってたの? ラルト。ひっどいなぁ。俺いたじゃん」
「お前どの口がそういうこというんだ?」
五年にもなろうかという歳月、戻らないで。
もう自分は彼のことを、とっくに許していたというのに。
「あっ、ゴメンナサイ」
苦笑いを浮かべるジンに、ラルトは言った。
「冗談だって」
「いやぁ、目がマジだったよ?」
今度はこちらが苦笑を浮かべる番である。腕を組み、半眼で眺めてくる幼馴染に、ラルトは謝罪した。
「悪いって」
本当に。
申し訳なかったと思っている。
彼のことを許してはいた。戻ってきてほしいと願っていた。けれどそれは自分の勝手だ。自分が、彼を突き放したのに。
「……いわれなくとも、もう知ってるさ。お前が、俺を支え続けてくれていたことは」
為政者になるのだと。
この国を復興させるのだと。
共に誓った、あの日から。
支え続けてくれていた。
遠い空の下で生きていてさえ、彼は自分のことを忘れなかった。
言わなければならないと思っていた。
いつか。
いつか。
感謝の言葉。
「ありがとう」
ジンは面映そうに顔をゆがめ、ラルトから視線を逸らした。
「俺さぁ」
「うん?」
「旅の途中、ずっと思ってたことがあるんだよね」
「何だ?」
ラルトが尋ねても、ジンはなかなか答えようとはしなかった。口を閉ざし、旅に思いを馳せているのか、瞼を閉じている。
「ここが、俺の国だよ」
やがて、目を開き、ラルトに向き直った彼は微笑を浮かべていった。
「おまえ、当たり前だろう」
この国以外に、ジンの国はない。
この国が、彼の故郷だ。それを疑ったことがない。だからこそ、ラルトはジンがいつかここに戻ってくるものと信じていた。
「まぁきいてよ」
ラルトの言葉を手で制し、ジンは笑った。
「この国を出る前、俺が大事なのはお前で、この国はどうでもいいと思ってた」
呪いと破滅だけが渦巻くこの国を、彼はむしろ憎んでいたといってもいい。その容姿から、この国では生き難いということもあったのだろう。それでも為政者になると誓い、共に道を歩んできた。自分の存在が、彼をこの国に縫いとめたのだと、ラルトは知っている。
「だけどね、ラルト」
笑みを消して、彼は言う。
「旅の途中、思ってた。この国が、俺の国なんだ。お前が生きて、昔レイヤーナが生きていて、たくさんの仲間や、母上や爺や、思い出や、様々なものが眠り、土となっているこの国が。俺を生み、育てたこの国が、俺の国なんだ」
「ジン」
「いろんなところを旅してきたけど、この国が一番美しいと、俺は思うよ」
四季が移ろい、様々な花々が咲き乱れ、むせ返るような緑の匂いに包まれることもあれば、時に葉を鮮やかな色彩に染め、雪に全てを封じ込める。
この、水の土地は。
美しいのだと、誇らしげにジンは言う。
「だからね、ラルト。俺はこれから、ラルトのために、ラルトを支えるんじゃない。俺は、俺のために、ラルトを支えていく」
静かな声音で告げてくるジンに、ラルトは小さく噴出しながら問うた。
「お前、それ前とどう違うんだ?」
「全然違うー。これからは、俺ラルトばっかにかまってやれんよってことデス」
「当然だろう」
思わずラルトは、呆れ眼でジンを見返した。
「お前はお前の幸せを追えよ」
昔のように。
盲目的に、己の幸福を犠牲にして、支えられても少しも嬉しくはない。
彼は彼の幸せを見つけて、歩いてほしい。
そして彼の幸せがこの国で生きることにあるというのなら、それほど幸福なことはない。
「だいたいなぁ」
手から頬をはずして、重心を椅子の背に預ける。軽く姿勢を正し、茶化すようにしてラルトは呻いた。
「男に四六時中かまわれてたまるか」
「そうだよ、俺シファカかまってやらなきゃいけないしさぁ」
「俺たちがいなくても、女たちはすっごく楽しそうだけどな」
「邪魔スンナって目で見られることもあるんだよねー。俺、泣いちゃうよ?」
「泣け泣け。全然かわいくないけどな」
けらけらと笑い合った拍子に眦に浮かんだ涙を手の甲で拭う。おかしくて、腹筋が引きつりそうだ。
「ほら、そろそろ行けよ。休憩終わるぞ」
犬を追い払うように、空いた手を、手首を利かせて下から上へ振ってやる。ジンは苦笑に口元をゆがめ、ひらりと手を振った。
「じゃぁまた後で」
「おう」
手を振り返して、幼馴染を見送る。扉をぼんやりと見守っていたラルトは、蝶番が立てる音に我に返った。自分もまた、ぼんやりしてはいられない。長話をして休憩時間を縮めたのは、ジンだけではない。自分もまた同じだったのだ。
奥の離宮に足を運ぶと、館の中に足を踏み入れる必要もなく、目当ての女を見つけることができた。
「シファカ、何やってんの?」
本殿と奥の離宮の敷地を隔てる川べりに、シファカが屈みこんでいる。頭から水に突っ込んでいってしまうのではないかというほどの熱心さで、彼女は川面を覗き込んでいた。
橋の上から声をかける。こちらに気付いた彼女は、大きく手を振りかえしてきた。
「ジン! 休憩?」
「うん、そう」
ぱたぱたと足早に土手を昇り、こちらへと駆け寄ってくる彼女は、子犬のようだと時々思う。猫か犬かと分類するなら、彼女やラルトは絶対、犬側だ。
「休憩どれぐらい? お茶でも飲んでく?」
「いや、いいよ。すぐいくから。顔見に来ただけなんだ」
これからラルトと共に会合が入っている。相手の国は隣国メルゼバ。隣国との取り決めは遠方の国よりも内政にいっそうの影響力を持つ。話し合う内容を思えば頭が痛かった。
その頭痛を少しでも緩和するためといえばいいか、シファカの顔が見たかった。旅をしていたときとは異なって、仕事がジンの都合を無視してねじ込まれていくため、彼女と会う時間は確実に激減している。自分不在の数年間、今のジン以上に恋人と過ごす時間が少なかったであろうラルトから嫌味が飛んでくるために、癒しが欲しいと呻くことだけは控えているが。
一方のシファカは、こちらの思惑も関係なしに、この生活をずいぶんと楽しんでいるようである。
「聞いてジン! 川の中にすごく一杯魚がいるんだ! ちっさい赤い魚!」
「赤い魚? あー、鯉かな。あ、でもちっさいってことは、金魚のほうか」
「こい? きんぎょ?」
「鯉はよく池にいるよ。けっこう大きめ。金魚は大抵水槽にいれて楽しむんだけどね。大きくなりすぎたものや形が悪いものを、用水路に放したりするんだけど……でも、あれって川に棲めるんだったっけ?」
淡水魚ではあったはずだ。と、いうことは棲めるのか。小さな、とシファカが表現するのだから、棲み付いている魚ではないだろう。この川は、遡れば本殿を通る。女官か誰かが放流したばかりなのだろうか。
「よくわかんないけど、観賞用の魚ってこと?」
「うん。まぁ、そういうこと」
「へーぇ」
納得したのか大きく頷いて、シファカは橋の欄干に身を乗り出し、また川を眺め始める。荒野生まれの彼女にとって、水辺は特にお気に入りとなる。長期滞在していた<択郷の都>グワバでもそうだった。彼女はよく浜辺に出ては、悪戯に時間を潰すことを好んだものだ。
「今、シファカはここに一人なの?」
並んで声をかける。シファカは首を縦に振った。
「ティアレさん、今、本殿のほうなんだ。ヒウさんと女官の人事について相談と、リョシュン老師との面会」
「なるほどね」
「でもそれらが終わったら、一緒に裏手の庭を見に行くんだ。もうすぐヒノトも来るし」
どこか浮き足立った様子で彼女は言う。その表情は明るく、少し幼くすら見える。シファカのこういった表情を昔、少しだけ見たことがあった。
普段、命のやり取りをする分、大人びた厳しい表情を浮かべるシファカだが、夜の王国ガヤで、宿を切り盛りしていたモニカと連れ立って何かをするとき、彼女はこのような無邪気な娘の面影を覗かせた。彼女の故郷では、シファカは小さな集団とはいえ兵士を束ねる立場にもあったし、男の職場で、同じ年頃の友人が少ないようだった。こうやって同年代の娘たちと何かをすることが、楽しくてたまらないのだろう。
「休憩もゆっくりできないなんて、忙しそうだねぇ」
ジンに向き直ったシファカが不意に言った。
「まぁねぇ……仕方ないよ。こっちに立ち寄る余裕があるだけ、よしとしないと」
「そっか……執務室で仕事?」
「うんにゃ。話し合いだよ。地図については話したよね。メルゼバって覚えてる?」
「隣の国?」
「うん。そこの国の使者と会うんだ」
話題は頭痛の原因となるようなものだが、今日使者としてこちらに来る人間は、親しい知己だ。斜陽に差し掛かるメルゼバを支え続ける有能な官吏である。
「そのあと、このダッシリナの使者と合流して、皆で昼食。そのあともう一度こっちに顔見にくるよ。昼から俺、視察に外出るから。夜には戻るけどね。またもう一個会合入ってるし。上がってる報告書にも目を通すから、多分全部終わって戻るのは深夜過ぎる」
「いっつもジンの予定聞いて思うんだけどさ。……ほんっとうに忙しそうだね……」
「でっしょー」
シファカの同情の眼差しに、ジンは肩を落としながら呻いた。
「ひどいよねーラルト。何この殺人的な予定。視察っていっても、これ一箇所じゃないんよ。城下町で三箇所、城下出て隣の領地にいって一箇所だから。どうやっていけっていうんよ物理的に無理っしょとか思うんだけど」
「でもジン楽しそうだよね」
「うん楽し……え?」
シファカに釣られて頷きそうになったジンは、我に返りながら盛大に首をひねった。ぱたぱたと手を振って彼女に尋ねる。
「楽しそう? どういうこと?」
日々、仕事に追われて東奔西走していることは昔と変わらない。息つく暇もないほどの仕事量。生きているかだの、死ぬなだの、揶揄を口にされたことは多々あれど、楽しそうなどと評されることは、生まれて初めてである。
シファカはジンの反応が可笑しくてならないというように、軽い笑い声を立てて言葉を続けた。
「いや、ジン、楽しそうに見えるよ。忙しそうだけどさ。傭兵の頃よりうんと生き生きしてる。好きなんでしょ? こういうの。そういえばよく読んでたもんね、政治系の本」
「……うん」
微笑みながらそう繰り返すシファカに、釈然としないものを覚えながらもジンは頷いていた。
「多分、好きなんだろうね」
命を懸けているといってもいい、人生のほとんどをつぎ込んでいる職務。気がついたら、頭は大抵未処理の事項について考えているし、持ち上がっている懸案について談義しているときが一番時間を忘れる。
決して楽ではないその道に、没頭している自分がいるのだ。
「よかったねぇ」
シファカが満面の笑みを浮かべながら、喜びの声を上げる。
一度は、全てを失ったと思っていた。
二度と取り戻すことは、できないと思っていた。
幼馴染でもあり親友でもある、愛しい主君。彼と共に歩む、政という道。古い思い出の眠る故郷。愛しい女。志を同じくする仲間たち。
そのうちいくつかは取り戻し、いくつかは形を変えて、今、自分の手元にある。
そのすべてのきっかけを、自分に与えたのは。
「シファカ」
自分をここまで導いた。
ここまで、引き戻してくれた。
「うん?」
こちらの呼びかけに応じて、シファカが首をかしげる。ジンは彼女の肩口に零れる黒髪に指を差し入れながら、言った。
「ありがとう」
自分のような人間の傍に、いてくれることを選び取ってくれたこと。
彼女の、その存在。
全てが。
祝福だと。
ジンの唐突な謝辞に、シファカはきょとんと目を丸めていたが、その意味を追求することはなかった。彼女はただ、小さく微笑んで、うん、と頷いた。
何の憂いもない、曇りない夏の空のようなその笑み。
遠い昔、あぁ自分は、彼女にこのように笑って欲しかったのだということを、思い出した。
ジンに続き奥の離宮へと足を運んでいたラルトは、意外にも本殿の中で目的としていた姿を見出すこととなった。
「ティアレ?」
「ラルト」
レンに伴われ廊下を歩いていたティアレが、呼びかけに応じて足を止める。微笑む彼女に駆け寄りながら、ラルトは意外さに目を細めた。
「てっきり離宮のほうにいるのかと思ったよ」
「今戻る途中です。少し、こちらのほうに用事がありましたので」
「無理はするなよ?」
ティアレの体調を慮って告げた一言は、彼女から失笑を招いた。どこか呆れを滲ませて、彼女はこちらを見上げてくる。
「過保護すぎですよ、ラルト。適度な運動は必要なんです。本殿と離宮を往復するぐらいどうということはありません」
「レン、こんなことを言って、しょっちゅう気分悪くなるティーが、貧血でぶったおれないようにしっかり見張っておいてくれよ」
「っ! ラルト!」
衣服の裾を引っ張って抗議するティアレは、口先を尖らせ頬を紅潮させている。レンは当惑したようにこちらとティアレの顔を見比べ、はぁ、と生返事を口にしていた。
「レン、先に帰りましょうか!」
「おい、せっかく顔見に来たのにおいていくなよ」
「からかうラルトが悪いんですよ」
「レン、先に離宮に戻っていていいぞ。ティーは俺が送るから」
恨めしげに見上げてくるティアレの腕を捕らえて、ラルトはレンに微笑みかける。彼女はティアレとこちら、どちらの命令を優先すべきか思案していたようだったが、最後はラルトに従うことに決めたらしい。ティアレとこちらに順々に会釈し、その場を辞去していった。
二人きりになった廊下で、まず口を開いたのはティアレのほうだった。
「ゆっくりしていけるのですか? ラルト」
「実はそうでもない」
苦笑しながらラルトは応じた。その回答に、ティアレがいっそう呆れの色を濃くした眼差しをラルトに叩きつける。
「でしたら、レンを先に帰すことはなかったのに」
「送るよ。それぐらいの時間はあるさ」
苦笑しながら手を差し出す。ティアレは嘆息しながらも、躊躇うことなく手を握り返してきた。
本殿の中でも少し外れに位置するここは、人通りも少なく比較的静かだ。遠くに人々の喧騒が聞こえるが、梢の揺れる音と靴音が主に廊下の空気を震わせている。
「用事ってなんだったんだ?」
「検診です。リョシュンに会っていました。あとはヒウと人事について少し」
「皆、離宮のほうへ行くといわなかったのか?」
「もちろん、いっておりましたよ」
こちらの問いに、ティアレは満面といってもいい笑顔で頷く。
「私が出向くと、説得するのに苦労するんです。ラルトに一緒に説得してもらおうと思いましたのに、ラルトが一番過保護なことをいうようでは駄目ですね」
意地悪げに笑う彼女から目を逸らし、こほんと咳払いを一つしてラルトは話題の転換を図った。
「……午後の予定は空いてるっていってたよな?」
「はい」
ティアレもまた、突如変わった話題に不満そうな顔をみせることもなく、素直に頷いてきた。
「シファカさんと、ヒノトと、午後はのんびり過ごすつもりです」
いつも通り、と、彼女は付け加える。
妊娠中ゆえに公務を制限されているティアレは、療養中の身であるシファカと奥の離宮で時間を共にすることが多かった。シファカが旅で見聞きしてきたことを話の種に、のんびりとすごしている。ヒノトも御殿医たちとの研修やリョシュンとの仕事がないときは、大抵ティアレたち二人に混ざって過ごす。今までにない賑やかさだと報告してくるシノは、この上ないほど上機嫌だ。
「査定についてのお話も、少しすることになっているんですよ」
ティアレの言葉に、そういえば、とラルトは瞬いた。
「あぁ……そうか。そっちの準備もしなきゃいけないのか」
査定とは、誰か他国から姫君を迎え入れる際に行う儀式だ。一年程度、大臣たちから与えられる課題を内密にこなし、承認を得られれば査定終了となる。
ジンの生まれであるシオファムエン家はリクルイト皇家に所縁深い家だ。ラルトがティアレを皇后に据えたときと同じく、彼がシファカを家に迎え入れるならば、実に馬鹿馬鹿しいことだが、査定を行わなければならない。そしてこれが、ひどく面倒臭い。この国の構造をシファカが知る上で、避けて通れない道だといってしまえばそれまでだが。
「……なんか、うきうきしてないか? ティアレ」
「え? そうですか?」
厄介ごとの話題だというのに、ティアレの顔はどことなく緩んで、傍目からは実に楽しげに見える。彼女は自分の頬に空いている手を添えて、うーんと唸った。
「そんなに楽しそうに見えます?」
「見える。……査定の準備だぞ? 面倒なだけじゃないか?」
「え? でも、私がお手伝いできること、たくさんあるじゃないですか」
どことなく浮ついた雰囲気を見せて、ティアレが笑う。どうも、シファカの面倒を見ることが楽しくて仕方がないらしい。普段、守られる側だからだろう。
「ラルトこそ、楽しそう」
「……そうか?」
「お仲間が、たくさん増えて、うれしいのでしょう」
「……まぁ、なぁ」
ジンだけではなくイルバも出入りするようになって、執務室は一層賑やかだ。人員の再編もすでに終わっているし、先だっては新人が入って、本殿も騒がしいほどである。
一昔前を、思い出す。
まだ、レイヤーナが生きていて、まだ、自分が、皇帝ではなかった頃を。
あの頃、たくさんの仲間がいた。今はもう、その彼らはいないけれど、あの頃以上の活気と華やぎがここにはある。
「ラルト、私は幸せです」
ラルトの頬に触れて、ティアレが言った。
「貴方は幸せですか?」
何気ない問いかけ。
ラルトは微笑み、己の頬に触れる女の滑らかな指を握りながら笑った。
「あぁ、幸せだよ」
幸せだと思う。
噛締めるように。
幸せだと、思う。
もう自分は裏切りの帝国を統べる呪われた皇帝ではなく、彼女もまた滅びの運命を背負った魔女ではない。一つの命を生み出そうとする、ただの女だ。この国には今、始まりはどうであれ、たくさんの人々が集い、賑々しく言い合い、笑い合いながら、前を向いて歩き出そうとしている。
それを、幸せといわずして、なんと言おう。
その全ての始まりは、彼女だった。
彼女がこの国に、自分の前に、現れてから、全てが始まったのだった。
「よかった……」
そういって笑う彼女を見て、急に照れくさくなる。
「ほら、行くぞ、ティアレ」
歩みを止めている彼女を急かしてラルトは歩き出す。手を握り返した女は、苦笑しながら大きく頷いたのだった。
「はい、ラルト」