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終幕 終古の帝国 3


 ラルトは資料を閉じながら、エイに言った。
「さて、お前もそろそろ行かなきゃいけないんじゃないか?」
「はい。そうですね」
「今日の午後はマジェーエンナとの交渉だっけ?」
「そうです。でもちょうどいいんですよね。イルバさんとの顔合わせに」
「昼は一緒になるけど、頼むぞ」
「メルゼバとダッシリナでしたね。承知いたしております」
「今日一日強行軍になって大変だろうが、付き合ってやってくれ」
「もちろんですよ」
 そう答えるエイはにこやかだ。
「ずいぶんと賑やかになりましたし」
 ジンが戻り、イルバが加わった。繰り返すようだが、今まで彼たった一人で背負っていた分が、他の二人に分配されれば、かなり負担も減るだろう。賑やかになった執務室を見て、エイはここのところよく嬉しげに目を細める。
 そしてそれは、ラルトも同じだ。部屋に活気があると、仕事も楽しくなってよくはかどった。
「それでは、失礼いたします」
「頼む」
 礼を取ったエイに微笑んだラルトは、未処理の書類に視線を落とした。しかしいつまでたっても、扉の開閉音が響かない。怪訝さを覚え、面を上げる。
「……どうした?」
 エイは、扉の取っ手に手をかけたまま立ち止まり、こちらを振り返ったままだった。
「……いえ」
 何かを思案するように、エイは僅かに目を伏せる。そして扉から手を離しこちらに向き直った彼は、躊躇を見せながら口を開いた。
「……本当に、賑やかになったと、思いまして」
「……この部屋が?」
「いいえ。この城が」
 ラルトの問いに否定を返したエイは、微笑んで言葉を続ける。
「……私は、学館を卒業してすぐこちらに参りましたが、そのときはまだ、閑散としていたように思いますので」
「……そうだな」
 エイが宮廷に勤めるようになった時期は、まだラルトがティアレと出逢う前のことだと記憶している。その後、ジンが出奔する前の最後の春待ち祭りの準備の働きを認めて、ジンと相談した上で、彼を上層のほうに引き抜いた。
 確かにあの頃はまだ、確かにエイのいうとおり、城の中も閑散としていた。自分はまだ頑なで、信頼に足る部下の数も少なく、古株の大臣たちとも和解できていなかった。
 何故、突然そのようなことをいいだすのだろう。エイの会話の意図が見えず、思わずラルトは眉をひそめる。そのこちらの様子を見咎めて、左僕射は苦笑してみせた。
「……前振りが、長くなりましたが」
 少し頬を紅潮させて、エイは言う。
「陛下。今、宮廷には、たくさんの人が集まっています。きっかけはどうあれ、今は皆、貴方に希望を見出し、そしてこの国を少しでもよりよいものにしたいと息巻いて、貴方に仕えているのだと、私は思います」
「……あぁ」
「陛下。貴方は、お一人でたくさんのことをこなすことがお出来になる。たった独りで、玉座を温めていらっしゃる。国を守るのだと、民を守るのだと、貴方はおっしゃる」
 皇帝の、務め。
 民を守り。
 国を平らかにし。
 領土を治め。
 そのために、ただ一人、玉座を温める。
「けれど」
 エイは言った。
「お忘れにならないでください、陛下。確かに、私たちは弱く、惑う、愚かな民なのかもしれない。それでも――……私たちは、貴方に守られるだけの民ではない。貴方を守る、民でもあるのです」
 忘れないでください、と。
 エイは、繰り返す。
 忘れないで。
 この城に。
 たくさんの、支えてくれる、誰かがいることを。
 もう、遠い昔と、違うのだと。
「……いいたいことは、それだけか?」
 書類を置いて、ラルトは尋ねた。
「はい。これだけです」
 エイは、微笑み頷いた。
「……そうか」
「それでは、改めて、失礼いたします」
「エイ」
 踵を返し、扉に手をかける男を、呼び止める。
 宰相が不在の間、長らくたった一人で、その穴を埋めようと奔走してくれていた。苦悩もあっただろう。絶望もしたかもしれない。それでも彼は、笑顔を絶やさず、ここにいる。
「……ありがとう」
 エイは満足げに微笑み、昼前にまた報告に上がりますと言い残して、退室する。静かに閉じられる扉を眺め、ラルトは知れず口元を綻ばせて、書類の片付けを再開させた。


(なんだか、どきどきしますね)
 胸に手を当てながら、イルバとの待ち合わせ場所に向かって歩く。まだ少し、早鐘のように鼓動を打つ胸に、エイは笑ってしまいそうだった。
 かねてより思っていたことだった。
 守られるだけの民ではなく。
 自分たちは皇帝を、守る、民なのだと。
 もう二年以上前になる。榕樹の小国リファルナへの旅に、初めて出たときのことだ。まだ自分は、この地位にいることに戸惑いを覚え、こなすべき役割を見出すことができず、ただ無力感に苛まれていた。ヒノトと出会い、今日まで続くウルやスクネとの絆を作り出したあの旅の記憶は、今も鮮やかに胸の内にある。あのときに、思ったのだ。
 ジンを失ったラルトは、たった一人で、呪いに苛まれ、たった一人で、この国の業を背負い、たった一人で、民を守るという皇帝の役割をどのように果たしたらいいのか、もがき苦しんでいた。
 自分はどうあがいても、ジンと同等の能力をもつことは望めそうもなかったし、彼のぬけた穴を埋めることもできそうもなかった。
 そんな自分にできることは、結局のところ、玉座に座るラルトの手を、握ってやっていることぐらいなのだと知った。けれどそれが重要なのだとも知った。孤独ではないと、手を握ってやること。それはきっとこの城の誰にでもできることであって――……それが、きっと、ラルトを守ることに、通じるのだと。
 頼っていいのだと、伝えたかった。
 ずっと。
(頼られてその役割がきちんとこなせるかどうかは、別問題なのですけれどね……)
 いまだ色々と失態の多いわが身に、思わず自嘲のため息を漏らす。ジンも戻ってきたし、政治の世界ではその手腕で有名であったイルバも右僕射の地位に就くのだ。彼らの足をひっぱらぬように、精進せねばなるまい。
 だから、その、戒めもかねて。
 ラルトに伝えたのだ。
 こちらを、頼って欲しいと。
(がんばらなくては)
 表情を引き締め、歩む足にさらに力を込めた、そのときだった。
 ふと、人の気配を覚える。本来ならば危険を回避する意味でももっと早くに気づくべき他者の存在は、いつの間にかエイのすぐ傍にあった。
 どんっ
「……っ!」
 背後から追突された衝撃に、エイは思わず唇を引き結んだ。均衡を保つために足を大きめに踏み出そうとするが、何かが足に絡み付いて上手くいかない。前のめりに倒れそうになった身体を、手近の壁に手をついてどうにか支えると、エイは追突してきた存在を確かめるために背後を振り返った。
 確認せずとも、一体誰なのか確信はあったが。
「ヒノト……」
 呆れから半眼になって彼女の小柄な身体を見下ろし、エイは呻いた。肩甲骨の辺りに、少女の銀の髪とくりくりしたつむじが見える。ぱっと面を上げた彼女の表情は、不満そうであった。
「……どうしたんですか? ヒノト」
「おんしなぁ、もう少し、気をつけいよ」
 身を放した彼女は、おおいに呆れた眼差しでエイを見上げてきた。
「一応、誰かに狙われたりする立場なんじゃから、もっと周囲に気を配って、ラルトのようにさっとよけてみんか」
「……もしかして、同じこと陛下にもやったんですか?」
「実験してみた」
「しないでください!」
 あぁもう、と頭を抱えてエイは叫ぶ。こちらの心境を知ってか知らずか、ヒノトはあっけらかんとしたものだ。
「ジンも、きちんと避けてくれたぞ」
「閣下にもしたんですか!?」
「避けれんかったのは、おんしだけじゃ」
「あーもー貴方っていう人は……」
 思わず眉間を押さえ、呆れと怒り、どちらを優先させて発言しようか本気で頭を痛める。しかし続けてヒノトの口から漏れた言葉に、エイは驚きでもってヒノトを見返した。
「……もう少し、周囲に気を配らねば。ジンやイルバの足を引っ張らぬように」
「……ヒノト?」
 ヒノトの言葉は、時折鋭く、胸に突き刺さる。
 針に糸を通すような的確さで、胸の隙間を突く言葉を、彼女は投げかけることがあるのだ。そして今もそう。まるで、こちらの胸の内が読めているのではないか。そう思わせるに充分な頃合のよさだった。
 エイを見返す、ヒノトの眼差しは澄んでいる。全てを見透かすような、透徹した、眼差し。
「がんばらないとならぬの。なぁ、エイ」
 彼女のその、花のような笑顔に毒気を抜かれて、エイは肩を落とした。結局何を言われようと、この娘に自分は敵わないのだ。
 ヒノトはエイの前を行くように歩き始める。エイも止めていた足を動かし、彼女の横に並んだ。
「人の気配ぐらい、ある程度近づけばわかりますよ」
 真っ直ぐに前を見て歩く彼女を視界の端に入れ、エイは言った。先ほどの話の続きのつもりだった。
「殺気のあるなしも、判別ぐらいつきます」
「本当かのう?」
 応じるヒノトが、疑いの眼差しをこちらに向けてくる。口調は揶揄を含んでいて、小馬鹿にしたような響きがあった。
「でも殺気を悟らせぬものもおるじゃろうて。大体、今、妾が何か短剣を持っておって、おんしを刺していたらどうするつもりだったのじゃ?」
「どうするつもりかといわれても……」
 ヒノトが自分を刺し殺すなどと、想像もできなかった。彼女の手は、取捨選択を行う血に濡れた自分の手と違う。純粋に、誰かを救うための手だ。その手が自分の血に濡れるときがあるとしたら、それは。
「それは、仕方がないですよね?」
 どうしようもなくなってしまったときだろう。
「はぁ!? 仕方がない!?」
 エイの回答に耳を疑うといわんばかりに金切り声を上げたヒノトに、エイは思わず耳を塞いだ。立ち止まってこちらを睨みつけてくる娘に、エイは身を引きながら頷く。
「えぇ……」
「仕方がないはずなかろう!」
 一方のヒノトは、怒っているのか呆れているのかわからぬ表情を浮かべていた。
「殺されるのじゃぞ!」
「他の誰かに簡単に殺されるつもりは毛頭ありませんよ、もちろん」
 例え話に何故彼女がそうも熱くなっているのか、いまひとつエイには理解できない。身を乗り出して叫んでくるヒノトを仕草でたしなめ、エイは冷や汗をかきながら抗弁した。
「やりたいことも、やるべきことも、たくさんありますからね」
 ヒノトに言われずとも、護身に関しては常に気を払っている。最低限の武術は身につけているとはいえ、自分はどちらかというと非力な部類に入るからだ。ウルやスクネといった、腕に覚えのあるものが部下として配されているのも、彼らが護衛を兼ねることができるためだ。武官の同席を拒む会議も、副官ならば許される場合がある。
 普段、こうやって歩く際もある程度の距離に誰かが入れば、たとえ相手が気配を殺していたとしても気づく自信はある。
 この、娘以外は。
 彼女だけは、その垣根を越えて、傍にあることが、許される。
 エイは微笑んで言った。
「それでも貴方に殺されるというのなら、仕方がない気がするのです、ヒノト」
「……何故?」
「さぁ、わかりません」
 もし、ヒノトが自分を殺そうとしたならば。
 自分は抵抗しないだろう。抵抗する自分が、なぜか想像できない。
 それに気づかされたのは、ダッシリナの宮廷で、ヒノトと共に、逃亡する暗殺者に命を狙われたときだった。あの時自分は確かに、ヒノトを襲う凶刃の前に、迷わず身を差し出したのだ――……。
 ラルトの為に身を捧げよう。命を捧げてもかまわない。
 けれど、それは自分が一人で生きていたらという仮定のことだ。きっとこの少女と彼を天秤にかけたなら、彼女のほうが自分の生殺与奪を握っている。彼女を置いて死ねない。けれど彼女が自分を、殺すというのなら。
 それは、きっと。
「強いていうなら、貴方が私を殺すときには、きっと納得できる、理由があるでしょうから」
 あぁ、殺されるのだなと、身を任せてしまう気がするのだ。
 ヒノトは唖然とした表情を浮かべた後、苦々しげに低く呻いてきた。
「……馬鹿じゃろう、おんし」
「何がですか?」
 ヒノトに馬鹿だの間抜けだのといわれることにはすでに慣れていて、いちいち意味を問いただす気にはなれない。しかし今回ばかりは、自分の発言のどの部分が彼女の癪に障ったのか、疑問だった。
「そういう部分が、馬鹿じゃというておる!」
「痛い痛い痛いですよ!!!」
 もぎ取ろうとする勢いで耳の縁を掴んでくるヒノトの細い指先と、鼓膜を破らんとする声量に、エイは思わず悲鳴を上げた。本当に痛い。彼女の爪の、さして長くもないはずの白い部分が、皮膚に食い込んでいるような気がする。
 忌々しげにエイの耳を解放したヒノトはというと、痛みに耳を押さえて歯噛みするエイを置き去りにして、さっさと歩き出してしまっていた。
 嘆息して、ヒノトの後を追う。
「……けど、本当に、気をつけるのじゃぞ」
 彼女はエイが横に並ぶのを見計らったかのように、ぽつりと呟きを漏らした。
「妾は嫌じゃぞ。おんしが死ぬのを見るのは」
 穏やかな陽射しに照らされる横顔に浮かぶ表情から、彼女の胸中を読み取ることはできない。
 しかし、この三ヶ月ばかりの間に起こった出来事を通じて、考えさせられるものが、あったのだろう。
 彼女は時折、このように脅えた眼差しをする。
 喪失に、脅えた眼差し。
 エイはヒノトの髪を撫でた。
「肝に銘じておきますよ」
「本当かのう」
 エイの手を振り払って、ヒノトが呻く。
「おんしのその間抜けさが、ラルトたちの足を引っ張らんか、妾は心配じゃよ」
 その憎まれ口は、照れくささが半分。嫌味が半分、といったところか。エイはにこやかに笑いかけ、彼女に謝辞を述べた。
「えぇ、ご心配、ありがとうございます」
 そのエイの振る舞いが、彼女の望む反応でなかったのは確かだ。渋面になって黙り込んでしまったヒノトに、エイは口元を綻ばせて話題転換を図った。
「本をたくさん抱えているようですが、リョシュンの宿題ですか?」
 傍目にも重量のある本を数冊、ヒノトは腕に抱えている。彼女がそういった本を抱えているときは、大抵リョシュンの宿題をこなすための調べ物をするときだ。
「これか?」
 それらに視線を落としたヒノトは、小さく頭を横に振った。
「いいや、宿題ではない。これはちょっと、読みたい本じゃったから借りてきた」
「熱心ですね……。ですが、そんな大量の本を持ってどちらへ?」
 本は、持って歩くだけでも億劫になりそうなほどの厚みがある。ただ単純に読みたいだけならば、図書館から移動しないほうが楽に決まっている。
しかしエイは、続くヒノトの答えを聞いて、彼女が何故手間をかけて本を持ち歩いているのか納得した。
「今から奥の離宮じゃよ。午後はティアレとシファカと三人で、庭を見ることになっておってな。そのあと二人はどうせ昼寝じゃろうから、その間に読もうかと思って」
 腕の中の書物に視線を落としながら、ヒノトは言う。近頃、彼女らは空いている時間を三人で過ごすことが多い。年も近く、他国からこの国に入った、互い似た境遇だからだろう。仲のよい友人が増えることは、彼女にとってもよいことだ。
 しかし、立場的にも共通点の多いティアレとシファカのほうが、共有する時間が長いのは確かだった。
「ティアレも、もう寂しくないじゃろうな」
 控えめに付け加えるヒノトの声音には、複雑そうな色がある。一人、どこか立場を隔てられてしまうことへの僅かな寂寥。しかし、迷いなく友人の幸福を願う曇りなき温情。
「貴方の存在に、妃殿下は救われていると思いますよ」
 エイはヒノトの手を握りながら言った。
 そして、と、付け加える。
「無論、私も」
 救われている。
 意味があるから、自分は立ち続けることが、できるのだと。
 彼女は、その意味そのものなのだと。
「……ほんとーに」
 エイの手を握り返したその行動とは裏腹に、ヒノトの声音は不機嫌そうだった。
「おんしは、妾がおらんと、だめなのじゃなぁ、エイ」
「えぇ」
 頷けば、少女が呆れたように、けれど屈託なく笑うことを知っている。初めて出逢った時から変わらぬ笑顔だ。その曇りのない笑みに微笑み返して、エイは歩を進めた。
 道は、暖かな光に満たされて、行く未来を祝福しているようだった。


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