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終幕 終古の帝国 2


「……以上だ。何か質問は?」
 初夏の日差しが入り込む執務室。
 奥の机で処理前の書類に埋もれながら、ラルトは首を傾げる。そうだなぁ、と天井を仰いだイルバは、間を置いて質問を口にした。
「……普段の言葉遣いどうすりゃいい?」
「大抵は今まで通りでいい。ジンやヒノトを参考にすればいいんじゃないか? 二人は公私で俺に対する言葉遣い、使い分けてるから。なぁ、ジン」
「まぁねー」
 ラルトと同じく書類に埋もれる席に着いているジンが、盛大に嘆息を零しながら応じた。
「下級の文官武官女官、あとは狸爺とか外部相手のときかなぁ、気をつければいいの。あとで厳密に教えるよ」
「ありがとうよ。……後で嬢ちゃんにも話きいてみらぁな」
「そうしてくれ」
 イルバの言葉に頷いて、ラルトは書類を机の角でそろえた。ひとまず、これで、イルバが正式に右僕射として着任する手続きは全て終了となる。
 シルキス・ルスを流刑に処し、諸島連国の中央議会に所属するアズール・イオに引き渡す。その要求をイルバが突きつけてきたのは、まだティアレもシファカも病から目覚める前のことだった。
 交換条件は、イルバの身柄。
 煮るなり焼くなり、ということだったが、彼は非常に自分の価値を良く知っている。彼のような人材をこの国が喉から手がでるほど欲しがっていることは無論、両者承知のところだ。ラルトはその要求を、呑んだ。
 まずシルキスが関わったダッシリナと交渉をし、シルキスの身柄をこちらの裁量に任せるという了承を得た。そのほか、シルキスの拿捕に関わるべく協力を要請した他国への謝罪と交渉。そういったものが全て終わったのは、つい先日のことである。
 同時に進めていたイルバの手続きも、ようやく今日、終わった。後はイルバがどのように部下を掌握していくかである。
「三ヶ月以内だぞ。がんばれ」
 ひとまず表向き、三ヶ月は仮採用ということにしてある。そうでなければ古株の大臣たちが納得しないだろうからだ。何せいくらイルバの経歴がそれなりに有名なものだとしても、丸七年の空白がある。何よりも、他国の出身。妙に国際色豊かになってしまった上層に、古参の者たちは不満たらたらなのである。
 彼らを掌握することが、イルバの最初の仕事であった。
「鬼だぜそれ」
「俺は三年かかっても無理だったけど」
「自分にできねぇこと他人に要求すんなよっ!?」
「はははははは」
 笑ってイルバの苦言をラルトが受け流していると、軽く扉を叩く音がした。入室の許可を待たずに足を踏み入れてくるのは、左僕射、つまりエイである。
「おはようございます」
「あぁおはよう」
「うーす」
「おはよー」
 丁寧に頭を下げるエイに、ラルトは頷き、イルバは呻いて、ジンは書類の隙間からひらりと手を振りながら応じた。
「とりあえずイルバ、今日はエイから説明を受けてくれ。選任した文官とも顔合わせしてもらうから」
「あ、じゃぁ今からエイについていけばいいっつうことか?」
「あぁ」
「すみませんイルバさん、ちょっと先行っててください。陛下と別件で話があって、長くなりそうなので」
「いいぞー。待ち合わせ場所はどこだ?」
「普通に休憩所でお茶飲んでいてくださって結構ですよ。兵舎と執務棟の間の」
「判った」
 じゃぁ先に行っている。そう言い残して踵を返しかけたイルバは、ふいにラルトを振り返った。
「どうした?」
 何か言いかけたことでもあるのだろうか。怪訝さに瞬いたラルトの視界から、イルバの頭が消失する。
否、正確には、イルバは深く頭を垂れただけだった。きっかり、四呼間、彼は頭を下げ続ける。面を上げた彼は微笑み、そして再度身を翻して執務室を退室していった。
「ラルト、三ヶ月であの狸爺たちを掌握しろって、イルバの言じゃないけど、鬼じゃない?」
 閉じられた扉をしばらく三人で眺めた後、まず発言したのは、机に頬杖をついていたジンだった。彼もまた、大方五年にさしかかりかけていた不在について、古株から突っつかれている最中である。
「鬼じゃない。イルバならできるだろう。得意分野っぽそうだ」
「なんだか妙に自信たっぷりですねぇ陛下。その根拠はどこにあるんです?」
 ラルトに書類を手渡しながら、エイが問うてくる。ラルトは、笑みに口端を吊り上げた。
「この間な、イルバを採用した決め手を教えてくれと、古参の大臣たちに言われた。他国の人間を採用するぐらいなら、私の息子を、と推してきてな」
「……なんて応じたの? ラルト」
 ジンの問いに、エイから受け取った書類をめくりながらラルトはすまして答える。
「シノを手懐けることができたら、右僕射にしてやるといっておいたよ」
『ぷはっ!!』
 ラルトの回答に、ジンとエイはほぼ同時に噴出した。ジンなど腹を抱えて笑い転げる始末である。さすがにエイは、ジンほど爆笑することに対して気が引けたのか、口元を引き攣らせるだけに留めていたが。
「この城最強である女官長の手綱を取れるのに、他の奴らを掌握できないはずがないだろ」
 今までシノを押さえつけることのできる人材は彼女の生家にも、この宮廷にもいなかった。だが奇妙なことに、彼女はイルバの忠告ならば耳を傾けるらしいのだ。恋愛感情が挟まっているようには到底思えないが、兄か何かのように、シノがイルバに懐いていることは確かである。一体、どんな手品を使ったのかはわからないが、そんな男が、シノの足下にも及ばぬ古株たちを掌握できぬはずがない。
「そ、そりゃ」
「ごもっともで」
 まだ笑いから回復できないらしい二人は、身体を小刻みに震わせている。ラルトは気を取り直し、書類の表紙をぽんと叩いた。
「無駄話はここまで。それじゃぁエイ、報告してくれ」


「ぶえっくしゅっ!」
 これ以上ないほど派手なくしゃみに、周囲がびくりと身体を強張らせる。鼻をすすりながら、謝罪に手を振ったイルバは、止めていた歩みを再開した。
「なんなんださっきから……風邪か?」
 執務室を出てからというもの、妙にくしゃみが止まらない。風邪を引いたか、埃を吸ったか。おそらく、後者だろう。イルバはいまだかつて風邪というものを引いたことがない。だがこれからは覚悟せねばならないはずだ。何せこちらはバヌアや諸島連国と異なり、冬があるのだ。寒気に晒されて体調を崩すこともありえない話ではない。
 初夏の日差しは眩しく、汗ばむ陽気に、往来する人々も皆薄手の衣を身につけている。涼しげな布地を使った色鮮やかな衣は、実に目を楽しませた。染料が違うのだろう。イルバにとって見慣れない色合いのものが多い。鮮やかながらもどことなく柔らかさを帯びる色彩を目で追っていたイルバは、ふと視界に飛び込んできた鮮やかな紫苑に足を止めた。
「シノ」
「あら、イルバさん」
 曲がり角から、イルバの歩く廊下に合流してきた女は、シノだった。透けた紫苑の布地と、白の紗を重ねた袍を身につけて、腕には折りたたまれた白い布を引っ掛けている。歩く方向はどうも同じらしい。イルバが追いつくのを、彼女はその場で立ち止まって待っていた。
「右僕射就任おめでとうございます」
 これ以上ないシノの満面の笑みに、なぜか薄ら寒いものを覚えてイルバは足を止めた。
「おう……ありがとうよ。……なんなんだお前なんでそんなに機嫌がいいんだ?」
「あら? いつもと変わりありませんけれども」
 本当に自覚がないらしい女官長に、イルバはげんなりとしながら指摘する。
「いつもより笑顔と声の高さが三割り増しだ」
「あらぁ、私、いつもにこやかであることを心がけているつもりですけれども。いつもと違うことを強いていうのでしたら、そうですわね、私、イルバさんが右僕射に就任してくださって、ほんっとうに喜ばしいと思っていることぐらいでしょうか」
 にこにこにこと笑うシノをしばらく眺めていたイルバは、嘆息と共に肩を落とした。袖口に両手を突っ込んで、歩き出す。
「俺が就任してうれしいと説く、その心は?」
「陛下と閣下のお守りは大変ですわよ」
「……んなこったろーと思ったぜ」
 やれやれ、と天井を仰ぐ。隣を並んで歩くシノが、口元に手を当てて忍び笑いを漏らした。
「これから、本当に大変になりますから。離宮にも人が増えましたし、閣下も戻ってきたとなれば、陛下は今まで保留にしていたことにも色々着手なさるでしょう。ティアレ様のこともありますし、私は陛下と閣下のお守りばかりしてられませんので。任せましたよ」
「任されたくねぇー! すっげぇ断りてぇー!」
「あきらめてください」
「……前から繰り返すようだけどよ、エイといいお前といい、この城の奴ら、すっげぇ人遣い荒いよなぁ」
 嘆息を零しながらげんなりと呻いたイルバに、シノは実に他人事のように、がんばってくださいと月並みな言葉を吐いた。
 人々の喧騒が反響する廊下を並んで歩く。それからいかほどたった頃だろう。
 ぽつりと、シノが呟きを落とした。
「交換条件だったと、伺いました」
 それが何を意味した言葉か理解することは容易かった。
 政治に関わらぬと公言していたイルバが、故郷とは別の土地で、右僕射という地位に就く。その、発端となった取引についてだ。
「……お弟子の方は?」
「アズールに引き渡された」
 シノの問いに、イルバは即答した。
「……多分今頃、俺の代わりに、ガキどもの面倒を見てるだろうよ」


「せんせーぃ!」
 砂浜の向こうから、童女が駆けてくる。
 無垢さを宿した青い瞳を輝かせる童女に続いてゆっくりと歩み寄ってくる男は、自分の引き取り手となった男だ。かつては年嵩の自分の同輩。今はマナメラネア諸島国連合の中央議会役員。ずいぶんと大層な身分になったものだ。
「様子を見に来たよ。どうだい新居は?」
「多忙だと聞いていたのにこのような場所にわざわざ足を運ぶなんて、今議会は暇なんですか?」
「暇なんていうものは、自ら作り出すものだよ。……それで、僕の質問には答えないつもりかい?」
 回答の催促を無視し、足下にまとわりつく人懐こい童女を浜辺のほうへと追いやる。彼女が浜辺の泡と戯れる姿を目で追いながら、低く呻いた。
「子供が煩い」
「いやぁ、実はイルバが島を出てからっていうもの、この辺りの教師役がいなくなって困ってたらしいんだよね。ちょうど良かったよ!」
 はははは、と、高笑いを上げる男を睨みつけて、嘆息する。子供を相手にすることも面倒だが、定期的に様子を見に来るこの男の相手をすることのほうがもっと面倒だ。
 波打ち際、童女は流れ着いた棒切れを拾い上げて遊びだす。何を手にしても楽しいらしい。自分があれぐらいの年だったころ、あのように笑うことがあっただろうか。
「……なぜ、お師様は、私をここに置いたのでしょうか?」
「さぁ」
「……何故、殺さなかったのでしょうか?」
「殺してほしかったのかい?」
 男の問いに、唇を引き結ぶ。
 殺して欲しかった。
 死にたかった。
 罪を犯せば。
 いつか。
 誰かが。
 殺してくれると。
 セレイネを守りきれなかった、この命を、終わらせて、くれると。
「それは、傲慢というものじゃないか?」
 男は言った。
「生と死の選択を、君は他人の手にゆだねている。誰かがいつか終わらせてくれる。誰かがいつか救ってくれる。君が願っているのはそういうことだ。それは、君が憎んだ、無知なバヌアの国民と、なんら変わりがないんじゃないかい? 自らを救済するのは結局自分自身に他ならない。誰も、人を救うことはできない。自らが自らを救済しないかぎり、救われない」
「……誰かの存在が、人の救いであることも、あります」
「あぁ。うん。そうだろう。けれどそれは、君自身が、他者の中に愛を見た。愛を見ようとしたから。救いや優しさを見ようとしたから、他者が救いになるんだ。それを見つけようと努力するのはその人だ。他者の優しさに、支えに、気付くのは結局当人以外にない」
 男は自分の傍らに並んで、水平線に視線を投げた。青く、清浄で、そして無情な、海。
「シルキス」
 男は、自分の名前を呼んだ。
「ここはね、緩やかな監獄だと思うんだよ」
 ここ、とは、この島のことだ。海の最中に孤立し存在する、逃げ場のない島。
「ここは孤立しているけれど、いざとなれば物資を届けなくても生きることはできる。魚は豊富だし、畑もあるし、燃料もなくはない。そしてここでは、死を選ぶことも容易だ。誰も見張りはいない。ただ一人、夜に海へと入ればいい」
 遠浅が続くこの島はしかし、深い海溝に囲まれている。舟を使うことでしか、隣の島へと移動できない。
 海に入り、歩き続ければ、死の穴へと、落ちる。
「君の師は七年、いや、八年、ここにいた。そして彼は生きることを選び取り、この監獄から出て行った」
 己の罪を見つめ、死を選ぶか、生を選ぶか、煩悶し続ける。
 ただ、罪を見つめることしか、できないのだ。
 この、何もない島では。
「じっくりと考えるといい」
 男は戻るのか、もと来た道を引き返しながら、言った。
「イルバが、君を生かそうとした意味。僕に、君を預けた意味。君が犯した罪。君が、置き去りにしてきたもの。君が、これから救える、何か」
 生を選ぶか、死を選ぶか――……。
 それら全て、他者にゆだねず、自分が決めなければならない。
 なんと、厳しい刑罰だろう。
「またくるよ」
 手を振りながら浜辺の波打ち際まで出た男は、童女を呼びつける。男の元へと勢いよく駆け出した彼女は、彼に追いつくと、自分のほうへと向かって大きく手を振った。
 無邪気なものだと、笑いたくなる。
 その姿は、白く霞がかり始めた視界の中で、徐々に小さくなり消えていった。


「これからイルバさんはどちらに?」
 ずり落ちかけた布地を改めて抱えなおし、シノが問う。げんなりとしながら、イルバは答えた。
「休憩所でエイと待ち合わせ。その後は仕事の説明やら部下との顔合わせやら大臣のあいさつ回りやらだ」
「今日一日で、ですか?」
「そうだ。鬼だぜ」
 特に挨拶回りなど、普通は数日かけてやるものだ。それを今日一日、正確に言うなら、半日で終わらせろという。確実に夜半を回るだろう。怠惰に慣らされてしまった身体には、かなりきついに違いない。
「何時にかえれっかなぁ……。飯くいそこねそうだ」
「……では、今日は夜食をお持ちいたしましょうか。ご要望、お受けいたしますよ」
「は? 夜食?」
 シノの提案は実に唐突だった。皇帝でもないというのに、女官長に夜食を持たせる。何か不測の事態が待ち受けてそうで、後が恐ろしい。
「えぇ。お好きなものを、部屋にお持ちいたしましょう」
 こちらの心中を知ってか知らずか、シノは実ににこやかである。
「好きなもの、ねぇ……」
 シノの好意を素直に受け取ることに決めたイルバは、腕を組んだまま思案に唸った。基本、好き嫌いはあまりないが、魚介類ばかりの島国で育ったので当時希少だった肉のほうが好みである。かといって夜食に肉というのも重たすぎる。胃がもたれてしまうからだ。
「あぁそうだ」
 ふと思いついて、イルバはぽんと手を打った。
「あれが食いたい」
「あれといわれても判りませんが」
「アレだよ。魚の燻製。俺が食い損ねたやつ」
「……もしかして、諸島連国にいたときに、一度作ったあれですか?」
「そうだ。結局ドムの奴らにやっちまったアレな」
「言っておきますが」
 そう前置く、シノは呆れ顔だった。
「今から作るなどと到底間に合いませんので、それはまたの機会でもよろしいでしょうか?」
「……そっか。結構作るのに時間かかるっつってたもんなぁ。……まー夜食は何でもいいぜ。それなりに消化よけりゃ」
「燻製が消化良いかどうかははなはだ疑問なのですが……。判りました。特に要望がないのでしたら、何か見繕ってお持ちいたしましょう」
「おう、期待してるぜ」
 しかしかといって、一度思い出すと、どうしてもあの食べ損ねた魚の燻製が気になってしまう。
「……あーでもやっぱ、時間があるときでいいから、作ってくれ。うまそうだったしアレ」
 少し躊躇いながら、シノに請う。シノは瞬いたあと、小さな笑いを漏らした。
「いいですよ。お作りいたしましょう」
 ですが、と彼女は条件を付け加える。
「魚はイルバさんが調達してきてくださいね」
「まじかー? ……時間作って釣りでもいくかなぁ?」
「……普通に市場で調達すればよいと思うのですが。あ、晩酌のためのお酒もきちんと用意してくださいね」
「え!? そいつも俺かよ!?」
「労働の対価として当然です」
 ふふん、と意地悪く口の端を吊り上げてシノが言う。イルバは頭をかきながら、嘆息した。
「まぁ、当分忙しくなるだろうから無理だろうけどな。そのうちな」
「本当ですわね」
 不敵な表情を笑みに崩したシノが、同意した。
「いつか、また。そのうちに」


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