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終幕 終古の帝国 1


「国の銘を考えなきゃなぁ」
 鍋を洗いながら男は言った。唐突な彼の発言には周囲も慣れたもので、誰も怪訝そうな顔をするものはいない。真剣に耳を傾けようとするものもいない。黒曜石の色の髪と暗い赤の瞳をした男に対する反応など、泡だらけの手で額の汗を拭ってしまったその間抜けな姿をあげつらう程度が関の山だった。
「そうね、国ができたら、銘がいるものね」
 男に同意を示したのは、洗濯物を干していた女だった。洗い立ての衣服は石鹸の香りを漂わせて、青空の下で風に身をゆだねている。女のゆるく巻かれた銀の髪もまた風によって踊り、太陽の光を孕んで煌いていた。
 色移ろう摩訶不思議な瞳を細めて、女は男に問う。
「で、突然そんなこといいだすなんて。どうせ思いついたんでしょ? その銘とやらを」
 男は、さすが、と口笛を吹いた。
「よくわかってるなぁ」
「当たり前でしょ」
「それで、大将、なんていう銘を思いついたんだい?」
 欠けた歯を見せて笑う男が、男と女の会話に口を挟む。彼らを見守る全ての人を抱くように両手を広げた男は、唇を動かした。
「それは――……」


 はっ、と。
 意識が、覚醒する。
 前触れない眠りの終わりに、ラルトは顔を手で軽く拭いながら上半身を起こした。水中から強引に引き上げられたかのような睡眠の中断。軽く頭を振って、傍らを見やる。そこでは、ティアレが胎児のように横向きに身を丸めて寝息を立てていた。
 彼女の頭を軽く撫でてやりながら、立てた膝に片手で頬杖をつく。悪い目覚め方ではない。眠っていたかどうかも思い出せないほどの深い眠りだった。お休みといって、瞬いて、気がつけば今。そんな、眠りだ。
 窓の外に視線をやる。御簾が下りていて時刻はわからないが、夜明け前といったところだろう。さて、どうすべきか、と考える。二度寝するにも起きるにも非常に中途半端な時間だ。第一、目が異常に冴えてしまっている。
 考えあぐねているとふと、ティアレの頭を撫でていたはずの手が、柔らかい手によって囚われた。
「……ラルト?」
「悪い。起こしたか」
「……どうしたのですか?」
 眠たげに目を擦りながら、ティアレが身体を起こそうとする。その肩口をゆっくりと押し返しながらラルトは笑った。
「大丈夫。なんでもない。寝てろよ」
「……眠れないのですか?」
 再び枕に頭を埋めたティアレが、案じるような眼差しでラルトを見上げてくる。ラルトは首を左右に振って、大丈夫だ、と繰り返した。
「なんだか急に、目が覚めてしまったんだ」
「悪い夢を見ましたか?」
「夢? ……いいや」
 見ていない、といいかけて、ラルトは口元を軽く押さえる。深い眠りだったはずなのに、確かに夢を見たような感覚が残っていたからだ。
「えいえんの、くに」
 ――誰もが笑い合える、永劫なる我らが国……。
 そう囁いたのは、誰だったか。
「……はい?」
 ラルトの呟きに、ティアレが怪訝そうに柳眉をひそめる。
「いや、なんでもない」
 やっぱり眠ろう。そう思ってティアレの傍らに潜り込み、ラルトはその温かな身体を抱いた。
「……変なラルト」
 ラルトの肩口に頭を預けて、ティアレが呻く。
「もう寝ろ。明日が辛いぞ」
「ラルトこそ」
 くすくすと笑い合って、最初に寝息を立て始めたのは、ティアレのほうだった。
 程なくして、ラルトもまた、潮のように身体を満たす睡魔に欠伸を堪えきれなくなった。
 目を閉じる。
 次に目覚めるときは、また一日が始まっているだろう。


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