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第二十二章 永久の誓い 8


 その話は、本当にとても、長い長い話だった。
 魔女の話、彼女を愛した、英雄と呼ばれる男の話。彼らが国にかけた呪いと祝福。
 生れ落ちたときのジンの周囲の話。ラルトとの出会い。レイヤーナとの出会い。レイヤーナの侍女として顔を合わせたシノという女官。彼女は主人を変えた今、国の女官の長としてラルトとティアレのために身を尽くしている。
 ラルトと共に母親をなくし、為政者になろうと決めたときのこと。決して裏切らぬと、誓ったときのこと。仲間を募り、ラルトと共に国をひっくり返した。多忙を極めた日々。狂っていった、ラルトとレイヤーナの関係。擦り切れて壊れてしまった、彼女の精神。
 ラルトを、裏切ったこと。
 それを隠しながら、生きてきたこと。
 そして、ティアレがラルトに献上されたことで、全てが動き始めたこと。
 ジンはティアレを殺そうとし、果たして、過去の裏切りは暴かれた。呪いは解かれたが、ジンは国を出ることになった。ラルトはジンを殺せなかったが、元のように笑い合うには、時間がどうしても必要だった。もう、共に生きることはできないと思われた。
 そうして、旅をして、ジンはシファカに出逢った。
 この物語の、全ての顛末を。
 ジンは、とつとつと、語った。


「これで、全部」
 ジンが大きく息を吐いて、話を締めくくった頃には、すでに日は傾き、少し肌寒い風が吹き始めていた。
ジンがシファカを立たせて肩に上着をかける。シファカはその手が離れていくのを、ぼんやりと見送った。ジンの顔は、笑いとも泣きともつかない表情に歪んでいて、途方にくれた迷子の子供をシファカに思い起こさせる。
「……俺はね、怖かった」
 ジンはシファカから視線を逸らし、沈黙するレイヤーナの墓石を見下ろしながら言った。
「怖かった。君に失望されるかもしれない。君が、離れていくかもしれない。そういったことが、全部」
「……ジンは、何で私が離れていくと思うんだ?」
 何故って。
 ジンはシファカの問いがおかしいものだとでもいうように笑った後、表情を消して答える。
「俺は、シファカが思ってるよりもうんと酷薄な人間だ。そして多分、弱いんだと思う。なのにこんな重たいことばかり背負って生きている、面倒な人間だもの。そんな人間に誰が好き好んで、寄り添おうなんて思うんだ?」
「私は、ジンの傍を、離れたいなんて思ったこと、ないよ」
 姿を消してしまった彼の背中を追って、一人故郷を飛び出した。探して探して、何度もくじけそうになりながら、旅をして、ようやく再会できたとき、もうこの人の傍を離れないのだと、決めた。
 喧嘩をして、どうしてこの男を好きになってしまったのだろうと、憎たらしく思うことはある。しかし彼の傍を離れて生きるなど、想像したことはない。
「そして、それは今も変わらない」
 たった一人で、全部を背負って、旅をしてきた人。
 この人の苦しみを、少しでも分かち合うことができるのなら、どれほど良いだろうと、ずっと思ってきた。
「俺はこの国に戻ってきた――戻ってきて、しまった」
 墓石の向こうに広がる町並みを見つめて、ジンは言う。
「戻ってきたが最後、俺はもう、ラルトの傍を離れることなどできやしない」
 ジンにとってラルトという存在は、単なる幼馴染でも家族でもない。
 それ以上に、きっと、永遠の忠誠を誓った君主であるのだ。
「……この国で、生きるの?」
 シファカの問いに、ジンは頷く。
「……うん」
「そう。じゃぁ……」
 旅は、終わったんだね。
 終わらないかに見えていたそれは、こんなにもあっさりと終焉を迎える。シファカは瞼を閉じ、不安をねじ伏せた。
 旅が終わる。ならば自分は、どうなるのだろう。
 もし彼が本当に一介の旅人に過ぎず、ただ一箇所に腰を据えるだけだというのなら、その終焉をシファカは素直に喜べた。
 しかしジンはこの国に留まり続ける限り、宰相であり、皇帝を支える立場にあり――その身分を強固にするために、しかるべき女を娶る必要も、あるだろう。
 何の身分も後ろ盾もない、シファカという存在は邪魔になる。
「シファカ」
 男の呼びかけに、シファカは目を開く。すぐ眼前に立つ男の眼差しは、とても澄んでいた。
「……この国は、暗いよ」
 忠告するように、ジンは低く呻く。
「俺がいない間に、ましになった部分もたくさんある。でも、根底はまだ暗い。きっと、シファカ、辛い思いを、たくさん、するだろう」
 ジンの言葉は、まるで別れを告げる言い訳のように聞こえた。
 けれどその声音は、真剣だったので。
 怖いぐらいに、真剣だったので。
「旅をしていたときのように、君ばかり構ってあげることも、できなくなる」
 最後まで、きちんと、耳を傾けるべきだと、思った。
 それでも。
「シファカ、もし君が、ロプノールに帰りたいというのなら、送っていく。それが、多分最後の旅になるだろう」
 シファカは自らの耳を、塞ぎたくなった。無意識のうちに動こうとする手を、押さえつけることに骨を折った。
 ジンを直視することができず、シファカは硬く、瞼を閉じる。
 言わないで。
 その、言葉の先を。
「多分、そのほうが、穏やかで平穏な人生を、送れると思う」
 別れの言葉なら、言わないでいて。
 鼻の奥からこみ上げる熱を堪えて、硬く唇を引き結ぶ。出来ることなら今すぐこの場所から、逃げ出したかった。
「けれどもし」
 ふと、ひやりとした男の手がシファカの頬に触れ、吐息を間近に感じた。目を開く。そこには、ジンの顔が目前にあった。
「君が、その労苦を覚悟の上で、俺に、君の人生全てをくれるというのなら」
 少し背伸びをすれば、口づけできそうなその距離を保った彼は、躊躇いがちに囁いてきた。
 今、ここに。
「永遠の愛を」
 背負った業、幸福、全てを、分かち合うという、恒久の愛を。
「誓います」
 風が、緩やかに衣服と髪を揺らしていく。花々の甘い香りが、匂いたった。
 春の香り。その中に佇む、愛しい人。
 その顔が、見えなくなる。
 白く白く、視界が濁って。
 見えなくなる。
 そして同時に、頬を滑る。
 何か、熱いもの。
 透明な。
 感情の結晶。
 シファカは笑った。涙まみれの顔はとても不細工に違いない。それでも、顔をくしゃくしゃに歪めて、笑わずにはいられなかった。彼はついさっき、自分が離れていくことが怖いといってくれたのに、また突き放されるのではないかと脅えた自分が馬鹿馬鹿しかったのだ。
「ばかだなぁ、ジン」
 そして彼が、自分が離れても仕方がないと、思っていることが馬鹿馬鹿しかった。
「そんなもの」
 人生とか、命とか。
 そんなもの。
「とっくに全部、あげてるんだよ。ジン」
 ジンは、呆けたようにシファカを見返した。
「これから私たち、全部、分け合って、一緒に幸せになっていくんだ」
 過去も、かつて犯した過ちも失ってしまった愛も、全部踏み越えて。
 一緒に未来を作っていく。
 ジンの腕がシファカに伸び、黙って身体を彼のほうへと引き寄せる。抱き返した愛しい身体の向こうには、いつかは足を踏み入れたいと、ずっと思っていた、美しい、青を寿ぐ大地が広がっていた。


 こつこつこつこつ。
 靴音は軽やかに、奥の離宮の廊下に刻まれる。ようやく仕事が一段落ついて、ラルトは休憩がてらティアレの顔をのぞきに足を運んでいた。夕刻の奥の離宮は、どこかまどろんでいるような気配を湛えている。それもそのはず、覗いた部屋の中で、この館の女主人は、揺り椅子に腰掛けたまま夢の中にあった。この屋敷は、主人にとても忠実である。
 歩み寄ったラルトが顔をのぞきこむと、差した影に意識が揺り起こされたのか、ティアレは身じろぎをして瞬いた。
「……ラルト?」
「ティアレ」
 目を擦りながら尋ねてくる女に、ラルトは微笑んだ。
「こんなところで寝るな。風邪を引くぞ」
「すみません……」
 身じろぎして身体を起こそうとするティアレの手元から、何かが滑り落ちる。彼女の代わりに拾い上げたそれは、一冊の本であった。相変わらず、読書の好きな女だと思いかけて、息を詰める。
「あぁあぁぁあ返してください!」
 ラルトの手元から本を奪い返したティアレは、気恥ずかしそうに顔を赤らめてそれを胸に抱え込んだ。恨めしそうにこちらを見上げ、彼女は呻く。
「い、いいじゃないですか読んだって! だって不安なんですから!」
「いや、誰もそんなこと言ってないだろう。俺も読んでるぞソレ」
 本を指差して告白するラルトに、ティアレはきょとんと目を丸めた後、呆れた声を上げてきた。
「育児本ですよ、これ」
「あぁ知ってる」
 僅かな、沈黙。
「こんなもの読む暇があるんでしたら、お仕事に集中してちゃっちゃと終わらせるように努力してください!」
「いいだろうが別に! あのな! 俺だって不安なんだからな! 逐一リョシュン呼びつけて話聞くのも気が引けるしっ!」
「そんなところ遠慮しなくていいんですっ! というか、そもそもしなくていいんです! 変なところで阿呆なんですからこの人はっ!」
「あほっ……お、おまえなぁ!!」
「だってそうでしょう?」
 揺り椅子の背に重心を預けたティアレは、口先を尖らせる。
「子供をきちんと生んで、きちんと育てるのは私の役割です。だって、私には、この子の生きる国がよりよいものであるように、政をすることなんてできないのですから」
 そう呻いたティアレは、仕事を取られそうになった子供のような顔をしていた。
「全部全部、貴方が背負う必要なんてないのです。私にだって、できることは、あるのですから。貴方は貴方のお仕事に集中してください」
 彼女から役割を取り上げようと思ったわけではない。ただ、何か手助けになればと思っただけだ。
 しかしそんな中途半端なものはいらないと突っぱねられてしまった。
「手伝ってほしいときは、きちんと言いますので。……いいですね?」
 そわそわするなと念押しされ、ラルトは苦笑せざるを得なかった。
「がんばってください」
「がんばるよ」
 言われずとも。
 君が、もう、呪いの足音に脅えず、ただ笑って、暮らせるように。
 幸せに、歩みだせるように。
 ラルトはその場に膝をつきティアレを見上げながら、布越しに彼女の腹部に触れた。命を育み日に日にゆっくりと膨らんでくる女の腹を眺めるのは奇妙な感覚だった。多くの人をこの手で殺めてきたものの、その命の誕生を目にしたことはいまだないのだ。
「がんばるとも」
 夏に向かうばかりの、もっとも美しい春の日差しが部屋とティアレの白い肌を黄金色に染めている。
 その陽光を見つめながらラルトは思う。
 これから、生命が力強く光り輝く季節に移行していくのだ。
 ――かつて、この国にもまばゆいばかりの繁栄の時代があった。
 呪いによって十年ばかりで斜陽に向かってしまったその時代を、惜しんで人々は<絢爛の夏>と呼び慣わす。
 ならば。
「この子達に」
 今から生まれてくる全ての命に。
「みせてやろう」
 今から創り上げる時代は、誰もが惜しむことのない。
「永劫の繁栄」
 ただ、更なる繁栄の時代に向かっていくばかりの。
 絢爛なる。
「終古の春を――……」


 永遠を意味するその言葉を、古い国が新しい銘として戴くのは、もう少し先の話である。
 腹を撫でる男の手を女の柔らかい手が包み込む。かつて呪いに喘いだ二人は目を見合わせ微笑みあい、男が女を立ち上がらせた。
 寄り添うような影は春の日差しの向こう、一つの扉に消えていった。


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