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第二十二章 永久の誓い 7


 ごろごろと寝返りを打ちながら、シファカはつい先ほどの夕食の席を思い返していた。
『初めまして、シファカさん』
 ティアレにシファカ、ヒノト。三人とも献立の違う夕食の席でティアレによって紹介された男は、シファカが唖然としてしまうほどの美丈夫だった。
 漆黒の髪に、暗い炎、もしくは醸造した上質の葡萄酒を思わせる、蠱惑的な深い赤の瞳。上質ではあるがひどく簡素な仕立ての薄い青の袍に、黒の帯を縛っただけという身なりをして、男は現れた。
 ラルト・スヴェイン・リクルイト。人懐こく笑い、気さくにもシファカに握手を求めて手を差し出した彼は、この国の皇帝だと名乗った。
 ジンの、幼馴染だという人。
「あの人が、ラルトさん、なんだ……」
 すでにティアレとヒノトは部屋を辞している。呼べば隣の部屋に女官が控えているというが、この部屋には今はシファカ一人だ。シファカの呟きは、思いがけず大きく部屋に響いた。
 ラルトに出会い、シファカは様々なことに納得した。例えば、ジンの、彼にあこがれるという言葉について。ただただ真っ直ぐな気性をしているという、ジンの憧憬の対象である人は、ジンとはまた違ったやり方で、とてもあっさりとシファカの心を惹き付けた。それは恋焦がれるということとはまったく違っていたが、慕わしく思ったのは確かだ。人を惹きつけてやまない、確かな魅力がそこにある。
 もう一つ納得したことがある。彼の、立場についてだ。
 ジンは再三、ラルトは国から出られないのだと言っていた。その意味をシファカはようやっと理解していた。ラルトはこの、水の帝国の皇帝だった。それでは、自由に国を出ることなど、叶うはずもないだろう。
 そして、ジンが旅先で書き付けていた、冊子の意味。
 ジンは、ラルトの目であり、耳であったのだ。幼馴染が出られぬ国を、見聞し、調査し、その知りえた知識全てを書き留めて、ラルトの元へ送っていた。
 故郷が、ラルトの手によって、少しでもよいものとなるように。
 そこまで考えて、疑問がいくつか残る。
「どうして、この国に、戻りたがらなかったんだろう……」
 ジンは罪人なのだといっていた。だからこの国に戻れないのだと。
 しかしティアレもヒノトも、そのほかティアレから紹介された女官たちも、話を聞く限り、ジンの存在を認めて受け入れているように思えた。シノと呼ばれた柔和な笑顔を浮かべる女官長なぞ、あのジンが女性を連れて帰ってくるなんて、と妙に感激した様子でそっと目元を拭って見せたのである。ジンが戻ったことに対する歓喜が、そこにあった。
『初めは、色々驚くこともあるだろうと思う』
 食事の席で、ラルトが言った。
『腹を立てることもあるかもしれない。けれど、あいつを責めないでやってほしい。……そしてもし時が来たら、あいつの話を聞いてやってほしい』
 ――あいつは、本当に、君のことを愛しているんだよ。
 穏やかな声音でラルトは言った。ジンの素性を何一つ知らず、本当に彼に愛されているのか疑問に思い始めた、シファカの心を見透かすかのように。
 寝台の上で転がっているうちに、今日の疲れが出たのか、睡魔がシファカを襲い始める。
 動きを止め枕に頬をうずめたシファカは、途切れそうになる意識下で呟いた。
「でも、本当に、愛してるっていうのなら……」
 どうして、彼は、きちんと自分に、向き合おうとしてくれていなかったのだろう――……。
 瞼が重みを増し、枕に頬をうずめたまま、シファカは再度眠りに落ちた。
 しばらくして、男の手がシファカの額に触れていったことなど、シファカには知る由もなかったのである。


「いくらなんでも、ひどくないか!?」
 ティアレの目の前で、シファカはひどく腹を立てていた。
 シファカが目覚めてから数日が経っている。あれからジンは一向に彼女の前に姿を見せていないらしい。シファカの立腹は頂点に達したらしく、朝からずっとこの調子なのである。
「お仕事で忙しいのだと思います。私もラルトにあまり会ってないですから」
 ラルトとジンが多忙を極めているということは本当だ。厄介なことが起こったらしく、エイも含め、イルバまで巻き込んで奔走しているらしい。ラルトが帰ってくるのは大抵深夜で、気がつけば隣に寝ているといった様子だ。明け方、起きがけに近況について二言三言言葉を交わした際にも、ラルトは事態にうんざりとした様子だった。しかし今朝の話では、それも今日中に片がつくだろうとのことである。
「きっと、そろそろ会いに来られますよ」
「……本当かなぁ」
 放置されっぱなしのシファカは、ティアレの言葉にも半信半疑だ。すっかり彼女は、へそを曲げてしまっているらしい。
「そりゃぁさ、私だってびっくりして、最初にジンを突き放しちゃったのは悪かったと思ってるけど、でも考えればそれってそもそもジンが悪いんじゃないか! ラルトさんだってティアレさんに会いにきてるわけだし、ジンも顔ぐらい見せたって……だめ、なのかなぁ……」
 最後の部分だけ妙に気弱だ。シファカは聡い娘である。何年も職場を離れていたジンが、部下の信頼を取り戻すためには、それなりの誠意を見せなければならないということを、判っているのだろう。
 ジンは、シファカにまったく会いに来ていないというわけではない。
 一度、ラルトが深夜に帰宅する際に、目が覚めたことがある。そのとき彼は、ジンを伴っていた。ティアレに就寝の挨拶だけをして、シファカの寝室に入っていった彼。ジンは眠っているシファカの顔を見てから、隣の詰め所で仮眠を取るのだ。
 二月も、眠っている姿ばかりを見ていた。本当は、起きて動いている彼女に、会いたいだろうに。
 そんなジンを、ラルトは呆れた様子で馬鹿だと評する。
「ねぇティアレさん」
「なんですか?」
 寝台の上で膝を抱えたシファカの呼びかけに、ティアレは応じた。
「……ジンって、このままこの国に住むのかな?」
「え……?」
 シファカの問いかけは、ティアレにとって実に思いがけないものだった。
 ティアレから見れば、ジンの国はこの国に他ならない。ティアレよりもずっと長い間、彼はこの国でラルトと共に生きてきたのだ。今回も、ジンはこの国に『帰ってきた』のだという認識がある。もう、どこにも行かないのだという、認識が。
 しかしシファカにとってはそうではないのだろう。彼女にとって彼は、一箇所に住処を求めない、旅人だったのだ。
「私さ、そういうことも、全然ジンの口から聞いてない」
 ちゃんと、話がしたいのに。
「どうして、来てくれないのかな……。それとも、私が、会いに行くべきなんだろうか」
 シファカの体力は、いまだ戻っていない。初日と比べれば、立って歩くこともできるようになったが、奥の離宮の内部を付き添いつきで歩くことが精一杯だ。二ヶ月も寝ていれば、筋力も衰える。
 ティアレがいまだ本殿の仕事を再開させていないのと、理由は同じ。ティアレはシファカほど体力があったほうではないが、一月早く目覚めている。それにも関わらず、体力が戻らず、動き回ると貧血を起こすのだ。これは、ティアレが妊婦であるという理由も関わっているのだろうが。
 歩き回れぬシファカが、本殿までジンに会いに行く道理はない。彼こそ、シファカに会いに来るべきだった。
「まったく、ジンの奴は何をしておるのかのぅ?」
 そう苦言を漏らし憤慨するのは、ヒノトである。シファカの検診に来ている彼女もまた、最近はエイにかまってもらうことがないらしく、事情を理解しているとはいえ、妙に不機嫌であった。
「こんな状態のシファカを放置しておくなど、男の風上にもおけぬわ! エイももう少し気を利かせて、ジンをこちらに寄越せばよいものを……。そういうところは変わらず間抜けで馬鹿なんじゃから」
 この城で、宰相であるジンを『あ奴』呼ばわりし、左僕射であるエイを馬鹿だの間抜けだのと連呼する娘は、ヒノトぐらいなものだろう。彼女に対して苦笑を浮かべ、どうやって二人をなだめようか、ティアレが思案していた、そのときである。
 がたたたたっ!
 手前の部屋から衝立の動く音が響き、ティアレは立ち上がった。風通しをよくするため扉は開け放たれている。衝立は、部屋の様子を外から遮るために置かれているものだ――誰かが、来たのだろうか。
 噂をすればなんとやら。様子を見ようと寝室から居間に出たティアレの前を遮ったのは、話題の人――ジンだった。
「じ、じん?」
 ティアレの背後から、シファカの上ずった声が聞こえる。ジンはティアレの肩越しに彼女に向かって微笑むと、すかさずティアレの横をすり抜けた。
 振り返って、ジンの動きを追う。彼はつかつかと寝台に歩み寄ったあと、一度立ち止まり、シファカと向き合った。
「ちょっとごめん!」
「え? うわっ!!」
 一言断りをいれたジンは、突如シファカの身体を横抱きに抱え上げる。それを真横から眺めていたヒノトは、あまりに突然のことに声も出ないようで、口を大きく開けて、ジンと彼の腕の中で暴れるシファカを眺めていた。
 シファカを抱えたジンは、元来た道を戻り始める。
「ごめんティーちゃん。シファカ借りてく!」
「え? あ、はい……」
「ジン! なんのまねだよ! 一人で歩けるってば!」
「だめー! 倒れちゃかなわんもん俺! 大人しくしてて!」
「大丈夫だって! はーなーせー!!」
 口論する声が、廊下に反響している。
 嵐のようだ。
 いや、台風のよう、か。
 あっという間に、実に騒々しく去っていくジンたちを呆然と見送っていたティアレの隣に、ヒノトが並んだ。
「……何が起こったのじゃろうか?」
「さぁ」
 小首をかしげて、ティアレは笑う。
「お話、する気になったのでは、ないですか?」


「ジン、本当に、何!?」
「ちょっとお願い、暴れないで黙ってて大人しくしてて」
 お願い、といいつつも命令口調のそれに、シファカは嘆息して押し黙る。彼の胸に頭を押し当て、振動に耐えた。ジンはシファカの身体を横抱きにしたまま、つかつかと廊下を歩いている。どこへ連れて行かれるのやら、シファカは視線だけをめぐらせて、道のりを観察した。
 寝台からほとんど動かぬシファカは、今更だが、奥の離宮と呼ばれるここが、ずいぶんと広い場所なのだと認識した。城というには語弊があるが、軽く数組の家族が住めてしまえる程度には広い。館を出たジンは庭と思しき場所を抜けて、シファカを抱えたまま橋を渡る。それからしばらくして突如開けた視界に、壮大な屋敷の連なりが飛び込んできた。
「……すごい」
 屋敷の様式は、ダッシリナで遠目に見かけた城に似ている。木材を組み合わせた妙技。正方形の平屋が幾重もの層を成して、背後に控える山脈に風景として溶け込んでいる。奥には、少し様式の違う建物も見えた。白亜の宮殿は、どちらかというと、北の大陸の様式に近い気もする。
 ジンはそういった感想を述べる隙を、シファカに与えなかった。
「じ、ジン!? どこへ行くんだ?」
 ジンはその館の中に入っていくつもりはないらしい。シファカを抱いたまま道を逸れ、ずんずんと庭の中を進んでいく。庭もまたシファカが見たことのないほど様々な花々で溢れていて、見慣れぬ緑に目が痛かった。
 ジンが足を止めた先は、かなり寂れた小屋の前である。馬の嘶きが聞こえるそこは、どうやら厩らしい。
 豪奢な本殿とはひどく不似合いなそこから、少年が馬を引いて現れた。
「あ、いらっしゃいませ閣下! 準備しておきましたよ!」
「うんありがと。鞍も乗せてくれた?」
「えぇ。ご覧の通りです」
 少年が指し示した馬には、確かに鞍が乗せられている。そしてそれは、二人乗りを想定した広めのものだとシファカにも理解できた。
「え? うわっ!」
 不意にジンにひょいと持ち上げられ、馬に乗せられる。あまりの展開の速さについていけない。そうやって呆然と馬にしがみついていたシファカの背後に、男の身体が滑り込んだ。
「それじゃぁいってくるから」
「はい。お気をつけて」
「ちょ、ちょ、一体どこに連れて行くつもりなんだよ!」
 馬番らしき少年に手を振って、ジンは馬の手綱を取る。体勢を立て直し、ジンに食って掛かったシファカを、彼はははと笑って受け流す。
「遠駆け。目的地はついてからのお楽しみだよ。まぁ、景色を楽しんでて。そんなに遠くもないから」
 すぐにつく。
 ジンはそう言って、黙り込んでしまった。こうなれば何を尋ねても、彼は曖昧にしか言葉を返さない。それを良く知っていたシファカは嘆息して、ゆっくりと進む馬の振動に身をゆだねた。
 美しい駿馬は小気味よく山道を登っていく。そこから見下ろすことのできる風景は、シファカがいままで見たどんな風景よりも幽玄だった。
 淡い紅に白、紫に彩られる丘。太陽の日差しは柔らかく、ほどよく肌を温める。その黄金色の日差しを受けて、大地のいたるところを走る青い川が宝石のように煌いていた。川の両脇には、茶色をした、畑らしきものが広がっていて、僅かに光を帯びている。
「……ねぇ、なんであの畑、光ってるの?」
 あまりの奇妙さから、つい滑り出たシファカの問いに、ジンは微笑んで答えた。
「あれは水田なんだ。田植えの時期だから、水を張ってるんだよ」
「……たうえ?」
「米を作るために苗を植えるんだ」
「……お米って、水を張って作るもんなの?」
「この辺りのお米はみんなそう。また今度、見せてあげるよ」
 苗を植えた水田は、綺麗だよ。少し誇らしげに言うジンの胸に、シファカは再度、頭を預けた。
 馬は、慣れた様子で山道を進む。
 そして到達した場所は、街全てと水平線を望む、丘だった。


 先に馬から下りたジンは、シファカの足に靴を履かせて、彼女をそっと草原の上に下ろした。その間も馬は大人しい。馬を引いて平原に生える古木に歩み寄り、手綱をその幹に括りつける。
 シファカは、草の感触を確かめるように、ゆっくりと平原を歩いていた。風に流れる彼女の黒髪を、目を細めて見つめる。眠っていた二ヶ月の間、彼女の髪はずいぶんと伸びて、すでに腰に届くほどになっていた。
 やがてその足取りは、街をよく見渡せる位置に据え置かれた、白い石碑の前で止まる。
 沈黙したまま石碑を見下ろすシファカの横に、ジンは並んだ。彼女の震えた声が、耳に届く。
「これ、は……」
「レイヤーナの、墓だよ」
 シファカの視線がゆっくりと動いてジンを捕らえる。怪訝そうに見上げてくる娘に苦笑を零し、ジンは続けた。
「……こんな風に、再びこの場所を訪れるなんて、思ってもみなかったけど」
 ジンはその場に屈みこんで、墓石に手を伸ばした。誰かが定期的に手入れを行っているのだろう。雨ざらしだというのに、墓石には苔一つ見当たらない。ただ、刻まれた文字だけは、記憶にあるよりも削れ掠れていた。
 墓石には、かつて愛した女の名前が刻まれている。
 かつて、裏切りの呪いの末に失ってしまった、女の名前が。
「……ジンは」
 シファカが、躊躇いがちに口を開く。
「どうして、私をここに連れてきたの?」
 ジンは微笑んで答えた。
「全部、話そうと思うんだ」
 墓石を撫でていた指を止め、見上げた先のシファカは、怪訝そうな顔をしている。ジンはその彼女の眼差しを受け止め、懇願した。
「聞いてくれる? 長い長い、話だ」


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