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第二十二章 永久の誓い 6


 どれほどの間、そうしていただろう。
 やがて鼻をすすったジンが、面を上げて照れくさそうに笑った。
「あぁ、ごめん。病み上がりなのに。寝ていなくて大丈夫?」
「うん……大丈夫」
 優しく頭を撫でてくるジンは、いつものジンだった。目を合わせると、その亜麻の瞳が柔らかく細められる。その所作も、温度も、何もかも。
 けれどどうしても違和感が付きまとう。それをごまかすようにシファカは視線を逸らし、話題を探した。
「そういえば、さ」
 その接続詞に続く言葉を、シファカは用意していなかった。しかしジンは黙ってシファカの言葉に耳を傾けている。その眼差しは真摯だ。照れくささから、頬が紅潮する。
「宰相閣下って、誰なのかなぁ」
 口から零れたその問いの回答を、知りたいと強く願っていたわけではない。ただ、ジンが現れる寸前まで、一番疑問に思っていたことだった。その呟きに意味を持たせるとしたら、その程度のことでしかない。
「いや、気のせいだったらいいんだ。さっき、侍女の子……レンっていったっけ? あの子の声が聞こえて、宰相閣下が来るって言ってたような気がしたから。なんかの、聞き間違いかな」
「シファカ」
 ジンがシファカを呼び止める。
 そして、シファカの煩悶に応じるジンの声音は真剣だった。
「それ、俺のことだから」
 沈黙が。
 場を支配する。
 シファカは瞬いて、小首をかしげた。床に膝をついたまま、こちらを見上げてくるジンの眼差しは、怖いほどに真っ直ぐで、厳しかった。一体、何のことを言っているのだろう。胸の奥から競りあがってくる疑問を、口にすることもできぬほど、シファカは当惑していた。
 唾を嚥下する音だけが、響く。
 ジンが、シファカの手を握って、静かに繰り返した。
「俺の、ことなんだ」


 スクネから持ち込まれた仕事をようやく片付け、予定されていた会合をこなし、ラルトが奥の離宮に向かう頃には、日も沈もうとしていた。
 ティアレが目覚めて以後は、出来る限り食事を彼女と取ろうと努力している。もとより彼女との時間を作ろうと尽力していたことに変わりないのだが、多少仕事を放り投げてでも、ティアレとの時間を割くように心がけていた。
 痛い目を見たということもあるし、ティアレが妊娠しているということもある。日に日に丸みを帯びてくる腹を見ながらはらはらしているということもある。要するに、彼女の傍をあまり離れたくないのである。
 以前のように、仕事を詰め込みすぎずにすんでいるのは、やはりジンがいるということも大きかった。突如帰ってきた宰相に、部下たちからは戸惑いが見られなかったといえば嘘になる。しかし古参のものは彼らしいと嘆息をするだけですぐにジンの帰還を受け入れた。エイにも負担をかけ過ぎずに済む。これに、もう一人加われば――……皆、それなりに楽になるだろう。
 本殿の敷地から、奥の離宮の敷地へと入る。橋を渡りかけたところで、欄干に頬杖をついてぼんやりと川を眺めている人影を、ラルトは認めた。
 呼びかけようか迷い、結局そのまま歩み寄る。彼とて、ラルトの気配に気づいていないわけではないだろう。お互いに、人の気配には敏感なのだから。
「……どうしたんだ? こんなところで」
 隣に並んで、川を眺める。離宮と本殿の敷地を隔てている川は、夕焼けを映して美しい紅に色づいていた。川面は光を反射し、映りこむこちらの影を揺らしている。その影の片割れが、盛大な嘆息に肩を落とした。
「うーん。追い出された」
「誰に?」
「シファカに」
「……なんでまた?」
「いや、素性を話そうとしたら、どうも混乱されちゃったみたいで」
「するだろうな。というか、もう話そうとしたのか」
「レンちゃんが俺のこと宰相閣下って呼んだの聞いてたみたいでね。誰だろーとか言われたら、俺だよっていわにゃならんでしょ。変にごまかしたら余計にややこしいし」
「そうだな。変にごまかしたら確実に嫌われるな」
 ジンに倣って、橋の欄干に頬杖をつく。一方がばっと身を起こしたジンは、ひどく上ずった声を上げた。
「そそそそ、そんな縁起でもないことさらりといわんといてよラルト!」
「ははははははは」
「いや笑わないで!?」
「笑わずにいらいでか」
 この状況、笑わずにいられまい。何せ、ジンがシファカに自分の素性を一切話していなかったことに対しても、ラルトはひどく驚いたのだ。
「大体、何で話してやってなかったんだ? お前の素性を知ったところで、態度が変わるような子でもないんだろう?」
「うん……」
 曖昧に頷いたジンは、不意に屈みこんで橋の上に落ちていた小石を拾った。それを、川の中に投げ入れる。
 ぽちゃん、という音を立てて雫が跳ねた後、ジンは言った。
「怖かった」


「シファカ! 大丈夫か!?」
 ヒノトが、シファカの背をさすってなだめている。シファカは別段、恐慌状態に陥っているというわけではなかったが、ひどく混乱した様子で、己の肩を掻き抱いて震えていた。ジンがシファカに対して手荒なまねを働くとは考えられない。その問題のジンとは、ヒノトを伴い部屋に戻ろうとした折にすれ違っていたが、彼のほうもひどく消沈した様子で、疲れた様子で微笑んでティアレとヒノトにシファカの後を頼み、そのまま姿を消してしまっていた。
 一体、何がシファカとジンの間に、起こったというのだろうか。ヒノトになだめられているシファカを見守っていたティアレは、ふいにシファカと目が会った。
「……ティアレさん、ジンが、この国の宰相ってどういうこと?」
 その声は、困惑に震えている。ヒノトの身体に縋りつくようにして、シファカが叫んだ。
「あの人、一体誰!? あの人は、本当に私の知ってるジンなの!?」
「シファカさん、落ち着いてください」
 シファカの傍らに膝をつき、彼女の手を握り締める。ヒノトははらはらと気を揉んだ様子で、ティアレとシファカ、双方を見守っている。ヒノトに微笑みかけたティアレは、混乱からか目に涙を溜めている娘に視線を戻し、静かに言った。
「あの人は、ジン様です。貴方を愛し、貴方にずっと寄り添ってきた方に他なりません。……けれど」
 なんと、言えばよいのだろう。
 この運命の悪戯を説明する術を、ティアレは持たない。ティアレもまた、この自分たちを引き合わせた運命というものに、戦慄したのだから。
 結局、ティアレは事実そのままを、正直に告げることしか、できなかった。
「あの方は、確かにこの国の宰相です。そして、私の夫、ラルト・スヴェイン・リクルイトの、幼馴染にして、無二の親友……ジン・ストナー・シオファムエン閣下。その人に、他ならないのです」


「怖い?」
 幼馴染の言葉の意味を汲み取りきれず、ラルトは彼をまじまじと見返した。夕暮れに照らされた横顔は端整で、その眼差しは過去を思い返しているのか遠い。
「うん。怖かった」
「何が怖いんだ? 彼女の態度が変わること?」
「いや……なんていうか、贖罪に、巻き込むこと」
「はぁ?」
 ラルトは今度こそ、驚きと呆れに瞬きを繰り返し、半眼で彼を睨みつけていた。
「お前、旅をしながらそんなこと考えてたのか?」
「あのねぇ、そりゃぁそうでしょ」
「阿呆。もっと俺を恨んでもよかったんだ。お前を追い出したんだぞ。贖罪とかってなんだ贖罪って」
「いや、阿呆なのはラルトでしょ。追い出されても当然でしょ俺が罪を犯したんだからさ。ラルトの傍で贖罪が許されんのだったら、別の場所で償うのは当然でない?」
「当然じゃない」
「なんで!?」
「俺がそんな必要ないと思っているからだ」
 ラルトは、きっぱりと断言した。そう、ジンが罪を償おうとする必要などどこにもない。始まりは、自分にあった。
 だが、ジンはそれでは納得できないらしい。不服そうに顔をしかめて、彼は反論する。
「いや、ラルトが必要ないと思ってても、俺にはあるから」
「……平行線だな……」
 はぁ、と嘆息を零し、ラルトは再度川面を見やった。鮮やかな橙だった水面は、徐々に暗い群青に色を染め替えはじめている。それでもすぐに日は暮れない。夏に向けて、日は長くなるばかりだ。
「……でも俺は、お前がシファカさんに話してなくてよかったと思ってるけど」
 肩をすくめてそう告げると、恨めしげにジンがこちらを見返してくる。
「……今の状況が面白いって?」
「失礼だな」
 憤慨だ、と言外に告げて、ラルトは続けた。
「俺はお前ほどそこまで性格悪くないぞ」
「俺もそこまで性格悪くないよ」
「どうだか」
「それで、何で俺がシファカに素性話してなくてよかったって思うわけ?」
「だってお前、話してたらこっちに帰ってこなかっただろう」
 ジンの問いに、ラルトは即答した。一方のジンは、はぁ、と呻きながら眉間に皺を刻んでいる。
「いっとくけど俺、シファカに話してなくても帰ってくるつもりはなかったよ」
「そんなことは知ってる! 俺が言いたいのはそうじゃなくて……シファカさんに素性を話してたら、シファカさんはティアレに出逢うこともなかっただろうってことだ!」
 らしくないジンの察しの悪さに多少苛立ちを覚え、声を荒げながらラルトは言った。ジンはラルトの剣幕に対してか、それとも言葉の内容にか、なんにせよ、唖然とした様相で瞠目している。
「……は? どういうこと?」
 意味がわからないと、彼の表情が物語る。ラルトは空を仰いで、彼の問いにどう答えるべきか思案した。
「だからな、お前、この大陸に足を踏み入れたのは、偶然だと言ってただろう?」
「……うん」
 ジンが戻ってきてからこっち、あまり落ち着いて長話に興じたことはない。しかし事情ならば簡単ではあるが説明を受けている。
 シファカが誤って乗ってしまった無補給船が、ダッシリナ行きだったのだと聞いた。その後、すぐに西のほうへ抜けたがったジンと、彼の出身国だと聞いて水の帝国への興味を押さえ切れなかったシファカの間で口論となり、別れてしまったのだと。
「もし、お前が正直に旅のいきさつをシファカさんに話していたら、シファカさんはお前と口論して宿を飛び出すことはなかっただろうし、結果、ティーたちと出会うことはなかっただろう。お前やティー、ヒノトやウルの話を聞く限り、シファカさんは聡明な人なんだろう? お前の胸中を慮って、西に抜けたいというお前に賛同しただろうさ。そうすればシファカさんが巻き込まれ、中毒となってしまうこともなかった。そのシファカさんを抱えて、お前が、この国に戻ってくることも」
 一体どういう運命の悪戯か。果たして、ティアレとシファカは互いの立場を知らぬまま出会い、僅かな間に交友を深め、そして自分たちを引き合わせた。
「俺はお前が帰ってきてくれて、本当によかったと、思っている」
 それは、正直な気持ちだった。
 心からの、言葉だった。
「ウルも、似たようなこと、言ってたよ」
 ジンは胸苦しそうに顔をゆがめ、唇を引き結ぶ。その彼の横顔を眺めながら、ラルトは言葉を続けた。
「なぁ、ジン。……この国の呪いは、“あの晩”に確かに解かれた」
「俺が、ティーちゃんを殺そうとした日のことだよね?」
 ジンはあの日へと記憶をさかのぼろうとしているのか、瞼を下ろす。そして頷いた。
「うん、あの時、確かに呪いは解かれた」
 ティアレの魔女としての魔力が国を滑り、巣食っていた古い魔力を浚っていった。裏切りの呪いも、国を永劫たらしめていた、魔女の祝福も、あのときに消え去った。
 そのことを、自分たちは知っている。
 そしてジンは旅立ち、自分は玉座に残ったのだ。
「けれどジン、俺は思うよ」
 あの夜に見た、英雄と魔女、そしてレイヤーナの亡霊を思い返しながら、ラルトは呟く。
「呪いは、解かれていなかったんだ」
 そう。
 呪いは、解かれていなかった。
 自分も、ティアレも、まだ呪いに囚われたままだったのだ。
 ハルマ・トルマの古城で相対したラヴィの言葉を思い出す。民人の誰もが、もう呪いは解かれたのだと胸を張り、裏切りの帝国と銘を口にするものに怒りを顕わにするというのに、自分たち二人だけ、呪いに囚われたままだった。
「お前がいなくなってからも、俺は、裏切りの帝国の血塗られた玉座に君臨する裏切りの皇帝であり、そしてティアレは、ただ誰かを滅ぼすことしかできぬという意識を抱いた、滅びの魔女のままだった」
 それは、なぜか。
 何故、呪いの支柱が砕かれ、呪いが解かれたと知ってからも、自分たちは呪いに囚われたままだったのか。
 ティアレが目覚め、彼女が子供を生むことで呪いから解放されるのだとラルトに告げたとき、では自分は、一体どうすれば呪縛から解き放たれるのだろうかと考えた。
 そしてその答えは今、目の前にある。
「俺は思うんだ」
 ラルトは言った。
「俺は、裏切りによって壊れた絆を、修復していなかった。俺はお前を裏切りによって失って、結局それを取り戻せていないままだった。だからティアレも俺からお前を奪ったと自分を責めたし、そのことで、結局滅びしか招かぬ、誰かから何かを奪うことしかできぬ女なのかと、ティアレもまた呪いに囚われたままとなった」
 呪いによってつけられた傷は、いつまでもいつまでも、膿んで。
 優しく指先でなぞることなど、ついぞできなかった。跡などになりはしなかった。
 けれど今、ジンはここにいる。
「ジン、俺はお前がシファカさんに素性を話さなくて本当によかったと思ってる」
 ラルトは先ほどの言葉を繰り返した。
「その結果、お前と再会できたから」
 彼がここにいるのなら、傷は薄皮をかぶり、多少歪な形を残したとしても、思い返しても胸の痛まぬものとなる。
 ただ、幸せな未来に向かって、歩き出せる。
「もう、お前も贖罪なんてしなくていい。俺も、呪いなどに、囚われなくていい。俺もお前も、未来に向かって、歩き出せる」
 失ったものが、戻ってきたのだから。
 呪いを、憎まなくて、すむのだ。
「そうだろう?」
 ラルトの言葉に、ジンは頷かなかった。ただ、頼りない微笑を浮かべて、彼は川面に視線を落とす。
「……贖罪に巻き込みたくないから、怖いって、さっき言ったけど」
 橋の欄干を握り締めながら、ジンは言った。
「本当の理由は、別にあるんだ」
「……本当の理由?」
「見せるのが、嫌だったんだ」
 呟いたジンは、己の両手を広げて見やる。ラルトと同じく、政の徒であると同時に剣の徒でもある彼の手の皮膚は、硬く、そのあちこちに小さな傷跡がある。自分たちが幼く未熟な頃、誤って付けてしまった傷。
「浅ましくて、弱い過去を全部、彼女にさらけ出すことが怖かった。人を人とも思わぬ行為で落としいれ、この手を血で濡らしてきたこと。それはいいんだ。シファカに怖がられるかもって思うけど、後悔のないことだから。……けれど」
 一度言葉を切った彼は、その手で己の顔を覆った。
 指の隙間から、くぐもった声が、漏れる。
「レイヤーナを抱いてしまったこと。お前を裏切ってしまったこと。シノちゃんを巻き込んだこと。ティーちゃんを殺そうとしたこと。そういった顛末、全部、俺の弱さを見せることが怖かった。彼女に、失望されることが怖かった……!!」
 そうして、もし、彼女が自分から、離れていってしまったら。
 そう呟くジンを見つめ、ラルトは言った。
「浅ましくて弱くて、恰好悪いところ、女に見せたいなんて思う男は、どこにもいないさ、ジン。俺だってそうだから」
 向き合うことが怖かった。
 向き合って、自分の弱い部分を、ティアレにさらけ出すことが怖くて。
 怖くて。
「けれど、向き合わないほうが、ねじれて、最悪な形で、失うことのほうが多いんだ。きっと」
 ティアレと向かい合わずにいた自分は、彼女を失いかけた。彼女が自分にとってこれほどの意味を持つ前、出会ったばかりのころは、あれほどまで簡単に口論をすることができたのに。どうして傍にいればいるほど、大事にできないのだろう。向かい合うことが、難しくなっていくのだろう。
 それでも、後悔しないために。
 きちんと、相手を理解していくためには、ただ、向き合うしかない。
 目を上げて、相手を見るしか、ないのだ。
「ジン、ちゃんとシファカさんには、全部話せよ」
「判ってる」
「女は、きっと、俺たちが思っている以上に、気丈だよ」
 どんなに弱い自分を見せたところで、彼女たちは失望しない。自分たちが愛する女たちは、そんな女たちではないと、信じたい。
 向かい合わないときのほうが、きっと、女の精神を磨り潰していってしまうのだ。
 手から面を上げ、ラルトを見返したジンは、苦笑を浮かべながら言った。
「……それも、わかってる」
 ラルトはジンの肩を黙って抱いた。ぽんぽんとその肩を、軽く叩く。
「そういや俺たちって、こういうこと互いに話すの、初めてじゃないか?」
 ふと思い立って、ラルトはジンに尋ねた。すぐ間近の幼馴染の顔が、と突如転換された話題に戸惑いながら応じてくる。
「こういうことって女のこと? あぁ、そういえば、初めてかもねぇ」
 互いに女の悩みで相談しあうなどということはなかった。レイヤーナについては女というよりも家族であるという認識のほうが強かったし、彼女への対策を考える際にはシノも同席することが多かったからだ。
 こんなに長い間、時間を共にしてきて。
 まだ初めてのことがあるというのもおかしなことだ。
 ラルトは笑った。つられたように、ジンも笑い出す。最後にはげらげらと二人で声を上げて笑い、通りがかったシノに怪訝な顔をされる始末であった。
 二人でそんな風に笑ったのは。
 思えば、ジンがこの国に帰ってきて、初めてのことだったのだ。


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