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第二十二章 永久の誓い 5


 ぼそぼそと、話し声が聞こえる。
「長い、一月……」
「だろう?」
 女の声に、男が応じる。会話に混じって、かちゃかちゃという陶器の触れ合う音がしていた。
「……離宮に場所を移せるほど、回復もしたのに、どうして目覚めないのでしょう」
「俺も何度も同じことを思ったよ。お前のときに。熱も下がりきり、身体的には健康そのもので……」
「すみません。……様は?」
「執務室。……から、エイと……」
「あぁ。……大変ですわね」
「おかげで俺は楽だけど」
 くすくすという、忍び笑い。間を置いて、女が立ち上がり、それを、男の影が慌てて制する。
「まて、俺がやろう」
「えぇ? それぐらい、できますよ」
「身重なら、安静にしてろ」
「適度に運動しなければなりませんと、リョシュンもいっておりました」
 笑いを含んだその声に、聞き覚えが、ある。
「……れ、さ」
 呼びかけようとしたというのに、上手く、声を紡ぐことができなかった。
 喉がひどく渇いて、引き攣っている。幾度か咳き込み、身体を跳ねさせた。その都度、激しい疲労に襲われる。腕を持ち上げようとしたが、それも上手くいかなかった。全身に、力が入らない。
 一体、自分の身に何が起こったのだろう。
 ここは、どこ――……。
「シファカさん」
 傍らにいた女が、こちらの手を取り、微笑む。彼女の隣に並んでいた男が喜色を浮かべて背を向けた。
「ジンを呼んでこよう」
 ジン。
 あぁ、彼。
 どこだろう。
 今。
 朦朧とした意識が、男を呼び止めようとする意思を阻む。結局男はそのまま退室してしまった。女が、こちらの手を温めるように摩った。
「よかった。シファカさん、私が誰だか……いえ、ご自分が誰だか、お判りになられますか?」
「……しふぁ、か……めれん、でぃ、な……」
 シファカ・メレンディーナ。
 生れ落ちてからずっと付き合っている名前を紡ぐと、満足そうに女は笑みを深くする。美しい女だ。笑うだけで、こちらの心が温まる。
「……ティアレ、さ……」
 少し声を出すことにも慣れてきたのか、先ほどよりもはっきりと声を紡ぐことに成功した。女は目を細めて、はい、と頷いた。
「ティアレです。また、会えましたね、シファカさん」
 ゆるく巻かれた、鮮やかな緋色の髪。色移ろう、銀がかった優しい瞳。神の指先の跡が覗く美しい造作。
 初めて会ったときよりもかなり上質と窺える布地で作られた衣装を身につけている。刺繍も何もない淡い桃色の衣装は、豪奢ではないものの、ティアレの髪の色をよく引き立てていた。髪に挿された黒塗りの簪が、全体の雰囲気を引き締めてみせている。
 見るからに、高貴な身分だとわからせる、空気。
 その彼女が、穏やかに微笑んで、シファカを見守っている。
「ここ……はっ……げほっごほっ!」
「大丈夫ですかっ?」
 上半身を起こしながら咳き込むシファカの背を、ティアレが摩った。彼女はティアレの背に片手を差し入れたまま、もう片方の空いた手を棚に伸ばす。そこに置かれた盆の上から取り上げた陶器を、彼女はシファカの口に当てた。ぼやけた視界の中で陶器の輪郭を捉えたシファカは、それがすいのみだと理解する。
 胃の腑に落ちていく水分に、ずいぶんと気持ちが落ち着いた。シファカの呼吸が整うのを見計らって、ティアレが腕を支えに、ゆっくりとシファカの身体を横たえさせる。
「わたし……どうしたん、だっけ?」
 記憶がひどく曖昧だった。ティアレと出会ったことは覚えている。ヒノトが、菓子を食べて、彼女の思い人に関する愚痴を漏らしていたことも。はて、自分はどこで彼女たちに出会ったのか。いや、そもそもここはどこで。
 あぁそうだ。
 ジンはどうしたのだろう。どうして、自分はジンと別れ、ティアレたちと食事を共にしていたのだろう。
 ずきりと頭の一角が痛む。
 その痛みに顔をしかめたシファカの額を、ティアレのひやりとした手が撫でた。
「もう少し、休まれるといいですよ、シファカさん」
 微笑んで、彼女は言った。
「私も目覚めてすぐ、起き上がることは無理でしたから。食欲はありますか? 重湯を持ってきましょう。少しお腹を温めて、喉を潤して……話は、落ち着いてからでも遅くはありません。ヒノトもすぐに来ると思います。……あぁ、ヒノトが誰だか、お判りになられますか?」
「……わかる……」
 シファカが頷くと、ティアレは立ち上がった。
「少し、待っていてくださいね」
 そういい置いて、彼女は駆け足で部屋を出て行く。
「レン! レン! いますか――!?」
 誰かを呼びながら姿を消すティアレを見つめながら、シファカは静かに目を閉じた。
 もう、眠ることに飽きた。そう思いながら、とろとろとした眠りが、再度シファカを包んでいった。


「陛下! 陛下! どうかお願いします話を!」
「後にしてくれ! 俺は忙しい!」
 ジンにこの朗報を早く届けてやろう、と意気込み奥の離宮を出たはよいが、そこで鉢合わせしたのは大勢の文官だった。揃って皆悲壮な顔をしているものだから、ある程度火急の用件だということは明白だ。だから一つ聞けば先にそちらの処理に取り掛からなければならないということはわかっていた。所詮、自分はそういう人間だ。
 取り付いてくる文官たちを引きずり倒す勢いで廊下を駆けていたラルトは、道の先にスクネを見つけて安堵した。彼ならばシファカの事情を知っている。事情を知らぬ人間に安易にシファカの存在を匂わせてはならないが、スクネにならば託を頼んでも大丈夫だろう。
 と、思ったもつかの間。
「陛下! 大変でございます!」
 他の文官と同じく、蒼白な顔で駆け寄ってくる彼に、ラルトは思わず叫んでいた。
「お前もかっ!?」


 シファカの意識をはっきりと覚醒させたのは、女官が台車を引いてくる音だった。彼女がティアレの指示に従って何事かを済ませ退室していくと、シファカはティアレの手を借りて上半身を起こした。ずいぶんと筋肉が萎えていて、自分ひとりの腕の力で、上手く起き上がることができなかったのだ。
「じゃぁここは、水の帝国なの?」
 椀一杯の重湯だけをひとまず口にしているシファカの問いに、ティアレはお茶を淹れながら頷いた。
「はい。私の暮らしている、奥の離宮という場所です」
「……さっき来た子は?」
 重湯を載せた盆と茶道具、ティアレのための果物を台車に載せて持ち込んだ少女を思い返しながらシファカは尋ねた。
「私の侍女ですね。レンといいます。彼女も忙しい身ですから、こちらに常駐しているわけではないのですが。この離宮に立ち入りを許されている女官は六人いまして、交代で一人、この離宮にいてくれます。また後ほど、ご紹介いたしましょう」
 空になった椀を引き取ったティアレが、どうぞ、と茶の入った湯のみを差し出してくる。それを受け取りながら、シファカは問いをもう一つ口にした。
「さっき、一緒にいた男の人は?」
 シファカが目覚めたとき、ティアレは男と言葉を交わしていた。すぐに彼は部屋を出て行ってしまったので、その容姿を確認することはできなかったが。
「私の夫です」
 微笑んで、ティアレが答える。
「あのひとが?」
 低いが耳に触りのよい声で、柔らかくティアレに話しかけていた。あぁ、愛されているのだ。そういうことが判る声だ。
「そっか……」
 先ほどは、しっかりと顔を合わせることもできなかった。この国は男が世帯主になるのだと聞いている。ということはこの館の主もティアレの夫である彼だということだ。世話になっていることに対して、挨拶しなければならないだろう。
「忙しい人ですから、ジン様を呼びにいって戻らないところをみると、多分そのまま仕事に捕まったのでしょう。また、顔を見せるとは思いますけれど」
「……ジン? ジンって」
「宿に待たせていると貴方がいっていた、貴方の旅の連れの方ですよ」
「……彼も、ここにいるのか?」
 ぱちぱちと目を瞬かせながら、シファカは確認の声を上げた。はい、とティアレは力強く肯定を示す。どのようにして、彼女らはジンを探し当てたのだろう。泊まっている宿のことまで、自分は口にしなかったというのに。
「しらみつぶしに宿を探したの?」
「はい? しらみつぶし、ですか?」
 何のことだと小首を傾げるティアレの反応を見る限り、どうやら違うらしい。もしくは、ティアレ自身は捜索に関わらなかったのかもしれない。
 自分はダッシリナのとある館にて、もう意識がない状態で発見されたのだと聞いた。そんな状態から、ジンの居場所を聞き出すことなど不可能だろう。誰かが、探したのだ。シファカがティアレとヒノトに話した、彼の容姿を頼りに。
「私を探しあてたのって誰?」
「ウルです。失せ物探しが得意ですから」
 あぁ、そのようなことを確か前にも言っていた。人の良さそうなティアレの従者を、シファカは思い返す。
「ウルは元気? 彼もいるんだよね?」
「えぇ。ですが今は少し、外に出ていると聞いています。戻るのは数日後だと。シファカさんが目覚めたと聞けば、ウルも喜びますよ。とても心配していましたから」
 それはそうだろう。日付を聞けば、今日はティアレと初めて出逢った日から二ヶ月半が経過している。それほどまで長い間、どうして眠っていることができたのか、一体自分の身体に何が起こったのか、はなはだ疑問だ。しかし仔細に関してティアレは口を開こうとはしない。もし尋ねるのであれば、姿を見せるだろうヒノトに、とティアレはいうのだ。
「そういえば、ジン様、遅いですわね」
「あ? あぁ……うん」
 ジンがどこに控えているのかは知らないが、ティアレの夫が彼を呼びに行ってから、もうずいぶん時間が経っているような気がする。
「ジン様も、お仕事に捕まっていなければよいのですけれど」
「え? ジンも仕事してるの?」
 驚きから、思わず問いかけてはみたものの、考えれば当然のことである。シファカはもうずいぶんとこの館の世話になっているようだった。ならば出来る範囲でジンが手伝うのも当然のことだろう。あの男は奇妙なほどに多分野にかけて器用なものだから、重宝がられていることは想像に難くない。
「えぇ」
 ティアレは微笑む。
「さすがに、色々な様式が変わったものですから、戸惑われることも多いようですが」
 ティアレの言葉の、意味がわからない。
 シファカは、盛大に首を捻った。
「……はい?」


「ジン!」
 執務室に飛び込み、ラルトは後ろ手に乱暴に扉を閉めた。その扉の向こうでは、火急の裁可を求める文官たちの気配がひしめいている。もう少しは自分で処理することを覚えろと毒づきたくなりながら、ラルトは大きく嘆息した。スクネの用件を道すがら聞く限り、確かにのっぴきならぬ状況だったからだ。ジンを送り出した後は、エイと二人でそちらの処理に当たらねばならないだろう。イルバにも手伝わせるか。
「ど、どうなさったのですか? 陛下」
 ラルトの胸中での算段を中断したのは、エイの上ずった声で問いかけである。執務室にはエイとジンが詰めていて、それぞれの席について事務処理を行っている最中だった。その二人とも、手を止めて目を丸めた様子でこちらを見返している。
 ラルトは空気を求めて喘ぎ、肩を大きく揺らすとジンに歩み寄った。
「ジン」
 怪訝そうな様子で首を傾げている幼馴染に、ラルトは微笑みかけた。
「目が、覚めたぞ」


 ラルトからの報告を受けて即座、ジンは執務室を飛び出した。執務室の周囲に集まっていた文官たちに首を傾げたが、ラルトが放っていけというのだから仕方がない。彼らを置き去りにして真っ直ぐに奥の離宮へと足を運ぶ。あとで彼らには、仔細を聞くことになるだろう。
 本殿を抜け、離宮の敷地に入るための橋を渡る。奥の離宮が見えてきたところで、ジンは自分の足が、徐々に鈍っていくことに気がついていた。
 日差しは夏に向かって徐々に鋭くなっている。庭には美しい花々が咲き乱れていた。今年の春は、長い間冬のようだったと女官たちは言う。初夏を寸前にして、先日から蕾を綻ばせる、大層寝坊助な花が目立ち、濃い新緑の匂いが薫っていた。それらを横目に、館に入る。汗ばむ陽気の外から一転し、日陰は吹き込む風が涼しく心地よかった。
 シファカの部屋は奥の離宮の中でも奥まった場所にある。ティアレの部屋についで、方角と日当たりのよい場所を割り当てられていた。シファカを本殿から奥の離宮へと移したのは、こちらのほうが人目につかないということもあるし、ティアレが世話をしたがったということもある。実際、こちらのほうが静かで、静養もしやすいと思えた。警備の結界が張ってあるために、許可を得ているもの以外立ち入ることも出来ず、安全である。ティアレと初めて出会ったときのラルトが真っ先にこちらを静養先として選び、彼女を運ばせたときの気持ちが、今なら少し理解できる。
 足は徐々に鈍り、とうとう、シファカの部屋を前にして、止まってしまった。
 それは、本当に彼女が目覚めたのだろうかという不安、そして目覚めた彼女が、自分を認識できるのだろうかという懸念からくるものだった。麻薬の中毒に陥っていたものが、精神を患うことはよくある。もし仮に、自分を認識できぬ彼女を見たとして、果たして自分は耐えられるのだろうか。
「……閣下?」
 部屋の前で煩悶していたジンに声をかけてきたのは、待機のための小部屋から顔を出した女官である。ジンにとってはあまりなじみのない幼い顔の女官だ。最近奥の離宮への入館を許可された新参だという。しかし顔立ちが現す年に似合わぬ、冷静な眼差しと隙のない足取りが、彼女を有能だと知らしめる。出自も異質。もとは暗殺方の人間だったという。奥の離宮に仕えるほかの女官と異なり、役職を頂いていない彼女が、ティアレの護衛をかねて詰めていることが多かった。
 その女官、レンは、沈黙するジンを見て、一人納得したように頷いて見せた。
「シファカ様が目覚められたと陛下からお聞きになったのですね」
「あ……あぁ、うん」
「今、ティアレ様とお食事をなさっております」
 女官としてはどこか愛想の欠ける声音で淡々と言葉を紡いだレンは、詰め所から出てくるとそのまま隣の部屋の戸を叩いた。
「ティアレ様」


 戸を叩く音がする。
「ティアレ様」
「はい」
 あの声は、レンの声だ。シファカは呼びかけに応じ、立ち上がるティアレを見つめながらぼんやりとシファカは思った。
「宰相閣下がおいででございます」
「あぁ……はい」
 部屋の外へと通じているらしい居間のほうへ足を伸ばすティアレを視線で追いながら、聞こえてきた言葉にシファカはぎょっと目を剥いた。宰相閣下。そんな呼び方をされる人間は、どの国でもたった一人だろう。いくら高位の貴族に智将めいた人がいたとしても、宰相などと呼ばれはしまい。ということは、この部屋を今訪ねている人間は、世界で最古の帝国、ブルークリッカァの、宰相その人ということになる。
 奥の部屋から、ぼそぼそと話し声が聞こえる。何を話しているのかは判らない。よく通るティアレの声だけが途切れ途切れに耳に入った。どうやら彼女は、今のシファカの容態を説明しているようである。
 程なくして、ティアレが笑顔で、男を伴って姿を見せた。
「……え?」
 この国の高貴な人間が現れるのだと予想して身を硬くしていたシファカは、ティアレの背後から音もなく姿を見せた男に、思わずぽかんと口を開けて呆けてしまった。
「……ジン?」
 シファカの呼びかけに、男は泣き出しそうな微笑を浮かべてみせた。
 ティアレの隣に佇む男は、確かにジンである。
 金に程近い亜麻色の髪と瞳。西大陸の特徴を色濃く残す、整った甘い顔立ちや、いとおしげに目を細めて笑う様も全てシファカの記憶にある彼そのままだ。
 しかし、一瞬、見間違えた。
 というのも、彼がまるで遠いどこかの住人になってしまったかのように、上質の衣装を身に纏い、ティアレの傍らに佇んでいたからだった。
(それに、宰相閣下って)
 女官の報告は、確かにこの部屋に訪れた人間が、この国の高貴な人間であることを告げていたのに。
 それとも、シファカの聞き間違いだったのだろうか。
「ジン様」
 ティアレは言った。
「茶葉が切れてしまいましたので、今からお持ちいたします。……ラルトは仕事に戻ったのですか?」
「うん。ちょっと面倒なことが起こったみたいでさ。エイと一緒に、今処理してる。片付いたらこっちくると思うよ」
「判りました。何かありましたら、呼んでくださいね。……シファカさん」
「は、はい!」
 唐突に話を振られて、シファカは慌てて居住まいを正した。そう慌てなくとも。そんなティアレの呟きが聞こえ、くすくすと笑い声が響く。
「また、すぐに戻ってまいりますので」
 失礼いたします。そう、礼を取るティアレの所作は実に優雅だった。
 衣擦れの音を響かせて、ティアレが退室していく。
 静寂の訪れた部屋に、こつり、と足音が響いた。
「……シファカ」
 気がつけば、目の前に、男の姿がある。
 ひやりとした手が、頬に触れる。その手の温度はとても懐かしいもののはずなのに、なぜか自然と身体が強張った。
 その強張りが、伝わったのだろう。ジンは手を引きその場に跪いて、シファカを見上げてくる。
「……大丈夫?」
「あ、うん……だい、じょうぶ」
 ジンの問いに応じる最中も、シファカは違和感を拭えなかった。
 それは彼が見慣れぬ異国の服を、これ以上ないほど見事に着こなしていたからかもしれない。ジンは大抵、簡素な衣服を好む。それは傭兵などという、動きが鈍れば死に直結しかねないことを生業としていたからかもしれないが、休日においても彼は簡素な、いつでも出立できる装束を身に付けていた。時折、ジンの所作を気に入った貴族などから、屋敷に招かれることもあったが、ジンは簡素な身なりだと不敬に当たる場所に引き出されない限りは、用意された衣服を身に付けることを大抵拒んだ。夜の王国ガヤの城の中においてさえ、あの国の第一王子であったアレクに散々文句を言われながら、平服でうろうろしていたのである。
 だというのに、何故。
 何故、彼は。
 艶やかとすら思える、密やかに美しい刺繍の施された深い藍の衣装を身につけている。光沢のあるその布地の種類をシファカは判別できない。しかし、平民がそうそう着用を許されていいものでもないということは理解していた。
 そこにいる人は確かに、シファカの愛しい男に相違ないのに。
 知らない人に、見える。
 彼の唇が何かを紡ぐよりも早く、シファカは頭を寝台の上に叩きつける勢いで、頭を下げていた。
「ごめん!!!!」
 唐突過ぎるシファカの謝罪に、ジンは少々面食らったようである。瞬く彼に、シファカは思いつくまま言葉を紡いでいた。
「ほ、本気、心配かけてごめん! 本当にごめん! 私二ヶ月半ぐらい眠ってたって、ティアレさんから聞いたんだけど……あ、いや、そもそも夕方まで戻るっていってたのに全然戻んなくて、ほんっとーにごめん!! まさかこんなことになるとは、思っていなくて――……」
 畳み掛けるようなシファカの謝罪に、ジンは呆気に取られたらしい。唖然とした表情の彼の眦に浮かぶ雫も、行き場を失っていると見える。しばし間を空けて、ジンはぷっと吹き出した。
「あーもーやだねぇ何この子! 心配してたって、言わせてよ! 起き掛けにそんだけしゃべれたら、充分だよねぇ!?」
 あははと腹を抱えて笑ったジンは、初めて出会った頃のように、実に軽薄な調子でシファカの肩を抱き寄せる。あっという間に慣れた男の匂いに包まれたシファカは、息苦しさに瞬きを繰り返して、背中を叩いた。
「ちょっ、ジン!」
 抱きしめる力が、強すぎる。
 力強い手が、シファカの肩を、骨が軋むほどの力で握り締めている。腰を抱く手も、爪を立てているのではないかというほどだ。肩口に鼻先を押し付けられて、上手く呼吸もできない。
 どうにか身をよじり、空気の通り道を確保しようともがいていると、男の掠れた声が耳朶を打った。
「……良かった……」
 先ほどの笑い声は、一体どこへいったのだろう。
 ジンの声音は、まるで霞のように消え入りそうで、儚い。シファカの存在を確かめるように強く抱きしめてくる腕からは、二度と放すまいという意思が汲み取れる。
「……ジン……」
 子供のようにシファカにすがり付いている男の髪に、指を差し入れながら、シファカはもう一度、謝罪の言葉を口にした。
「……ごめんね?」
 シファカの言葉に、ジンは答えない。身じろぎをするように、頭を左右に振るだけだ。
 泣いている。
 それだけは、判った。
 くぐもった嗚咽が、部屋に反響したからだった。
 ジンが泣くなど、今までに幾度あっただろう。彼はいつも冷徹だった。泣くことなど今だかつて一度も――いや、ただ一度だけ。夜の王国ガヤで、雪崩に巻き込まれてシファカが死に掛けた、あの一度だけ。
 死に掛けていたのだ、と、シファカは思った。
 やせ細って上手く言うことを聞かない手足や、与えられる重湯、ティアレの話からも、自分が本当に死に掛けていたのだということはよくわかる。声を紡ぐことも億劫で、実は今もひどく眠い。まだ、夢うつつの中にあるように。
 けれどそういったものごと以上に、衣服をじわりと濡らすジンの涙が、自分は本当に死に掛けていたのだということを実感させた。
 シファカは繰り返した。
「ごめんね、ジン……」


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