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第二十二章 永久の誓い 4


 設えられた寝台の横、何か書き物をしながら椅子に腰掛けていた少女は、叩扉の返事も待たずに開かれた扉に驚いたように立ち上がっていた。そしてラルトに抱きかかえられたティアレの姿を認めたその大きな翠の瞳が、さらに見開かれる。その顔をくしゃりと歪め、椅子を避けることももどかしそうに足を動かすと、少女は腕を広げティアレに駆け寄ってきた。
「……っ! ティアレ!」
「ヒノト!」
 ラルトによってそっと地に下ろされる。ティアレが膝をついて腕を広げると、その中に少女の華奢な身体が飛び込んできた。
「ティアレ、よかった。無事で、本当に、よかった……!」
 震えた声で、幾度も良かったと繰り返すヒノトを抱きしめ返しながら、ティアレは呻いた。
「ごめんなさい……!」
 銀の髪に頬を押し当て、彼女を抱きしめる腕にティアレは力を込める。どれほど心配させただろう。どれほど不安に思わせただろう。ラルトや、シノを筆頭とした奥の離宮の女官たちを除けば、ティアレにとってヒノトは一番近しい存在だった。ティアレの身と心を案じて、危険を冒してまでこの城からティアレを連れ出してくれたのは、他でもない彼女だったのだ。結果、様々な苦難が降りかかり、ティアレは長い間目覚めることができなかった。この優しい少女は、どれほど己を責めただろうか。
 ティアレにしがみつき震えていたヒノトは、やがて鼻をすすりながら身を起こした。
「リョシュンから聞いた。もう、どこも、悪くないのじゃろう?」
「……はい」
 あれだけ長い昏睡に陥っていたのだから、普通なら気だるさのようなものがしばらくは付いて回るはずだ。しかし今のティアレにはそれすらない。いまだかつてないほど、身の軽さを覚えている。本当に、何もなくなってしまったのだろう。ティアレの身を脅かすものが。
 面を上げたヒノトが、くしゃくしゃな笑顔を浮かべて、言う。
「よかったなぁ、ティアレ!」
 指の腹で、ヒノトの目元に浮かぶ雫を拭ってやりながら、ティアレは微笑み返した。
「はい……!」
 目を合わせて微笑みあった後ヒノトは立ち上がり、ティアレから一歩退いた。ティアレの背後にて一連を傍観していたラルトに、彼女は向き直る。
「ラルト、仕事のほうはよいのか?」
「今日は皆に押し付けてきた。良いだろう、一日ぐらい」
 ラルトの返答に、ヒノトが満足そうな笑みを浮かべる。
「前からそうしておればよかったのじゃ」
 彼女が付け加えた苦言は、意地悪だろう。しかしラルトは苦笑を浮かべただけで、何もヒノトには反論しなかった。
「ヒノト、貴方はここで一体何をしているのですか?」
 問いかけながら、ティアレはヒノトの肩越しに部屋に視線を巡らせた。窓の大きく取られた部屋は明るい。調度品も上質のものをそろえた、来客用の部屋である。しかしこの部屋は本殿の中でも滅多に人の立ち入らぬ一角にあって、ティアレ自身、こちらには初めて足を踏み入れたようなものだった。
「……看病じゃよ」
「看病?」
 鸚鵡返しに問い返す。ヒノトは解説を始める代わりに、黙ってティアレの手を引いた。頭上に疑問符を浮かべ、ティアレは思わずラルトを振り返る。しかし彼は扉の傍で腕を組んだまま、寝台のほうを顎で示唆した。仕方なく、ヒノトの先導に黙って従う。
 初めはわからなかったヒノトの行動の意味も、歩を進めるにつれて徐々に明らかになった。
 温かな春の陽光が窓から差込み、寝台の足元を照らしている。美しい刺繍の施された掛け布に、黒曜石の色の長い髪が散らばって、光の残滓を照り返していた。硬く閉じられた目元。ゆっくりと上下する胸元。しかし、その主は目覚める気配がない。
 ヒノトの足が、寝台の傍らで止まる。その横に並んで、ティアレは口元を押さえながら、かみ合わせた歯の狭間から声を搾り出すようにして呻いた。
「……シファカ、さん?」
 寝台の上で眠る女は、シファカ。
 そう、シファカだ。ダッシリナで別れ別れになり、生死がわからなかったあの優しい旅人だ。
「彼女は……」
 驚愕に、問いすらきちんと形を成さぬ。もし単純に、シファカがこの場所で眠っているだけだというのなら、ティアレは素直に彼女との再会を喜んだだろう。しかし、ヒノトはこう言っていたのだ。
 看病、と。
 その言葉は、シファカが何か病か怪我を得ていることを意味する。
「麻薬の中毒になっておってのう」
「……まや、く」
 聞きなれない言葉に、ティアレは呆然とする。
「月光草というのは知っておるか? ほら、エイが妾の国に来るきっかけとなった水煙草の形をとった麻薬じゃ。それを改造した物の、急性中毒にシファカは陥ったらしい」
「……それは、わたしの、せい?」
 ティアレを、襲撃者の手から守ろうとした結果、彼女は捕らえられてそのように拷問を受けたのか。
 ありうる想像に立ちすくんでいたティアレの手を握り、ヒノトはゆっくりと首を横に振った。
「いいや、違う。ティアレ、おんしのせいでは、ない」
「貴方の責任に、されても、いませんか?」
 ティアレの問いに虚を付かれた表情を浮かべてヒノトが面を上げる。彼女は曖昧に微笑んで、シファカに視線を戻した。
「最初はひどかったが、今は徐々に快癒へと向かっておる。薬もほぼ抜けて……ほら、部屋に、もう水煙草は焚かれておらぬじゃろう?」
 通常、中毒に陥った人間を治癒する際に、突如薬を絶ってやることはできない。禁断症状を起こしてしまうからだ。麻薬を焚かずに済んでいるということは、確かにシファカの状態は快方に向かっているといえるのだろう。しかしヒノトの言葉の裏を返せば、麻薬を常に焚かねばならぬほど、ひどい中毒状態にあったということだった。
 言うべき言葉を捜していたティアレは、ふと、扉を軽く叩く音を耳にした。来客だ。
 何気なく、振り返る。そして開いた扉からまもなく姿を現した男に、ティアレは驚愕の眼差しを向けざるを得なかった。
「……え?」
 肩越しに扉を振り返ったまま、きちんと向き直ることすら忘れて、ティアレはその場に凍てついた。新しい来訪者は後ろ手に扉を閉じ、ティアレと視線を合わせてくる。しばしの沈黙の後、彼は気まずそうな表情を浮かべて、ティアレに言った。
「久しぶり」
「……あ、はい……」
「今日、目が覚めたばっかりだって聞いたけど、気分はどう?」
「悪くは、ない、です……が」
 受動的に返答しながら、ティアレは幾度も瞬きを繰り返す。これは、夢だろうか。今同じ室内に佇む男は、幻だろうか。
「……ジン、様?」
 まるで亡霊でも見た気分で、恐々と名前を口にすると、来訪者は肯定に小さく顎を引いた。
「うん」
 光の入り方次第で、金にも見える色素の薄い亜麻の髪と瞳。身につけているものはこの国の上級官職の人間によく見られる袍と上着だ。ただ、以前のような道化じみた派手なものではない。袍は無地の蘇芳、帯は黒。生成りの生地に浅黄と鶯の糸で刺繍の施された、落ち着いた上着を身につけている。
 二の句を告げずに呆然と立ち尽くすティアレを観察したジンは、くるりとラルトに向き直り、半眼で彼を睨めつけた。
「ラルトぉ、もしかしてティーちゃんに俺のこと言ってなかったの?」
「あぁ」
 腕を組んだまま壁に背を預けていたラルトは、ジンの視線を涼しい顔で受け流しながら小さく頷いた。
「どこから説明していいのか、判らなかったしな。こんなに早く鉢合わせするとも思わなかったし」
「嘘つくんじゃないよ。ここにティーちゃん連れてきたら俺と鉢合わせする可能性が高いの、わかってるはずじゃんね。どうせ説明するのが面倒くさくて、引き合わせたほうが色々理解するに手っ取り早いって魂胆だったんでしょ?」
「説明はするつもりでいたさ。会わせたほうが早そうだとは思ったけどな。面倒臭がってなんかいないぞ」
「一緒じゃんソレ」
 はは、と笑うジンに、ラルトもまた微笑を返す。その、気の置けない雰囲気を目の当たりにしながら、ティアレはあぁ本当に、ジンなのだと納得していた。
 ラルトとこんな風に打ち解けて、軽口の応酬めいた会話を交わすことなど、幼馴染であるジンのほか誰もできない。
 ジンは、帰ってきたのだ。
「……お帰りなさいませ」
 蜻蛉の羽音のような声量で、ティアレはそっと囁いた。耳ざとくその微かな声を拾い上げたジンが、肩をすくめてぎこちなく微笑む。
「うん。ただいま」
 彼の微笑は、とても穏やかだった。
 その笑みを見つめながら、しかし、とティアレは考える。
 ジンがこの国に戻ったことは心から喜ばしいことだけれども、理由なく彼が戻ってくるとは到底思えない。戻るつもりであったなら、とうの昔に帰ってきている。ジンは、二度と戻らぬ覚悟でこの国を出奔したはずだ。だからこそティアレはずっとラルトからジンを奪ったと、思い続けてきたのだ。
 その胸の内が、顔に出ていたのかもしれない。ジンは苦笑を浮かべ、再びラルトを省みた。
「ラルト、悪いけどさぁ、席外してくれない?」
「話なら後にしろ。ティーは病み上がりだぞ」
「そんなに長話にはならないよ」
「俺の前じゃだめなのか?」
「んー……出来れば席はずして欲しい」
 ジンの主張に、ラルトの表情は硬い。許可を出すべきか否か逡巡するラルトに声をかけたのは、ヒノトだった。
「ラルト、妾がティアレについておるよ」
「ヒノト……?」
 首を傾げるラルトに、ヒノトはにこりと笑いかける。
「妾は出て行けといわれておらんからの。じゃから妾がラルトの代わりに、ジンがティアレに変なことをいうとらんか見張っておく」
 ジンは単純に、ヒノトについては言及し忘れていただけだろう。彼としては、当然ヒノトにも退室を促すつもりであったに違いない。しかしヒノトは、彼に口を挟む余地を与えなかった。
「どうせシファカについての話じゃろう。シファカが妾たちに悪口をゆうておらんのか、探りを入れたいだけじゃろうて。それをラルト、おんしには聞かれたくないのじゃよ、恥ずかしくて」
 ヒノトの口元は、意地悪な微笑に彩られている。ヒノトの言い訳をラルトとて信じたわけではあるまい。ただ、彼女の笑顔には根負けしたらしく、ラルトは嘆息を吐き出すと共に肩を落としていた。
「ティーはいいのか?」
 体調を案じてくる彼に、ティアレは頷いてみせた。
「大丈夫です」
 ラルトはまだ少し釈然としない様子だ。しかしひとまずは折れることにしたらしい。彼は首だけを動かしてジンに向き直る。
「その辺りをぶらついてくればいいか?」
「暇ならイルバんとこに行ってやって。探してたよ、ラルトのこと。例の件で」
「……あぁ、そうか。そういえばまだだったな。じゃぁそうしよう」
 時間の潰し方を決めたらしいラルトは、壁から背を離して踵を返した。扉の取っ手に手を掛けた彼は一度足を止め、ティアレに微笑んでくる。
「無理をするなよ。疲れたら、ジンを殴っても休め」
「いや、さすがにそんなに長話しないし。ティーちゃんの身体ぐらい労わるし」
 ぱたぱたと手を左右に振りながら、ジンが呻く。彼のその様子に笑い声を立てたラルトは、また迎えにくるとティアレに言い置いて、部屋を出て行ったのだった。


「さて」
 ラルトが部屋を出てしばらくしてから、まず沈黙を破ったのはヒノトだった。
「どれぐらいがよい? 薬草園を見に行って戻ってくるぐらいでよいかのう?」
 ジンを見張るとラルトに断言したその舌の根も乾かぬうちに、ヒノトが退室の意図を暗に含ませながら発言する。驚きに瞠目するティアレをよそに、ジンの顔は涼しげだった。
「そうだねぇ。でも俺、そんなに長話するつもりはないし、あまり遅くなるとラルトのほうが先に戻ってくるだろうからね。任せるよ」
「判った」
 大きく頷いたヒノトは、椅子の上に置かれていた本と筆記具を手に取り、椅子の足下に置かれていた手提げの中にそれらを放り込んだ。手早く移動の準備を済ませた彼女は、シファカの顔色を観察し、脈を計る。大きく頷き、シファカの手を再び布団の中に戻したヒノトは、ティアレに向き直ると、人差し指を立てて神妙に言った。
「よいか、ティアレ。ジンに何かされそうになったら、大声で叫ぶのじゃぞ」
「わ、かりました……」
「何かって何? 何かって。もう何で俺付き合い浅い人にまで信用がないの?」
 嘆息交じりに呻くジンを、ヒノトはおかしそうに笑う。彼女はそのまま手提げ袋を小脇に抱えて、部屋を出て行った。
 静かに閉じられた扉を、二人で眺める。ジンが呟きを落としたのは、それからしばらくしてのことだった。
「頭いい子だよねぇ、彼女」
「え?」
 思わず聞き返したティアレに、ジンが微笑む。
「自分の役割を判ってる。あぁいうふうにさ、自分を犠牲にして立ち回れる子、なかなかいないと思うよ。医者見習いだっけ? もったいないねぇ」
 部下に欲しいぐらいだよ、とジンは言う。そんな風に彼が批評するのも珍しい。ぼんやりとその横顔をティアレが見つめていると、彼はふいに身を翻して椅子を引いた。
「どうぞ。座りなよ」
「え? いえでも」
 椅子は一つしかないのに。ティアレがそう口にしようとすると、ジンは苦笑した。
「病み上がりのティーちゃんいつまでも立たせてちゃ、それこそラルトに殴られる。気分悪くない? いいから楽にしてて。お茶を淹れよう」
 ジンはそういいながらすでに、熱の招力石を湯瓶の中に放り込んでいた。それと並行して、茶瓶の中に茶葉を匙で量り入れている。手馴れた様子で動くこの国の宰相を改めて見つめながら、ティアレは胸の内に湧き上がってくる疑問のどれを口に出そうか悩んだ。
「……ジン様は、いつこちらにお戻りになられたのですか?」
「んー。日数的に言ったら、一月ほどまえ」
「……ひ、一月!?」
 ティアレは、決してジンが戻ってからもうそれほどの時間が流れていたのだという事実に対して声を上げたのではなかった。ジンの言葉の裏が意味するところ、つまり、それほどまで長い間、自分は眠り続けていたのだという事実に対してだった。
 驚愕に口元を押さえて青ざめる。ラルトやシノが、死んでしまうかと思ったと口にした理由を、ティアレは今ようやっと本当の意味で理解した。一月も目覚めなければ、誰しもそう思うだろう。
「シファカと一緒にね。戻ってきた」
 かちゃかちゃと、茶器の触れ合う音がする。
 湯の沸く音を聞きながら、ティアレは躊躇いがちに口を開いた。
「……シファカさん、と」
「シファカから聞いたって、ヒノトちゃんは言ってたけど。シファカの連れである、水の帝国の出身の男。それ、俺のこと」
 ジンの言葉に奇妙に納得していたティアレに、彼は不思議そうに首を傾げる。
「今度は驚かないんだね」
「……えぇ……」
 ティアレは頷き、視線を寝台の上に移動させた。眠る黒髪の友人の顔は穏やかだ。その顔だけを見れば、ただシファカはまどろんでいるだけのように見える。しかしティアレを同じようにこの一ヶ月、シファカはほぼ昏睡状態にあったのだろう。先ほどヒノトが脈を診る際に、視界の隅に捕らえた彼女の腕は、記憶にあるものよりもずいぶんとやせ細っていた。
 出逢ってすぐに、この娘を、慕わしいと、思ってしまった。
 そしてそれはうぬぼれでなければ、彼女もそのように思ってくれていたのだろう。だからこそシファカはこちらの騒動に首を突っ込み、結果、このように昏睡することとなってしまった。
「……ジン様が、お出でになられた時点で、そのような気がしていましたので」
 シファカを慕わしいと思った理由の一つは、彼女の纏う空気にある。慕わしい空気はラルトのものに似ていた。そして、ラルトの纏う空気はジンのそれにも似ている。自分とシファカはお互いに、愛しい男の気配を感じ取っていたのだろう。
 それにシファカは言っていたのだ。
 彼女の連れは、ブルークリッカァ出身であるのに、西の容姿をしていると。そしてそのような人間の数は、とても少ない。
「……ジン様、お話って」
「あぁ、うん。特に何があったってわけじゃないんだけどね」
 茶碗をティアレに差し出しながら、ジンは言う。
「ただ、お礼を言いたくて」
「……お礼、ですか?」
「うん」
 茶碗を受け取りながら、ティアレは尋ねる。小さく頷いたジンは、彼の分の茶碗を盆の上から引き寄せ、ティアレの傍らに並んで言った。
「……ラルトを支えてくれていて、ありがとう」
 続いて、ずっ、という茶をすする音。
 喉を潤すジンを眺めてから、視線を落とす。
「お礼を言われることなど、何もしていません。私は、私の意志で、ラルトを支えたいと思ったのですから」
 ティアレは自分の分の碗の中のお茶が作る波紋を見つめながら言った。
「けれど私は結局、貴方様の穴を埋めることなどできなかった。ラルトの重荷に、なるばかりだった……」
 泣いていた。
 ラルトが、泣いていた。
 彼をあんなふうに苦しめて、彼を支えたいなどと、よくも口にできたものだと自嘲する。
「でも君は、ラルトにとっての、意味だろう?」
「……意味?」
「この国を、治める、意味。人は、本当に守りたいものの存在しない国を治めることなんてできやしない。守りたいものがあるから、狂わずに玉座に座することができる。そういう意味では、君は充分に役割を果たしている」
 娼婦上がりだったっていうのにね。揶揄するような彼の言葉に、誇りを傷つけられたわけではない。彼に慰めの言葉をもらう筋合いなぞないという、ただ、それだけだ。
「これで充分に役割を果たしているなぞといわれるよりも、まだまだだといわれるほうが性に合っております」
 何気なく呟いたつもりだったというのに、その声音は自分でも思いがけないほどに刺々しいものだった。
 ティアレの言葉を受けて、ジンが苦笑する。
「頼もしいね」
 ティアレは彼の言葉に肩をすくめ、手元の茶碗にそっと口をつけた。ジンの入れた茶は薫り高く、しかし淹れたてのためにひどく熱かった。吐息を拭きかけ冷ます音だけが、しばし部屋に響く。
「……ジン様は、シファカさんとは、どういった経緯で?」
 ティアレは茶を冷ますことを諦め、唇に寄せていた茶碗を膝元に戻し、ジンに問いかけた。ジンはすでに茶碗を空にしている。彼は手に持っていた陶器を盆の上において、代わりに水差しを手に取っていた。懐から取り出した白い布を、水差しの口に軽く当てて濡らす。そして彼は無言のまま寝台に歩み寄り、シファカの唇にその布を押し当てた。
「経緯っていうほどのことでもないよ」
 シファカの唇を丁寧に湿らせてやりながら、ジンは言った。
「一時期、居候させてもらっていた先の人が、鋼の精錬や細工を行う集団の長をしていてね。とても小さな国の中で、鉄鋼の精錬は中核を担う産業で……王家とも所縁が深かった。その頃、王家専属の近衛兵に所属していたシファカは、剣の発注なんかで顔を出すことが多かったんだ。それで知り合った」
「どれぐらいその国には、滞在されていたのですか?」
「んー……半年、ぐらい?」
 軽く首を傾げながら、ジンは試算を口にする。
 半年の滞在は、ジンにとってかなり長かっただろう。ティアレは思った。ラルトの元にあるジンの手記を思い返す限り、ジンは立ち回るどの国も、長くとも七日程度をめどに出立していたようだった。その中で半年は破格の長さだ。彼の思いいれの深さが窺える。
「それから、すぐにシファカさんと旅を?」
「いーや。シファカとはその後しばらく別れた」
 小さく頭を振って、ジンは答える。
「傷つけて、突き放してね。辛かったねぇあれは。二度とやんない、って思ったよ。……なのにまたやってしまったんだ。どうして同じ間違いばっかり、繰り返しちゃうんだろうねぇ」
 大事にするって、決めたのに。
 どうして、こんな風に傷つけてばかりなのだろう。
 丁寧にシファカの唇を湿らせながら、ジンは呻く。布を一度置いて寝台に膝をついた彼は、シファカの身体を抱き起こした。床ずれを起こしていないか彼女の身体を軽く確かめ、抱きかかえたまま卓の上に置かれていた櫛に手を伸ばす。そして、器用に髪を梳きはじめた。
 手馴れた動作だ。おそらく毎日、空いた時間に、彼はこうやってシファカの世話を行っているのだろう。
 毎日、シファカが目覚めることを祈りながら。
 そこで、ふと思う。
 一月以上も床にあったにも関わらず、ティアレ自身の身体のどこにも、寝たきりの人間にありがちな不調は見当たらない。髪や爪にも手入れが成されている。それほどまでに長い間、眠っていたのだと信じられぬほどに。
 毎日、暇を見つけては、ラルトはティアレの元に足を運んでくれていたのだという。
 その間、彼もまた、ジンと同じように、ティアレの身体を労わり続けたのだろうか。
 ラルトは何も、言わなかったけれども。
「……大事に、されていますね」
 シファカの身体を寝台の上に腰掛けさせたジンは、彼女の手や足を、香油をつけて軽く揉んでいる。ティアレの言葉に、うん、と頷いて、彼は微笑んだ。
「愛しているからね」
 知っている。
 シファカが、どれほど愛されているか、知っている。
 甘い菓子を分け合いながら、共有した僅かな時間。ジンのことを語るシファカの声はとても柔らかかった。愛されていなければ、あんなふうに男のことを語らない。そして同じように柔らかい声でラルトのことを語った自分も、やはり彼に愛されているのだろうと、シファカを通して再度知ったのだ。
「……ティアレ」
 ジンの呼びかけに、ティアレは驚きをもって彼を見つめ返した。彼が自分を、そのようなきちんとした名前で呼ぶのは初めてのことだった。ジンは身体を起こしてシファカを見下ろしている。その瞳は虚ろで、不安に揺れていた。
「……シファカは、君のように、目覚めるかな?」
 敬虔な祈りのような、その、胸磨り潰される、切ない響き。
 目覚めたときに泣いていた、ラルトを、思い返す。
 彼も目覚めぬティアレを前に、幾度も自問したのだろうか。二度と、ティアレが目覚めぬのでは、永遠に、このままなのでは、と。
「目覚めます」
 ティアレは椀を握り締め、断言した。
 脳裏にあるのは夢の記憶。目覚めた今となってはすべてが曖昧だ。けれども今も手に、温かい女の手の感触が残っている。
 白い墓標の佇む、緑の丘から。
 自分たちは、手を取り合い、二人で戻ってきたのだ。
 ジンを見上げて、ティアレは繰り返す。
「目覚めます、ジン様」
 そのティアレの言葉に、ジンは少し呆けたように目を見開いていた。しかし次第に口元を緩めた彼は、小さく頷き微笑んでみせたのだった。
「ありがとう」


 それからの一月は長かったと、後にティアレは振り返る。
 シファカの瞼は難く閉じたまま。彼女を愛しく思う男の精神は磨り潰され、ティアレ自身もまた、自らを無用に責めずにはいられない、そんな、一月。
 ティアレ自身が、いかに周囲を不安にさせていたか、まざまざと見せ付けられる、一月。
 結局、シファカが重い瞼を上げたのは、ティアレが目覚めてから、そのような時間が流れたあとのことだったのである。


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