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第二十二章 永久の誓い 3


 ティアレは掛け布の上から腹部に手を添え、ラルトを正面から見据えて懇願した。それに対するラルトの反応はティアレの予想通り。彼は困惑の文字を顔に貼り付けて、僅かに身を引き瞬いている。言葉を告げずにいるラルトに、ティアレは続けて言った。
「本当は堕胎することが一番だと、わかっていますラルト。……いいえ、一番、なのではなく、堕ろさなくてはならないのでしょう」
 子供を生めば死ぬという。娼婦として世界を流れていたころ、飲まされた薬のために。
 ティアレが歩んできた過去の業。星の数ほどの人を己が呪いにより死に導いて、それでも自業自得だと、彼らの死をせせら笑っていた報いだ。
 けれど。
『病は気からといいます。難しい病も、案外思いがけないことで突然治ってしまうことも、あるんですよ――……』
 思い返されるのはヤヨイの言葉。何故捕虜となっていたティアレをあそこまで親身になって世話したのかは、結局のところわからない。しかし彼女は、決して労わりから嘘をついているようには思えなかった。
 彼女からは、ヒノトと同じ医療に通じるものの気配がした。ティアレの呪いによる病が、簡単に解かれたことを、きっと彼女は目撃したことがあるのだ。そんな気がした。
「でもやっぱり、生みたいんです」
「それは、何のために?」
 ラルトの問いは静謐で、ティアレを見つめ返すその眼差しも同じく凪いでいた。子供を生めば死ぬだろう。子供も無事育つかどうか判らない。そのような状況で、何故、子を生むことを切望するのか。
 腹部に当てていた手で、掛け布を握り締めながらティアレは答えた。
「のろいを、とくために」
「呪い、だと?」
「はい」
 鸚鵡返しに問い返してくるラルトにティアレは頷く。
「呪いです。私の、呪い」
 滅びの魔女としての、呪い。
「私は、生まれてから何かを奪ってしか生きてこなかった。人から祖国を、人から家族を、人から命を」
 こんな風に、この土地に終の棲家を得、優しい人々に囲まれていても、時折夢に見る。否、夢に見るだけではない。自分は一生忘れないだろう。魔力を暴走させ、滅び去った国々を。青い業火に包まれ身を焼かれながら、呪いの言葉を唱えてティアレを睨んだ、人々の眼差しを。
「滅ぼすことしかできぬといわれていた私が」
 この足が踏みしめた道全てに、屍が敷き詰められていた。
 その自分が。
「何かを、生み出すことができる」
 それこそまさしく。
「呪いからの、開放だと、私は思ったのです」
 あの、月美しい夜、亡霊が全てを連れて行った日に、確かに呪いは解かれたと思った。
 しかし、実際はまだ自分は過去という名前の呪いに囚われ、滅びの魔女を名乗り、そして他者にそう呼ばれたとしても違和感すら覚えない。
 ラヴィ・アリアスに、魔女と呼ばれても、何の疑問もさしはさまず、返事をしたときのように。
 そんな自分が、何かを生み出す存在になれるという。
 命を、この世界に生み出す存在に、なれるかもしれないという。
「私はもう、滅ぼすだけの存在ではないと。何かを支え、何かを生み出し、何かを守るべき存在に、本当の意味で生まれ変わることができるのだと――信じたい。信じさせて。そのために」
 せめて、たとえ生み出すことができなくても、生み出すためにもがくことだけは、許して。
 ティアレの懇願に、ラルトが問う。
「死んでしまったらどうするんだ?」
「私は死にません、ラルト」
 ティアレは笑って答えた。
「私は、とても欲張りなのです。私は生きて、貴方と幸せになります。そして、子供も生んでみせます。私、貴方に家族を作ってあげたい。貴方と、この子と、私と、三人で、家族になりたい。生きていたい。幸せになりたい」
 この国に、足を踏み入れたころ、何かをしたいなどと、思ったことはなかった。
 ただ、誰かが終わらせてくれるといいとだけ思っていた。この人生を。この命を。何かを望むことすら、しなかった怠惰な自分がそこにいた。
 けれど今は違う。
 たくさんの願いが、この胸の内にある。
「それに、やくそくしたから」
「約束?」
 ラルトの問いに答える代わりに、ティアレは微笑を彼に返した。彼に言っても判るまい。
 夢の中で、死した女から託された、敬虔な祈りを。
「……死なないと、約束できるな」
「ありとあらゆる方法を調べ、試し、その結果、子供を生めば、本当に死ぬのだと、もうこれ以上どうにも出来ないと、わかったそのときには、私は死なないために、この子を堕ろします」
 堕胎、というよりも、そのときには、すでに殺すという表現が正しいのかもしれない。
 そのとき、自分は泣くだろうけれども。
 自らの手を当てた腹部に視線を落とし、ティアレは呟く。するとラルトが、意外な言葉を返してきた。
「いや、堕ろさなくていい」
 ティアレは耳を疑い、眉をひそめて夫を見上げた。
「ラルト、ですが」
「堕ろす必要はないんだティアレ。もう、呪われていないのだから」
 もう、呪われて、いない。
 それは、一体どういうことなのか。ティアレは無言のまま、ラルトを見上げた。
「呪われていない。ティアレ、呪薬によって巣食っていた病はすでに取り除かれたんだ。もう病などどこにもない」
「……え?」
 少し頬を紅潮させ、早口で告げてくるラルトの顔を呆然と見上げながら、ティアレは首を傾げる。ラルトは笑い、そして言った。
「お前が望むのなら、子供は生める」
「生める……」
「ただ、健康であることが条件だ。今の食の細さじゃぁ、生むことはできないだろうな」
 食べて、眠って、体力を取り戻さないと。病の間、ずいぶんと細くなってしまったティアレの腕を手に取りながら、揶揄するようにラルトが言う。瞬きを繰り返し、彼の言葉をゆっくりと咀嚼したティアレの胸に、一つの問いが去来する。
 何故。
「なぜ……どうして、そんな、突然。もう、病が、ないなどと」
「執務室で倒れた後、お前の肌の上には奇妙な紋様が浮かび上がった。さらには幾日も高熱を出し、狂ったように苦しみ続けた。そしてあるとき突然、熱が下がり、そして病も消えていた。綺麗さっぱり、何もなかったかのように」
 ティアレの存在を、確かめるように、ラルトがその指の腹でティアレの肌をなぞった。呆然となったままのティアレに、彼は言う。
「リョシュンは、お前を苦しめた術の正体は、解呪の術だったのではと言っている」
「解呪の術……」
 呪いを解くための、術。
『――結構、簡単に治ってしまったりするものですよ』
 脳裏に閃くのは、少女の声。
『ティアレ様に害成すものではありません!』
 ティアレの身を案じ続け、そして姿を消した魔術師の声。
 ハルマ・トルマで彼女は、ティアレに何か術を施していた。赤黒い墨でティアレの肌に何かを描きこんでいた。一体何を施されていたのか、結局判らずじまいだった術。
 ――それだけは、本当です!!
「ヤヨイ……」
 ヤヨイの言う、害成すものではない、という意味を、ティアレはこのとき初めて理解した。
 あの時、術は全て完成していなかった。もしかすると、ヤヨイの言う通り大人しくしていれば、自分も周囲も苦しむことはなかったのかもしれない。準備の完成していない術を行使することがどれほど術者にも危険を及ぼし負担となるか、ティアレは知識としてなら知っている。勝手に飛び出した自分に、命を削るようなまねをして術を発動させる必要はなかったはずだというのに。
 押さえたティアレの口元から漏れた名前に、ラルトが怪訝そうに首を傾げる。ティアレは彼に首を振って、何でもないと取り繕い、微笑んだ。
「それでは私は本当に、この子を生んでいいのですね?」
 ラルトは頷く。
「あぁ」
 ただ、と彼は付け加えた。
「死なないことが前提だからな。もう二度とこんな思いはごめんだ。もう出産になんの憂いもないというぐらい、健康であること。それがまず絶対条件だ。でないと出産なんて許さない。絶対だ」
「判っています」
 ティアレは繰り返す。
「判っています、ラルト。判ってる。私は決して、貴方を置き去りにしたりはしない」
 生きて、一緒に、幸せになるから。
 ラルトは虚をつかれたように目を瞬かせ、そして微笑を浮かべてティアレの身体を抱いた。その腕に抱かれながら、ティアレは目を閉じ、そして思う。
 滅びの魔女と呼ばれていた。
 長い長い間、そう呼ばれていた。
 その自分が、命を一つ、産み落とす。
 背負う業は変わらずとも、滅ぼすだけの存在ではなくなった自分はきっと。
 もう、呪われた女ではなく。
 本当の意味で、皇后として、ラルトの傍で、生きることのできる女になるのだ――……。


 食事を取って部屋に戻ると、女官がぱっと顔を上げた。
「ヒノト様」
 そばかすの愛らしい赤毛の髪を綺麗に結い上げた女官は、奥の離宮の女官たちの中でもヒノトとは特に気安い。だがいくら気安いからといって、露骨に交代を喜ぶのもどうかとは思う。
「ラナ、交代じゃ。離宮に戻ってもよいぞ」
 苦笑を浮かべながらのヒノトの皮肉に、ラナも気づいたらしい。頬に手を当てて、やだ、と彼女は呟く。
「顔に出てました?」
「おぉ。離宮に戻りたい、とはっきりと顔に書かれておるぞ。ま、ラナ、おんしだけでなく、キキもメイも、そしてヒウでさえそうなのじゃから仕方なかろう。なにせ」
 ティアレが、目覚めたのだから。
 ヒノトは、微笑んだ。その報告を受けたのはつい先ほどのことである。食事の際に顔を見せたエイが、興奮した様子で告げたのだ。とうとう、ティアレの意識が戻ったのだと。
 離宮の女官たちは皆すでにあちらに詰めていて、ラルトもメルゼバ共和国との仕事を早々に切り上げてあちらへ向かったという。おかげでエイは、忙しいと笑いながら愚痴を零していたが。
 まだあちらへ戻っていない離宮の女官は、ここにいるラナだけだろう。
「ヒノト様は、離宮に一度寄られました?」
「いいや」
 ヒノトは笑って否定した。
「また、リョシュンの許可を得てから会いに行こうと思っての。どうせ今日は大勢ティアレの元に押しかける」
 決して会いたくないわけではない。ティアレが目覚めたと聞いたとき、真っ先に会いにいって彼女が本当に起きて動いているのか確かめたかった。
「……今の妾の役割は、シファカの傍についていることであるし」
 そういって、ちらりと寝台の上を一瞥する。今日も穏やかに眠る異国の友人の姿がそこにある。昨日までのティアレと同じく、一向に目覚める気配を見せない女だ。もしティアレが目覚めていたのなら、彼女もまたこの女の傍についてやりたがるだろう。今ティアレにそれはできない。だから、彼女の分まで、自分が。
「ティアレ様の様子がどのようでいらっしゃったか、また、報告に寄らせていただきますわね」
 ラナは微笑むと、礼を取って衣服の裾を翻した。シファカを労わって静かに扉が閉じられた後、ぱたぱたと、軽い足音が響く。
 ヒノトは肩をすくめ、寝台に歩み寄った。女の寝顔はいつもと同じであるはずなのに、微かに笑っているような気がするのはヒノトの目の錯覚か。
 床に膝をつき、シファカの手を取って、ヒノトは微笑む。
 そして囁いた。
「次は、おんしの番じゃよ、シファカ」
 ここに貴方がいると知れば、ティアレは驚き、喜ぶだろう。
 だから早く。
 目覚めて。
「皆で、また菓子を囲もうな」


「そういえば、ヒノトはどうしていますか?」
「ヒノト?」
 寝台で横になるティアレに、ラルトは小刀で果物の皮を剥いていた。目覚めてから重湯に近い粥しか口にしていないティアレが空腹を訴えたためである。籐の籠の上で小さな山を作っている果物はシノが持ち込んだもので、その中から水気の多いものを選んで、ラルトは切り分けていた。切り分け終わったら、よく磨り潰すつもりである。幾日も重湯しか与えていなかった胃に、固形物は禁物だった。
「ヒノトなら今――……」
 ジンの連れの娘のもとにいる、といいかけて、さて、ティアレはまだジンがこの国に戻ってきていることも、彼が連れ帰ったシファカという女が悪変された月光草の中毒に陥って昏睡状態にあることも、何も知らないのだ、とラルトは思い出した。
 ティアレとシファカは面識があるらしい。彼女が捕獲され、中毒に陥るようなことになったのも、もとはといえば襲撃されたティアレを助けようとし、巻き込まれたためだという報告も受けている。そのシファカが快方に向かっているとはいえど、未だ目覚めず、偶然にも彼女がジンの連れで――そういった一連のことを説明することは、ひどく難しいと思われた。それは状況が複雑だからというだけではない。運命の数奇さを感じずにはいられないからだ。
「……ヒノト、どうかしたのですか?」
 ラルトが口ごもったことによって、ヒノトの様子に懸念を覚えたのだろう。あの執務棟に無許可で足を踏み入れたことで、何か罰でも受けているのではないかと。
 ラルトは彼女の不安を払拭するべく頭を横に振り、微笑んだ。
「違う。彼女は元気そのものだ」
「本当ですか?」
「あぁ」
「では、謹慎を言い渡されて部屋から一歩も出ていないというのでもないのですか?」
「謹慎も言い渡されていない」
「……では、今からヒノトに会うことはできませんか?」
「今からか!?」
 これにはラルトも驚いて、思わず声を荒げてしまった。ティアレはラルトが何か隠し事をしていて、慌てたとでも勘違いしたのだろう。剣呑な表情を浮かべた彼女は、寝台に手を突き上半身を起こすと、ラルトの顔を覗きこんできた。
「本当に、何もないのですよね?」
「何もない」
 ラルトはきっぱりと即答した。
「ただ、今仕事を頼んでいるからな」
「お医者の仕事?」
「そうだ」
 こうやって罰を与えているのではないと説明してやってさえ、ティアレは不安な表情を隠そうとしない。ラルトは切り分けた果物を皿の上に摩り下ろしながら提案した。
「なんなら、会いにいってみるか? ヒノトに」
「本当ですか?」
「あぁ」
 どうせ何を言っても納得しそうにない。それならば一度見せたほうが状況を把握するには早いだろう。
「では」
 さっそく、と口に仕掛け開かれた彼女の口内に、ラルトはすかさず匙を差し込んだ。摩り下ろしたばかりの、果物をのせた匙である。
「とりあえず、これ食べてからだ」
「……はぃ……」
 空腹を訴えたのはお前だろうと言外に伝える。ティアレはもごもごと口を動かしながら、しゅんと項垂れてみせたのだった。


「ジン!」
 シファカの部屋に足を運んでいた最中、廊下の向こうから手を上げて声をかけてきたのは、イルバだった。
「イルバ、どしたの?」
 足を止めて彼が歩み寄ってくるのを、待つ。一方のイルバは人を待たせているというのに悠長な足取りだ。ただ、足の歩幅が大きいために、彼がジンに追いつくまでさして時間はかからなかったが。
「ラルトしらねぇか? 」
「ラルト? 多分ティーちゃんのとこだと思うよ。ティーちゃん目覚めたってきいた?」
「聞いた。……あぁ、まだあっちにいんのか」
 イルバは納得したのか頷いて、奥の離宮の方向に視線を投げる。彼は奥の離宮に足を踏み入れる許可を得ていないので、もしラルトがまだあちらに詰めているというのなら、誰かに伝言を頼むか、ラルトが出てくるまでイルバは待たなければならない。
「どんな用事? 急ぎ?」
 もし彼が急ぎだというのなら、シファカのところへ足を運ぶ前に奥の離宮へ立ち寄ってもかまわない。こちらに戻ってきてから、徐々に政務に手を付けてはいるが、多忙というほどでもなかった。丸四年、今年で五年目になる空白は、ジンに勝手の違いを痛感させる。以前施行されていた法律が変わっていたり、手順が合理化されていたりと、変化があるのだ。すぐに慣れるとはいっても変更点を把握するためには時間がいる。そのため、あまり深く仕事に関わっていないのが現状だった。時間ならば、それなりにある。
「急ぎじゃねぇが……。もし会ったらでいいから、伝えてくれねぇか? この間の件、どうなったか、また続きを話したいと。そういやわかるはずだからよ」
「あぁ、あの件? もしかして」
「なんだ、聞いてんのか」
「うん。一応」
 イルバの件については耳にしている。問題はシルキスの身の振りを、どのように他国に納得させるかだとラルトが愚痴を漏らしていた。交渉の末、ダッシリナとマナメラネア――諸島連国には、許可を取り付けたらしい。あとはこの件に関わった数カ国の返答を待つだけであるようだ。
 イルバの提示してきた条件に関しては、願ったり叶ったりだろう。それを今、彼に言ってやるつもりはないが。この男は己の価値を、よく知っている。
「都合のいい時間教えてくれりゃ、出向くからって伝えておいてくれねぇか?」
「イルバにとって都合のいい時間は?」
 何を言っているのだと、呆れた眼差しでイルバが呻いた。
「俺はいつでも暇人だ。多忙な皇帝に時間の都合合わせてもらう必要なんざねぇよ」
 きっぱりと断言する彼に、ジンは笑って請け負う。
「りょーかい」
 手を振って、イルバとはその場で別れる。彼の背中を見送って、ジンは再び足を動かした。
 まだ目覚めぬ、愛しい女を見舞うために。


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