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第二章 多幸の採択者 3


 改めて、ティアレが飲まされていたという薬について、ヒノトは調べてみることにした。
 ティアレが何故そのような薬を口にしていたかは、一晩語り合ってもやはりお茶を濁されてしまった。ティアレ自身、そうとわかって口にしていたのではないようだ。会話して目星をつけた薬を調べなおすために足を踏み入れたのは、宮城の一角にある図書館だった。
 一般公開されているほうの、図書館だ。ティアレの所有する書庫を探してもよかったが、図書館の勝手のほうが判りよい。
 一年ほど前のことだ。宮城の地下に眠っていた大量の蔵書を掘り起こし、閉鎖されていた館に全て収めなおして、図書館とした。その際は、ヒノトも医学書の仕分けを手伝った。そのため特に医学書の在処はつぶさに覚えているし、今もリョシュンに与えられた宿題をこなす際には、この図書館を利用する。
 勉強道具一式を抱えて図書館の奥へと歩を進めていたヒノトは、よく見知った姿を遠くに見つけた。
(エイ?)
 昨夜は会わなかった、ヒノトの後見人である、お人よしの青年。
 彼が見張りを立てて、人払いをした空間で、見知らぬ男と談笑している。
 雰囲気から、それが政治の話ではなく単なる世間話なのだと知れた。見張りの兵士に軽く挨拶をして、ヒノトはその場をすり抜けた。兵士の反応が一瞬遅れたのは、兵士が顔見知りであり、且つヒノトがエイに養われる身だと、知っているからだろう。
「星詠祭?」
「えぇダッシリナで一番大きな祭事なんですけれどね」
 彼らの会話が聞こえてくる。どうやらエイは、毎年国の特使として参加している星詠祭について話しているようだった。
「ヒノト様!」
 兵士の声は押し殺されていたが、エイたちに面を上げさせるには十分だった。だがその頃には既に、ヒノトは彼らの傍らで足を止めていた。
 エイが、小さな驚きに目を見開いている。
「ヒノト」
 だが、ヒノトはエイを無視した。まだ、怒っているのだ。
 その代りヒノトは最上の笑顔を取り繕って、見慣れぬ男に向き直った。
「初めまして。お客人か?」
「あぁ」
 男は頷いた。年の頃、四十から五十。肩甲骨まで伸びた赤茶の髪を無造作にうなじの辺りで束ねている。よく日焼けした褐色の肌を持つ、体格のよい男だった。目つきは鋭いが、その奥に収まる藍色の双眸は思いがけず優しい。
「お嬢さんは?」
「こやつに世話になっておる医学生じゃ。ヒノトという」
「イルバだ。よろしく、ヒノト」
 ヒノトが差し出した小さな手を、無骨な男の手が握り返す。立場上、この年頃の男に囲まれて過ごすことの多いヒノトだが、すぐに目の前の男に好感を持った。イルバと名乗った男は、ヒノトを子ども扱いまたは女として卑下したような扱いをせずに応じてくれたからだ。
 その対応の仕方は、ラルトと同じ。
 思わず、ヒノトはエイを睨め付けていた。
「見よ。おんしもこの対応を見習わんか、エイ」
「一体何の話ですか」
 エイが疲れの滲む嘆息を零す。昨日の口論を引きずって、お互い機嫌が悪かった。
 そのどこか張り詰めた空気を、感じ取ったのかもしれない。イルバがにやりと口元を歪ませて、明るい声を上げた。
「なんだ? 可愛い顔して女囲ってんのか?エイ」
「全っ然! 違いますよ」
 エイが即座に全否定する。客人の手前そうはしなかったものの、ヒノトはエイの横っ面を殴りつけたい衝動に駆られた。
「彼女は私が後見を引き受けている医師見習いです。女囲っているとかいうそういう表現は、失礼ですよ」
 エイの否定の仕方のほうが、ヒノトにとって激しく失礼なのだということを、もう二年以上も経つのだからいい加減理解してほしい。
 何故この男に自分はいまだ懸想し続けているのか。ヒノトは段々馬鹿らしくなってきた。
「そいつぁ悪かった」
 おどけたようにそう言うイルバが、ちらりとヒノトに視線を寄越してくる。その目が、不憫そうだ。
 見ろエイ、ヒノトの表情を見ただけで、この男は既に理解しているではないか。
 大仰にイルバに向かって頷いてやると、彼が笑いに喉を震わせ始めた。
「一体、何がおかしいのですか? イルバ殿」
「……いやぁ……なんつか。この国の面白さを色々見た気がしてな」
「はぁ?」
「まぁいい。だがこのお嬢ちゃんがここに入ってきてもよかったのか? あいつ、顔を白黒させてるぜ」
 イルバが指差した先には、ヒノトが置き去りにしてきた見張りの兵士。エイは肩をすくめて、彼に大丈夫だと合図を送った。兵士は安堵の表情を見せて、持ち場へと戻っていく。
「よかったのか」
「本当はよくはないですよ。もちろん」
 釘を刺すように、エイがヒノトを一瞥する。その鋭い咎めの視線に、ヒノトは思わず、項垂れた。
「ですが込み入った話をしているようでしたら、踏み入ってこないような分別を、ヒノトはきちんと持ち合わせていますよ」
 ぽん、と頭の上に手を乗せられて、ヒノトはエイを見やる。ねぇ、と微笑みかけてくる青年の目が柔らかく、ヒノトは目を閉じた。
 信頼されているということがわかってひどく嬉しい。その柔らかに髪に触れる手が、自分を子ども扱いしているものだと、わかってはいても。
 次からは、気をつけようと思った。彼の信頼を、裏切りたくはない。
「星詠祭について話していたのか?」
 ヒノトは二人に尋ねた。耳に入ってきた彼らの会話に、ダッシリナの祭りの名前があったからだ。
「えぇ。また行くことになりましたしね」
「俺もしばらくはここに留まるが、もしかしたら行くかもしれないからな」
 ふぅん、と頷きながら、ヒノトは星詠祭について思い返した。ダッシリナの、占いの祭り。水の帝国の春待ち祭りとはまた違った趣向のある祭りだという。去年は行ってみたいと主張したが、エイに一言のもと、ばっさりと拒否された。
「今回も連れて行ってはくれぬのよな」
「私が遊びでいくのではないことを、貴方も判っているでしょうヒノト」
「けち」
「私ではなくて、陛下に言ってください陛下に」
「そんなこと言えるか」
 エイの言う通り、特使が遊びでないことぐらい重々に承知している。このようなこと、エイ相手でなくては言えるはずもない。
 駄目で元々のつもりで軽口を叩いているにすぎないのだ。
「日付でいったら、来週か?」
 様々なことがありすぎて星詠祭のことなどすっかり忘れていた。思い返せば確かに去年の今頃、エイは半月ほどあちらに向かっている。
 ヒノトの問いに、エイが、表情を曇らせた。躊躇いがちに、彼は口を開く。
「いえ……実は、明日出立することになりまして」
「あ、明日!?」
 ここが図書館であることも忘れて、ヒノトは素っ頓狂な声を上げていた。慌てて口元を手でふさいで、周囲を見回す。人払いのされた区画は静かで、反響している音はヒノトの高い声のみだった。
 声を潜め、しかし顔だけはエイにぐぐいと近づけて、鬼の形相でヒノトは彼に詰問した。
「明日などと、何でそんな重要なこと妾に言わなんだ!?」
「わ、私が決めたんではないんです。ただ事情で日取りを早めなくてはならなくなりまして! 私も陛下に今日言われたんですから! 怒らないでくださいお土産ぐらいなら買ってきますって! っいだ!」
「ほんとに、コイツはどこまでも妾を子ども扱いしおってから」
 ヒノトはエイを殴りつけた拳に吐息を零して呻いた。お土産ひとつで機嫌がよくなるわけは……あるか。
 だが別にヒノトが怒っているのはそこではない。皇帝に今日通達されたというのなら仕方のないことだ。言葉を、そこまでで区切っておけばいいのに、エイはほとほとヒノトに対して一言多い。
 ふと、視線を感じてヒノトは面を上げた。イルバが、きょとんと目を丸めてこちらを見ている。彼はやがて口元を手で覆うと、肩を震わせながら机に突っ伏してしまった。
 笑いを堪えている、らしい。
「イルバ」
「……いや、なんつか、その、すまん」
 面を上げたイルバは、一瞬真顔に戻ったものの、また机に突っ伏してしまった。なんと失礼な。
「大丈夫ですか? イルバ殿」
 彼が笑う理由を判っていないのはどうやらエイだけのようで、彼は真顔で、イルバを案じている。馬鹿らしさに、ヒノトは思わず天井を仰いだ。
 それにしても。
 祭り。
(星詠祭か)
 明日から彼がいなくなると思うと、やはり寂しい。次こそは、医師となって、特使の団に随行させてもらえるようになっていたい。
 春待ち祭りはエイに案内されて少しだけ見て回った。賑々しい祭りは、聞くもの見るもの全てがヒノトの胸を打った。
 聞いたことのない音楽。見たことのない色鮮やかな菓子。子供たちの笑い声。美しい衣を翻して踊る女たち。
 思い出す。土産話を持ち帰って語った際、柔らかく微笑んで頷く、ティアレの姿。
 そして寂しそうに、落とされた、彼女の言葉。
『私も、一度だけ、ラナと連れ立って行ったのですよ』
 国内の祭事は城の誰もが奔走する。ヒノトでさえ、手伝いに借り出されて多忙を極めていた。エイがヒノトを連れてでることが出来た時間は、彼の血の滲むような努力によって捻出されたものだと、ヒノトは正しく理解していた。
 ティアレとラルトにはそれが叶わなかった。ティアレもラルトもそれぞれ来賓の相手で忙殺され、純粋に祭りを楽しむことは許されなかったのだ。
 ふと。
(そうじゃ……)
 ヒノトは思いついた。
 それは、非常に悪質な悪戯だ。思いついた瞬間、ヒノトにはそれがわかっていた。裏切るかもしれない。エイの、信頼を。ヒノトは、ほんのつい先ほど、頭に触れた彼の温かい手のひらを思い返した。
 ちらりとヒノトはエイを見つめた。彼は再び、イルバと談笑を続けている。どうやら休憩時間もつぎ込んで彼と談笑しているようだ。男たちの会話は内容の半分もわからないが、そのほとんどが雑談。多少政治に関するアレコレについて討論しているところをみると、イルバもまた政治家なのだろう。
 政治家。
『最小限の犠牲で最大の利益を生み出すことを追求していかなければならない』
 エイの屈託ない横顔に、口論していた際の、ひやりとした目が重なった。彼が政治の道を追求していくのなら、自分も医者の道を追求していかなければならないだろうと思った。
「エイ、話に割り込んですまぬが、おんし明日の何時出かけるのじゃ?」
「私ですか?」
 唐突に会話を中断させられたエイは、怪訝そうに首を傾げていたが、そうですね、とすぐに思案顔を見せた。
「おそらく夕刻頃だと思います。午前中に会談が入っているので。どうしてです?」
「見送りはいつもしてやっておるだろう。細かい予定まで教えぃとはいわんが、ここからいなくなるときぐらいの予定はちゃんと教えてくれぬと、妾も困る」
「あぁ……そうですね。すみません」
 エイはヒノトの問いに疑問を抱かなかったようだ。
「判ればよろしい」
 ヒノトは胸を張り、微笑むと、イルバに向き直った。
「妾はそろそろ失礼する。もし次会うようなことがあれば、また話してくれな?」
「もちろんだ」
 イルバは頷いた。
「どうせ俺は暇な身だ。これからも大抵ここにいるだろうさ。話し相手になってくれるっつんなら、願ったり叶ったりだ」
 じゃぁ、と二人で別れ、ヒノトは勉強道具を小脇に抱えなおしながら足早にその場を離れた。ちらりと背後を振り返ると、エイもイルバも、まだヒノトのほうを見つめていた。手を振る。振り返される。心温かくなりかけ、ぐっと衝動を堪えながら、ヒノトは角を曲がった。
 人払いの空間をぬけると、静けさは変わらずも人の気配は目を見張るほどに増えた。読書や本選びに没頭する人々の間をすり抜け、元々借りる予定にしていた本を引っ張り出す。それを借りると他には目もくれず、ヒノトは夕陽に染まった図書館を出た。


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