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第二十二章 永久の誓い 2


 彼女の意識が戻ったとの報告を、ラルトは会合の最中、エイの耳打ちによって受け取った。ティアレの容態が落ち着いてから、一月も経てからのことだった。
 隣国であるメルゼバの使者との対談もそこそこに、仕事を切り上げて奥の離宮へと向かう。つい先日まで、離宮はまるで冬眠しているかのような静けさを保っていたというのに、春の暖かい日差しの洗礼を受け、間延びした鳥のさえずりや女官たちの笑い声を湛えていた。珍しく女官たちが揃っているらしい。彼女たちの気配を控えの間に感じつつ、その前を通り過ぎたラルトは、ティアレが眠る寝室へと急いだ。
 足を踏み入れた部屋は明るく、穏やかな風が窓から入り込んで、上げられた御簾に付いた飾り紐を揺らしている。手前の部屋には、咲いたばかりの春の花が生けられていた。その柔らかい色彩を横目に、奥の部屋へと急ぐ。そこでは年若い女官が椅子に腰掛け、ティアレを見守っていた。
「レン」
 声量を殺して呼びかける。立ち上がり、深く一礼する女官の肩越しに、ラルトはティアレの顔を見る。眠ってしまったというシノの言葉は本当のようだった。
 ここ最近、いつも思うのだ。あれだけ眠り続けてティアレは飽きないのだろうか。
 ラルトは飽いた。飽き飽きだ。彼女の寝顔を、見つめるのは。
 寝顔を見ると不安になる。本当に、二度と目覚めぬのではないかと。
「レン、ティアレは?」
 レンの傍らに並び、ティアレを見下ろしながらラルトは問う。
「粥をお召しになられてまたお眠りに」
 ラルトの問いに、表情の乏しい女官は即答する。しかし普段は一の問いに対して一の答えしか返さぬレンが、今日ばかりは淡々とした口調ながらもさらに口を挟んだ。
「つい先ほどまで、お目覚めでいらっしゃいました」
 彼女のその目元は微かに潤み、感動に打ち震えているようにさえ見える。
「本当に、お目覚めでいらっしゃいました……。お話を、したのです」
 夢のよう。
 興奮からか、頬をうっすらと紅潮させて呟くレンを一瞥し、ラルトは少し安堵した。エイの報告を疑っていたわけではない。しかし彼やレンの表情をみて、本当に、一度は彼女が目覚めたのだということを実感したからだった。
「飲み物をお持ちいたしましょう」
 椅子を引き出したラルトが、しばらくここに留まるつもりだと理解したのだろう。レンはそう言って踵を返した。足音も立てずに退室する女官の華奢な肩を見送り、ラルトは椅子に腰を落とす。
 目覚めたら、最初になんと伝えようか。ティアレの寝顔を見つめながら考える。
 何故こんなに目覚めなかったんだと揶揄するか。
 それとも、これほどまで皆を心配させてと叱るべきか。
 彼女が目覚めないのではないかという不安と、早く目覚めてほしいという焦燥。それらをねじ伏せながら、傍らの卓に頬杖をついて、ラルトは静かに目を伏せた。
 かたん、という衝立の動く音に、ラルトは我に返って背後を振り返った。レンが戻ってくるには早すぎる。何か忘れ物をしたのかと勘ぐったラルトの目に映ったのは、シノの姿だった。
「シノ」
 柔和な笑みを浮かべて礼を取った彼女はこちらに歩み寄り、隣に並んだ。繊手を握り締めたまま、ティアレを見下ろす彼女に、ラルトは言った。
「時間を空けてきたのか?」
「はい」
 彼女は小さく頷いた。
「また本殿に戻らなければならないのですが。ティアレ様の様子が気になりまして」
「粥を口にしてまた眠ったそうだ」
「はい。綺麗に召し上がられたとかで。……本当に、よかった」
 おそらく部屋の前でレンからティアレの食事の様子について聞いたのだろう。シノは安堵に目を伏せる。その横顔を見上げながら、ラルトは尋ねた。
「ティアレが最初に目覚めたとき、お前がここにいたんだろう?」
 エイからの報告によれば、ティアレの覚醒を最初に確認したのはシノだという。彼女もまた、ラルトと同じように時間が空いてはこちらに寄っている。シノが部屋の空気を入れ替えている際に、ティアレが目覚めたのだとエイから聞いた。
「花を飾っておりましたら、ティアレ様からお声がかかりました」
「花?」
 シノが指し示す方向に従って視線を動かすと、花瓶に満開の花が生けられている。妙なことだ。他国から賓客をもてなすことも多い宮城の要所には、季節の花が生けられている。無論、ラルト自身も目にすることは多い。だというのに、花という存在を久しぶりに目にするような気がした。
「あぁ、綺麗だな」
「散歩をしておりましたら見つけました。庭先にはいつの間にか、あれほどの花が咲くような季節になっていたのですね、陛下」
「そうだな」
 年が明けてもう幾分か経つのに、様々な要因からティアレの手が入らない庭は、凍えたように静かだった。いつもならいっせいに花咲き乱れる低木が、ちらほらとしか蕾をつけない。しかしいつの間にか、あのように満開の花が咲き乱れる季節に移行していたのだ。
「私は思ったのですよ、陛下。ティアレ様はただ単に、冬のような寒々しい春が終わるのを、眠りながら待っていただけではないでしょうか」
「もしくは、ティアレが目覚めることを予期した花が彼女を迎えるために咲いたか」
 ラルトの呟きにシノは忍び笑いを漏らし、これから、また明るくなりますね、と言った。
 静かだった奥の離宮が、また賑やかになる、と。
「陛下」
「なんだ?」
「もう、間違えないでください」
 女官長の神妙な言葉に、ラルトは黙って耳を傾ける。自分の歴史すべてを見つめてきたといっても過言ではない女の横顔は、静謐だった。彼女はその紫紺の双眸でティアレを見下ろし、抑揚を殺した声音で淡々と語った。
「もう、間違えないでください陛下。大切な何か。あの玉座に腰を下ろす意味。フィルは、決して貴方に不幸になって欲しくて、貴方を皇帝として押し上げようとしたわけではないこと。私達は、貴方達に、幸せになってほしかった。だって、貴方達は私の。私達の――……」
 シノの唇が小さく動き、声にもならぬ囁きを紡ぐ。しかし唇の形から読み取った言葉は、温かいものだった。
 呪われた古い国には因習が巣食う。血のつながりは決して優しいものとはいえない。自分もジンも、互いを残して近しい血縁者は存在しない。存在したところで、ただ厭うばかりの存在だっただろう。
 そんなこの国で、シノたちは、君主とその家臣という垣根を越えた、何かだった。
「また間違えそうになったら止めてくれよ。期待してるから」
 そのような存在が自分に残されていること。そのことに幸福を抱きながら、ラルトは呟く。シノは微笑んで応じた。
「無論。今度はイルバさんの手ではなく、他でもない私が殴り飛ばして差し上げます」
 近頃は人から殴られることなど滅多にない。イルバの拳は痛かったと、苦笑いを浮かべるしかないラルトに、姉同然の女官長はおかしそうに笑って言ったのだ。
「ティアレ様が目覚められたときには、強く抱きしめて差し上げてください。その存在を、忘れぬように」
 もう二度と。
 大切なものを、間違わぬように。
 ラルトは大きく頷いた。
 それから仕事に関して二、三、言葉を交わし、本殿へと戻っていくシノの背中を見送ったラルトは、ティアレに視線を戻して唇を引き結んだ。
 もう二度とこの指の狭間から零れ落ちる愛しいものを、見たくなかった。
 だから。
 祈るように願う。
 早く、その。
 瞼を開けてほしいと。


 起きてください。
 誰かが囁く。優しい声で。
 起きてください。もう貴方は目覚められるはず。
 その声は少女の声だ。ほんの一時期とはいえど、献身的に自分に仕えてくれていた少女の。
 待っていますよ、たくさんの人が。
 笑いを含んだ声が言った。
 だから。
 起きて。


 まどろみから覚醒する。
 ティアレは、霞む視界を明瞭にするべく瞬いた。順繰りに周囲を確認し、自分の所在を認識する。そして、安堵した。ここは。
(あぁ、いつもの部屋……)
 慣れ親しんだ、己の寝室。奥の離宮の、一室だ。
 ティアレは次に、時刻を知るために窓の外を一瞥した。御簾の上げられた窓辺には、明るい日差しが差し込んでいる。太陽の位置はわからない。けれどもその様子は、昏睡からティアレが目覚めたときと寸分変わらぬように思えた。初めて深い昏睡から目覚めたときから、さほど時間は経っていないだろう。ティアレがまた一日寝過ごしてしまっているというのなら、話は別だが。
 誰か部屋にいないのだろうか。女官の姿を探すため、部屋に視線を廻らせたティアレは、息を詰める。思いがけず、すぐ傍らに人がいたからだった。
「……ラルト」
「あぁ」
 ティアレの呼びかけに、その人は静かに頷く。いつからそこにいたのだろう。ラルトは腕を組み、穏やかに微笑みながら、揶揄するようにティアレに言った。
「おはよう眠り姫。気分はどうだ?」
「だい……じょうぶ、です」
 大丈夫、というよりもむしろ、すこぶるよいといって良いかもしれない。こんなに身を軽く思えるのはいつ以来だろうか。今すぐ寝台から降りて、外の空気を吸いに出たいと思うほどだった。幸いにも、外は晴れである。
 ティアレはその旨をラルト伝えようと口を開きかけて、そのまま言葉を喉に詰まらせた。驚きに瞬いて、唾を嚥下する。
「ラル、ト……?」
 躊躇いがちに声をかけても、返事はない。ラルトは横に頭を振ると、目元を手で覆って項垂れた。震える唇から微かに漏れ出でる囁きが、ティアレの耳に届く。
「……よかった……」
 目元を覆うラルトの指先から、透明な雫が零れて、落ちた。
「よかった……もう目覚めないかと思った」
「ラルト」
「よかった……本当に……」
 ただ、よかったと。
 浅い呼吸の狭間、ティアレの回復を喜ぶ言葉だけを、ラルトは途切れ途切れに繰り返す。ティアレは上半身を起こし、ラルトに手を伸ばした。頭を抱えて震える男を、胸に抱きかかえる。
「ごめんなさい」
 ティアレの腰に回された男の手の、あまりに頼りなく震える指先を、ティアレは夜着の布越しに知った。面を上げない夫の髪に頬をうずめ、ティアレはいかに自分の不徳が彼を苦しめていたか、それを思い知った。
 長い長い夢から覚めて。
 人々に涙で迎え入れられて。
 どれほど彼らを苦しめてきたか。
 思い知らされる。
 己の罪深さ。
 思い知らされる。
 自分が、もう、かつてのような。
 ただ憎まれ疎まれるだけの存在では、ないこと。
 心の底から、謝罪する。
「ごめんなさい、ラルト……」


「これで、最後」
 夢渡りから戻った少女は、嘆息しながら戻りつつある感覚に意識をなじませた。
 祈りを捧げるための御堂の内部は薄暗い。瞬きを繰り返し、徐々に目を慣れさせる。御堂の内部の輪郭がぼんやりと浮かび上がるにつれて、少女は自分があちら側からこちら側に戻ってきたことを実感していた。
 魔女と呼ばれた女が一月二月昏睡に陥っただけのことで死なないことは判っていたし、あまり手を出すなと将軍からは厳命されていた。本当はもう少し助けてやりたかったが、それも叶わぬだろう。彼の命なしには、基本、少女らの一族は動くことはできなかった。
 これが、おそらく手助けの最後になるに違いない。
「姉さま」
 御堂に光が差し込み、少女は眩んだ目に、思わず手でひさしを作った。光の向こうから現れた影は、『妹たち』のものだ。
「姉さま、姉さま。あちらの国についてお話をしてって、婆さまがおっしゃっているわ」
「判りました。すぐ参りますって、伝えて」
「はぁーい」
 少女よりもさらに年下にあたる彼女らは、無邪気な笑い声と足音を立てて離れていく。少女は衣の裾を捌きながら立ち上がると、微笑んで呟いた。
「どうかお幸せに」
 そして、扉を閉めた。


「とりあえずだ」
「はい」
「放してくれ」
「えー? 嫌です」
 ティアレはラルトの頭を抱えたまま放そうとしない。ティアレが目覚めたことに感極まり、思わず泣いてしまったラルトは、母親が子供にそうするように、ティアレに抱きかかえられた。それまではいいのだが、涙が引いて気持ちが落ち着いた今も、ティアレはその腕の中からラルトを開放しようとはしない。先ほどからずっと、こんな攻防を繰り広げている。
 幾度めかのやり取りのあと、ラルトはあきらめて、ティアレに大人しく重心を預けた。
「……本当に、大丈夫そうだな」
 すこしひやりとした女の肌の温度、腕の中の柔らかさ、頭上から降る、くすくすという忍び笑い。そういったものを五感全て使って感じ取りながら、ラルトは呻いた。
「はい」
 本当に、先日の有様が嘘のようだ。
 ラルトの呟きに律儀に返事を寄越したティアレは、ラルトの髪をほそほそと指で梳きながら沈黙していたが、しばらく心地よい時間が流れた後、彼女はぽつりと呟きを落とした。
「シノが、泣くのを初めてみました」
「シノが?」
 驚きにティアレの手を払いながら、ラルトは思わず身を起こす。こちらと視線を合わせたティアレは、途方に暮れたような微笑を浮かべ、小さく頷いた。
「目が覚めて、最初にこの場所にいてくださったのは、シノでした。御簾を空けて、風通しをよくしてくださっていたシノを、呼んだんです。そうしたら、シノがこちらに走り寄って、私を抱きしめて……泣いていたんです」
「……そう、か」
 頷きながら、ラルトはどこか、信じられないような気がしていた。
 いや、シノが泣いてもおかしくはない。彼女に感情がないということは決してないし、彼女はティアレを本当に慕っているのだ。
 しかしラルトは、生まれてこの方、シノが泣いているところを見たことがない。これほどまでに長い付き合いにも関わらず、だ。彼女の婚約者であったフィリオルが死んだときも、レイヤーナが死んだときも。
 彼女は泣かなかった。
 その彼女が、泣くほどに――……。
「ラルト、私は、ひどかったのですか?」
 視線を伏せがちにして尋ねてくるティアレに、ラルトは頷いた。
「あぁ。……死ぬかと思った」
 落ち着いて答えたはずだったというのに、その声は、知れず震えていた。
 冗談ではなく、本当に、死ぬかと思った。ティアレのあの恐慌具合を見ていれば、誰もがそう思うだろう。幾日も続く高熱。叫び、苦しみ、もがき、そして気を失い、目覚めては、再び叫ぶ。それの繰り返し。
 回を重ねるごとに、衰弱していくことがわかる。
「死ぬと、思った」
 細った指先に触れるたびに。痩せていく肩を抱くたびに。
 何度、思ったことか。
「本当に、失うかと思った。幾日も幾日も、高熱が続いて……気が、狂いそうだった」
 ティアレは目を伏せて、何かを黙考する。次に目を見開いた彼女は、ラルトの手をそっと取った。
「……心配させて、ごめんなさい」
 申し訳なさそうに謝罪する彼女に、ラルトは頭を横に振った。何を謝る必要があるのだろう。何一つ、彼女が謝罪する必要などない。苦しんでいたのは、彼女のほうであったのに。
 ふと、ティアレの手に力が込められる。ひんやりとした滑らかな指先に加わった力に、ラルトは怪訝さを覚え、ティアレを見つめ返した。
「では、お子は、流れてしまったのですね……」
 悔しそうにかみ締めた下唇との隙間から、搾り出すようにしてティアレが呻く。高熱が幾日も続いたと聞けば、そう思うのも無理はない。ティアレだけではない、誰しもが、そう思うだろう。
「流れてない」
 目を伏せ、涙を堪えていたティアレに、ラルトは言った。一瞬、何を言われたのか判らぬというように、ティアレは呆然とラルトを見返して問い返してくる。
「……今、なんて」
「流れてない。リョシュンに言わせれば、すこぶる順調だそうだ」
 ティアレの中の子供は、ティアレが高熱を出そうが、気が狂ったようになろうが、平気だったということだ。まだ明確な形すら成していないであろうわが子の、その生命力の強さにラルトは脱帽する。
「いきてる……」
 瞳の焦点を合わさぬまま、ラルトの言葉を確かめるように、ティアレは僅かに唇を動かす。やがてその瞳が徐々に像を結ぶにつれて、ティアレの表情が厳しいものに取って代わられていった。
「ティアレ?」
「ラルト。貴方を苦しめるかもしれないと承知の上で、お願いがあるのです」
 ラルトを真っ直ぐに見据えて、彼女は言った。
「お願い?」
「はい……」
 神妙に頷いたティアレは、抑揚を殺した声音でラルトに請うた。
「この子を、生ませてください」


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