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第二十二章 永久の誓い 1


「……わかった。考えておこう」
 ラルトが了承すると、イルバは黙ったまま、深く深く、頭を垂れた。沈黙は言葉よりもその最敬礼の意味を重く表す。ラルトがよしというまで頭を上げないつもりなのかと思うほどに、彼の礼はとても長かった。
 イルバが再び顔を上げるのを待って、ラルトは卓の上に置いていた本を取り上げる。椅子から腰を浮かしたこちらを見上げ、イルバが尋ねてきた。
「また仕事に戻んのか?」
 ラルトは首を横に振った。
「ティアレの様子を見てくる。少し時間も空いてることだし」
「奥方の容態はどうだ?」
「……一応、落ち着いてはいるんだが……」
 本の縁を顎に押し当て、どう答えたものか、と考える。
 ティアレの熱が下がりきって、もう数日経つ。最初はティアレの容態が落ち着いたことに、女官を含めて誰しもが喜んだ。が、彼女が目覚めないとなると話は別だ。日を追うごとに、女官たちの顔色もまた精彩を欠いていくようになった。
「リョシュンからも、話があるのだといわれている。今からそれを聞きにいくんだ」
 呼び出しても構わなかったが、リョシュンは大抵ティアレの傍に控えている。ティアレの様子を見がてら、話を聞いたほうが早いだろうと踏んでいた。
「そうか」
 イルバが、神妙に頷く。
「早く、目覚めるといいな」
 その言葉は気休めにしかすぎないことを、理解している。それでもラルトはぎこちなく微笑み返し、イルバの部屋を後にした。


 仕事の合間、時間を見繕って奥の離宮へと向かうことは、ほぼ日課となっている。今日はイルバと話があった為に少し遅れたが、大抵は昼を回った頃に足を向けることが多かった。女官たちは出払っているのか、奥の離宮は閑散としている。部屋に入り、寝室へと向かうと、案の定リョシュンは椅子に腰掛け書類に目を通していた。
「リョシュン」
 声量を殺して呼びかける。立ち上がった御殿医は深く一礼した後、ラルトに手前の部屋に戻るように促した。彼の肩越しに、ティアレの顔を見る。ティアレの寝顔は、変わらず穏やかだった。
 リョシュンの勧めに従って、足を踏み入れかけた部屋を出る。長椅子に腰掛けたラルトは、リョシュンにも向かいの椅子を手振りで勧めた。
「話とはなんだ?」
「陛下、以前、私の副官が述べたことを、覚えておいででしょうか?」
 ラルトの勧めに従って、一礼してから椅子に腰掛けたリョシュンは、まずそのように話を切り出した。
 リョシュンの問いかけに、ラルトは首を傾げる。
「いつの話のことだ?」
「妃殿下のお体に紋様が現れて数日後……閣下がお戻りになられた日のことでしたか。私めの副官をつれて、こちらに参りましたときに」
「あぁ……思い出した」
 リョシュンの副官には魔術の心得がある。もともと医療と魔術は近しい部分があるから、今も魔術とまではいかなくとも、簡単なまじないならば行う医者も多くいる。
 彼女が言ったのだ。
『妃殿下にかかる術は、そう悪くはない術のように思えるのです――……』
「あの時は、私の部下の不敬、申し訳ありませんでした。陛下の心情を汲み取ることもせぬ部下の短慮をお許しください」
「いや、いい……俺のほうもあのときは冷静さに欠いていた。彼女に気にしないように伝えてくれ。……それで、その言葉がどうしたって?」
 リョシュンの意図をいまひとつ理解することの出来なかったラルトに、リョシュンは微笑んで告げた。
「私も、今、妃殿下にかけられた術は、そう悪くないものではなかったのではないのかと、思っているのです……」
「どういう意味だ?」
「妃殿下のお子、流れておりません」
 リョシュンの報告は、ラルトにとって実に意外なものだった。ティアレの下腹部から出血していた時点で、彼から諦めるようにと告げられていた。その報告から、すでに、流れたものと思い込んでいたのだ。
「流れていないどころか、順調に、成長していると申し上げなければなりません」
「だがティアレの体が耐えられないんだろう? 術のかけられた薬を飲まされ、体の中に印が刻まれていると」
「何もないのです」
 リョシュンが、静かに繰り返す。
「何も、ない……なくなってしまったのです、陛下。妃殿下には確かに呪薬を通じて術がかけられておりました。副官が術を認識し、私もまた、妃殿下の子宮にその術が原因と見られる異状を確認いたしました。けれど今、妃殿下にはそれが一切見られない」
「と、いうことは」
「よく食べ、よく眠り、身体を動かし、健やかにあらせられれば、出産はなんら問題ありません……無論、お目覚めになられることが前提となりますが」
 リョシュンの言葉に、ラルトは思わず絶句した。彼の言葉の示すところはつまり、ティアレが望めば、子供は産めるという、ことである。そんなことが、ありうるのだろうか。言葉を失うラルトに、リョシュンが微笑む。
「この件に関った御殿医一同誰もが驚いています」
 ラルトですら驚くのだから、ティアレの身の上に起こったことを正確に把握している医師たちの驚きはなおさらのものだっただろう。あったはずのものがなくなる。下手をすれば、彼らの誤診と取られることだってあるのだから、一部の者は悲壮な気分にもなったはずだ。
 少し間を置いた後、リョシュンが声を低めて呟く。
「もし仮に、妃殿下が目覚められて出産を望まれた場合、妃殿下は元々がお体の弱いところがあらせられますので、その点だけは重々注意していただかなくてはなりません」
「わかった……」
「このように、回復された原因は、考えられるに、ただ一つなのです」
「……解呪か」
 ラルトの呻きに、リョシュンは静かに頷いてみせた。
 呪いをかけられた場合、それを解くにはいくつか方法がある。術を作動させる動力的な意味合いのもの、対価を取り払う。もしくは、術を動かし続ける支えとしての意味合いのもの、支柱を壊す。
 大抵、支柱は魔力でとらえどころがないが、対価は時に陣であったり、文字であったり、呪いならば呪いたい相手の私物であったりと、物品が多い。よって、素人が術を解こうとするならば、対価を破壊することが一番安易だ。しかし時に対価は、長い時を経て判らなくなってしまっていたり、姿を変えてしまったりすることがある。
 ティアレにかけられた術は、薬が対価だ。
 これは彼女の身体の中に吸収されて、すでにない。
 対価の破壊が不可能となった場合、支柱、つまり、元となっている魔力を取り払う行程が必要となる。この国の裏切りの呪いは、つまるところティアレに宿っていた魔力が、支柱を吹き飛ばした――詳細は多少違うとは思うが、そんなところだと、ラルトは認識している。そのように、支柱を取り払う術を、解呪、そして、その術を行う魔術師を、解呪士と呼ぶ。
 しかし解呪は一般的な魔術よりもはるかに高等な技術を要求される術だ。たとえ呪いがどんなに些細なものだとしても。
 ラルトの父が、この国の呪いを解こうと躍起になっていたころ、城に招かれた解呪士を幾人か見たが、その誰もが卓越した魔術師だった――結局、彼らの誰一人として、この国の呪いを解くことはできなかったけれども。
 現世において、魔術師の数は少なく、解呪士の数はそれに輪をかけて希少だ。
 解呪の術を、見たことがある人間も少なかろう。
「……ティアレのあれは、解呪の術の一種だと……?」
「そう、思えます。そうでなくば、説明が付かないのです、陛下」
 ラルトは組んだ自らの手に額を押し付け、判った、と頷いた。
「ひとまず下がっていい。また何かあったら呼ぼう。しばらくは、ティーには俺がついているから」
「かしこまりました」
 リョシュンは深く頭を下げて立ち上がる。高齢ながら、きびきびとした動きで退室していく背中に、ラルトは声をかけた。
「リョシュン」
「……はい陛下」
 足を止めて向き直った老人に、ラルトは尋ねた。
「ティアレは、目覚めると思うか?」
「もちろんでございます」
 力強く、リョシュンは断言する。
「それを、他でもない貴方様が信じなくてどうなさいますか」
 ティアレは必ず目覚める。
 いつか。
「……ありがとう」
 ラルトの言葉にリョシュンは微笑んで、深く会釈する。彼の小さな背中が消えて見えなくなるとともに立ち上がり、ラルトは再度寝室に足を踏み入れた。
 持ち込んだ仕事の書類を卓の上に置いて、その上に脱いだ上着を丸め置く。袖を軽くまくってから、ラルトはティアレの身体を抱き起こした。
 意識のない人間の身体は重い。体重全てを腕に感じながらティアレを抱え上げ、あらかじめ敷物を詰めた椅子へと移動させる。冷えぬように彼女の身体を毛布で覆った後、ラルトはティアレの腕を手に取った。
 その腕に力を加え、ゆっくりと曲げ伸ばしさせる。右が終われば左。腕が終われば脚。眠ったままでは血が溜まる。時間が空いてこちらに顔を出した際には、必ずこうやって身体を動かしてやったり、拭いたりといった世話をすることにしていた。
 椅子を引き寄せ、ティアレと向かい合う形で腰を下ろす。香油を手につけて、彼女の白い手足を揉み解しながら、ラルトは改めてティアレを見つめた。
 ぐったりと椅子に重心を預ける女に、目覚める気配はない。しかし頬は健康的に色づき、今すぐに瞬きしたとしてもおかしくはない顔色だった。数日前まで、意識ないまま狂ったように絶叫していたことが嘘のように。
 ティアレの手を取ったまま、動きを止めて、ラルトは瞑目する。
 誰かが、ティアレの事情を知っていて、解呪を行った。
 誰かが、など、ラルトの心当たりはたった一人しか、いない。
 暇つぶしでこの国を滅ぼしてみたかったなどと、ふざけたことを述べ、結局、正体も何も明かさずに消えていった男。
 ラルトはティアレの手を一度置き、自らの右手の指先で、左瞼に触れた。その中に収まる双眸は深緋[こきあけ]。その色は、瓶の底に沈む醸造した葡萄酒の色にも似ている。この瞳は、このリクルイトの一族にたまさか現れる。そして、このリクルイトの一族にしか、現れない。
 気のせいかもしれない。
 しかし一瞬とはいえど、あの男の双眸には、確かにこれと同じものが嵌っていたのだ。
 瞼を閉じ、その男の名前を胸中で呻く。
 ラヴィ・アリアス――……。
 あの、身体の半身に刺青を施した男。
 彼は一体何を思い、何を為そうとして、自分たちに手を出してきたのだろう。
 問い質したくとも会う方法が判らない。生きているのかどうかすら確証がない。
 そしてそんな男のことを考えるだけ、今は無駄というものだった。
 ラルトは嘆息し、触れているティアレの手を取り上げてその甲に口付けた。
 遠い昔、子供の時分に読んだ童話を思い出す。呪いをかけられ眠り続ける姫君に、王子が口付けを送ると、魔法が解けて姫が目覚めるという話だった。そんな風にティアレが目覚めるというのなら、今すぐに自分は、惜しみなく口付けを与えるのに。
「寝顔を見るのも、そろそろ飽きたぞ」
 呟きが、漏れる。
「……ティアレ」
 女は、呼びかけに応えない。
 口元を引き結びながら、止めていた動きを再開させる。静かな部屋に、自らの立てる僅かな衣擦れの音だけが響いていた。


 思わず、欠伸が零れた。
「ふあぁぁ……」
 空は晴れ渡り、暖かい風が草原を優しく撫でている。新緑は踊るかのようにうねり、光を照り返していた。少女がその中で、黙って陣を引いている。転移の陣だ。
 荷物が少ないのであれば船でのんびりと戻ってもいいと思っていた。何せもう長いこと、船で移動するなどということをしていなかったからだ。諸島連国周辺の海は美しいと評判であるし、里から滅多にでることのない少女に、そういった景色を見せてやってもいいと思っていた。
 ところがだ。
 他ならぬその少女によってその案は却下された。彼女がやたらめったら、土産を買い込んでいたためである。荷物を抱えての更なる長旅は億劫であるらしい。
 二度目のあくびを噛み殺しかけたところで、声がかかった。
「終わりましたよ、将軍」
 陣を描き終わった少女が手を払いながらこちらに歩み寄ってくる。荷物が放り込まれた行李に腰掛けていた彼は、うん、と頷いた。
「さって、帰るか」
 立ち上がって、大きく伸びをする。
「長旅に付き合ってくれてありがとうな」
「いいえ。色々ありましたけれど、楽しい旅でした。……ティアレ様にきちんとしたお別れをいうことができなかったのが、心残りですけれども……」
 心底残念そうに、少女は呻く。彼女は一時的にでも世話を任されていた女を、ずいぶん慕っていたようだった。それは、あの女が魔女だからか。それともあの女自身の魅力からか。どちらが理由であるのかは彼にはわからない。
「無事に、術も成功してよかった」
 両手を合わせて少女は無邪気に笑うが、自分が彼女に強要したことはかつてない苦行だっただろう。どうにか成功したはものの、術自体は長丁場となって少女にかなりの負担を強いてしまった。あの解呪の術だけは結構簡単に終わるだろうと高を括っていたというのに、まさか魔女の魔力に絡み付いているなどと予想外だった。
 魔女の魔力と対峙しながら術を成功させたのは、ひとえに少女の技量が卓越したものだったからだ。少女でなければ、こちらの魔力を突如借り受けて、使いこなすことなどできなかっただろう。自分の人選は成功だったわけである。
 何はともあれ、全て終わった。これ以上自分が首を突っ込んでいてもよいことなど何もない。
 彼はよし、と気合をいれて、尻に敷いていた行李を背負い上げた。その拍子に、ずしりとした重量が腕にかかる。彼は顔をしかめ、思わず少女に尋ねた。
「さっきから思ってたんだけど、これ一体何が入ってるんだ? すごく重いけどさぁ」
「ですから、お土産です。里の姉さまたちみんなに頼まれたんです。もちろん、妹たちからも」
「もしかして、里の人間全員分……?」
「はい」
 里は大きくもないが、小さくもない。里の人間全員分となると、かなりの量だ。この重さも頷ける気がする。
「しっかり運んでくださいね、将軍。お約束でしたもの」
「わかってるよ。……転移門を開いてくれ」
「はい」
 少女はこちらの指示に笑顔で頷き、古い言葉を使って世界の魔に語りかける。彼は単独でならばこのような大層な陣を開かなくても転移できるが、今回は少女もいるし、荷物もある。それに、この地域で少々魔を揺るがしすぎた。これ以上影響がでないように、少女に陣を任せることにしたのだ。
 光の柱が、空へと伸びる。
 その中に、まず少女が足を踏み入れる。彼も少女に続きながら、一度だけ、背後を振り返った。
 春に賑わう美しい国。その国を愛していたことも、彼には確かにあったのだ。
 彼は苦笑に口元を歪め、転移門に足を踏み入れた。次に門を出たとき、時を止めた祖国の前にいるはずである。愛しい人々の姿を思い浮かべながら、彼は静かに目を閉じたのだった。


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