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第二十一章 墓標の果てより 6


 他人が部屋にいると眠ることができない。
 あくまでジンはそのように主張し、昔の彼を知る周囲が彼の言葉に同意を示すものだから、イルバは仕方なく部屋を出た。そのまま廊下を歩き出す。お目付け役を失ったジンが部屋を抜け出す可能性も考えないわけではなかったが、あれだけシノにこってりと絞られた彼だ。大人しく横になっているだろう。第一、彼の身体が休息を求めて悲鳴を上げているはずだ。常人ならばとっくの昔に、身体に蓄積した毒の誘惑に屈服しているだろう。それを押さえつける彼の精神力の強さには脱帽である。
 なるべく人目に付かぬ道を選び歩きながら、さてこれからどうしようか、と考える。自分が一番の暇人だ。平時ならば暇は大歓迎だが、この状態だと、一人何もすべきことがないということはもどかしい。しかも、不安定な身分であるが故に、出来ることも限られている。
「……とりあえず、シノの様子でも見てくるとすっかな」
 与えられている個室に篭って、今日一杯は溜まっている事務仕事を片付けるのだと、シノが言っていた。彼女の部屋は奥の離宮ではなく、本殿の中にある。入室の許可はすでにもらってあった。どんな按配か様子を見に行くぐらいは構わないだろう。きちんと休まぬラルトやジンを叱咤するシノだが、彼女もまた人のことをいえる立場ではないと、イルバは思っている。
 今はこうして、皆の調子を順番に見て回る程度しかできない。不安定な立場であるがゆえに。
(なるべく早く)
 全てに片はつけるべきだろう。いつまでも無駄にこの国に世話になっているわけにもいかない。
 ジンに依頼されて地下牢へ足を運んだときが、シルキスと会話をした最後となる。一度足を運んだが、彼は一切イルバと言葉を交わそうとしなかった。ある意味、当然といえる。
「父親、か」
 シルキスに言われるまでもない。
 一体どの口が、そのようなことをぬけぬけということができるというのか。
 自分は、失格だった。政治家としても、父親としても。
 娘と妻を死に追いやり、弟子を狂わせて――シルキスの言う通りだ。今更、何を。
 この罪は、永遠に背負っていく。
 死して、この身が海に還るまで。
 罪を積み重ねながら生きていかねばならぬというのなら、この世はなんという煉獄なのだろう。
 そう思った、ときだった。
『おとうさま』
 思わず。
 立ち止まって背後を振り返る。他者がその場にいれば、その勢いに驚いただろう。
 廊下には誰もいない。自分一人の影が、昼下がりの穏やかな陽を受ける床の上に落ちている。
 空耳か。それにしては鮮やかな声だった。イルバは頭を掻きながら、自分もまた疲れているのかもしれないと嘆息した。
 再び歩き出そうとしたその刹那。
『あなた』
 今度こそ。
 はっきりと、耳に残る、柔らかい女の声。
「……ナスターシャ?」
 笑いを含んだ女たちの呼びかけに、強張りを隠せぬまま周囲を見回す。誰もいない。誰もいるはずがない。だというのに、彼女たちが微笑んで、自分を見つめているような気分になるのはどうしてだろう。
 妄想だと思う。
 彼女たちが笑っているなど、妄想だと。
 けれど、もし仮に、彼女らが、愚かな自分を見限らずに見守ってくれているというのなら。
 今度こそ、彼女らに恥じぬ道を選んで生きたかった。
 瞼を閉じて、イルバは脳裏に蘇る母子に微笑みかける。
 そして柔らかな春の日差しの中を、ゆっくりと再び歩き始めた。


 優しい手が、髪を梳く。
 温かな指先の、触れる瞬間が好きだった。まるで日向で寝こける猫を、撫でるように動く指先の。
 瞼に触れる唇が好きだった。掠めるようにしか触れないのに、確かな熱を落とすそれ。
 そうして、彼はいつも優しく名前を呼ぶ。
『シノ――……』
「――……!?」
 あまりにも明瞭な声が耳元で弾けて、シノは思わず身を起こした。ひらり、と頬から紙が一枚剥がれ落ちる。床に落ちたそれを、椅子に腰を落としたまま上半身を落としてシノは拾い上げた。嘆息を零しながら、思わず呟く。
「……ゆめ?」
 指先で、瞼に触れる。口付けなど、遠い記憶の中にしかない行為だ。だというのに、確かにここに何かが触れた。薄い皮膚の上に、温かい熱と感触が残っている。
 夢現を彷徨う間に、過去と現在を混同したか。それにしてはあまりにも鮮やかな感触、鮮やかな声音。耳には低い声の余韻が残る。
 もういない、愛した男の声。
 がちゃり。
「っ!?」
 ふと、唐突に扉が開かれて、シノは条件反射に身を震わせた。
「お? シノ、いるんだったら返事しろや」
「……イルバさん」
 開いた扉の向こうから、ひょいと顔を覗かせてきた男はイルバである。彼は顔を突き出したまま、きょときょとと周囲を見回し、この部屋にシノしかいないことを確認して入室してきた。衣服の袖口に手を差し入れ、ぐるりと首を回す。
「結構天井高いなこの部屋も。この宮城っていいよな。床も高いし天井も高いし、明かりをよく取り入れる」
「夏場、湿気がひどいですから。風通しをよくするためなんです」
 シノは手元の書類を元にあっただろう位置に戻しながら言った。
「どうなさったんです? 何か御用ですか? また閣下が逃げ出されました?」
「うんにゃ。特に用事はねぇよ」
 頭を掻きながら、彼は言う。
「今、巡回中なんだ。皆、きちんと休んでるかってな」
「私よりも陛下や閣下を見張っていてくださいな」
「あれだけお前に叱られりゃ言われなくとも休むだろ。ラルトは今奥の離宮だとよ。エイはお嬢ちゃんに言われてふつーに休んでるから心配ねぇけど。お前が一番無茶しいだもんな」
「私もしっかりと休ませていただいておりますよ」
「頬に墨つけてちゃ、疲れて居眠りしてましたつってるようなもんだぜ。寝台で寝ろってラルトにいえねぇぜそんなんじゃ」
「――っ! もっと早く教えてください!」
「がはははははは!」
 先ほど頬に張り付いていた書類の文字が頬に移ったのだろう。イルバの笑いが部屋に木霊する中、机の中から手鏡を引き出して、シノはそれを覗き込んだ。確かに彼の言う通り、くっきりと文字が頬に転写されている。眉間に皺を刻みながら布で頬を拭っていたシノは、ふと思いついてイルバに尋ねてみた。
「イルバさんは、今、部屋に入ってきたのです、よね?」
「あん?」
 シノの問いに笑いをおさめた彼は、首をひねってみせる。
「何いってんだ。見てただろうが、俺が入ってくんの」
「……ですわよね」
「……どうか、したのか?」
「いえ……」
 シノの様子に引っかかりを覚えたのだろう。イルバはこちらに歩み寄り、怪訝そうに眉根を寄せた。その彼に、シノは自らの勘違いを恥じらいながら苦笑を返す。
「誰かが、私に触れたような気がしたのです。……きっと、夢を見ていたのでしょう。懐かしい人の夢」
「……フィルの、夢?」
 躊躇いがちながらもイルバの口からその名前が出たことに、驚きからか鼓動がひときわ大きく響いた。思い返せば初めてイルバと出逢ったとき、記憶を失っていた自分はその名前を仮の名前として使っていたのだ。 その名前の由来も、彼は知っている。
 シノは頷いた。
「えぇ……」
「そうか」
 相槌を打ったイルバは、何か思案する素振りを見せる。ややおいて、彼はシノに尋ねてきた。
「どんな男だったんだ?」
「……はい?」
「その男」
「……フィルですか?」
「あぁ」
 彼が、どのような男か。
 そのようなこと、問われたことがなかった。彼のことは古株の人間ならば知っているし、新参のものは失われたシノの婚約者のことに、あえて立ち入ろうとはしなかったからだ。
 開かれた窓の外を見つめる。黄金の糸を縒ったような柔らかくも眩しい日差しが、部屋の中にさしこんでいる。
「温かい、人でした」
 ちょうど、この日差しのように。
 温かく、人を包むような男だった。
「優しくて、人を放っておけずに、つい世話を焼いてしまう。そんな人でした」
 出逢ったきっかけも、自分がレイヤーナの面倒を見て、彼がラルトとジンの世話を焼いていたことに起因する。互いに無茶をする主を持って、言葉を交わすようになった。
「人を、放っておけない、か」
 イルバは腕を組みなおし、ふむ、と口元を山形に曲げる。不意に窓際を指差した彼は、にやりと笑みに口角を引き上げて言った。
「案外、そこらへんにいるんじゃねぇの。多分、それ、夢じゃねぇぜ」
「……はい?」
 一瞬、イルバの言葉の意味を図りかねて、シノは真顔で問い返す。何をふざけたことを言うのか。彼のほうこそ、疲れているのではないのか。
 視線に、もしかしてシノの胸中がにじみ出ていたのかもしれない。こちらから視線を逸らしたイルバが、半眼であらぬ方向を見つめて、低く呻く。
「……あーまぁ……なんだ。あんま、気ぃ張りすぎんなよ」
「えぇ」
「んじゃ、俺行くわ。ジンが本気で休んでんのかどうか、見に戻らねぇと」
「よろしくお願いいたします。もし休まれていないようでしたら、報告してください。しばき倒しにいかせていただきます」
「おっま、真顔で言うな、しばくとか。こえぇよ」
 脱力して苦言するイルバに、シノは口元に手を当てて笑って見せた。イルバは肩を軽くすくめると、ひらりと手を振って退室していく。静かに閉じられた扉を見つめたシノは、先ほどイルバが指し示した窓際を一瞥した。
 誰もいない。
 そこには、誰も。
 ただ、吹き込んでくる風が緩やかに御簾を揺らすのみだ。
 それでも。
 もし、ここに彼が、いたというのなら。
「……だいじょうぶ、きちんと、やすむから」
 きっと、こんなところで転寝をしてと、苦笑を漏らしているのだろう。
 シノは立ち上がった。もしイルバの言う通り、本当にシノの身を案じてフィルがそこに来ていたというのなら、ゆっくりと彼がまぼろばの土地で眠れるように、彼にこれ以上心配をかけぬように、しなければならない。
 やはり、イルバの忠告通り、少し眠っておいたほうがいいだろう。疲労は気を弱くさせ、夢を見させる。転寝はしても、横になると不安から逆に目が冴えてしまっていた。そのためずっときちんとした睡眠をとっていなかった。しかし今しがた見た優しい夢のおかげで、眠れそうな気がする。
 シノは窓辺に歩み寄った。仮眠をとるのならそれようの部屋に向かったほうがよい。戸締りとして、温かな風吹き込む窓を閉じ、シノは御簾を手馴れた動作で下ろしていった。


 ジンは熟睡するということなど皆無といってもいい。夢を見ぬ眠りに落ちるようになったのは、ここ最近のことだった。それもシファカが共にいるときに限られる。
 シノに散々説教を受けたジンは、大人しくイルバに与えられている部屋を陣取り、寝台に横になっていた。休め休めといわれても、のらりくらりと話を交わしていたジンだが、一度身を横たえると身体は非常に正直だ。蓄積されていた疲労が睡魔となって意識を闇へとすぐさま誘う。その眠りを妨げたのは、唐突に鋭敏な神経を刺激した、人の気配だった。跳ね起きて、周囲を見回す。しかし部屋には誰もいない。確かにあった人の気配すら、まるで霞のように掻き消えていた。
 気のせいだろうか。もしかしたらあまりにも蓄積しすぎた疲労から来る錯覚かもしれない。何せシファカの看病を通じて毒まで身体の中に溜め込んでいるのだ。
(ねよ……)
 もそもそとかけ布を引き寄せながら、再び身体を横たえようとした、そのときだった。
 ふわりと。
 甘い香りが。
 鼻腔をくすぐった。
 咲き誇る花の芳香にも似た甘い香り。薫ったのは本当に僅かだ。しかしジンは口元を押さえ、身体を強張らせざるを得なかった。
 覚えのある、香り。
 かつて愛して失った、女の香り。
 思わず、囁きが唇から零れ落ちる。
「……ヤーナ?」


 ティアレの傍らの椅子に腰を下ろし、卓に頬杖を付いて書類を流し読んでいたラルトは、いつの間にか指の狭間から書類数枚が零れ落ちていることに気が付いた。どうやら、うとうととして知れず指先から力が抜けていたらしい。苦笑して身を屈めたラルトは、ふと、背後が暖かいものに包まれたような感触を覚えた。
 誰かに。
 抱きしめられているかのような。
 錯覚。
『ラルト』
 床に散らばった書類をそのままに、弾かれたようにラルトは身を起こす。耳元を押さえて、周囲を見回した。心臓がいつもにも増して大きく鼓動し、それはまるで静かな部屋に木霊しているかのようにすら思える。誰もいない。御簾の下ろされた部屋は薄暗く、灯りはラルトの手元の招力石のみ。いくら気配を探っても、部屋の中には自分とティアレの二人しかいない。
 ただ。
 聞き覚えがあった。
 耳朶を優しく震わせた声は、確かに。
「……ヤーナ?」
 今はもういない、かつて愛し傷つけることしかできなかった、女の声。
 呼びかけに返されるのは沈黙。寝台で眠るティアレは、今朝方まで発作が起きていたものの、今は大人しい。やはり錯覚か、もしくは夢か。頭を振り、何気なくその顔を覗きこんだラルトは、驚きに目を見開いた。
(消えてる)
 驚愕から、胸中で呻く。
 あれほど、ティアレの肌という肌、全てを覆い尽くしていた紋様が、まるで何事もなかったかのように消え去っている。
 ラルトは慌てて立ち上がり、ティアレの手を取った。つい先ほどまで熱で汗ばんでいたその手は、嘘のように温度が下がり、健常な時の心地よい冷たさを宿している。その手を握り締めて、ラルトは呆然としながら椅子に腰を落とした。ティアレの寝息は穏やかだ。とても。
「は……はは」
 笑いを零しながら、ラルトは握り締めるティアレの手を自らの額に寄せた。何かの冗談ではないのか。そう思ったのだ。しかしいくら確認してもティアレの様子は健常そのもので、ただ単に眠っているだけにしかみえなかった。
 まだ、合点するのは早い。
 それでも、ある種の確信を持って、呟く。
「助かった、のか……」
 ティアレは、助かったのだろうか。
 もしそうだとしたら、何が、彼女を助けたのだろうか。
「……レイヤーナ?」
 もう一度虚空に向かって呼びかける。掠れた囁きは僅かに空気を震わせて、広い部屋の中に響き渡る。誰もその呼びかけに応じることはない。しかし、幻めいた気配が、小さく笑ったような気がした。


 墓標の遠き、果ての果て。
 私たちの幸せを祈り続けた。
 悲しい魂の在り処。
 死者の愛は。
 今もそこに。


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