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第二十一章 墓標の果てより 5


「懺悔と」
「悔恨……?」
 ティアレとシファカの呻きに、レイヤーナは大きく頷いて見せた。
「死したとき、私の中には二つの意思があった。一方は怨恨と嫉妬、そして強欲。生きて幸せになるものを許さぬと、私の中のそれらは現世を彷徨い、時に生者を死へと誘惑した。……ティアレ、覚えはない?」
 レイヤーナに問われ、ティアレの胸中に蘇ったのは、女の亡霊の姿だった。あれは確か、ラルトと出逢って間もないころだ。自らの命を絶とうと、奥の離宮の裏手にある森に逃げ込んだ。鬱蒼とした森を彷徨うとき、まるで自分を誘うように現れた亡霊の姿があった。
 あれは確かにレイヤーナの姿をしていたと、ティアレは思った。
「この国が呪いから解放されたとき、魔女の魔力を受けた私の魂は二つに引き裂かれた。生者を嫉妬する魂は、始まりの魔女と英雄の魂に連れられて、神祇の楽園への道程にありながら、今なお、現世に生きるものを死へと引きずり込もうとする。……シファカ、貴方は私の片割れと会ったはずよ」
 レイヤーナの言葉を耳に入れながら、シファカの脳裏を過ぎったのは、いつしか見た夢だった。故郷のロプノールで、ジンが死に掛けたときに見た夢である。
 白い、雪に覆われた平原。どこかへと向かう死者の葬列。その中にジンを招きいれようとする、美しい女。
 あの女は、レイヤーナだった。レイヤーナという存在を知らぬというのに、シファカは確かにあの時そう思ったのだ。そのことを、シファカは思い出した。
「一方、私は一時的なものとはいえど、現世に留まることを許された。あの人たちを愛する人々の、想いを託されて」
「……ハルマ・トルマで、私を助けてくださったのは、貴方ですか?」
 ハルマ・トルマでラルトの元まで自分を導いた女の幻を。ティアレは思い返していた。あの時は、錯覚かとも思っていた、優しく微笑む女の幻。
 レイヤーナはティアレの言葉に肯定を示すように、口元を微笑に緩める。
「けれどもう、私が貴方たちを助けてあげられるのはこれで最後」
 あまりに衝撃的なレイヤーナの告白に、言うべき言葉を失っていたティアレとシファカに、腕の中の光を抱きしめて、レイヤーナは言った。
「最後の忠告よ」
 心して聞いて、二人とも。
 面を上げたレイヤーナは、まるでティアレとシファカに挑むような眼差しを向ける。その視線の強さにたじろぎながらも、ティアレとシファカは神妙な気分で彼女の言葉に耳を傾けた。
「貴方たち二人は生きなければならない。生きて幸せにならなければならないの。誰を差し置いてもいい、それぐらいの心積もりでいるぐらいが、貴方たちにはきっと丁度いい。貴方たちの命は、貴方たちだけのものではなくて、私の大切な人たちの、幸せが懸かっているのだと、わかって」
 私の大切な人たち。
 それが、誰を意味するのか、ティアレには判った。
 何故助けてくれたのかと尋ねたシファカに、レイヤーナは以前、貴方のためではないと答えた。ならば誰のためなのか。
 ラルト。
 ジン。
 彼らだ。
 彼らの、為だ。
「貴方たちが、向かう先はこちらではない。あちら」
 ティアレが元来た森のほうを指差し、レイヤーナは言った。
「行きなさい、二人とも」
「待って」
 自分たちを急きたてるレイヤーナに、ティアレは思わず制止の声を上げる。刹那、レイヤーナとシファカの視線が、ティアレの上に降り注いだ。思わぬ注目に、緊張から喉を鳴らし、ティアレは震える声でレイヤーナに請うた。
「その前に、その子を、返して」
「……その子?」
 ティアレの言葉に、シファカはきょとんと目を丸めて首を傾げる。一体誰のことを指してティアレが言っているのか、シファカには判らなかったのだ。しかしティアレにはシファカに答えてやる余裕がなかった。レイヤーナが抱きしめている、光を取り戻さなければ。その考えに、支配されていた。
 レイヤーナは、苦笑して肩をすくめる。
「この子は私と共に逝く」
「いいえ、私と共に生きます」
 レイヤーナの言葉を、ティアレは強く否定する。その言葉を受けて沈黙する彼女に、ティアレは続けた。
「色々、考えました。……皆が望まぬのなら、やはりその子を手放したほうが、よいのではないかとも、思いました」
 自分の身体は自分だけのものではない。レイヤーナが、先ほどティアレに忠言した通りだ。もし、その光を抱え続けることで自らが命を落とすというのなら、生きろという皆の望みどおり手放そうと思った。
 けれど。
 光に導かれこの場所に辿り着き、レイヤーナの言葉を聞くうちにふと、ティアレは思ったのだ。
 この光は、ティアレの命を奪うどころか、ずっと、守ってきたのではないかと。
 度重なる苦難に、この光はとうの昔に、レイヤーナの側へと旅立っていてもおかしくはなかった。だというのに、今の際まで、光はティアレと共にあり続けた。
 きっと、この光もまた、生まれてきたかったからだ。
 生まれて、幸せになりたかったから。
 魂を与えられる日を、待っていたから。
 この、美しく優しい国で。
「わがままなのかもしれない。けれど、私やはりその子と生きていたい。その子と、ラルトと、三人で幸せになりたいんです。だから……返してください!!」
「レイヤーナさん」
 レイヤーナに懇願するティアレの肩に手を添えて、シファカは言った。ティアレの言葉を聞いて、シファカはティアレが誰のことを話しているのか理解していた。子供がいるのですと、望まれぬ子なのですと、悲しげに話していたティアレの姿が思い返される。けれど、愛している人との子供。その子もまた、明確な形をとらずとも、この場に存在しているのだ。
 レイヤーナの腕に抱かれる、光として。
「返してあげて。その子、ティアレさんのところに、帰りたがってる」
 光を指差しシファカは言った。レイヤーナの腕に抱かれた光は、その場所から逃れたいといわんばかりにもがいている。
 ティアレとシファカ、二人から注がれる視線に、レイヤーナは揺らめく光を力強く胸元に引き寄せ、嘆息した。
「……約束して、二人とも」
 ふと、呟くレイヤーナの背後で、景色が大きく揺らめく。驚愕するティアレとシファカをよそに、景色は徐々にひび割れるようにその輪郭を崩した。その崩れた部分から浮き上がるようにして虚空に現れたのは、見上げるほどに巨大な扉である。
 左右に開く型の扉は、両方に美しい蓮の花が掘り込まれていた。その色はレイヤーナの墓標のそれに似て白。
 そして開かれた扉の向こうに広がっていたのは、果ての見えぬ平原である。
 ティアレには見覚えのない平原だが、シファカにとっては訪れたことのある場所だった。表面を覆い尽くすものは、まるで光の粒のような粉雪。それが、平原をまばゆいまでに白く見せている。一見純白のような平原だが、ところどころに、揺らめく影があった。
 誰かが、いる。
 懐かしい、と、思わせる、誰かが。
(デュバート侯)
 ティアレは、驚きに息を詰まらせながら胸中で呻いた。
 平原の最中で立ち止まり、こちらを見つめ返している男は、昔ティアレ自らが殺してしまったラルトの部下だった。ティアレを庇って、死んでしまった農民の女の顔もある。そのほか水の帝国の衣装を身につけた、ティアレの見知らぬ人々の顔も。
 愕然としながら立ちすくむティアレの横で、シファカもまた呆然となっていた。
(父上、母上……陛下)
 白い地平からこちらを眺めている人々は、シファカにとって近しい人々である。とうの昔に死んだ父親。自分を憎んでいるとしか思えなかった母親。父に代わって自分に愛情を注いでくれた君主。灼熱の砂吹き荒れる不毛の国で、自分と共に生きていた人々。
 レイヤーナは、続ける。
「生きて、幸せになって。生きて、幸せにして」
 光を抱いたまま、彼女は一歩踏み出して、最後の言葉を囁いた。
「彼らを、お願い」
 ラルトを、お願い。
 ジンを、お願い。
 あの人たちを。愛しくて愛しくて、それでも傷つけてばかりだった、あの優しい男たちを。
 願いを口にしたレイヤーナは、ティアレとシファカに視線を廻らし、そして微笑を浮かべた。眉根を寄せ、目を細めて、泣き出すことを堪えているような、微笑を。
 愛情に、溢れた、微笑を。
 その美しさに、息を呑む。
 レイヤーナは逃れようとする光を再度強く抱きかかえた。瞼を閉じ、彼女はそのまま足を踏み出す。光を抱いたまま歩き出したレイヤーナは、そのままティアレに重なった。
 その姿が、虚空に溶けて、消える。
 刹那、まるで閃光のように強い感情の奔流が、ティアレの胸の奥から競りあがった。
「あ……」
 身体を駆け巡る激流のような愛情に、ティアレは目頭の熱を覚える。ティアレの身体を襲った感情は、ティアレの肩に触れている手を伝って、シファカにも押し寄せた。眩暈を起こすほどの混沌とした感情の渦。悔恨、懺悔、悲哀、熱情、狂おしいまでの、羨望。
 シファカは、硬く目を閉じて下唇をかみ締めた。
 涙が、頬を滑る。
 それは、ティアレの涙ではなく、シファカの涙でもない。
 二人の男を愛しながら、彼らを傷つけることしかできなかった、女の涙。
 あぁ。
 ティアレとシファカは思う。
 だれよりも。
 このせかいの、だれよりも。
 彼らと共に生き、幸せになりたかったのは。
 他でもない貴女だ、レイヤーナ――……。
 虚空に現出した白い扉が、ゆっくりと、閉じていく。
 その扉の向こうに生きる人々が、一人、二人と、地平のほうへ向かって、歩き出した。
 あるものはこちらを見限るように。あるものは、手を振って。
 扉が閉まりきる刹那、平原を歩いていた黒髪の女が、不意にこちらを振り返った。
 黒髪黒目に、雪のような白い肌。今しがた、姿を消した女の片割れ。
 彼女はティアレとシファカを睥睨すると、興味を失ったとでもいうように、黒髪を風に躍らせながら踵を返し、背を向ける。
 まるで全てを飲み込むように硬く閉じた扉は、その下のほうから輪郭を崩し、空の彼方へと溶けるように消えていった。
 沈黙した平原に、ティアレとシファカはしばし呆然と佇んだ。自分たちに願いを託した女の、感情の余韻が、思考をしばらく停止させていた。
 どちらからともなく、手を取り合う。
 いつまでも、このまま立ちすくんでいるわけには、いかない。それはティアレもシファカも判っていた。目を合わせる。微笑みを交わす。そして、二人は歩き出した。
 レイヤーナが指し示した先。扉とは逆の、方向。
 愛しい人々が、生きる世界へ――……。


 軽く、扉を叩く音がして、ヒノトは肩越しに背後を振り返った。入室の許可を待たず、扉が開かれる。その隙間から顔を覗かせたのは、自分の後見人だった。
「エイ」
 ヒノトの呼びかけに、彼は微笑みで応じる。エイは扉を静かに閉めると、ゆったりとした足取りでこちらに歩み寄り、椅子に腰掛けるヒノトの少し手前で立ち止まった。
「あまり、根を詰めすぎないほうがよいですよ」
 エイは言った。
「貴方のほうが先に参ってしまう」
「様子を見たら、ちゃんと交代する」
 彼の苦言に、ヒノトは苦笑する。
「それに、妾がここにいたいと思っても、ジンが妾を放り出すわ。同じこと、あやつにいってやれ」
「閣下にはもう言いました。毒を抜かなければならないというのに、すぐにこちらにお出でになられようとしますからね、あの方は」
「今はどうしておるのじゃ?」
「イルバ殿に見張られて仮眠を取っていますよ。本当に、陛下も閣下も無茶をするんですから。シノ様に鬼の形相をさせる前に、さっさと休まれてほしいものです」
 盛大な嘆息を零してエイが呻く。おそらく、ラルトやジンを休ませるために相当な労力を要したのだろう。シノを巻き込みやり取りする姿が思い浮かんで、ヒノトは知れず笑みを零した。
 シファカと同じく昏睡状態に陥るティアレの看病と、ハルマ・トルマの暴動の事後処理に追われるラルトは、ここ数日一睡もしていないような有様だ。許可をもらってティアレの様子を見に行かせてもらった折にヒノトが会ったラルトは、今倒れてもおかしくないような有様だった。それでも政務にも一切手を抜かないのは、彼の並外れた精神力の成せる技だろう。
 ジンの方はというと、ダッシリナ滞在時、シファカの看病の最中に無茶をしたらしい。禁断症状的なものは出ていないものの、身体の中にかなりの毒を溜め込んでいたのだ。現在は毒を抜くために療養をリョシュンから言い渡されているというのに、彼もまたお目付け役のイルバの目を盗んではこちらに来るものだから始末に終えない。
 そんな状態の二人に、周囲の人間は頭を抱えているようである。
「少し寝たのか?」
 多少顔色のよくなっているエイに、ヒノトは尋ねた。彼もまた皇帝と宰相に並んで無茶をする代表格だ。
「えぇ。でないと、またヒノトに部屋を蹴りだされてしまいますからね」
「当然じゃ。妾の前に疲労困憊の状態で現れるなど、ふざけるにもほどがあるわ」
 最後にエイがヒノトに顔を見せにきたとき、彼もまたラルトに負けず劣らず倒れそうな按配で、ヒノトは文字通り彼を部屋から蹴りだしたのである。自分に会いにくる時間があるというのなら、それを睡眠に当てろと。
 見習いとはいえ医師であるヒノトの前に、最悪な顔色で現れるなど、ふざけること甚だしい。
「ヒノトも休んでくださいよ。きちんと食べて、睡眠をとって」
「まだ薬を与えたばかりなのじゃ。効果が現れるのを見てから、いわれんでもちゃんと寝る。ちょうどその頃合に、キキが交代に来る予定じゃからの」
 シファカに与える薬は、彼女の様子を見ながら少しずつ薬草の種類や調合の仕方を変えて作っている。今も大きく配合を変えて作った薬を与えたばかりだ。その効果を確認してからでないと、おちおち寝てもいられない。
「……でも、少しずつ、良くなってはいるようですね」
「……そうじゃな」
 エイの言葉に、ヒノトは頷いた。
「鎮静剤なくとも、落ち着くようになった」
「昨日よりも、水煙草の減りも遅いですし。まだ安心は出来ませんが、いい方向に向かっていると思いますよ」
「うむ……」
 確かに、リヒトの走り書きを元に作った薬を与えるようになってから、シファカは快癒への兆しを見せ始めた。本当に、ほんの、少しずつではあるのだが。
「……ヒノト、一つ訊いてもよいですか?」
 僅かな沈黙の後、躊躇いを見せながらエイが尋ねてくる。ヒノトは彼を仰ぎ見て、首を傾げた。
「なんじゃ?」
「リヒトの処方箋に書かれていた走り書きは、改造された水煙草の解毒のための、処方箋だったのですか?」
「似たようなものじゃが……正確には、少し違う」
 エイに答えながら、ヒノトは少し離れた箇所にある棚の上を一瞥した。そこには薬の調合のための器具と、リヒトの処方箋が置かれている。シファカを刺激しないように閉めきられた、一本の蝋燭の光のみが光源の薄暗い部屋で、広げられた紙はぼんやりと白く浮き上がって見えた。
「あれに書かれていたのは、月光草をどうやってさらに改造していくかの方法じゃ。たくさんありすぎて、走り書きにしか思えんかったが、意味さえ判ればそう見える。そのうち一つが、シファカに与えられたものに合致しておった。毒の調合の仕方がわかれば、解毒剤の調合もおのずとすぐ判る。……何せ、使われておったのは、どれもこれもリファルナの薬草じゃった。これではリョシュンたちがわからぬのも無理はない。しかし妾はどれとどれを掛け合わせればどんな症状がでて、どれとどれを組み合わせれば解毒剤になるか。あの国の草花のそういったことは、全部頭に入っておる」
 薬師であるリヒトを手伝いながら学んだ事柄。この国ではリファルナの薬草は一般的に見られぬものであるから、ここ数年、学んだことを活用することはなかったけれども。
 その記憶は、色褪せることなく、今もヒノトの胸の内にある。
「リヒトは、シファカを助けるために、死んだのじゃなぁ……」
 椅子の背に重心を預けて、ヒノトは呟いた。
 何故、リヒトがこのような事態を知りえていたのか。エイはイーザが教えたのだろうといった。貧民窟にいたときの、ヒノトの昔なじみにして、現在のリファルナの若き王。彼には未来を予見する力――先見の力が、あるのだという。
 彼の宣託を受けて、リヒトは完成していた処方箋に、追記を施したのだろう。
「それは違うと思いますよ、ヒノト」
 ヒノトの呟きを、エイが否定する。
「いくらリヒトでも、見ず知らずの人間を救うために、命を落としたりはしないでしょう。死ぬと判っていたのにもかかわらず、逃げずにあの場所に留まっていたのは、貴方の幸せのために他ならない」
 淡々としたエイの言葉に、ヒノトは驚きながら問い返した。
「どういう意味じゃ?」


 そう、リヒトは誰でもない、ヒノトの幸せのために、あの場所で死んだのだと、エイは思った。
 あの場所でリヒトが死ななければ、エイはヒノトを連れ帰ったりはしなかっただろう。ヒノトはリヒトの傍に留まり続けたに違いない。養母と共に生きるという意味で、ヒノトにとってはそのほうが幸せだったのかもしれない。しかしリヒトはヒノトに満足に学ばせてやる場所を用意することは叶わない。リファルナにいる限り、呪いに引きずられて、いつかイーザと殺し合いを演じていたのかもしれない。彼とヒノトは片親ともいえども、血の繋がった兄妹だ。そしてリファルナには、王族の兄弟は殺しあって玉座を贖うという呪いがある。事情を知っていたリヒトは、ヒノトをつれて国を出るだろう。イーザと殺し合わせないために。結果、貧しい生活が、ヒノトを待っていたはずだ。
 傲慢さを理解しながらも、エイは思わずにはいられない。自分の傍にいるほうが、ヒノトは幸せだと。
 自分の傍にヒノトを置くために、リヒトは死んだのではないか。そんな考えが、脳裏を掠めていくのだ。
「……エイ?」
 椅子に腰掛けたまま、頭を後ろに傾げてこちらを見上げてくる娘に、エイは微笑む。
「知っていますか? 宰相閣下は陛下と並び、政に関して天賦の才をお持ちなのです」
 胸中をヒノトに悟られぬよう、エイは彼女の問いに対する偽りの回答を、注意深く用意した。
「そしてその閣下に存分に力を揮っていただくためには、シファカ様が、健やかにあらせられることが、大変重要なのです。閣下がこの国で力を揮えば、陛下には余裕が生まれ……そして、この国はもっと豊かになるでしょう。ヒノト、貴方が生きる、この国が、豊かになるのです」
 偽りとはいえど、嘘ではない。エイの言葉にヒノトは納得したらしい。そうか、と頷いて、彼女は視線を再びシファカに戻した。
「……ヒノト?」
 シファカを見つめるヒノトの翠の目に、暗い翳りを見てとって、エイはその顔を覗きこむ。
「……あの走り書きの意味を悟ったとき、妾は悲しかった。きっと、あれなしで、妾はシファカのための薬など、作れんかったじゃろうから。……リヒトが死んで、もうずいぶん経つのに、こんな未来のことまで、リヒトに案じられていたのかと思うと、自分の半人前さが、情けなくて……。そして、腹立たしかった。もっと、近しい未来のことを考えて欲しかった。死んで、妾が泣くと、リヒトは思わんかったんじゃろうかと」
「……ヒノト」
「じゃがな、エイ」
 ヒノトはエイを仰ぎ、笑みを浮かべて言った。
「もう、いいのじゃ。エイの話を聞いていて、もうよいと思った。妾を置いて、リヒトは死んでしまったのじゃから。妾が今生きているのは、この国。おんしのいる、この国なのじゃ」
 自分のいる国が居場所だと、娘は無邪気に笑う。
 その、彼女の笑みを。
 自らの意味だと定める。
 自らが、この国のために、身を砕く意味だと。
 政治に関わり続ける、意味だと。
 彼女を、この国に連れ帰った、その日から――……。
「そうですね……」
 エイは、頷いた。
「なぁエイ」
 ヒノトは穏やかに続ける。
「リヒトの願い通り、妾は、シファカを助けることができるじゃろうか? 損得関係なく、妾たちを助けてくれた、この優しい妾の友人を、助けることが、できるじゃろうか?」
 抑揚の抑えられたヒノトの声音は、微かに震えていた。
 その瞳に光るものがあるのかどうかは、この暗がりで判らない。
「大丈夫です」
 エイは確証を込めて囁きながら、ヒノトを腕の中に招き入れた。その髪に顎をうずめ、震える彼女の手を握りこむ。
「大丈夫、大丈夫」
 繰り返し。
 自らに、言い聞かせるように。
 きっと全部が上手くいく。
 自分たちは、幸せになれる。
 そう、願うように。
 エイは囁いた。


 男の優しい声が耳朶を震わせる。暖かな手がヒノトを励ますように、震えていた手を包み込む。
 その胸に頭を預けながら、ヒノトは思った。
 あぁ、自分は。
 この手の。
 悲しいほど優しい熱に。
 溺れて、いるのだ――……。
 リヒトが何故死んだのかはもう考えない。終わったことだと、自分に言い聞かせる。
 ただ、リヒトが死ななければ自分はきっと、この腕の中にいなかった。
 そのことを思うとき、ヒノトは泣きたいぐらいに、絶望するのだ。
 その命を投げ打つことでしか、ヒノトの幸せを残せない。そんな風に思った母親に。
 そして同時に、泣きたいぐらいに感謝するのだ。
 その命をもって、本当にヒノトの幸せを願ってくれていた、かけがえのない。
 たった一人の、母親に。


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