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第二十一章 墓標の果てより 4


「リファルナ出身の男?」
「あぁ」
 こちらの依頼を受けてシルキスに会いに行っていたイルバは、薬の改造を行った人間が、リファルナ出身の男だということを聞き出して部屋に戻ってきた。壁に背を預けて腕を組んだ彼は、深く息を吐きつつ話を続ける。
「それ以外は本気、何にも知らなかったみてぇだ。役に立ちそうか?」
「どうだろう」
 肩をすくめて、ジンは応じる。
「しっかしなぁ……リファルナって……南大陸だよな?」
「うん。銘を確か、榕樹の小国。昔は医療の国として名前を馳せてたけどね。今はその名残もない荒れた国だ。ようやく新しい王が立って、落ち着いてきてはいるみたいだけど……」
「遠いよな」
「遠いね。調べに行くだけ徒労だ。……ただ、あの国出身だっていうのは、きっと手がかりにはなると思う」
 すでに殺されていた薬の研究者についての情報は、出来る限りユファから引き出してこちらに持ち込んではいるが、彼の出自が薬の研究に役立つかどうかは謎だ。しかし、薬師は薬の改良を行う際には、己が扱いになれた薬草などを用いることが多いので、出自も扱われた薬草を推測する材料の一つにはなりうる。
「それに、リファルナは元の月光草を生み出した土地だからね」
「なるほど……もしかすっと、その殺されたっつう研究者は月光草の生みの親か何かかもしんねぇぞ。実は俺の知り合いがリファルナで今医者をやってるらしいんだが、そいつが言ってたんだ。麻薬の研究者が一人行方不明で、国が探してるんだとよ」
「じゃぁリファルナの方に照会してみるのも悪くはないのかもね……時間はかかるだろうけど」
 幸い、この国は月光草の処方箋を手に入れた際に、件の小国と繋がりを持ったはずだ。早速エイに話を通してもらおうと彼を振り返ったジンは、目を瞬かせた。
「……おい、どうしたんだ? お前ら」
 イルバが、ジンの胸中を代弁する。
 この、ラルトがイルバに与えている客間には、今ジンを含めて五人の人間がいる。ジン、イルバ、エイ、ウル、そして、ヒノトである。そのうちヒノトは顔を強張らせて口元を引き結び、そしてエイとウルはそんな彼女を凝視していた。
「いえ、実は――……」
 ジンとイルバの視線に、ウルが応えようとした、そのときだった。
「ヒノト!?!?」
 エイの叫びが、室内に反響する。
 弾かれたように面を上げたヒノトが突如駆け出し、ジンとイルバの傍をすり抜けたのだ。彼女はそのまま乱暴に扉を開け放ち、廊下の向こうへと消えてしまう。
 続いて、エイが駆け出す。何が起こったのかわからずにイルバと顔を見合わせたジンは、エイに倣って駆け出そうとするウルの腕を引いて引き止めた。
「ちょ、ねぇ、いったい何? どったの彼女!?」
 一体何が彼女を駆り立てたのかわからない。何故黙ってあのように部屋を出てしまったのか。
 思い当たる節はないのか、と、ジンはウルに尋ねた。
「判りません!」
 今にも腕を振り払って駆け出してしまいそうな勢いのまま、ウルが叫び返してくる。怪訝さに顔をしかめたジンに、彼は続けた。
「ただ、ヒノト様は、リファルナの出身なんです……!」


「ヒノト! ヒノト! どうしたんですか――……!?」
 遠くで、エイの呼び止める声が響き渡っている。
 しかしヒノトは足を止めなかった。肺が引き絞られ、筋肉が悲鳴を上げるほど、全速力で走る。よく磨かれた床に足を取られて、途中幾度も転びそうになりながら向かった先は、エイに与えられている個室だった。
「ひ、ヒノトさま!?」
 見張りの兵に驚愕されながら、もどかしく扉を開き、部屋の中央に鎮座する執務机の隣をすり抜けて、奥の仮眠室へと急ぐ。仮眠室には指折り数えられるほどに僅かなエイの私物とヒノトの荷物、寝台しかない。ヒノトは寝台によじ登り、その上に放置したままだった箱の蓋を開けた。中から、薄汚れた巻物をひっぱりだす。
 ヒノトの養母である薬師、リヒトが書いた、月光草の処方箋。
 その中身を一瞥し確認したヒノトは、再び立ち上がって駆け出した。部屋を出る間際、エイとすれ違ったが、ヒノトは彼の静止の声を聞かぬふりして廊下を走り抜ける。次に向かう先は、ラルトから許可をもらって所有している、ヒノト個人の薬草園だった。
 本殿の裏庭、その一角に玻璃で建てられた小屋がある。ここでヒノトが育てているものは皆、リファルナから種を持ち込んで育てた薬草ばかりだ。これらをヒノトが育てたいといったとき、通年を通して温暖な気候が必要な薬草のために、エイが許可をとって温室を建ててくれたのである。昨日まで降り続いていた雨によるぬかるみを走って、温室の中に飛び込む。室内は外と異なって雨の影響を受けず、土は乾いている。盛り土が数列並び、様々な色合いの草花が列に沿って行儀よく沈黙していた。
 息を切らしながら、列の間に足を踏み入れ、温室の中心に膝を付く。リヒトの処方箋を広げ、血に汚れた、意味がないと見做されていたリヒトの走り書きを、ヒノトは指で追った。一方の手で、温室の中に並ぶ故郷の薬草の種類、そして、シファカの寝室から失敬していた、水煙草の草を確認する。
「は……はは……」
 笑いが、零れる。
 それと共に思い返されるのは、養母であり、そして同時に医を志すものとしての師であったリヒトの、死の間際の言葉だ。
『民を、救え』
 ――それが、お前に架せられた……。
「これが、役割か」
 ぽたりと、零れ落ちた何かが、処方箋に染みを作った。文字が霞んで見えるのは、処方箋が濡れたからではなく、自分の瞳に溢れるものが、視界を覆っているから。
「妾に架せられた、役割か。知っておったのか? リヒト。おんしは、知っておったのか……?」
 こうなることを、知っていて。
 貴方は、死を選んだのだろうか。
 こうなることを、貴方は、わかっていて。
 貴方は、私と生きる人生よりも、死を、選んだというのか。
 ヒノトは身を伏して泣いた。泣かずにはいられなかった。
 その、あまりにも残酷な、未来の用意の仕方に。


 ヒノトの足跡を追って辿り着いた場所は、彼女が所有する小さな薬草園だった。昔、エイがヒノトをこの国に連れてきたばかりのころだ。処方箋に書かれた解毒剤には無用の薬草についての走り書きを見たヒノトが、この薬草を育てておきたいと、エイに言ったのだ。種はどうやら故郷から持ち込んでいたらしい。エイ自身のわがままで、彼女を故郷から引き離してしまったのだ。それぐらいの願いを叶えてやることは当然だと思った。ラルトから許可をとり、この裏庭の一角に、玻璃で温室を作るように手配したのは、そのとき。
 完成して以来、ヒノトは時折、息抜きにこの薬草園に篭る。
 だが、今回の様子は、今までとは一線を画している。ヒノトの様子は尋常ではなかった。
 イルバの部屋を飛び出した彼女は、エイの部屋の仮眠室をひっくり返してまた飛び出していった。部屋からは、リヒトの書いた処方箋だけが消えていた。
 薬草園の引き戸は、開いたまま。
 敷居をまたぎ、小屋の中に足を踏み入れる。敷き詰められた乾いた草が、かさりと音を立てた。ヒノトは小屋の中心に蹲っていたが、その音でエイの来訪に気づいたらしい。面を、上げる。
 彼女の瞼は、赤く腫れていた。
「……ヒノト、どうしたのですか?」
 一体、彼女に何があったのか。怪訝さから眉間に皺を刻んでエイはヒノトに尋ねた。
「喜べ、エイ。解毒薬が、作れるぞ」
「は!? ほ、本当ですか!?」
「あぁ。間違い、ないじゃろう……」
 エイの問いに、ヒノトは頷き、そして再び俯いた。薬草を踏まぬよう注意深く歩を進めて、エイはヒノトの傍に歩み寄る。ヒノトは手元に広げられた処方箋を見つめていた。
 血に汚れた、処方箋。
 本当ならば、とうの昔に完成していたはずの処方箋。だというのに、リヒトはさらに深く研究を進めていたらしい。処方箋には解毒薬には無用と見られる薬草の種類や、エイには理解できぬ調合の方法などが書き込まれていた。そのために、彼女は死んだ。襲撃者たちの手によって殺されてしまったのだ。
 その処方箋を見つめて、ヒノトは動こうとしない。
 たまりかねて、エイはヒノトに声をかけた。
「ヒノト――……」
「あぁ、いらっしゃいました」
 エイの言葉を遮って温室に響いた声は、ウルのものだった。
 その声と気配に、エイはヒノトと共に振り返る。温室の入り口に、ウルとイルバ、そしてジンが並んで立っていた。ウルは真っ直ぐにこちらに歩を進め、ジンとイルバは物珍しそうに温室にぐるりと視線をめぐらせている。
「へぇ、すげぇなぁこいつ。文献でしか見たことねぇけど、温室っていうやつか?」
「いつの間にこんなの建てたの? 俺がいたときはなかったよねぇ?」
「閣下、イルバ殿……」
 この小屋に、さすがに五人も入ると窮屈である。そう思ったのか、イルバは薬草園の入り口で立ち止まった。ジンだけが、ウルに続いて歩み寄ってくる。
「ジン」
 そのジンを、ヒノトが呼び止めた。
「……どうし……大丈夫?」
 距離を詰めたことで、ジンはヒノトの目元が腫れていることを認識したらしい。彼は顔をしかめてヒノトに問いかける。しかしヒノトはその問いに答えることなく、先ほどエイに見せたような微笑を浮かべて見せた。
「解毒薬が作れるぞ」
「……え?」
 唐突なヒノトに発言の意味を汲み取りきれなかったらしい。ジンはきょとんと目を瞬かせ、ヒノトを見返している。またウルやイルバもジンと同様で、ヒノトの言葉に呆気に取られたような表情を浮かべていた。
「解毒薬が、つくれるって……」
「作れる。いや、妾が作ってみせる」
 ヒノトは断言し、ジンに向き直った。土に額を擦り付けるようにして、彼女は彼に向けて平伏する。前触れのない彼女のその行動に、エイはぎょっと目を剥いた。
「ヒノト!?」
「シファカを、妾に任せてほしい」
 ヒノトは言った。頭を伏せたままで。
「シファカの治療全てを、妾に任せてほしい」
 エイを含めた誰しもが、彼女の唐突な懇願に動けずにいる。沈黙するこちらをよそに、ヒノトは平伏したまま言葉を続けていた。
「こんなこと、本当だったら、リョシュンに頼むのが筋なのじゃろうが……妾が頼んでも、リョシュンは絶対に、許してくれんじゃろうから。だからお願いじゃ。おんしが許可をくれ。妾に、シファカの治療を、任せると」
「……君に任せて、シファカは助かるという保証はあるの?」
 ヒノトの懇願を聞き終わったらしいジンは、腕を組んで首を傾げる。ジンの問いに、ヒノトは面を上げ、その表情を厳しくした。
「保証はできん」
「……保証はできないというのに……」
 ヒノトの回答に、ジンがため息を零す。
「君は、シファカの命を預けろという。一体何故? どうして、シファカの命を預けてほしいの? 君がリファルナ出身で、先ほどの俺たちの会話で解毒薬への何か手がかりを見つけたというのなら、リョシュンにでも手渡したほうが確実じゃんね?」
「確かにおんしの言う通りじゃ。妾は所詮半人前の医師に過ぎん。じゃが、この国の医師の誰よりも、妾はこの薬草たちに詳しい。そして、これらの扱いを失敗すれば、解毒剤は作れんじゃろう」
「すでに処方箋があるかのような言い方だね。解毒剤を作るために、この場にある薬草が必要だとでもいうような」
「処方箋は、すでにある」
 ジンに挑むように、不敵な笑みを浮かべてヒノトは言った。興味深そうに、へぇ、と呻いてジンが片眉を軽く上げる。
 エイはヒノトの発言に愕然としていた。それは、処方箋がすでにあるという言葉に対してではない。
 その言葉の裏に隠された、真実に対して愕然となったのだ。
 ヒノトの手に握られているものは、リヒトが書いた月光草の解毒に関する処方箋。そこにある意味のないとみなされた、数々の薬草に関する走り書き。今、シファカを蝕んでいる水煙草を世に生み出した男は、リファルナ出身だという事実。
 そして脳裏に思い返される、一つの、会話。
 あれは、初めてリファルナを訪れた事件のとき。あの国を去る少し前、リファルナの王として即位した少年との会話。
『リヒトは、自分が殺されることを、知っていたというんですか?』
『知っていたよ。……それでも、彼女は逃げなかった』
 何故、リヒトは逃げなかったのか。
 処方箋は、完成していたのに。どうして。
 彼女は、知っていたのだ。
 自分が殺されたその先に、彼女が与えられた時間全てを使い切って書かれたものを、必要とする人間が現れることを。
(……リヒト……)
 あなたは。
 そんな。
「シファカは通り過がりにすぎぬ妾たちを、命をかけて助けようとしてくれた。今度は妾が、シファカを助ける番じゃ」
「……じゃぁ、シファカが助からなかったら、どうするの? 君は、その命で、俺に償うの?」
「閣下……!」
 まるでシファカが助からなければ、ヒノトの命でもってその責を贖うとでも言わんばかりの宰相の言葉に、エイは思わず不快感顕わに声を上げていた。一体、何を言い出すのだ。冗談もほどほどにしてほしい。
「例え話だよ」
 ジンはエイを一瞥し、そう言った。エイの耳には、先ほどの発言はまったく例え話のようには聞こえなかったのだが。
「いいぞ。そのときは、妾の命をくれてやろう」
 ヒノトが己の胸に手を当て宣誓する。一体何を言い出すのかと、エイは驚愕しながら彼女に呻いた。
「ヒノト……!?」
「エイ、いいのじゃ」
 エイに面を向け、ヒノトが微笑む。その穏やかな微笑に、エイは喉元までこみ上げていた糾弾の言葉を押し殺した。
「いいのじゃ、エイ。だって、妾は医者じゃから。多くの人を、救う義務がある。リヒトや、あの子たちが、このために死んだというのじゃったら、たった一人生き残った妾は、それに報いなければならぬ」
 そのためになら、命を懸けなければならないときも、あるだろう。
 政治家が、命を張るときがあるのと同じように。
「……こんな風にふっかけといてなんだけど。あんまり、堅苦しく考えないでほしいんだけどね……」
 言うべき言葉を失ってしまったエイが立ちすくんでいると、ジンが困惑の表情を浮かべて口を挟んだ。
「まぁ、とりあえず、君の覚悟はわかったし、多分、君が傍についてくれていたほうがシファカも安心だと思うから。いいよヒノト、君に許可をあげよう?」
 頼むね、といって、ジンが笑う。宰相の言葉に、ヒノトは喜色を浮かべてもう一度頭を下げた。
「ありがとう!」
「……それじゃぁ俺は一旦、部屋に戻るから。ラルトの様子も見てこなきゃいけないし。ウル、リョシュンに話通しておいてあげてくんない? 問題あるようなら俺の名前出してくれてもいいから」
「かしこまりました」
 沈黙してことを見守っていたウルが、ジンの指示を受けて動き出す。彼はエイに視線を戻し、微笑んで会釈すると、イルバの横をすり抜けて一足先に本殿のほうへと戻っていった。
「あとさぁ、エイ」
「はい」
 立ち上がろうとするヒノトに手を貸していたエイは、不意にジンから掛けられた声に反応して姿勢を正した。視線を合わせた宰相は、おかしそうに目を細めて笑う。
「君って意外に……怖い目すんだねぇ」
「……はい?」
 怖い目、とは。
 何のことだ。
 彼の言葉の意味がわからず、エイは首を傾げた。まぁいいよと、ジンが肩をすくめる。そしてそのまま彼はイルバの隣をすり抜け、ウルに続いて宮のほうへと歩き出した。
「さて、忙しくなるな」
 そう呟いたのは、傍観者に徹していたイルバだった。彼の言葉に、エイは頷いた。シファカがジンやヒノトが知っているころのような常人に戻るためには、迅速に治療を進めていく必要がある。ヒノトは早速、必要な薬草を集めにかかっている。
 エイはイルバと連れ立って、彼女を補佐するべき人員を揃えるために小屋を出る。一度だけ振り返ったエイは、ヒノトがその土に汚れた手のまま、赤くなった目元を再度擦っている姿を見た。


 平原には、二人の女がいる。一人は、つい先ほど光を抱き上げた女。黒髪黒目の、線の細さをうかがわせる美しい女。もう一人は、彼女の隣に並んで、女とティアレの顔を交互に見比べている。黒髪に紫金という珍しい色の双眸をした女だった。どちらにも、見覚えがある。二人の名前を胸中で探っていると、光を抱いた女がティアレに向かって言った。
「来てしまったのね」
 ティアレの来訪を、ひどく残念でならないといわんばかりに、女は首を横に振ってみせる。その彼女に向かってゆっくりと歩み寄りながら、ティアレは尋ねた。
「あなたは……誰?」
 彼女が誰であるのか、答えはティアレの胸の内にすでにある。しかし確認せずにいられなかったのは、彼女が死人のはずだからだ。
 レイヤーナ。
 ラルトがかつて愛した人。人の思惑に翻弄され、ラルトとジンの運命を大きく変えて、あの、暗い森の奥にある塔から身を投げた人。
「……きっと、貴方が思っている女であっているわ」
「レイヤーナ……」
 女は微笑を浮かべてティアレに応じ、ティアレの唇から滑り出る名前に、その微笑を悲しげに歪ませて見せた。
「そう呼ばれるのは、いつぶりなのかしら……」
 草を踏みしめて、立ち止まる。
 ティアレはレイヤーナの傍らの女と顔を見合わせた。自分は彼女も知っている。ハルマ・トルマで囚われている間、彼女の無事を祈ってやまなかった女。
「シファカさん……」
「ティアレさん。どうして、ここに……?」
 ティアレが呆然と呼びかけると、シファカもまた困惑の表情を浮かべた。どうして、このような場所に。いや、それ以前に――……。
「ここは、どこなのですか?」
 疑問は、思わずティアレの口をついて出た。
 確かに、この場所はレイヤーナの墓所だ。折を見て幾度も足を運んでいる場所だ。水の帝国の領土を一望できる高原にある、静謐な墓所。崖の向こうに広がる街並みにも水平線にも見覚えがある。墓石の磨耗具合や傷の跡も、記憶と寸分違いない。しかしティアレには違和感があった。
 鳥の声が、聞こえないのだ。
 鳥だけではない。背後に広がる森の梢が擦りあう音も。先ほど草を踏みしめても、音一つしなかった。草花は確かに、風に揺れているというのに。
 静か過ぎるのだ。
「ここは、世界に数ある関所の一つ」
 重々しい口調で、レイヤーナがティアレの問いに答える。
「神祇の楽園へと呼ばれ往く魂が、現世で最後に通る場所。扉の前。この先へと踏み込めば、魂は二度と帰ることはできない」
「神祇の……」
「楽園」
 覚えのない名前の土地だが、ティアレはどこかで耳にしたことがあるような気がした。しかし記憶をいくら探っても、どこで聞いたのか思い出すことは叶わなかった。もしかすると、かつて自分の中にいた、始まりの魔女の記憶からくる錯覚なのかもしれないが。
 ふと、光がむずがるように左右に動いた。レイヤーナは微笑み、光を抱く腕を軽く揺する。その姿は、赤子をあやす母親のようでもあった。
「……私は、この世に留まり贖罪することを許された、懺悔と悔恨の魂」
 一度何かを思案するかのように瞼を伏せた彼女は、次に目を開いた瞬間、ティアレとシファカを視線で真っ直ぐに射抜き、そして言った。
「貴方たちを、これ以上先に行かせないために、私はここにいる」


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