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第二十一章 墓標の果てより 3


 扉が沈黙しても、ヒノトは微動だにしない。エイの腕の中で、彼女はゆらりと虚空でうねる薄紫の靄を見つめている。
「……やつあたりじゃ」
 どれほど時間が経ったころだろう。ヒノトがぽつりと呻いた。
「八つ当たりじゃ」
「閣下は、判ってらっしゃいますよ。大丈夫です」
「……あれは、妾の、せいじゃったのに」
「ヒノト」
 ヒノトはずっと責めている。彼女の行動が、結果的にティアレやシファカを危険に晒してしまったということを。もう責めるのをやめろと幾度咎めたか、エイはわからない。しかし、彼女は納得できないのだろう。表面的には大丈夫といって笑うが、時折このように、彼女が己を強く責めていることが浮き彫りになる。
 ヒノトは無言のままこちらの手を押しのけ、腕の中から抜け出した。軽く衣服の埃を払い落とし、彼女はシファカに歩み寄る。
「シファカは、よく、なるんじゃろう?」
「……判りません」
 正直に、エイは答えた。
「ヒノトも知っているとは思いますが、解毒薬がないのです。現在の月光草の解毒薬では、快癒の兆しすら見ることができなかったようですので……」
「じゃがその改造された月光草自体はあるのじゃろう? 今焚いているものはそうではないのか?」
「えぇ」
 確かに今焚かれているものは、ダッシリナからウルが持ち込んだ月光草の改造版である。シファカの容態を落ち着けるためには、僅かながらでも月光草を与え続けるしかない。解毒薬があれば薬を与えつつ、この香を徐々に減らし毒を抜いていくのだが、現在の状況ではそれもできない。少しでも減らせば、禁断症状を出す確率が高くなるからだ。
 ヒノトが部屋の隅に置かれた香炉に近寄り、その中を覗きこもうとする。エイは慌てて彼女を引き止めるために、その細い腕を引いた。
「ヒノト! 危ないですよ。煙を一気に吸ってしまいます!」
「大丈夫じゃ。気をつけておるわ、それぐらい」
 ヒノトは心配性だといってエイを笑い、香炉の傍に屈みこんだ。その彼女を見つめながら、エイは渋面になる。そんなに自分は心配性だろうか。あまり自覚はないのだが。
 香炉の傍に置いてある籠から、まだ香炉にくべていない煙草の葉を、ヒノトは取り出した。彼女はそれを手に乗せて、匂いを嗅ぎ始める。
 水煙草の葉は葉巻とはまた少し異なって、糖蜜などで固めてある。琥珀色に輝くそれは、煙草の葉というよりも下町で量り売りされている飴の塊のようだった。彼女が軽く力を込めるだけで、煙草の葉は、ぱらぱらと木屑のように崩れ零れ落ちる。
 ヒノトは指で砕いた葉くずを手のひらの上に乗せ、匂いを嗅いでは、また砕くことを繰り返していた。その葉の感触を確かめるように、何度も。
「ヒノト?」
「……どこかで嗅いだような匂いがするのじゃ。この香り」
「以前の月光草の匂いではなく? カラミティのところではなくてですか?」
 以前の月光草の匂いと混同しているのではないか。エイは試しにリファルナの現御殿医、以前街で月光草の患者を扱っていた女の名前を出してみる。しかしヒノトは首を横に振った。
「違う……よく、わからんのじゃが」
 何度も思い出そうと首を横に振るヒノトを眺めていたが、ふと、こめかみを襲った痛みにエイは顔をしかめた。そろそろこの部屋に入ってずいぶんと経つ。いくら気付けを飲んでいるとはいえ、所詮応急処置的なものに過ぎない。毒が身体に溜まっていくことには変わりないのだ。
「失礼いたします」
 具合よく、交代の女官が姿を現した。奥の離宮の女官の一人である。目礼をしてくる彼女に笑い返して、エイはヒノトの腕を引いた。
「とりあえず一度部屋を出ましょう。あまりこの部屋に篭りすぎるのは、よくない」
 ヒノトは何かを言いたげにエイを見上げてきたが、結局は納得したのか小さく頷いて立ち上がった。彼女の背を押し、部屋を出る。
 退室間際、シファカを振り返る。女官に付き添われた女は固く目を閉じ、こちらの心配をよそに、安らかな寝息を立てていた。


 案内された地下牢は、以前イルバが放り込まれた牢とは別の場所にあった。複雑な経路をたどり、地獄へ通じているのではないかというほど長い階段をひたすら下る。ようやく到着した場所は、両端にかなり厳重に施錠された独房の並ぶ長い廊下だった。外からの来訪者を、その内包する暗闇によって拒絶している。
 現れたイルバに、看守の男が立ち上がって会釈した。ウルからすでに連絡が届いているらしく、彼はイルバに席を譲るようにしてその場を辞去した。遠ざかっていく看守の足音を確認し、イルバは最奥の牢獄の中に独り腰を下ろす男の傍まで歩み寄る。
「……よぉ」
 軽い挨拶に応じて、男は視線を僅かに揺らした。


 シノから事の仔細を聞き、急いで部屋に戻ったイルバを迎えたのは、ひどく懐かしい人物だった。
「やぁイルバ」
 つい先日行方不明なのだと話題に上ったばかりの水の帝国の宰相は、イルバの部屋の前で左僕射の副官を伴い、朗らかに笑ってイルバを待ち受けていた。その姿を認めて、歩を緩める。口元を引き結び、ゆっくり歩み寄るこちらの表情を認めた宰相は、肩をすくめた。
「その表情からだと、俺が戻ってきてたことは聞いてるみたいだね」
「まぁな。ついさっきシノから聞いた」
 皇后とヒノトを助けて行方が知れなくなっていたという行きずりの女。その女を、この宮城に連れ帰ってきたのは他ならぬ、この宰相だったのだという。
 そしてその女も、ただジンに連れられてこの国を訪れたというわけではない。
「中毒だって?」
 先だって流行していたという中毒性のある水煙草。シファカという女は、それの重傷の中毒者として、この宮城の一室で、監視を付けられ昏睡状態にあるらしい。
「懐かしいねって旧交温めたいところだけど、ちょっと頼みごとがあるんだ。いいかな?」
「わぁってるよ」
 頭を掻きながら、イルバは言った。
「シルキスから、聞き出せばいいんだろ?」
 皇后とヒノトの命の恩人であり、ジンの連れである女。彼女を中毒に陥れたのは、他でもない、シルキスだと聞いた。
『粉々に、壊して差し上げたのです』
 シノから説明を受けたとき、シルキスの言葉の意味をイルバはようやっと理解した。彼がどうしてこの国を破滅の道連れに選んだのかも。
 彼は、遠い北の国でジンと出逢い、この国に目を向けたのだ。
「あんま、期待しねぇでくれ。何せ俺、シルキスに嫌われてっからよ」
 低く呻いたイルバに、ジンはそれでもかまわないと、儚く笑ってみせたのだった。


 鉄格子越しに対峙した弟子は、彼が拘束されたときよりも明らかに憔悴していた。経験した限りでは、牢獄の生活もさほど悪くはないと思っていたが、あれはイルバであったから故意に手ぬるくしていたのかもしれない。
 もしくは、彼が憔悴して見えるのは、今朝方打たれたという自白剤のせいか。
「今度は貴方ですか」
 うんざりだといわんばかりに、シルキスが呻く。イルバが予想していたよりも、その口調はしっかりとしていた。
「何の御用です? まさかまた例の薬について訊きたいなどというのではないでしょうね?」
「そのまさかだ」
 イルバの回答に、シルキスは疲れたように肩を落とす。その眼差しは、少し呆れてすらいた。
「自白剤まで打っておいて、今更何を私に尋ねようというのですか? 私は何も知らない。もうお判りでしょう?」
「あぁ。らしいな」
「……私にはもう何も話すことなどないですし、用事がないというのでしたら、もう私の前に現れないでください、お師様。目障りです」
 シルキスはそう言い放ち、椅子に腰掛けたまま足元に視線を落とす。
「もう、終わったのです。私は処刑の日を待つばかりの身となる」
「阿呆、まだ終わってねぇよ」
 イルバは嘆息しながら、鉄格子を握った。出来る限り顔を寄せ、牢獄の中で終わりを待つ弟子を睨みすえる。
「お前、この国の皇帝のことちょっとは調べたんだろ? てめぇみたいな奴を極刑にして終わりにするような、甘い奴じゃねぇぜここの皇帝は。ま、もっともここの皇帝がお前にあっさり終わりをやるっていっても、俺が許さねぇ。お前は、生きていくんだ。天寿を全うするまで」
 イルバの言葉を、シルキスは嘲笑した。
「馬鹿なことを。ではお師様、もし仮に、皇帝が私を極刑だといって、貴方はどのようにして私の命を救おうというのですか?」
「俺がその罪を引き受ける」
 シルキスは、信じられないことを聞いたといわんばかりに目を見開いた。幾度か瞬いた後、彼はおかしくてたまらないとでもいうように、高らかに哄笑を上げた。
「あはははははははっ!! 罪を引き受ける!? 何のためにですか!? 一体、何のためにそのようなことをするというのですか!? ……馬鹿げたことをいうのもいい加減にしてくださいお師様!!」
「何のために? そんなこと、決まっている」
 握り締める鉄格子を、力任せにがしゃりと揺らして、イルバは呻く。
「お前が、幸せになるためにだ」
 シルキスは笑いを治め、表情を殺した。
「冗談は聞き飽きました」
「冗談じゃねぇよ」
 シルキスの不服そうな呻きに、即座イルバは言い返した。腹の底から響かせた低い反論に、シルキスは口を閉ざす。射殺しそうな眼差しで見つめてくる弟子を見返しながら、イルバは言葉を続けた。
「破滅が望みだといったお前は、どうしてジンの連れの女を薬づけになんかしたんだ?」
「言ったでしょう? たまには、大事なものを奪ってやってもよいと思ったのです。それだけです」
「ならどうして、殺さなかったんだ? 奪って相手を絶望に陥れる方法なんざ、俺たちは腐るほど知ってるはずだぜ。俺たち政治家は、人を守ると同時に陥れる方法だって学ぶんだからな」
 権謀術数の闇の中、相手の腹を探りあい、時に手が出ぬようにその手を血に染めることもある。百、人を救うために、一の命を、殺さなければならない――非情さを、要求されることもある。
 もっともその残酷さを、残酷だと理解して経験する政治家は数少ないであろう。大抵、そういった感覚は磨耗していく。時に財力に目が眩むことで。時に狂うことを拒否する本能として。
「ジンを本当に絶望に引きずり込みたかったんなら、女の腹をずたずたに割いて、死体を送りつけてやればよかったのさ。お前はそうはしなかった。……聞いたぜ、シルキス。お前が管理してたっつう館には、中毒患者は腐るほどいたが、執着してたらしいジンの女に限って、扱いがまったく別だったってよ。一人、広い部屋を与え、美しい絹を着せ、飾り立て」
 シルキスは答えない。ただ静かに、イルバを睨み据えてくる。その様子は、叱られている子供が、大人に言い返すこともできず、泣き出すことを堪えている姿に似ていた。
「手に入れたかったんだろ? セレイネに似た、あの娘を」
 ジンからシルキスとの対話を依頼されたイルバは、こちらに立ち寄る前に、その件の女の様子を見に行った。シルキスが何故執着し、このようなまねをしでかしたのか、シファカという女を一目見ることでその理由を知ることができるのではないかと思ったのだ。
「似ていたな。びっくりしたぜ、俺も。面影がそっくりだ」
 昏睡状態で横たわる女は、亡き娘の面影を宿していた。よく見れば別人だが、親戚といっても通じる。
 シルキスもまた、動く女に、もういない女の面影を見たのだろう。別人だと知りながら――それでも、執着せずにはいられなかった。
「なぁ、もう一度訊くぞ。お前は、この七年、本当に誰にも出会わなかったのか? 共にいて、幸せになれる、誰かに――……」
 彼の心を、癒す、誰か。
 彼の傍にいて、彼と共に笑ってくれる、誰か。
 ジンの女が、シルキスにとってそのような存在だったのかもしれない。彼らがどのような出会い方をしたのかも知らない。想像のしようがない。
 ただ、彼が、その娘を手に入れたいと願ったことだけは、判る。
「シルキス。お前は生きなきゃならねぇ。生きて、幸せにならなきゃならなぇ。そうすりゃ、こんな歪んだ形で誰かを手に入れようなんざしなくても、お前の傍にいようっていう奴は、現れる」
「今更貴方にそのようなことを心配されるいわれはない!!」
 突如、立ち上がったシルキスは、イルバを威嚇するように鉄格子に掴みかかってきた。つい先ほどまでイルバ自身が握り締めていた箇所を、今度は彼が掴み揺らす。
 じゃらりと、彼の手首を拘束する鎖が音を立てた。
「私の幸せ!? 何を今更! 私から幸せを奪ったほかでもない貴方が! 何をそのような戯言をいうのですか!! そんな風にいうのなら、セレイネを返してください!! セレイネの墓に、その命でもって詫びてください!! そうやって罪を償えば、私は満足するでしょう――……!!」
 奇妙なことだった。
 セレイネはイルバの娘だ。イルバのたった一人の娘だった。他者は、セレイネを失ったのはイルバだと見做す。その喪失に皆同情する。しかしシルキスだけは、イルバを糾弾する。セレイネを、死に追いやったものとして。
 そう。それこそが、イルバの罪だ。
「……俺は死なねぇ。お前が生きて幸せになることを、確認する義務があるから」
「……義務?」
 鸚鵡返しに問い返してくるシルキスに、イルバは頷いてみせた。
「……セレイネは、誰よりもお前の幸せを祈っていた。お前が、生きて幸せになることを願っていた。だからお前に遺言を残したんだろう。お前が、セレイネの後を追って死なぬように。生きるように」
 それほどまでに彼らは深く愛し合っていた。それを、イルバは知っていた。
 娘を取られる寂寥を抱くと同時に、そのことに喜びを感じていた。
「なら、俺はそのセレイネの願いが成就されたかどうか、見届ける。……それが俺の義務であり、セレイネの、ひいてはナスターシャへの、罪滅ぼしだ」
 セレイネの幸せを祈っていた妻のナスターシャ。セレイネの願いが叶ったなら、それはナスターシャの幸せでもある。
 そう、思いたい。
「それに、ガキが幸せになったかどうか、確認しねぇと、親はおちおち死んでられねぇんだよ」
 半分は冗談で、半分は本音のその言葉に、シルキスは絶句したらしい。
 まぁいい、とイルバは自嘲する。
 どんな理由であれ、自分には、義務がある。
 だから自分は生き続ける。
 たとえ、一生消えぬ罪を背負い続けようと。
「誰が子供で、誰が親なんですか……」
 今にも泣き出しそうな様相で、しかし口元を嗤いに歪めて、シルキスが呻く。イルバは瞼を閉じ、過去に想いを馳せた。
「覚えているか? お前を拾ったばかりのころ。お前が俺を親父だといったこと」
『でしたら、いるばさまは、わたしのおとうさまになるのですね』
 いまだ鮮やかに脳裏に残る、無邪気な子供の顔と声。
 シルキスは、格子を握ったまま腕に目を伏せ、ずるずるとその場に膝を付く。しばしの沈黙の後、彼は言った。
「……いまさら、父親面されても、目障りなだけです」
「……だろうな」
 父としても、師としても、不十分すぎた。ふがいなさすぎた。
「帰ってください。もう貴方とは二度と話したくない。何も話すことなどない」
 そういって、シルキスは顔を伏せたまま口を噤む。
「シルキス」
 声をかけても、彼は反応を示さない。イルバは嘆息し、踵を返した。ジンの女を案じないわけではないが、真剣に彼の頼みを遂行していたかといわれれば疑問が残る。さて、何も情報を得られなかったことに、なんと言い訳しよう。
 頭を掻きながら、外に向かって歩き始めた、そのときだった。
「お師様」
 不意に、シルキスがイルバを呼び止める。怪訝さに首をひねりながら、イルバは振り返った。シルキスは依然、膝をつき鉄格子に身を預ける形で身を伏せたままである。呼び止められたのは気のせいかと、再び歩き始めた、その直後。
「……月光草の改造を指示したのは、私ではない。私があの国に流れ着いたときには、もう、あったものです。私は、何もしらない」
 シルキスの呟きに、イルバは頷いた。そのことはすでに自白剤を投与した折に、彼の口から確認済みのことである。
 くぐもった声音で、シルキスは続ける。
「……しかしアレの改造を行った男は、リファルナという国の出身だと聞いています」
 その言葉を最後に、彼は口を閉ざした。
 こちらのほうを、見ようともしない。
 しかしイルバは彼に向かって微笑んだ。
「……ありがとうよ」


 開けた視界の先は、見覚えのある平原だった。
 切り立った崖の上に位置する平原。そこからは都と水平線を一望できる。この都で一番見晴らしのよい場所だ。この国の四季の移ろいを、一望できる場所。
 ラルトが、亡き妻の墓標の場所にと、選んだ場所だった。
 春らしい緑の草なびく、その平原を、光はふらふらと漂い進んでいく。やがて光は白き墓標の前、正確には、墓標の前に佇む女の前で止まった。女が、足元の光を抱き上げる。壊れ物を拾い上げたときのように、慎重に光を腕に抱きかかえた女は、ティアレを見つめ、そして微笑んだのだった。


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