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第二十一章 墓標の果てより 1


「あ、なた、は」
 墓標の傍らで静かに自分を見下ろしてくる女を、自分は知っているはずだった。彼女は今しがた、自分の名前を呼んだのだから。
 シファカと。
 そう、自分の名前はシファカ。どうして自らの名を、忘れていたりなどしていたのだろう。シファカは呆然となりながら立ち上がり、改めて周囲を見回した。
 緑に覆われた山々に、丘から見下ろせる水路が網の目状に巡らされた街並みと、光を照り返す水平線。それら全てを見守るように立てられた白い墓石。
 そして、その墓石の主である女。
 名を呼ぶ前に、女は苦笑して口を開いた。
「ここに来てはいけないといったのに。また来てしまったのね」
「すみません……」
「いいの。自分の名前、思い出せた?」
「……はい」
「良かった。だめよ。甘い闇に囚われては」
 甘い闇。
 つい先ほどまで思考と感覚を奪い、眠りの世界へシファカを縫いとめていたあの生ぬるい闇のことだ。シファカははっとなって女を凝視した。女の声には聞き覚えがあった。それは遠い昔のことではないはずである。
 闇の向こうから、女は自分を呼んでいた。
「私を助けてくれたのは、貴方ですか?」
 シファカの問いに女は答えない。ただ、薄く笑うだけ。その沈黙を問いに対する肯定と取って、シファカは頭を下げた。
「ありがとう、ございました……」
「いいの」
 女は言った。
「頭を上げて。貴方のためにしたわけではないもの。私は私のために、しただけ。だから礼を言われる筋合いなんてないのよ」
「でも、助けてくれたんですよね? 私の腕を、引いて、闇から引き上げてくれた」
 かすかに覚えている。女の手が、シファカの腕を強く握り締めて闇から引き上げたあの感触を。シファカを呼ぶ力強い女の声を。そして気が付いたとき、シファカはこの場所にいたのだ。
「まだ、助かったと、決まったわけじゃないわ」
 女がぽつりと漏らした呟きに、シファカは姿勢を正して首を傾げる。女は丘の下に広がる街並に視線を投げかけていた。その眼差しはひどく遠く、寂しげだ。女は目を伏せる。
「貴方、この場所はどんな場所だか知っている? 私が今この場所にいるという意味を、少しは考えて。生身でこの場所を訪れたこと、貴方はまだないでしょう?」
「この場所は」
「助かったと喜ぶのはまだ早い」
 低い声音で、女は呻く。シファカを見据えてくる彼女の双眸に暗い光を見出して、シファカは思わず僅かに身を引いた。
 確かに、助かったと喜ぶのは、早いのだろう。
 シファカはこの場所を訪れたことがある。しかし現実にこのような場所が存在するのかどうかはわからない。シファカがこの場所を訪れたのはただ一度、夜の王国ガヤで雪崩に巻き込まれ、生死を彷徨っている最中に見た夢においてだ。そこまで思い出して、シファカは戦慄する。
 では、今、自分は。
 ふと、女の眼差しが厳しくなった。一瞬睨みつけられたのかと身を硬くする。しかし女は顔を街とは逆の方向、森のほうへと向けていた。よりいっそう目を細め、眉間に皺を刻む。
 やがてその視線の向こうから、人の影が低木を掻き分け現れた。


 再会の感動に浸っている状況ではないのはよくわかった。ジンが腕に抱く女に、早くしかるべき処置を施さなくてはならなかったし、なにより、シノの悲鳴じみた声が、ラルトを追いかけてきたからだった。
「陛下!! 陛下っ……早く離宮にお戻りください!!!」
 今しがたラルトが来た方向から、甲高い悲鳴と慌しい靴音が反響しながら迫ってくる。シノはやがてラルトから少し距離を置いて立ち止まると、驚愕しながら立ちすくんだ。
「か……閣下……っ!?」
「やぁ……久しぶり、シノちゃん」
 軽く手を挙げ、ジンはシノに微笑みかける。シノは何かを口にしたそうに、ぱくぱくと唇を動かしていたが、表情を引き締めて再びラルトに向き直った。今は、ジンに事の次第を尋ねている場合ではないということだろう。
「陛下、急いで離宮にお戻りください! ティアレ様のご様子が……!」
「急変したのか!?」
 ラルトの問いに、シノは大きく頷く。
「今、キキにリョシュン様を呼ばせています。ティアレ様にはレンが」
「判った……」
 ティアレの様子がどのように急変したのか、シノにこれ以上追求しても無意味だろう。ラルトは立ち上がり、一度ジンを顧みた。彼は腕の中の女を強く抱いて、行ってきなよ、と口にした。
「別に逃げないよ、俺」
「服着替えろ。風邪引くぞ」
 今更だが、ジンは頭から水を被ったようにずぶぬれで、ひどい有様なのだ。ラルトはそのように言い置いて、踵を返した。すれ違い様、シノに命じる。
「かねてより用意していた、月光草中毒者のための部屋にジンを案内しろ。御殿医を手配。あと――殴ってもいいぞ」
 最後に付け加えた言葉にシノは目を瞬かせたが、ふと口元を緩めると、深く頭を下げ命令を受諾した。
「かしこまりまして」
 シノの声を後にして、その場を駆け出す。重い上掛けを途中で脱ぎ捨てながら、ラルトは歯噛みした。
 一体ティアレに、何があったというのだろう。つい先ほどまで、熱は高くとも、彼女は穏やかに眠っていたというのに。
 来た道を逆送し、息を切らしながら奥の離宮に駆け込む。寝室にたどり着いたときにはすでに、女官たちと、リョシュンを筆頭にこの離宮に立ち入りの許された御殿医が数人集まっていた。
 その人の群れの向こうから、女の絶叫が響いている。
「陛下」
 ラルトの姿を認めた女官たちが、厳しい表情を浮かべたままラルトに道を空けた。恐る恐る、その向こうへラルトは踏み出す。女の絶叫が、よりいっそう声高に鼓膜を震わせた。
 寝台の上で、ティアレが己の胸元に爪を立てるようにして衣服を握り締めながら、身体をしならせて絶叫していた。
「あああぁあぁああぁぁあぁあぁぁっっっ!!!!!!」
「ティアレ!」
 ティアレの傍らで、彼女の片手を握り締めていたレンが面を上げ、席をラルトに譲る。ラルトは彼女を押しのけるようにして空けられた席に収まりながら、虚空に伸ばされたティアレの手を取り握り締めた。
「一体……一体なんなんだ!? これはっっ!?!?」
「わかりません……!」
 リョシュンが申し訳なさそうに、ラルトに叫び返す。声を荒げなければならぬほど、狭い部屋がティアレの咆哮で満たされていた。
「突然、紋様が濃く浮かび上がったのです……」
 ラルトの傍らから口を挟んだのは、女官のレンである。幼さの残る顔立ちを強張らせ目に涙を溜めた彼女は、狂ったように身体を撓らせ絶叫するティアレを凝視していた。
「それから、突然、こんな風に、叫びだされて」
 確かにレンの指摘の通り、ティアレの身体に浮かんでいた紋様が一層濃くなっている。まるで心臓の鼓動に合わせるように明滅するそれに嫌悪感を覚えながら、ラルトはティアレの手を包む己の手に、さらに力を込める。
 ティアレの爪が、ラルトの手のひらの肉に食い込んだ。まるで、引き千切らんとするような力。女の力とは、思えないほどだ。
「ティアレ……!!!」
 ラルトの呼びかけにも、ティアレは応えない。
 ティアレは身体を大きく跳ねさせ、ひときわ大きな声で、絶叫した。


 光が。
 零れた。
 確かに今、光が自分の身体から生まれ出でて零れ落ちた。一抱えほどもある丸い光は、ふらふらと暗闇を進んでいく。ティアレは慌ててそれを追いかけた。追いかけなければならないと思った。
「待って!」
 ティアレの呼びかけに応えるように、光は一度動きを止めたが、一瞬にも思える間だけだった。光は再び左右に揺れながら進み始める。その速度は、決して速いものではないと思えるのに、いくら足を動かしてみても追いつけない。
 ティアレは何故自分が、闇の中にいるのか考えなかった。光が零れ落ちた、その瞬間までの記憶を思い出せずにいることにも、気づかなかった。
 光が進む方向に向けて、闇が少しずつ薄まっている。まるでそちらへと、ティアレを導くように光は進み、やがてティアレは、突如膨れ上がった光に、眩しさを覚えて顔をしかめた。


「うーうーううぅうううぅ!!!!」
 リョシュンから与えられた膨大な課題に向き合い、唸っていたヒノトは、我慢の限界からとうとう卓の上に突っ伏した。勉強は嫌いではないが、元々じっとしていられない性分だ。さすがにこうも長い間部屋から出ていないと、気が狂いそうになる。
「唸ったってってどうにもなんねぇって」
 卓を挟んだ向こう側、長椅子に寝そべって本を読んでいたイルバが、苦笑を交えてヒノトを慰めてくる。
「ちょっとは休憩しな嬢ちゃん。茶でも飲もうぜ。茶菓子あるぜー茶菓子」
 長椅子から身を起こしたイルバが、卓の上の急須から茶を淹れなおす。彼はそのまま立ち上がり、近くの戸棚からシノが持ち込んだという籐の籠を取り出した。籠の中にはイルバの言う通り、美味しそうな茶菓子が詰められている。
 それらを卓の盆の上に並べ置くイルバを、ヒノトは頬杖をつきながら呆れて眺めた。
「おんし、本当によく一日中部屋の中にいて飽きんのう」
「根がぐーたらなんだろうよ。全然、苦になんねぇ。ほら、食え。疲れたときにゃ、糖分だろ?」
 茶菓子の一つ、餡のたっぷりとつまった饅頭を半分に割ったイルバは、それをヒノトの口に乱暴に突っ込んだ。強引に食べさせられた饅頭を口いっぱいに頬張りながら、ヒノトは嘆息する。
 ティアレが倒れたときのことだ。ティアレを介抱したことは良いが、許可なく執務棟のほうに足を踏み入れていたことがリョシュンに知られて、ヒノトは大目玉を食らいかけた。エイが庇って事なきを得たが、血管が千切れそうな形相だったリョシュンを思い返すと、今でも鳥肌が立つ。
 以降、ヒノトはティアレの見舞いも行くことを許されず、暇をもてあましていたイルバをお目付け役として、謹慎しているというわけである。ティアレの容態がどうなったのかも一切知らされない。皆一様に口を閉ざすし、奥の離宮には入れてもらえない。エイは多忙を極めるらしくこちらに顔を見せることすら叶わないらしい。
 そういった諸々のことが、ヒノトをひどく苛立たせた。
 饅頭を食べ終わり、苛立ち紛れにヒノトは次々と茶菓子に手を伸ばす。イルバもまたのんびりと饅頭を咀嚼しながら、茶碗に手を伸ばしていた。
「饅頭ってうまいよなぁ。つか、この国はメシが美味くてうれしいぜ。食事があわねぇっつうのは致命的だもんな」
「……イルバは、この国に住むようになるのか?」
 ヒノトの問いに、イルバの手が止まる。彼は軽く小首を傾げ、さてな、と笑った。
「まだ決めてねぇ。しばらくはいるだろうがな。やることもあるしよ」
「……そうか」
「ま、離れたとしても心配だろうよ。この国にゃ、無理する奴が多すぎる」
 ぽん、とイルバはヒノトの頭に手を置いた。大きく無骨な手だ。エイにこのように子ども扱いされれば腹立たしいが、イルバのこういった行為は嫌いではなかった。彼は人を甘やかすコツのようなものを心得ていて、不思議と子ども扱いされたと感じないのである。ヒノトは父親というものを知らずに育ったが、もしいたとしたのなら、このような存在だったのではないかと、ヒノトは希望を込めて思った。
「嬢ちゃんも、無理はすんなよ」
「無理などしとらん」
「そうか……ならいいがな」
 ほら食え、とさらに盆の上に茶菓子を積まれる。食べても食べても、どこから取り出しているのか、様々な種類の茶菓子が現れた。最初は嬉々として頬張っていたヒノトだが、やがて胸焼けを起こしそうになり、楽しげに茶菓子を積んでいくイルバに思わず怒鳴る。
「食べきれんわっ!!!」
「がはははははは!!!」
「失礼いたします」
 軽い叩扉の音が響いて、ヒノトとイルバは倣って扉のほうを見やった。開いた扉の先から姿を現した男は、多忙を極めてしばらく顔をみせていなかったエイである。
「エイ!」
 ヒノトの呼びかけに微笑を浮かべたエイは、後ろ手に扉を閉じてこちらに歩み寄ってくる。その彼を見つめて、イルバが感想を述べた。
「すげぇ疲れた顔してんな。大丈夫か?」
「えぇ……」
 確かにイルバの言う通り、エイはこの上なく疲弊しているように見えた。目の下に濃い隈を作っている。少し痩せてしまったようにすら思え、ヒノトは思わずエイに尋ねていた。
「ちゃんと、食べておるのか? おんし……」
「はい。大丈夫ですよ」
 ヒノトの問いに、エイは曖昧に笑って答える。こういうとき、彼の大丈夫は心底当てにならないと思う。
「なぁ、もしかして……ティアレは、まだ、目覚めておらんのか? 大丈夫、なのか?」
 エイがひどく疲弊しているのは、ティアレの容態が思わしくないからなのではないか。ヒノトは思った。もしティアレの容態が悪ければ、ラルトが彼女に付くようになるだろう。ラルトが抜ける分の政務を負担するのは、無論エイに他ならない。結果、彼の仕事は想像以上に増える。
「大丈夫ですよ」
 さらりと返された答えは白々しい。彼の嘘は嘘でないように響く。そのことを、判らぬほど自分は馬鹿ではない。
「イルバ殿、ヒノトを少し連れて行きます」
 イルバに告げるエイの表情は、先ほどと一変して険しい。彼の気配に気圧されたのか、イルバもまた僅かに身を引きながら頷いていた。
「お? おう」
「そして貴方には頼みごとがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「手伝える範囲だったらなんなりと」
「申し訳ないですが、女官長の様子を見に行ってくださいませんか。あの人もまた寝ていない」
 何故、彼女が眠れない状況にあるというのか。
 ヒノトは胸中でエイに問いかけ、イルバもまた、同じ問いを飲み込んだらしかった。今にも問い正したそうに、口を開いている。しかしイルバは一度口を強く引き結ぶと、髪を掻いて立ち上がった。
「いいぜ。どこにいるんだ?」
「判りません。じっとしていらっしゃらないので」
「……いつになったら休むんだあの仕事狂は」
 舌打ちしつつ言い置いて、イルバが先に部屋を出る。
「女官長と面会がかなったら、またこちらにお戻りください。もう一つ頼みたいことがあるのです」
 了承の合図か、イルバが肩越しにひらりと手を振る。扉の閉まる音を聞いた後、ヒノトはエイの手を思わず握り締めた。
「エイ、ティアレは……」
 本当に、大丈夫なのか。
 一体、何が起こっているのか。
 ヒノトが尋ねる前に、エイが口を開いた。
「ヒノト、シファカという方、見つかりましたよ」


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