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第二章 多幸の採択者 2


「で、話戻しますけれど、どうして今更バヌアなんです?」
「バヌアに革命を引き起こした張本人。その、民主化教本の著者。イルバ・ルスの弟子が、ダッシリナにいるそうだ」
「……はぁ!?」
 エイは思わず、素っ頓狂な声を上げていた。ラルトは先ほどの笑いを消し、疲れた表情を見せてもう一枚、書類を引き抜いた。それを、彼はエイに手渡してくる。
「確証はないといっていたがな。だが可能性は高い。今渡したのはウルの調書だ。ダッシリナでの民と政治家たちの不穏な動きに際し、民主化教本の写本とも思えるものが見つかったらしい。諸島連国に連絡をとってみたが、やはり写本は全て七年前に際して一冊残らず焼き払っているそうだ。すり抜けたのはただの一冊」
「原本」
 エイの言葉に、ラルトが頷いた。
「そう。著者が持ち出した、原本だ。諸島連国以外とも連絡を取ってみたんだが、七年前から北の大陸でちょくちょく、似たような事件が起こっているらしい。どれも小さな団体を摘発するだけで片が付いたようだがな。で、一年ぐらい前から関連性のありそうな事件はぱたりと止んで、今に至る」
「これは……ことが大きくなりそうですよね」
「ラヴィ・アリアスが忠告してきた件も十中八九、これだろう。大きくする前に、首謀者と思われるその本の著者を探し出し、押さえなければな。今はダッシリナだが、そのうちデルマ地方経由でこっちにも波が来るぞ。フベートやランマ・ヤンマ地方あたりだったら揺らぐこともないだろうが、またデルマ地方でハルマ・トルマを中心に独立の動きなんて起きたらややこしいことになる」
 フベート、ランマ・ヤンマといった地方は水の帝国領内でも都に近い上に安定した地区だ。民主化などという甘い言葉を出されても、農民でいることを選ぶ民のほうが多いだろう。
 危ういのはラルトがいった通り、隣国ダッシリナと国境を有する地方、デルマだった。元々は城塞都市ハルマ・トルマを中心とした小さな都市国家だったのだ。傭兵や浮浪者が居住者の大半を占めるこの国は、隣接する水の帝国領土カジャ地方に治安の面で問題を多々起こした。結果派兵して併合された。それが現在のデルマ地方である。
 五年目に入って、随分と水の帝国の制度が浸透したが、まだ危ういことには変わりない。
「デルマ地方についてはダッシリナも危惧する問題だろう。早めにあっちに行って、誰が革命側で誰が占師側なのか見極めておいてほしい」
「あちらに介入するおつもりで?」
「直接的にするつもりはない。が、場合によって交渉はある。どうあっても、俺としてはデルマ地方の挙兵は避けたい問題だ」
「判りました」
 エイは頷いた。皇帝が口にする問題は、彼ばかりが危惧しているわけでもない。同じ帝国人としてエイ自身も案じるべき問題だからだ。
「ダッシリナではウルと合流して、彼に問題の男の捜索をさせてくれ」
「容姿や年齢などの詳細については、お分かりになられているので?」
 それが判らなければ探しようがない。いくら諜報を得意とするウルも、基盤となる情報がなければ動けないからだ。
「俺は判らない」
 だが、とラルトは頬杖をついていった。
「師匠ならばわかっているだろう」
「あ、なるほど」
 だから先ほど、ラルトはイルバ・ルスについて触れたのだ。
 どういった因果で、隠遁生活を送っていたはずの名相がこの国にたどり着くことになったのだろう。だがそれは、この国にとっての幸福ととらなければならない。探したが、見つからなかった。かつて、雑談の合間にバヌア出身の知人がそう漏らしていたことを、エイは思い出していた。
「それに、彼も弟子を探しているようだ」
「イルバ・ルス殿がですか?」
「あぁ。おそらく古い伝手で、ダッシリナの動きを掴んだんだろう。決着をつけるために来たのだと、言っていた」
 国を支え続けた名相と、国を滅ぼしてしまったその弟子。
 隠遁していたという男は、もしかして弟子を追い続けていたのかもしれない。
「図書館にいると、スクネから報告を受けている。時間が空いたら話を聞いてやってくれ」
 ラルトはそう言って、話は終わりだとばかりに書類に署名をし始める。エイは判りましたと微笑んで、ひとまず片付けなければならない仕事の処理に専念することにした。


 護衛の兵に案内された水の帝国の図書館は広大だった。
 宮城の一角にある黒塗りの美しい木造の楼閣。天井は高く、陽光がよい具合に取り入れられている。明るすぎず、暗すぎず。部屋はひやりとして、常夏の国出身のイルバにとってみれば少し肌寒いかもしれない。だが周囲の人々の穏やかな顔色を見るかぎり、この気温が適温なのだろう。
 目を凝らせば、窓枠に施された細工を煌く小さな石が飾っている。おそらく、招力石。あれがこの広い空間の湿度と温度を保っているに違いない。
 そしてイルバを驚かせたのは、この図書館が一般にも公開されているという点だった。
 本、というものは一般的に嗜好品であり高級品だ。貴族や商家以外まず手を出せない。農家たちは識字率が低いため、文字を自力で読めるものがほとんど居らず、文字を読んでやることで日銭を稼ぐものもいるほどだ。
 図書館は静かだったが、人気がないというわけでは決してなかった。その逆だ。老若男女、様々な人々が小脇に手垢のついた本を抱え、もしくは席でそれを広げ読みふけっている。身につけている衣類は様々だ。豪奢な服、逆に、みすぼらしい衣服。唯一共通するのは、清潔そうであるということだろうか。
 また、古めかしい書棚には古今東西の様々な本が納められていた。ここにいれば、まず一日中飽きない。そう、イルバに予見させるには十分すぎる蔵書の数だった。
「失礼いたします、ルス殿」
 人払いのされた図書館の一角で、何冊目の本を踏破した頃だろう。気がつけばイルバの片隅には、読み終わった本が五、六冊積み上げられていた。頭上から掛けられた男の声に面を上げる。イルバの傍で控えている護衛兵が、頭を丁寧に下げていた。
「前の席を?」
「あぁ。かまわない」
 断りを入れてくる男に、イルバは頷いた。前の席に腰を下ろした男は、まだ年若い。だが慣れた様子で、彼はイルバの斜め後ろに控える男に軽く手を振った。
「半刻後にまたきて」
「かしこまりました」
 そして常に任務に忠実であった兵士が、あっさりとその場から引き下がる。その背中が見えなくなったことを確認して、男は微笑んだ。
「読書を中断してしまい、申し訳ありません」
「あぁ、かまわないでほしい。どうせ暇な身だ。それから、そんな堅苦しい言葉は使ってくださらなくて結構だ」
「これは、私の地なんです」
 男は、柔和な笑みを浮かべた。その笑みだけをみると、随分男は幼く見えた。
「ルス殿のほうこそ、私に敬意を払っていただく必要はありません。敬語は使ってくださらなくても大丈夫ですよ」
 兵士の対応を見るかぎり、男の位はかなり高いはずだった。だが皇帝と同じように、敬意を払う必要はないとあっさりいう。一体どういう国なのか。この国は。
「判った。そうさせてもらう」
 イルバは椅子の背に重心を預けて頷いた。
「が、そのルス殿っていうのはやめてくれねぇか。むずがゆい。イルバでいい」
「判りました」
 男は口元の笑みを一層強くし、右手を差し出してきた。
「エイ・カンウです。この国で、左僕射の任についています」
「知ってるんだろうが、イルバ・ルスだ。……左僕射?」
「厳密には違うんですが、宰相補佐です」
「ジンの補佐官?」
 一度だけ、会合で顔を合わせて親しく言葉を交わした宰相、ジン・ストナー・シオファムエン。
 西大陸の特徴を色濃く受け継いだ、人懐こい容貌を思い返しながら、イルバは納得した。バヌアで王監査役の長に宰老という名前がつけられているように、左僕射という官職名はこの国独特の呼び方なのだろう。
 黒髪黒目の優男。どうみても、三十路には手が届いていない。東大陸の人間は他の大陸の人間から見れば弱冠幼く見えるきらいがある。しかしそれを差し引いても、エイと名乗った男の年齢は二十代前半のはずだ。
 その若さでその官職を与えられているということは、よほど優秀な人間なのだろう。
「うちの宰相をご存知で?」
 エイは、すこしだけ顔色を変えた。驚きのようだ。あぁ、とイルバは頷いて、記憶をさかのぼった。
「バヌアが滅ぶちょっと前だな。各国の首脳が集まる会合があってな。顔を合わせたことがある」
「そうなんですか」
 イルバの言葉に、青年は肩を少し落とした。よく観察していなければ判らないような些細な動き。そして押し殺されてはいたが、言葉に僅かに滲む落胆の色。
「おたくの宰相、どうかしたのか?」
 それは皇帝と面会した際にも感じ取れた微妙な違和感だ。イルバが特に長けているのは、人の観察能力。おそらく他の人間ならば、エイは単純に合図地をうっただけに思っただろう。それほど自然な取り繕い方だった。
「どうか? いいえ」
 イルバの問いに、目を瞬かせてエイが頭を振った。
「今、外交で国外に出ていて、しばらく顔をみていないんですよ。もし先日偶然お会いになられていたようなら、元気であるのかどうか知りたいと思いまして」
「あぁ……なるほどな」
「外交で出かけても、城下を一人で動き回られるような身軽な方ですから、その際にお会いになられたのかと思ったんです。報告は定期的に来るのですが、体調がどうとかちっともお知らせくださりませんからね。何も言及されていないということは、元気な証拠でしょうが。何かあれば、随行している人間から報告がくるでしょうしね」
 あの方も、仕事人間ですし。
 エイがそういって笑う。そこに偽りはみられない。
 気のせいだったか、とイルバは肩をすくめた。
「それで、カンウ殿が何故ここに?」
 宰相補佐というからには、政治の中枢にいる人間だ。こう、次から次へと高官の人間が現れると、こちらとしても身構えたくなる。
「まずお礼を言わせてください」
 エイはそう言って頭を下げた。
「うちの女官長を助けていただいて、ありがとうございます」
 イルバはぎょっと目を剥きながら、慌てて身を乗り出した。
「おい、そんな風に頭を下げるな。アレは成り行きだ。別にそんな風に礼を言われるようなことはしてねぇよ」
「それでも、ありがとうといいたかったのですよ」
 エイはそういって皇帝と同じ顔で笑った。本当に、珍妙な国だ。
 イルバは照れくささから頭を軽くかきながら、男から視線を外した。
「それだけの為に来たのか?」
「いいえ。別件の用事もきちんとありますよ」
 声を立てて笑ったエイは、次の瞬間、聞くものをひやりとさせるに十分な硬質の響きで言葉を紡いだ。
「貴方の、尋ね人について」
 イルバは、エイに向き直った。イルバからしてみれば、どこか幼さすら感じられる若い顔。だがそこに浮かぶ表情は確かに、政治家としてのものだった。
 イルバは無意識に居住まいを正しながら、彼の声に耳を傾けた。
「私は近々ダッシリナへと向かいます」
 エイが話を切り出した。
「残念ながら、貴方をそちらへ随行するように手配させていただくことはできかねます」
 イルバの意向を、エイが前もって封殺する。ダッシリナ。その国名を耳にして、イルバの顔色が変わったことを彼は見て取ったのだろう。
「私のほうがあちらで捜索の手配をすることになります。貴方が探している御仁は、私どもにとっても、そしておそらくダッシリナにとっても、脅威な人物です。あちらの国と共闘して、出来る限りの手を尽くし、探し出すことになるでしょう」
「俺はこの国で黙ってみていろと?」
「しばらくの間は」
 エイはイルバの問いに頷いて、ですが、と言葉を続けた。
「件の御仁を見つけ出してから捕らえるまで、もしくは、捕らえられてからは貴方にもお仕事をしていただきますよ。貴方が、望むように」
 舞台は、整えてやると、一見温和にすら思える黒い瞳を剣呑に細めて、エイが笑う。
 イルバは、なるほど、やはり左僕射という位に就く男なのだとどこか納得して頷いた。
「判った」
「ですがお暇でしょうから、お望みでしたら色々とやることもございますよ。この国は年中人手不足ですし。今とりわけいい感じのお仕事があるんですが」
「何だそりゃ」
「貴方の前歴を考えれば、ぴったりのお仕事です」
 思わず沈黙しながら、イルバは眉間に皺を刻んでいた。
「俺は政治家として働くつもりは毛頭ねぇぞ」
「そうなんですか?」
「知ってるかもしれねぇがな、俺は七年間、隠遁生活を送っていた。そんな人間が今更政治にかかわることができると思うか?」
「七年間隠遁生活を差し引いても、私よりも長いじゃないですか」
「お前、政治にかかわり始めたのは何時からなんだ?」
「そうですねぇ。六年ぐらい前ですか。学び始めたのは、十四ぐらいの年です。貴方みたいな方が傍にいれば、私たち若い人間にしてみれば、心強いんですけれどね」
どこか熱の篭り始めた男の口調に、イルバは渋面になりながら呻いた。
「皇帝か。俺を口説けといったのは」
「いいえ? 私個人的に。いい人材は見逃すな、が、この国の座右の銘です」
「この国、もしかして本気人材不足なのか……?」
 頬杖をついてげんなりと呻く。
「仕官しろとは、言っていません」
 目の前の青年は、場を弁えて声こそ立てようとはしなかったものの、それでも幼く笑った。
「私の言うぴったりの仕事というのは、うちの陛下と会話してほしいということなんです」
「なんだそれは」
 皇帝と会話するだけで仕事など、なりたつのか。
(成り立つな)
 思い返せば確かに、ルスの仕事の半分は、王の愚痴を聞くことだったような気がする。
「貴方は客人ですし、それをもてなすという名目で陛下が貴方のところに寄ったところで何の問題もありません。貴方の前歴を考えれば、政治馬鹿なうちの陛下が貴方のところに入り浸ってどれだけ討論しようが、周囲も納得するでしょうしね」
「政治馬鹿たぁえれぇ言い方だな」
「事実ですから。別にその程度で陛下は目くじら立てませんよ。……で、まぁ陛下の気晴らしに付き合って差し上げてください。それが出来るように、いろいろ手配しますので。うちの陛下は頭いいですよ。きっと楽しめることでしょう」
「俺でいいのかよ」
 話の相手が必要だと皇帝が臨むのなら、いくらでも引っ張ってこれるだろうに。
「えぇ」
 エイが満面の笑みで頷く。
「いろんな思惑からはずれてくださっているのは、現在貴方しかいないので、適役です」
「ぶっちゃけてるな」
「私以上に政治の酸いも甘いも知る貴方に隠し立てしたところで、なんら意味を持たないでしょう」
 確かにそうだ。この男が政治にかかわって六年だという。対してイルバは二十年以上。ブルークリッカァは滅びに瀕していた上、歴史ある国だから、エイが短い期間に経験した問題はイルバがかかわってきたもの以上に複雑であったかもしれない。
 だが積み上げられてきた経験、そこにある、政治の美しさ、醜さを、イルバはよく知っている。思惑が複雑に絡み合う政の世界の中で、そこからはずれた人間を見つけ出すことが、ひどく難儀なことであることも。
 それにしても。
 この左僕射のいい方は、遠まわしに、この国の内政が非常に厄介であることを、告げてはいないか。
 そしてイルバの前歴を公開すると、言ってはいまいか。
 そしてこの男が望む皇帝の話し相手とは、皇帝の愚痴を聞くということで。
 それが意味するところは、つまり。
「うっかりすると、俺はこの国の内政に足突っ込んじまうっつぅことじゃねぇのか……?」
「あれ、気付いてしまったんですか? でも話し相手はもう決定事項ですから」
「オイ! 何、人の意向無視してるんだっつかお前お望みでしたらっていったよな!? 望んでねぇ俺は!!」
 思わず立ち上がったイルバは、声を極力押し殺しながら叫んだ。
「いらんこといろいろ聞いちまって気付いちまったら、俺この国から出られねぇじゃねぇか!」
 内政に足を踏み込むということはつまりそういうことだ。政治家には守秘義務がある。政治の深くに足を入れると、あまり国から出したがらない。
「あはは、ヤですね」
 軽快な笑いを浮かべて、エイが言う。
「気付かなければいいだけの話です」
 さらりとした言葉の中に、逃がさないという意志が込められていた。
「いい人材は見逃すな、が座右の銘だと申し上げたではないですか」
 都合のいい人材は逃がさない、の間違いではないだろうか。
 イルバはこめかみを押さえ項垂れると、力なく声を絞り出した。
「なんつぅ嫌な国だ……」


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