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第二十章 贖罪の終焉 1


 招力石を使って戻る旨だけを水の帝国に告げ、詳細は早馬で出した。その馬を追うようにして、馬車で出発したはいいものの、道程は決して平穏とはいえなかった。理由は一つ。まるで行く先を阻むような、悪天候である。
「ひどい雨だ」
 最高速度で大地を駆ける馬車の中から外を見つめて、ジンは呟いた。ダッシリナを出立するときからあまり天候はよいものといえなかったが、頓に荒れ始めたのは故郷の領内に入ってからだった。以後、絶え間なく大地と馬車の天蓋を叩く大粒の雨は、道を汚泥へと変え続けている。増水した川を横目に、ぬかるむ道を進んで、幾日経っただろう。
 ダッシリナの盟主から借り受けた馬は屈強なものだったが、この天候で疲弊も激しく、すでに途中で買い換えている。灰色の飛沫が幾度も窓を汚す。泥に車輪を取られるのか、車体は上下左右に大きく揺れ続けていた。
「閣下、大丈夫ですか?」
 壁に手を突っ張り、体を支えながらウルが問うてくる。シファカの身体を抱え直しながら、ジンは頷いた。
「大丈夫。……ひどいね。この雨は」
「こんなに降るなど久方ぶりです。シファカ様の具合が悪くならなければよいのですが」
「そういう感覚は麻痺してるだろうから、大丈夫とは思うんだけど……」
 ジンは改めて、腕の中のシファカを見下ろす。毛布にくるまれているシファカは、一見眠っているだけにしか見えない。しかし毛布の中で手足は拘束されているし、触れればその肌は氷のような温度を宿す。顔は土気色に青ざめたまま。
 その顔がぐらりと二重にぶれて見え、ジンは眉間を押さえた。
「大丈夫ですか?」
「あーうん……ウル、気付け頂戴」
「またですか?」
 ウルは不服そうにジンの顔を覗きこみ、嘆息して、懐の包みから二、三粒、茶けた錠剤を取り出した。彼はそれをジンの手のひらの上にそっと載せる。錠剤の感触を確認して即座、ジンはそれを口に運んだ。舌先を焼くような苦さに、視界が明瞭になる。
「効かなくなってきたね」
 錠剤が下っていく感触を喉に覚えながら、ジンは呟いた。
「飲みすぎですよ」
 ジンを睨めつけるようにして、ウルがすかさず咎める。
「宮城に着いたら、閣下も薬抜いてください。いくら微量だからといっても、水煙草、看病の間に吸ってたことには変わりないんですから」
「ウルもね」
「私は貴方様よりもましですよ。……だから時折外の空気を吸うようにと申し上げていましたのに」
 これ見よがしに盛大な嘆息を零し、ウルが呻く。ジンは苦笑して、シファカを見下ろした。
 シファカは、本当によく眠っている。実際、この旅の最中、彼女はさして暴れることもなく眠り続けていた。定期的に投与される薬がよく効いているのか、それとも狭い馬車の中では、炊かれる水煙草の濃度がダッシリナの宮廷にいたときよりも濃いのか、そのどちらであるのかは判らない。ただジンとしても、気付け薬を服用する間隔が徐々に短くなってきているし、同じ馬車の中に同席しつづけるウルも、空気を吸いに外に出る回数が増えている。
「本当に、ひどい雨ですねぇ」
 ウルが呻いた。
 窓の外を一瞥して低く呻いたウルに、窓際に頭を寄せながら、ジンは応じた。
「歓迎されてないって、ことだと思うよ」
 天候に歓迎はされていなくとも、都は目前だった。
 馬車の窓から覗く雨の向こうの稜線に、見覚えがある。
 雨に煙る景色は、確かによく見知ったものだった。もう、二度と見ることはないと思っていた。もう二度と足を踏み入れることはないと思っていた。
 緑の濃い、故郷の風景。
「もう都の領内ですね」
 ウルが窓の外を眺めながら言う。窓枠に頬杖をつき、空いている手で膝の上のシファカの頭を撫でながら、ジンは頷いた。
「そうだね」
 この辺りまで来ると、もう一瞥しただけで地図のどの辺りだか認識できる。子供の頃から慣れ親しんだ土地だ。
「ウル」
「はい、何でしょう?」
 この旅もあと少しということで、急くように窓際に張り付いているウルは、ジンの呼びかけに反応して即座面を上げる。ジンはシファカの頭を撫でる手を止めて、言葉を続けた。
「俺さ、シファカに何も、話、してないんだ」
「……話、ですか?」
「うん」
 髪に指を差し入れる。黒髪は指の狭間から、さらさらと零れ落ちていく。
「俺の素性とか、そういうの」
「……あぁ、そういえば、何も知らないとおっしゃっていましたね。水の帝国の出身であるということしか、知らない、と」
「シファカが?」
「えぇ」
 ジンの問いに頷いたウルは、過去を思い返しているのか顎に手を当て、軽く考える素振りを見せた。
「閣下の素性を、知りたがっていらっしゃったようでした。何も話してくださらないと、少し……こういってはなんですが、寂しそうでしたね」
「うん」
「……閣下?」
 こちらの反応に怪訝そうに眉をひそめ、ウルが身を乗り出してくる。ジンは笑い、目を伏せて応じた。
「シファカがずっと、俺が、俺のことを話すその日を待っているのは知ってた」
 知っていた。
 いつから待っていたのかは判らない。最初からかもしれない。どこから来たのか、何故旅をしているのか、何故帰れないのか。寂しそうに微笑みながら、彼女はジンが自ら全てを語る日を待っていた。
「けれど、話せなかった」
 全てを打ち明けることが怖かった。怖くて怖くて、たまらなかった。
 軽蔑されるのではないかと。
 呪いに引きずられて生きた自分を、軽蔑されるのではないかと。
 怖くて、怖くて。
 片手で、顔を覆いながらジンは呻く。
「話していたら、きちんと向き合っていたら、こんなことには、ならなかったんだろうか」
 シファカをこんな風に失いかけて。
 決別したラルトの元に、助けを願う。
 そんなふうに、ならずに、済んだのだろうか。
 自分の存在はラルトの古傷を抉るだろう。それを承知で、シファカを助けて欲しいがために、彼に今から会いに行く。
 距離が縮まるたびに。
 怖くて、たまらなくなる。
 ラルトは自分を拒絶するのではないか。そうして、シファカも助からないのではないだろうか。これ以上喪失を重ねることに、自分はおそらく耐えられない――……。
「不謹慎と思われるかもしれませんが、私は貴方に再び会えて、とてもうれしく思っております、閣下」
 子供にでも囁きかけるような穏やかな声音で、ウルは言った。
「もし閣下がシファカ様と、閣下の言うようにきちんと向かい合い、そしてどこかで幸せに暮らしていくことができていたというのなら、それはそれで喜ばしいことだとは思います。けれど、私としてはやはりこの国で生きて幸せになってほしい。シファカ様とすれ違われた結果、皮肉にも貴方は今この大地を踏みしめていらっしゃる。……その事実だけを言うのなら、私はとてもうれしく思うのです」
「ウル」
「陛下は決して貴方を拒絶することはないでしょう。そしてシファカ様もきっと、もとのシファカ様に戻られますよ」
「……どうしてそんな風に信じることができるのさ?」
 ウルはジンに言い聞かせるように幾度となく繰り返す。大丈夫だと。
 けれどその確信は、一体どこから来ているのだろう。
 ウルは微笑む。
「だって、私たちの国は、信じ続けた結果、とうとう永遠の呪いから解き放たれた国なのですよ、閣下」
 裏切りの帝国。
 裏切りの呪い。
 いつまでもいつまでも、皇帝と、それに連なるものたちを蝕み続けていた呪い。
「陛下の下にたくさんの人が集まり、この国に少しずつ笑いが満たされ、呪いから解放されたと、人々が口にするようになったとき、私は決めたのです」
 昔、死に掛けていたウルをこの国に引き入れたとき、彼は死んだ魚のような目をしていた。奇跡など到底信じない。ただ<網>を通じてもたらされる情報を根拠とした、理由だけが彼の判断基準だった。暗く冷徹で、合理的だった。
「ほんの僅かな可能性があるのなら、無条件にそれを信じてみようと、私は今、思っているのです」
 そういって微笑む彼は自分がいない間、この国でどんな人々と出逢い、どんな時間を過ごしたのか。
 自分たちの国が、かつて幼い頃に望んだ通りのものに向かって着実に歩いている。そのことに気付かされる。
「ですから、大丈夫です」
 きっと、全て、上手くいく。
 かつて生きることに絶望していた男が、そんな楽観的、無責任ともいえそうなほどの観測的希望を口にするのを見て、ジンは目を伏せた。
 そうこうするうちに、雨に長く行く手を阻まれていた馬車は、とうとう都の検問に、到着していた。


 ティアレの肌に奇妙な紋様が現れて数日。熱は、一向に引く様子を見せない。ティアレは浅い呼吸を繰り返し、硬く目を閉じている。肌の上に浮かび上がる紋様は彼女の呼吸に合わせるように、明滅を繰り返していた。手を取る。汗ばんだ指先を、握る。そして嘆息しながら、ラルトは膝の上に載せていた盆を、傍の円卓に置いた。盆の上には、眠るティアレに与える流動食がある。水にも似た甘く透明な液体を、吸飲みを使って飲ませてやるのだ。意識はないが、この食事とも呼べぬようなものだけは、どうにかティアレも飲み干してくれる。
「陛下」
 盆の上を、片付けやすいように軽く整理していると、声が掛かる。振り返ると、リョシュンが部屋に足を踏み入れてきたところだった。彼の背後には彼の副官である女医が控えている。
 ティアレの傍らをリョシュンに譲るべく、ラルトは黙って立ち上がる。しかしリョシュンは静かに頭を振り、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「どうか、そのままで。……妃殿下の容態はいかがですかな?」
「変わらないよ。……相変わらず熱が高い」
 ラルトが仕事を持ち込んでこちらにやってきたのは一刻ほど前。そのときにもリョシュンがティアレに薬を与える瞬間に立ち会った。しかしティアレの容態の変化は僅かに熱が下がったことが認識できる程度で、吐息は熱っぽく、手も額も汗ばんだままだ。額に濡らした手ぬぐいを宛がってやっても、すぐに温かくなって取り替えなければならない。
「リョシュン、ティアレは助かるのか?」
 椅子に再度腰掛けながら、ラルトはリョシュンに尋ねた。
 下腹部からの出血は倒れたときの一度だけですぐに止まったし、発熱を除けば容態は安定しているようにも見える。しかし肌の上を覆う魔術紋様は相変わらず不気味だったし、ティアレは昏睡から目覚める気配がない。
 リョシュンの顔が、険しく曇る。
「私はなんとも申し上げることは出来ません、陛下」
 力なく目を伏せて、リョシュンは告げた。
「妃殿下の容態は、魔術によるものだと思われます。しかし一体どんな魔術をかけられているのか、調べようがないのです」
「妃殿下に刻まれている紋や、周囲を覆う構成を見る限り、かなり高度な術式と思われます」
 リョシュンに続いて口を挟んだのは、彼の副官だった。
「残念ですが陛下、今現在この国に、この魔術を解呪できるものは一人もおりません」
「……そうか」
 この国には、魔術師が少ない。否、今世界には、魔術師が少ない。
 魔術国家であった、魔の公国メイゼンブルが滅びて以後、まだほんの十数年しかたっていないというのに、魔術は急速に廃れてしまっている。急ぎで解呪士を探させてはいるが、間に合うまい。
「一つよろしいでしょうか、陛下?」
 女医が、躊躇いがちに許可を求めてくる。ラルトは頷いた。
「あぁ」
「これは……私の個人の見解なのですが、妃殿下にかかる術は、そう悪くはない術のように思えるのです」
「悪くない術? 現にティアレがこのようになっているのに?」
 こんな風に、苦しんで、今にも息絶えそうだというのに。
 ラルトの問いに、女医は神妙に頷いた。
「はい。……大抵よからぬ術というものは、禍々しい気を纏っているものですが……この術は、そういったものが一切見られないのです」
「……かといって、放っておいていいわけではあるまい」
 ティアレにかけられたこの術が、一体どういう類のものであるか確信が持てぬ以上、安心は出来ない。
 別段、悪意があって反論したわけではないが、気が立っているせいか、口調に刺々しさがでてしまっていたらしい。女医は申し訳なさそうに小さく黙礼をし、その場から一歩引き下がった。
「陛下のおっしゃる通りでございます。しかし魔術的には何も打つ手がない以上、私たちに出来ることは、ただティアレ様の体調が少しでもよくなるように、通常通りの看病を行っていくしかありません」
「通常通りの看病をして、どうにかなるものなのか?」
 魔術が原因でティアレがこのような状態に陥っているというのなら、通常の看病をしたとして何か変わりがあるのだろうか。
「人の身体は、魔術だけではないですが、他の干渉を受け付けないようにしようという働きがあります。恒常性を維持する、と私たちは呼びます」
 ラルトの問いに大きく頷いて、リョシュンは説明を始めた。
「自然治癒の力も、この一環。内在魔力が高ければ高いほど、この力も強くなっていくのですが……もう一つ、重要な要素が、その方の体力となってきます」
 そういって、リョシュンはティアレに視線を移した。頬を熱から赤く染め、浅い呼吸を繰り返すティアレは、見るからに息苦しそうである。ラルトはその額においていた手ぬぐいを取り上げて、盥の中の水に浸した。つい先ほど換えたばかりの手ぬぐいは、ティアレの額の温度を吸い取って、すでに熱くなっていた。
「体力があればあるほど、魔術をかけられても跳ね返す力が強くなる。もともと妃殿下は内在魔力がとても高くていらっしゃる。体力さえあれば、魔術を跳ね返して回復することも容易でしょう」
「その体力を回復させるのが、看病だっていうことか?」
「馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれませんが、私たち医者にできることなどほんの僅かです、陛下」
 何も出来ぬことが心底歯がゆいといわんばかりに、渋面になってリョシュンは言う。
「今の私たちに出来ることなど、結局は、解熱の為の薬を処方し、体力の付けられる食事を指示し……その程度しか、ないのだと思います」
 それからリョシュン達はまた下腹部から出血があるようなら呼んで欲しいということ、そしてお腹の赤子はまだ流れてはいないものの、この状態が続けばそのようになるだろうといった旨を述べて退室していった。ラルトには出来る限りティアレの傍についていて欲しいということも。それがティアレの為になるのだということをリョシュンは口にしたが、結局はいつなんとき、ティアレがどうにかなってしまっても、おかしくはないという危機感を言外に匂わせていた。
 誰もいなくなった部屋で、ティアレの手を再び取る。熱にひび割れた女の唇から、苦しそうな吐息が漏れている。
 ようやく、この腕の中に、取り戻したと思ったら、これだ。
 また、失いかける。
 ティアレの指先に口付けて、その手に己の額を押し当てる。細い指先はか細く、じっとりと汗ばんで、今にもぐずぐずに溶けてしまいそうなほどに熱を持っていた。
「どうして、こんな風に失いかけるまで、大事にできないんだろう」
 硬く目を閉じて、ラルトは独りごちた。
 どうして、いつも傍にいてやれないんだろう。
 どうして、いつも大事にしてやれないんだろう。
 すれ違って、離れていた時間が今はとても憎い。
 こんな風に失いかけてから、自分がどれほど相手を当たり前のものとして認識し、当たり前が故に蔑ろにし続けてきたかわかるのだ。
 ジンのときもそうだった。
 あの、美しい花弁舞う、暖かな春の日に。
 その背を見送った瞬間に。
 どれほど自分が彼に愛され、だというのに自分は彼を蔑ろにし続けてきたかわかったのだ。彼の存在を当然のものとして受け止めすぎていたということが判るのだ。
 誰かが自分の傍にいるということ自体、奇跡めいているのに。
 ティアレの手を、強く握り締めて思う。
 もっと、体調が悪いと臥せっているときも、傍にいてやればよかった。もっと、彼女の話を真剣に聞いてやればよかった。もっと、気遣ってやれたらよかった。彼女の苦しみに、きちんと耳を傾けるべきだった。
 そういった後悔も、彼女が失われては、無意味になる。
 ティアレに魔術をかけたのは十中八九、ラヴィだろう。崖から落ちたというのに、何故か死んだものとは思えない。だが、おそらく彼が自分の前に姿を現すことはあるまい。彼は探すだけ無意味だ。ティアレの身に施された魔術の意味を問うことすらできない。
 無力感に襲われて、歯噛みする。ティアレの手を強く握り締め、そして、放した。
 ここで項垂れていても、仕方がない。せめてこの場に少しでも長くいられるように、持ち込んだ仕事の処理だけはしてしまわなければ。
 卓の上に放置されていた書類に気だるい指先を伸ばしかけ――そこでふと、ゆっくりと近づいてくる足音を耳にしてラルトは面を上げた。
「……シノ?」
 こつり、と靴音をたて、戸口に立ったのはシノである。しかしシノはラルトの呼びかけにも応じず、顔を強張らせたままだった。ティアレがこの状況である。シノの表情もわからないではなかったが、それにしても彼女の表情は今にも泣き出しそうなほど張り詰めている。何かあったのかと腰を浮かしかけたラルトに、彼女は手に握っていた白い紙片を差し出した。
「……シノ、どうした? 何だ、これは……」
 シノは答えない。ただ白い紙片を突き出して、ラルトが受け取るときを待っている。
 シノは気丈な女だ。ラルトは未だかつて、彼女が泣く姿を見たことがない。彼女の婚約者やレイヤーナが死んだときですら、歯を食いしばって震える指で冷静に女官たちに指示を下していた。その彼女が、唇を引き結び、張り詰めた表情でラルトを見返している。肌は青ざめて透明なのに、興奮しているのか頬だけは紅潮していた。
「陛下……」
 僅かに動いた唇から、掠れた声が漏れる。訴えかけるような呼びかけに怪訝さを覚えながら、ラルトはシノに歩み寄り、その紙片を受け取った。
 紙片と思っていたそれは、折り畳まれた手紙だった。湿気を吸ったのか、かなりふやけている。端と端が張り付いているそれを、ラルトは苦心して広げた。
 墨の滲んだ文字を目で追いながら、シノの震えた声を聞く。
「……今、早馬が」
 気だるさからぼんやりと文字に視線を落としていたラルトは、徐々に意識が冴えていくのを自覚した。紙を破れんばかりに握り締め、シノを見返す。シノはラルトの向こうを透かし見たまま、唇を震わせた。
「雨で、足止めされたそうです。もしかすると……馬車のほうが、追いついて……もう、すでに」
 熱に浮かされたような彼女の呟きはうわ言めいている。ラルトは紙を握りつぶし、一度ティアレを振り返った。
 ティアレは変わらず、眠り続けている。
「馬に乗ってきた奴はどこにいる?」
「カンウ様の元に。……迎賓の椿の間を使っておいでです」
「お前はティアレについていろ」
「はい」
 ラルトは足を強く踏み出し、頭を垂れるシノを横切った。初めはゆっくりとしていた足取りも、次第に早まり早足となる。気持ちが急いて、心の臓が大きく音を立てていた。
 衣服の裾を絡げ、ラルトはこの手紙の真否を問うために、横殴りの雨に晒される回廊を衣服が濡れるのもかまわずに駆けぬける。
 手紙には、宰相がこの国に戻る旨が、簡潔に記されていた。


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