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第十九章 呵責 3


「あぁ……とうとう降り出したな」
 彼は嘆息しながら、空を仰いだ。まるで礫のような大きな雨粒が、天から絶え間なく降り注ぐ。その雨の中を悠然と闊歩した彼は、崖のふもとにある洞穴の中に足を踏み入れた。
「将軍!」
 洞穴の中心では、一人の少女が座している。彼女は入ってきた彼の姿を認めるなり、驚きに目を剥き、呆れの眼差しを寄越してきた。
「まぁ、雨にそのように濡れられて! お風邪を召しても私は知りませんから!」
 自分は風邪など引かぬと、何度言えば判るのか。しかし少女のそういった扱いに、不快感を覚えたことは一度もない。逆に、常人と違うものとして気を遣われることのない気楽さが、そこにはある。
 彼は微笑んで、少女に歩み寄った。
「大丈夫だって。それよりも……始めるのか?」
「えぇ」
 少女は頷いた。
「どうやらお目覚めになられたようですので」
 滅びの魔女が。
 本当ならばハルマ・トルマの中で行いたかった儀式だ。そのほうが魔女にも、そして術者である少女にも負担はかからなかっただろう。しかし肝心の魔女の衰弱が激しく、回復するのを待っていたら、結局儀式の下準備だけで魔女とは別れることになってしまった。
 しかもその下準備ですら中途半端なままに終わってしまったのだという。遠隔の陣をあらかじめ敷いておいて、良かったとは思う。ただ遠隔地で行うとなると、魔女が目覚めていないと儀式を始めることができないということが難点だった。しかし少女はこんなこともあろうかと、あらかじめ魔女の体調を把握する術式をかけていたというから、さすがだ。
 洞穴一杯に、魔術の陣が赤黒い墨で描かれている。少女はちょうどその中心に佇んで、足元に置かれた紙で作られた人型を見下ろしていた。
「将軍、それ以上立ち入らないでくださいね。陣が雨水で滲んだら、取り返しの付かないことになりますので」
「あぁ……そっか。気をつける」
 陣の奥に足を踏み入れかけた彼は、少女の注意勧告に従って立ち止まった。確かに自分はひどい濡れ方をしている。彼の歩んだ道をたどるように、小さな水溜りができるほどに。
 洞穴の壁際に適当な場所を見つけ、腰を下ろす。魔術で身体を乾かしながら、少女が呪を唱える様を見守った。
 少女特有の高い声は洞穴の中によく響く。それに呼応するように、描かれた陣から、気泡のような金色の光が吐き出された。やがてそれは一つに集まり、大きな流れとなって洞穴を覆いつくす。時折、それらは少女の声に反応してか、まるで小麦畑が風になびいたときのように大きくうねった。
「さぁ、耐えて見せろよ滅びの魔女」
 彼は光と、それに埋もれる少女を見つめながら、深い笑みに口元を歪めた。


 暖かな、腕の中。
 ようやっと帰ってきたという実感をもって頬を寄せ、ラルトの衣服にすがり付いていたティアレは、ふと、大きく跳ねた己の心臓に目を見開いた。
 初めは、気のせいかと思った。
 しかし徐々に鼓動の音が耳に付くようになる。頭の中で反響する、血流の音。
 刹那、猛烈な腹痛がティアレを襲った。
「ティアレ?」
 顔を覗きこんできたラルトを突き飛ばすようにして、ティアレはその場に膝をついた。胸の辺りの衣服を握り締め、身体をへし折る。
「ティアレ!? どうした!?」
 ラルトが傍らに膝を付いて声を荒げる。しかし彼の問いに、ティアレは答えてやることができなかった。喉が張り付いて、声が出ない。空気の抜けるような音だけが、半開きの唇から漏れ出でる。霞がかった視界をどうにか明瞭にしようと瞬きを繰り返した矢先、どうにか焦点のあった己の手を見て、ティアレは驚愕した。
 己の身を支えるために床についた手の甲に、今まで確かに存在していなかったはずの紋様が浮き出ている。
 赤黒い、紋様。
 それは魔力を帯びて、淡く発光、明滅する。震えながら両手を光に翳し見ると、左右どちらの手の甲にも、まるででたらめに絵筆を走らせたかのような紋様が描かれていた。手の甲だけではない。腕、胸元、首――衣服に覆われていない部位全てに突如紋様が現れ、発光を始めている。
「なんだこれは……!?!?」
 ティアレの手を取りながら、ラルトが叫ぶ。その声色は驚愕と困惑に震えていた。
 それはそうだろう。つい先ほどまで、このような紋様は身体のどこにも見当たらなかった。しかし今、その紋様はまるでティアレの肌を侵食するかのように埋め尽くしている。この分だと、衣服の下も似たような状態に違いない。
 身体の全てを覆いつくした紋様は、心臓が跳ねるたびに肌を突き破るように浮かび上がって見える。きりきりと引き絞られるような痛みを腹部に感じ、床の上に身を伏せたとき、ティアレは遠いどこかから響く、歌うような声を聞いた。
 少女の、声。
(ヤ、ヨイ……?)
 あの、ハルマ・トルマで別れた少女の声。
 鈴のようなその声は、まるで輪唱のように鳴り響き、ティアレの脳裏を侵食していく。
「ティアレ!!!」
 やがて少女の声は、そのラルトの悲鳴じみた叫びを最後に、ふつりと途絶えた。


「いっ、痛い!」
「我慢しなさい!」
 ずるずると引きずられるようにして廊下を歩く。ある程度出入りに規制のかかるこの一帯に人通りは少なく、自分とエイの足音、そして声だけが反響していた。しかしそれも、雨の音にすぐに吸収されてしまっている。執務棟と本殿を繋ぐ渡り廊下は、つい先ほど振り出した激しい雨によってその床を濡らしている。雫のかからぬ本殿の中に足を踏み入れたところで、エイはようやく立ち止まった。
「エイ……」
 ヒノトに向き直ったエイの顔色には、まだ先ほどの怒りの名残がある。口元を横に引き結び、無言のままヒノトを見下ろすエイには、ある種の迫力があった。彼は基本温和で、相手に侮られることのほうが多いが、若年にしてこの位に就いていることは伊達ではない。時折相手をひやりとさせる覇気を纏う。
 エイはヒノトをそうやってしばらく睨みつけていたが、ふと大きく嘆息を零した。腰に手を当てたまま、表情を和らげ――しかし眼差しは、呆れたままだった。
「まったく、一体何を考えているんですか?」
 低く唸るように、彼は言った。
「勝手にこの区域に入ってくることもそうですが、陛下の処罰について、どうこう口を出すべきではありません。びっくりしましたよ」
「……ごめんなさい」
「いいですか? 何故貴方がそのようなことをしようと思ったか判りませんが、ティアレ様のことについて貴方が余計な責任を感じることはやめなさい。私たちはただ、下される処分を黙って受ければいい」
「じゃが、エイ、妾がティアレを引っ張りださねば、こんな事態になることはなかったのじゃろう?」
「ですがあの時、ティアレ様の心を守るためには、そうしなければならないと、貴方は切羽詰って判断したわけでしょう? ねば、とか、たら、とか、もう過去を仮定しても仕方のないことです。過ぎたことなのですから」
 あっさりとそう言って、エイは肩をすくめる。ヒノトは唖然としながら、まったく焦燥の見られない彼の顔を見上げた。
「……なんで、そう、さっぱりとした顔をしてられるのじゃ? だって、処分によっては、おんし今の地位を剥奪されるのかもしれんし、命をとられるかもしれんし」
「別に私は今の地位に執着しているわけではありません。陛下の、強いていえば、この国の役に立てればいいわけで、その方法は別に今の地位でなくともたくさんあります。命をとられることはないとは思います。陛下は死ぬぐらいなら生きて役立てが信条ですので。それでも死ぬことになったらそれはそれで仕方がないですけれどもね。ただ――……」
 エイはそこで何かを思案するように一度言葉を区切る。長引きそうな沈黙に、ヒノトは思わず鸚鵡返しに問い返した。
「ただ?」
 エイが、ふっと微笑する。
「ただ、私がどうにかなってしまったら、貴方にきちんとした勉強をさせてあげられるかわからないのが、心苦しいですが」
(……馬鹿じゃ、こいつ)
 泣きたく、なった。
 泣きたくなった。初めて出逢ったときから変わらぬ、お人よしの優しい微笑に。
 その胸に、額を押し付ける。彼の衣服の裾を握り締めて、下唇をかみ締める。
 何故、この期に及んで。
 こちらのことなど、案じているのだろう。この男は。
 もっと、自分の地位とか、立場とか、そういうものを案じていればいいのに。
「勉強なぞ、どこでだってできるわ。阿呆が」
 ヒノトが呻くと、エイは苦笑した。
 その男の指先が、ふと頬に触れる。男の温かい指先が頬に触れるなど、未だかつてないことだ。驚きに跳ねる心臓に呼応するように、ヒノトは面を上げた。溶けるように優しい笑みが、そこにある。
「すみません……痛かったですね」
 一体何のことかと、首を捻りかけ、ヒノトはようやっと彼がヒノトの頬に平手を食らわしたことを指し示しているのだと理解した。興奮していた為、さほど気にはしていなかったが、改めて自覚すると頬がひりついてくる。気恥ずかしさも相俟って、ヒノトは早口でまくし立てた。
「本当じゃよ。女に手を上げるなど最低じゃ!」
「まったくです……自分でも自分が信じられませんよ」
 エイはヒノトの言葉を否定することもなく肩を落とす。ややおいて、彼は弁明した。
「だって、貴方、私の分まで全て責任を引き受けようとしたでしょう」
 そういうのはよしてくださいよと、嘆息して彼は言う。
「そういう考えを持たれるのが我慢ならなかったのです。そんなに自分の存在を、軽んじないでください」
「エイ」
「貴方を失うということを、考えたくはないですからね。もう少し自分を大事にしてください。私を守るためとかそういうことを考えられても、私はこれぽっちも嬉しくはない」
 温かい指の腹が、頬を撫ぜる。
 何か、言い返したいのに、その指があまりにも優しくて、言うべき言葉を何も思いつかない。
 唇を動かしかけたが、結局は赤らんでいく顔を隠すために俯くしかなかった。額を再び彼の胸に押し付けて、唇を引き結ぶ。優男だのなんだのといわれているけれど、衣服越しに感じる体は男のものだ。
 その身体と腕が、労わるようにヒノトの体を包み込む。その温かさに泣きたくなって、縋りついた、その刹那。
「エイっ……!!!!」
 悲鳴じみた男の声が、エイの背後から雨音を割って轟いた。
「陛下!?!?」
 ヒノトの身体を離し、ぎょっと目を剥きながらエイが振り返る。そのエイの肩越しに、渡りからこちらに駆け込んできた皇帝の姿をヒノトは認識した。執務室で顔を合わせたときと異なって、ラルトの顔色は紙の色よりも蒼白だった。彼は普段、滅多にそのように狼狽することはないのに。
「ヒノト! 来てくれ!! ティアレが……!!!」
 常軌を逸したラルトの声色に尋常でないものを感じ取って、ヒノトは思わず駆け出した。エイとラルトの傍をすり抜け、元来た道を駆け抜ける。開け放たれたままの扉から執務室に飛び込むと、床に崩れ落ちたままの女がいた。
「ティアレ!?」
 腹部を抱えたまま床に崩れ落ちている女は、無論、ティアレだ。彼女のその顔色は蒼白を通り越し、まるで死人のような土気色である。だがそれ以上にヒノトを驚愕させたのは、彼女の肌という肌をびっしり覆い尽くす奇妙な紋様だった。縦横無尽にティアレの肌に走る赤黒い紋様は、僅かに発光し、ティアレの呼吸に合わせるように明滅している。その光景は、まるで蟲が這い回っているかのような嫌悪感を催させた。
 眉間には、深い皺。額には、玉の汗。唇は薄紫に変色してしまっている。
「これは……!!!」
 ラルトに連れて来られたエイが、執務室の入り口で立ち尽くす。ヒノトはすかさず、彼に叫んだ。
「エイ! リョシュンを呼べ!!」
 ヒノトの掛け声に頷き、エイがすぐさま踵を返す。彼と入れ替わりに茶道具を持って現れたシノが、状況を見るなり血の気を引かせてその場に立ち竦んだ。
「ティアレさま……!?」
 状況を判断しようと駆け寄ってくる彼女に、ヒノトは即座叫んだ。
「シノ、湯じゃ。湯と、部屋を! それから着替えの衣服と、手ぬぐいもじゃ! 奥の離宮の女官を集めろ! 早く……!!」
「は、はい!!」
 シノはヒノトの叫びに素早く反応し、衣服の裾を絡げて踵を返す。彼女の慌しい靴音と入れ替わりに執務室に足を踏み入れてきたラルトは青ざめたままであったが、先ほどのような狼狽は見受けられなかった。
 ティアレの手を握りながら、彼はヒノトに尋ねてくる。
「これは、一体……どういう状態だ?」
「わからぬ……」
 ヒノトは力なく首を横に振った。わからない。これは、医師の領域ではない。
 このような奇妙な紋様が突如肌に浮かび上がるなど、病ではありえない。
 これは、魔術だ。
「ひとまず、ティアレをどこか安静になれる場所に」
「この上が仮眠の部屋になっている。俺が運ぼう」
 そういって彼はヒノトからティアレを引き取り、その首の後ろに腕を差し入れる。ティアレはどうやら完璧に意識を失ってしまっているらしい。ラルトが立ち上がると同時、彼女の首や手足がだらりと垂れ下がった。
 ぽたりと雫が零れる。
(何の……?)
 雫か、と、訝りながら、床に零れ落ちた水滴に視線を投げる。そしてヒノトは、息を詰めた。
「ラルト……!」
 思わず皇帝を呼び止めて、床を指差す。ラルトは怪訝そうに指し示された先に視線を移し、そして凍てついたように動きを止めた。
 床の上に零れている水滴は、鮮やかな紅の色をしている。
 それは、ティアレの太腿を伝い、点々と、床の上に零れ落ちたものだった。
 その血痕が示す事態は一つだ。
 出血、している。
「ラルト、一度ティアレを下ろしてくれんか?」
 こちらに言われるまま、ラルトは無言でティアレを床に置く。いつも冷静な皇帝にらしくなく、その指先はひどく震えていた。
(おちつけ……)
 ヒノトもまた負けず劣らず震えていることを自覚せざるをえなかった。硬く目を閉じ、幾度か深呼吸を繰り返して息を整える。再び目を開き、震える手でティアレの衣服の裾を捲り上げた。
 白い足を、赤い筋が汚している。
 出血の箇所を、確認するまでもない。
 流産。
 ラルトと視線を交わし、この出血の意味するところを無言のまま確認しあったヒノトは、まだ確定したわけではないと思いながらも、愕然とその場に立ち尽くしたのだった。


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