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第十九章 呵責 2


 軽い、扉を叩く音。
 雪崩が起きるのではないかというほどに机の上を埋めていた書類を、うんざりしながら捌いていたラルトは、頬杖をついたまま視線を上げた。誰何の声を上げる前に扉が開かれ、よく見知った顔が現れる。
「シノ」
 シノは、ラルトの呼びかけに応じ、丁寧に一礼した。しかしその表情はどこか強張り、いつもの柔和なそれとは一線を画して見える。普段とは異なる彼女の表情に、ラルトは眉をひそめて彼女に向き直った。
 深く頭を下げていたシノは、数拍おいてゆっくりと面を起こす。
「失礼いたします陛下。少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
「あぁ……かまわない」
 書類に裁可の判を押していくことにも飽き飽きしてきたところである。それに彼女の神妙な表情も気になった。
 ラルトと目を合わせたシノは微笑み、そしてその場を、扉の影に隠れていた人物に譲った。
 驚愕に、ラルトは思わず立ち上がる。
 そして呼んだ。
「てぃ、あれ……?」
 呼びかけに応じてティアレは微笑む。
 そして彼女は衣服の裾を取り、深く礼を取った。


 ただ、ラルトに会いたいだけならば。
 ティアレがわざわざラルトに会いに行くことはないだろう。ティアレはラルトの手を煩わせないように、自ら赴くと主張するだろう。しかし他の女官ならばいざ知らず、シノならばティアレをたしなめ、ラルトを平然と呼びつける。短時間だけならばラルトもそれに応じるはずだ。
 ティアレが、ラルトの元に赴いた理由は、決してラルトに会いたいからなどではないと、ヒノトは思う。会いたいという感情に任せてすぐに会いにいけるような女なら、ティアレはここまで苦しまなかったはずだ。会いたいという言葉すら、傍にいてほしいという言葉すら、口に出すことのできなかった女なのだから。だからこれほどまでに歪んで、すれ違った。
 ならば何故、ティアレはシノを伴って執務中のラルトの元に赴いたのか。
 ヒノトは下唇をかみ締めて廊下を駆け抜けた。途中すれ違った女官や文官たちが、驚きに瞠目する姿が視界の端をよぎる。
「ヒノトさま!?」
 誰かが、静止の声をかける。
 けれどそれら全てを振り切って、ヒノトは訪れたことなど皆無に等しいラルトの執務室へと急いでいた。


「ティアレ? 何故、ここに……」
 混乱する頭を振りながら、ラルトは状況の整理に努めた。ハルマ・トルマから移動し、この宮城に戻ってからも、ティアレは夢うつつの狭間を行き来して、今日も朝から目を覚まさなかった。幾度か会話も交わしたが、彼女はあまり覚えていないだろう。
「体調はどうなんだ?」
 元々身体がさほど強くない上に妊娠、しかも誘拐されてあちこち連れ回されたに違いない。あまり粗末な扱いは受けていなかったようだが、ティアレが幾日も眠りの世界に落ちていたのは、仕方がないことだと思う。
 覚醒してすぐ、このような場所まで足を運ばずとも、よかったものを。
「大丈夫です」
 ティアレは気丈に微笑み、そしてシノを返り見た。
「席を外して下さい、シノ」
「ティアレ様?」
「お願いです。ラルトと二人だけで、話がしたい」
 ティアレの口調は穏やかだが決然としていて、そこに否という言葉を挟むことは難しいように思えた。シノはやがてティアレから視線を外し、こちらに救いを求めてくる。ラルトはティアレとシノの顔を見比べ逡巡したが、結局はティアレの意向に従うことにした。
「大丈夫だシノ。……喉が渇いた。何か飲み物を用意してくれないか?」
 茶道具程度ならば執務室にもある。わざわざシノに言いつけなくてもよいことだった。しかし役目でも与えてやらなければ、シノはこの場から離れないだろう。
 シノはぎこちなく微笑み、深く一礼してその場を辞去した。その背を見送ったティアレが扉を閉める。ちりりと揺れる招力石を見つめたラルトは、ティアレに向き直った。
「椅子を出そう。疲れるだろう」
 ジンの机の傍から使われていない椅子を引き出そうと、ラルトは立ち上がった。しかしつい先ほど病床にあったなどと微塵も匂わせずにしっかりと佇むティアレが、首を振ってそれを辞退する。
「いいえ。大丈夫です。お忙しいときに、お邪魔をして申し訳ありません」
「……それはかまわないが……」
 ティアレが、執務室を訪れることは滅多にない。
(いや……)
 しかし、つい最近、同じことが一度あった。
 狂気をその瞳に潜ませて、泣き崩れた彼女の姿が脳裏をよぎる。
 それは、馬車に隠れ忍んで、ティアレとヒノトがダッシリナへ向かった、その寸前のことだった。あぁ、あれ以来だと、ラルトは思った。
 こんな風に、ティアレときちんと、向かい合うのは。
 あのときと異なり、ティアレの眼差しは凪いでいた。色移り変わる摩訶不思議な双眸は、まるで春の海のように穏やかだ。かといって、寂しそうに笑うわけでもない。
「……ティアレ……?」
 彼女の意図が読めずに問いかける。ティアレは静かに笑い、そして膝を突きながら、深く腰を折った。
「ティアレ!? なにを――……っ!?」
皇帝陛下[・・・・]
 驚愕の声を上げかけていたラルトは、実に唐突なティアレの言葉に口を噤んだ。静かに平伏するティアレに、ラルトは目を瞠り唾を嚥下する。当惑に立ちつくしていたラルトの耳に、ティアレの明瞭な声が届いた。
「ご心配、および、多大な迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした……」
 その声は、ティアレという一個人のものではない。
 皇后という位を頂いた公人が、仕える君主に向けた詫びの声だった。
 ティアレは面を上げようとしない。床の上で重ねられた白い手がかすかに震えている。美しいその爪先を見つめながら、ラルトは言った。
「立て、ティアレ」
「立ちません」
「立て。面を起こせ。人の目を見て話さぬものの言葉を、俺は聞くつもりはない」
 毅然として命じると、ティアレはようやっと頭を起こした。しかし膝をついたまま立ち上がろうとはしない。ラルトを見上げる瞳に狂気の色はない。ただ、確固たる意志を秘めてその双眸はラルトを射抜く。
「私は、自分の価値を、わかっていなかった」
 抑揚を殺した声音で、ティアレはそう切り出した。
「ラルト、貴方によく言われていましたね。私は自分を蔑ろにしすぎると。それは私を労わる上での言葉だと思っていました。実際、その通りだったのだとは思います。けれどそれ以上に、私は私の価値を、本当の意味で理解すべきだった。……私の命一つに、大勢の命が関わるのだと。私は果たして……本当に理解していたのでしょうか。いいえ、理解していなかった」
「ティアレ」
「私の他愛ない言葉一つに、皆逆らうことも出来ぬ立場なのだと、私は理解すべきだった」
 そこで一度言葉を区切り、ティアレは笑みを深くする。強く、強く、笑って、彼女は再び、ゆっくりと頭を垂れる。
「皇帝陛下、左僕射も、ヒノトも、ウル・マキートも、私の命令に従ったにすぎません」
 ティアレの声に震えはない。
 凛とした声音は、守られるばかりの女のものではない。
「ですから、彼らを処罰など、なさらぬよう。全ての責は、立場をわきまえず、わがままを申してばかりの、私にこそ」
 ――処罰を。
 確かに、ティアレを連れ出した罪、守り通せなかった罪として、エイ達にはそれなりに処罰というものを与えなければならない。でなければ、示しが付かないからだ。また、彼ら自身も納得しないだろう。
 それでも、出来る限り、彼らの罪を軽くしてほしいとティアレは懇願する。彼女が、全ての責を引き受けるから、と。
 それは、責任を、皇后という立場を、理解した女の姿だった。
 ラルトという世界を通して皇后という立場を理解するのではなく、自分を中心に据えて、責任を見つめた女の姿だった。
 彼女が初めて、ラルトの前に引き出されたとき、娼婦として引き出された女は、しかし一切の媚を見せず、ただ凛とした声音でラルトに忠告を与えた。震えも何もない筋の通った声音を、瞳と併せて美しいと思ったことを思い出した。
「ティ――……」
 ばんっ!!!!
 口を開きかけたラルトを遮ったのは、ことのほか大きく響いた扉の開閉音である。
 ラルトだけではない。またティアレも突如響いたその音に、ぎょっと目を剥いて背後を振り返っていた。視線の先に姿を現したのは、よく見知った薬師見習いの少女だ。彼女は両膝に手をつき、肩を大きく揺らして喘いでいる。やがて呼吸を整えた彼女は、ティアレの前に進み出てその場に膝をついた。


 警備の人間たちを撒いて、執務室に飛び込んだヒノトは、ラルトの前に膝をついて頭を垂れるティアレを見た。それを見て確信する。あぁ、自分の推測は、間違っていなかったのだと。
 ティアレはただラルトに会いたいからこちらに出向いたのではない。何よりもまず、謝罪するために、ラルトに会いにいったのだと。
 自分の誘いにのり、ティアレはラルトに黙って宮城を離れた。その結果、まるで怒涛のように問題が押し寄せた。ティアレはハルマ・トルマの暴動で人質にされたというし、自分たちの捜索のために何人もが激務を強いられただろう。願わくは、死人や怪我人がいないといい。シファカは、まだ見つかっていないと、聞くけれど。
 自分たちを護衛していたエイやウルにも、責任が問われているはずだった。
「どんな話を、しておったのかは、判らんが……中断させて、すまぬ」
 まだ、整わぬ呼吸のまま、ヒノトは口を開いた。
「ただ、何よりも先に申し上げなければ、ならぬことが、ある……あります」
 全ての発端は、自分の浅はかな考えに由来する。
 ティアレが謝る必要は何もない。
「一つ、此度のことは、妾が……私が、妃殿下を巻き込み、引き起こした事態だということ」
 ラルトの当惑の眼差しを真っ向から受け止めながら、ヒノトは告げる。
「一つ、ですから、妃殿下も、私の、後見をしてくださっている、左僕射も、その副官も、この件に関わった誰にも、責はないということ」
 リョシュンが、言った。この首お切りして、陛下に献上せねばならない。
 リョシュン、そんなことをする必要はない。
 ヒノトは自嘲に嗤った。
「必要とあらば、この首、切り落としてくださってもかまわない」
 本当だったら、自分はとうの昔に死んでいるはずだった。
 母国である榕樹の小国[リファルナ]は、貧しい国だ。イーザが王として起ったけれども、復興の道は果てしなく遠い。そんな貧しい国で、リヒトなしに自分がいつまでも生き延びられていたかと問われれば否だろう。かといって、イーザの世話になることも躊躇われた。
 自分は、禁忌の子供なのだという。
 イーザと同じ前王の、落とし子なのだという。
 あの国の呪いを、ヒノトも知らぬわけではない。意図せずとも、王の子供たちは一つの玉座を巡って殺しあう。現実にイーザは数多くの兄弟たちの血に手を染めてその位に就いたのだという。ようやくイーザが王として決着したというのに、自分の存在がいたら混乱を招く。
 一人で流離うしかなかった自分に、手を差し伸べたのが、エイだった。
 エイがいなければ、きっと自分は、どこかの片隅で、獣のように野垂れ死んでいた。
 自分の浅はかな行為が、そのエイに責任がかかるようなことだけはあってはならない。知っていた。知っていても、医を志すものとしての矜持を優先させたのは、自分。
 だからせめて、この首を差し出して、彼が救われるのなら、自分は迷わない。
「だから、誰にも、責任は問わないであげてください」
 唇をかみ締めて、涙が零れるのを堪える。
 罪は、自分ひとりで贖えばいい。誰も、何も罪を犯していない。自分だけが、きっと間違いを犯した。
 けれど、待っている処罰は果たしてどんなものだろうか。その未知への恐怖に、知れずかみ合わせていた歯が鳴った。手も、震えていた。
 その戦慄全てを隠すように深く頭を垂れる。ラルトの言葉を待ちながら、ヒノトは硬く目を閉じた。
 しかしヒノトの耳朶を震わせた声は、ラルトのものではなかった。
「ヒノト! 貴方は何をしているのですか!?」
 はっとなって面を上げる。視界に飛び込んできたのは、怒気を顕わにしてつかつかと歩み寄ってくる、エイの姿だった。
「起ちなさい! 勝手にこちらに踏み込んで……一体誰の許可を得たのですか!?」
 二の腕をつかまれ、乱暴に引き上げられる。温和で通っているエイの表情が、見たこともないほどに怒りで歪んでいた。一体、何に対し、それほどまでに憤っているのだろう。ぼんやりと見上げたエイは、しかしヒノトと視線を合わさず、ヒノトの身体を彼の背後に強引に押し込めると、ラルトに対して深く腰を折った。
「陛下」
 神妙な声音で、エイは言った。
「ヒノトが、大変失礼をいたしました。このような場所に勝手に踏み込み、妃殿下との会談を邪魔するなど」
「……いや」
「本当に、申し訳ございません。また、此度の件を併せての沙汰は」
 自分に、責任があると、彼はいうつもりだ。
 そんなことはないと、ヒノトはエイの腕に縋った。
「エイ! 違う! 妾がっ……!!」
 刹那、頬に衝撃が走る。
 ぱん、という肉を叩く小気味よい音が、狭い執務室に反響した。頬をエイに叩かれたのだと気づいたとき、エイは再びラルトに向き直り、深く頭を下げている最中だった。
「……私が、全て引き受けますので」
「エ、イ」
「一度、この場は、失礼させていただきます。陛下」
「あぁ」
 エイの辞去の言葉に、ラルトは大きく頷いた。エイはそれを確認し、床に腰を付けたままのティアレと目礼を交わして、ヒノトの腕を強く引く。腕の痛みに顔をしかめ、後ろ髪をひかれる思いでラルトとティアレを振り返っていたヒノトは、ラルトが苦笑しながら肩をすくめている姿を認めた。
「ヒノト」
 腕を組み、嘆息をして、微笑を浮かべたラルトが言う。
「首をもらっても、俺には使い道がない。……処分は、また考えるから」
 エイが扉を閉める間際、ヒノトは身を乗り出して言った。
「ありがとう」


 ばたん、と。
 扉が閉じられ、再び執務室に静寂が訪れる。ラルトは嘆息すると、ティアレの傍に歩み寄り、膝を付いた。彼女の腕を取って、その身を引き上げる。
「まったく……誰も彼も、自己犠牲が過ぎる」
 笑いを含みながら、ラルトは呟いた。こんなに短時間で次々自分の責任を訴えかける人間が訪れるなど、思ってもいなかった。しかも皆ご丁寧に、自分が一番悪いのだと主張して周囲を庇う。
 自分の存在を差し出せば、全てが丸く収まるという考え方は、いい加減にやめて欲しい。そうやって、自分の傍からいなくなるつもりか。ジンがいなくなっただけで、もう充分だというのに。
 これ以上、自分を一人に、しないでくれ。
「何をすれば、お前に対しての処罰になるだろうか?」
 ラルトは口元を引き結び、そして呆けたように見上げてくるティアレに尋ねた。この女に対する処罰など、ラルトには思い浮かばなかった。
「わかりません」
 面を上げたティアレが、涙を目元に滲ませて微笑む。
 他者にして行う一般的なものは、この女に対して意味を成さない。この女を苦しめること。それはラルト自身の首を絞めることにも通ずる。
 そこまで考え、ふと思った。
(あぁ、そうか)
 わがままばかり言った自分にこそ処罰を与えよとティアレはいうが、彼女をそこまで追い詰め苦しめた自分にこそ最も責があるのではないだろうか。ならば自分の首が絞まることなどどうということもないはずだ。
 彼女の罪は自分の罪だ。同時に、自分の罪は彼女の罪なのだろう。
 それを理解して、自分たちは一緒になったのではなかったか。
 本当に、何もわかっていなかったのは、自分のほうだ――……。
 誰も悪くない、そして誰もが悪い。
 責は、平等に、皆に降りかかる。
「俺にも、判らないんだ」
 ラルトがそう告げると、ティアレは怪訝そうな表情を浮かべた。その彼女に、ラルトは微笑みかける。
「だから、一緒に考えてくれ」
 一緒に考えろと。
 ティアレをハルマ・トルマに迎えに出る前に、イルバが言った。
 どうあったら、この国が幸せであれるのか。どうあったら、ティアレを幸せにできるのか。
 ティアレと一緒に、考えろと。
 ふと思う。そんな風に、思ったことは、今までなかったのではないか。
 ティアレと、この国のあり方について、語り合ったことなど、なかったのではないか。
 ティアレは黙ってラルトの言葉を聞いてくれていた。しかし一緒に考えるという意識は、どこにもなかったのではないか。
 だからこれほどまでに、すれ違ってしまったのでは、ないだろうか。


 一緒に考えろ、と。
 言われたことは、初めてだと思った。
 ラルトの見る世界を、ティアレは理解できない。彼に求められれば意見を述べはしたものの、共に考える、そんなことは今までかつてなかったと思った。
 彼が、そんなふうに、自分を頼ってくれたことは、初めてだと、思った。
 ラルトの腕がそっとティアレの身体を抱く。彼から薫る、清冽な水にも似た香りに、ティアレは安堵を覚えて目を閉じた。
「ごめんなさいラルト……」


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