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第十九章 呵責 1


 瞼を、ゆっくりと押し上げる。
 砂が詰まったよう、とはよく表現したものだ。その比喩の通り、彼女の瞼はとても重く、ただ目を開くだけだというのに、ひどく労力を強いられた。瞼を押し上げた瞬間に飛び込んできた光に、思わず顔をしかめる。白い光は網膜を一瞬焼いて、平衡感覚を失わせた。
 ぐらついた身体を支えるべく背後の地面に手を付くと、草いきれが鼻腔を撫でた。軽く頭を振って、息を整える。ぼやけた視界も、瞬きを繰り返すたびに明瞭になっていった。
 彼女は呼吸を整え、多少の息苦しさに胸元を押さえながら、周囲を見回した。そしてそこに広がっていた風景に、瞠目する。
 そこは、平原だった。
 海と街を見下ろせる、高台にある平原。背後を振り返った先には深い森と連なる山脈が見える。どこだ、と呻きかけた彼女は、ここに見覚えがあることに気が付いた。
 特に、彼女の目の前に鎮座する、大きな白い墓石に見覚えがある。
 雨風に晒され、苔むしていてもよさそうであるのに、墓石は定期的に誰かが手入れをしているらしく、そういった痕跡は微塵も見当たらない。墓石の周囲を花々が取り囲み、静かに花弁を揺らしていた。その花弁の隙間から、石に刻まれた文字が見える。
 その文字を読み上げる前に頭上に差した影に、彼女は面を上げていた。
 草を踏み分ける音も聞こえなかった。
 けれど、女はいつの間にかそこにいた。
 長い黒い髪、黒い瞳、白い肌。美しい、細面。
 身に着けた白い衣装の袖を風に遊ばせていた女は、ゆっくりと彼女に視線を移し、そして苦笑を浮かべて呟いた。
「……また、きたのね。シファカ」


 意識が覚醒すると共に、ティアレは布団を跳ね除けながら飛び起きた。
 胸元を押さえ、乱れる呼吸を整える。そうしている間に、部屋に待機していたらしい女官が、慌てたように駆け寄ってきて、ティアレの顔を覗きこんできた。
「ティアレ様!? 大丈夫でございますか?」
「……シノ」
 覗き込んできた顔は、なじみの顔である。この国の女官長の顔に安堵しながら、ティアレは周囲を見回した。
 奥の離宮。そこにある、一室。
 最初に与えられたときから変わらぬ、ティアレの寝室――……。
 戻ってきたのだ。
 ダッシリナ、そして、ハルマ・トルマから。
「大丈夫……」
 シノの袖口を握り締めながら、ティアレはどうにか微笑を繕った。
「なんだか、夢を見た、だけ」
「夢? どのような夢でございますか?」
 床に膝をつき、ティアレの手をさすりながら、シノが不安そうに見上げてくる。彼女を安堵させるように、ティアレは大丈夫、と繰り返した。
「怖い夢とか、そういうのでは、ありませんでした。……けど」
「……けど?」
 シノが鸚鵡返しに尋ねてくる。ティアレは口元に手を当て、眉をひそめた。
 思い出せない。
「……ティアレ様?」
「……忘れてしまいました。何か、とても大事な夢だったような、気がするのに」
 軽く頭を振って嘆息し、再びシノに微笑みかける。シノは歯に何かものの詰まったような表情を浮かべて見せたはものの、それ以上夢についてティアレに追求することはなかった。立ち上がり、小首を傾げて尋ねてくる。
「喉が渇いたのではありませんか? 今、お茶をご用意いたします。それとも、お食事をお持ちしましょうか?」
「私、いつこの部屋に戻ったのか覚えていません」
 シノの問いを無視する形で、ティアレはかけ布を握り締めながら彼女に言った。
 ハルマ・トルマでラルトに再会し、落下していくラヴィを見送ったところまでならしっかりと覚えている。それから先の記憶は曖昧だ。兵士たちの怒号、ハルマ・トルマに集まった民の嘆き。そういったものの狭間を潜り抜けて、ハルマ・トルマの城の中に整えられていた寝室へと移動した。熱が上がって、一度眠り、途中夜明けごろに起こされて、馬車に乗せられた。そしてそのまま、いつこの奥の離宮に戻ってきたのか、記憶がない。
「ティアレ様がこの奥の離宮に戻られたのは、今日の明け方でございます」
 こちらに向き直ったシノが答える。ティアレは思わず外を見た。窓から覗く景色は暗い。それは空が嵐の前触れのような厚い雲に覆われているからだけではないだろう。
「……ハルマ・トルマを出立してから、どれぐらい経ったかわかりますか? シノ」
「六日ほどと、聞き及んでおります」
「六日……」
 その間、時折目を覚ました記憶はあるものの、大部分を寝て過ごしたということになる。時折揺り起こされて、寝ぼけながら食事をしたり、排泄のために動いたりした記憶はある。それでも、ずいぶんと長い間眠っていたものだ。
「疲れておいでだったのだと思います」
 自分で自分に呆れ返り、口元を押さえていたティアレを労わるように、シノが言った。
「熱はすっかり下がっているそうですよ。つい先ほどまで、ヒノト様もこちらにいらっしゃったのですが……」
「ヒノトが!?」
 自分の思考に没頭しかけ、シノの言葉を半分聞き流していたティアレは、彼女の口から漏れた思いがけぬ名前に、反射的に彼女にすがり付いていた。
「シノ、ヒノトは……ヒノトはここに帰ってきているのですか!?」
 ラヴィによって同時に捕らえられ、牢屋で別れてからヒノトとはそれきりだった。逃がしたとはラヴィから聞いていたが、それが本当かどうかも確証が得られぬままだったのだ。
 ずっと案じていた。彼女の身を。
「は、はい」
 ティアレの剣幕に押されたのか、わずかばかり身を引いて、シノが頷く。
「……あぁティアレ様、ご存知なかったのですね。ヒノト様はダッシリナで無事カンウ様と合流され、一緒にこちらに戻ってこられました」
「彼女に怪我などはありませんでしたか!?」
 シノの衣服を掴む手に力を込めて、ティアレはシノに詰め寄った。シノは若干驚いた様子ではあったが、ティアレの手に彼女自身の手を重ね、ゆったりと微笑みながら首を横に振る。
「いいえ。怪我など一つも負ってらっしゃいませんでした。無事、そのものでございます」
「……そう」
 シノの言葉に体中の力を抜きかけたティアレは、いけないと頭を振り、再び姿勢を正した。もう一人、安否を確認しなければならない人がいる。一縷の期待を込めて、ティアレはシノに問いかけた。
「じゃぁ、シファカさんは……」
 彼女も、無事か。
 自分たちに巻き込まれてしまった、あの、優しい旅人は。
 しかしシノの表情は曇り、ティアレの言葉の意味が理解できぬというように、彼女は眉間に皺を寄せてみせた。
「シファカ?」
 先ほどとは違う意味で、シノの衣服を握る手が、緩んでいく。
 胸を占めていたヒノトの無事に対する歓喜が、一瞬にして取り払われ、不吉な予感が背筋を這い登る。ティアレは震える唇で躊躇いがちに、恐る恐る尋ねた。
「……無事では、ないの、ですか……?」
「……もしかしてその方は、ヒノト様のおっしゃっていた、ティアレ様たちを助けようと巻き込まれてしまった旅の方ですか?」
「……は……い」
 シノの問いに肯定を示しながら、ティアレは項垂れる。下唇をかみ締めながら、苦渋に思わず目を伏せた。
「大丈夫ですティアレ様。その方は、まだ、見つかっていないだけなのです」
 ティアレの肩に手を添え、顔を覗きこむようにして、シノが力強く大丈夫だと繰り返す。
「今、マキート様がダッシリナに一人残られて探していらっしゃいます。あの方は失せ物探しがとても得意なのですよ」
 エイの副官ウル・マキートは、護衛を引き受けるだけではない。むしろ暗部の情報網を使って情報を収集することこそに本分がある。
「ティアレ様もご存知でいらっしゃいますでしょう……?」
 無論、ウルの得意分野についてはシノに言われずとも、ティアレも知っている。しかし思うのだ。ティアレがダッシリナで捕らえられてからもう幾日も経過している。だというのに未だシファカは見つからないという。奇妙なことではないか。ヒノトですら、無事にエイと合流し、ティアレよりも先にブルークリッカァに帰国していたというのに。
 シファカが本当に無事なら、もう、とうの昔に見つかっていてもいいはずだ。
「大丈夫です。きっと見つかります。私もぜひ、その方にお会いしたい」
 シノが微笑み力強く断言する。
「……ありがとう、シノ」
 ティアレはぎこちなく彼女に微笑み返しながら、謝辞を述べた。
「とりあえず……お茶にいたしましょう」
 落としていた腰を伸ばし、腰に手を当てながら、シノが言った。
「それを飲んで、ゆっくりしていらしてください。粥をお持ちいたします。お腹すいていらっしゃいますでしょう?」
 シノは努めて明るい声をあげ、お茶の準備を進めていく。きびきびとした彼女の動作を観察しながら、ティアレは唇を引き結んだ。
 目覚めたとき、一人ではとても不安だったと思う。多忙だろうに、こうして傍にいて、何の気負いもなく世話を焼いてくれようとするシノには感謝の念に絶えない。と、同時、申し訳なかった。
 どうして、勝手な行動を取ったのか。
 どうして、自分がヒノトについてこの場を離れようとしたのか。
 シノは糾弾しようとはしない。たくさん、迷惑をかけただろうに。たくさん、心配をかけただろうに。
 怪我を負っているという彼女は、自分がいない間、安らかに休めたのだろうか。
 休めなかっただろう。
「シノ」
 窓の外を見つめながらティアレは姉同然の女に呼びかける。シノは茶を注いだばかりの椀を置いて、微笑みながら怪訝そうに首を傾げる。
「はい、ティアレ様」
 空が、曇っている。
 今にも、泣き出しそうなほど、暗く。
 厚い厚い鉛色の雲が、空を、覆い尽くしている。
「食事よりも先に、今すぐ……」
『ティアレ様のお体は、ティアレ様だけのものではないのでしょう?』
 食事などいらない、そういった意味の言葉を口に仕掛けて、ティアレは頭を振った。脳裏を、ヤヨイの言葉がよぎったからだった。
 多忙の身を削るシノに申し訳なさを覚えるのであれば、これ以上彼女に迷惑がかからぬようにしていかなければならない。
「ティアレ様?」
「……いえ、食事をとってからでいいです。一つ、頼みたいことがあるのです、シノ」
「頼みたいこと、で、ございますか?」
 目を瞬かせて、シノがティアレの言葉を復唱する。ティアレは彼女のその姿を一瞥し、笑みを取り繕うと、再び窓の外に視線を移し、柔らかいかけ布を強く握り締めた。


 ティアレの寝室にいるべき主の姿はなく、代わりに忙しなく動いているのは奥の離宮の女官の一人であるラナである。人の体重を受けて床板の軋む音に面を上げた彼女は、人の良い笑顔をヒノトに向けてきた。
「あら、ヒノト様。謹慎は終わったのですか?」
「終わっとらんよ。ティアレの見舞いが許されておるだけじゃ……。肝心のティアレはどこへ行ったのじゃ? 掃除のために部屋を移動でもさせたのか?」
 リョシュンの言いつけをこなすために一時的に部屋を離れたのは、半刻ほど前である。ヒノトはすとんと腰を椅子の上に落とし、空っぽの寝台の上を眺めた。
「いいえ、つい先ほど目覚められたようです」
 寝台を整えながらラナが答える。
「おぉ。やっと目が覚めたのじゃな」
 最後に彼女と言葉を交わしたのは牢屋の中だ。こちらの安否をティアレが案じていたということを、ヒノトは疑っていなかった。どれほど彼女は心痛めただろう。しかし互いにこうやって無事、ブルークリッカァに戻ってくることができた。久方ぶりの再会に、心は自然と弾んでいた。
「手水にでも行っておるだけか?」
 この分だとすぐ戻ってきそうだと、気軽に問いを口にしたヒノトだったが、振り返ったラナは笑顔で首を横に振り、ヒノトの予想を否定した。
「いいえ。陛下に会いにいかれたようですよ」
「……ラルトに?」
 ヒノトは怪訝さに首をかしげた。
 ティアレは疲労で幾日も眠ったり、浅く目が覚めたりといった夢うつつの状態を繰り返していたのだ。体力も元に戻っていないだろう。しっかりと歩けるかどうかも怪しい覚醒したばかりの状態で、ラルトに会いにいったというのだろうか。
「それだけ早く、陛下に会いたいと思われていたということでしょう」
 両手を胸の前で合わせて、ラナが笑う。
「早くまた元のように、仲睦まじく笑っていらっしゃる陛下とティアレ様を拝見したいものです! ……というか、ヒノト様、また陛下を呼び捨てにしましたね? リョシュン様に聞きとがめられたら、また怒られちゃいますよ」
「笑ったり起こったり忙しいのぅ」
 腰に手を当てて説教体勢に入ったラナに、ヒノトは呆れて肩をすくめた。
「それにしても本当に早く会いたかったのでしょうね」
「まぁなぁ。ほぼ一月、会っていなかった計算になるのか……」
 指折りで日数を数えながらヒノトは呟いた。色々ありすぎて矢のように時間が流れていってしまったが、考えればヒノトがティアレをこの宮城から引き離して、もう一月に近い。
「起きられて早々、シノ様に頼まれたらしいですよ。食事を取った後でいいから、陛下の下に連れて行ってほしいって」
「シノに……連れて行って、ほしいと頼んだ……?」
 ふと、そこでヒノトは引っかかるものを覚えた。いや、先ほどから何かがひっかかっていたのだ。だからラナのように、ラルトに会いにいったティアレに対して穏やかな気持ちを覚えることができなかったのだろう。
「そこにいたのはシノだったのか?」
「え? えぇ。……シノ様がティアレ様を陛下の元にお連れするので、時間が空いていた私がこちらの片付けを請け負ったんですよ。ヒウやメイはつかまりませんでしたし、キキとレンは城下に出ていますから……ヒノト様?」
 ラナの話の後半部分を聞き流し黙考していたヒノトを訝って、彼女が眉をひそめる。ヒノトは面を上げ、なんでもないと首を振った。釈然としない面持ちながらも、まぁいいです、と呟いたラナは、風通しのために上げられている御簾に歩み寄る。
「ラルトは、執務室か?」
「陛下ですか? ……多分そうだと思いますけれど」
「ではティアレもそっちに?」
「だと思いますよ。……どうなさったんですか? ヒノト様。眉間にお皺がありますよ」
 ラナの茶化しに、ヒノトは笑いを取り繕ってやる気にはなれなかった。立ち上がり、踵を返す。退室間際、ヒノトの耳にラナの呟きが届いた。
「……あぁ。降ってきた。ひどくなりそうだわ」
 ばさりと御簾が下げられ、部屋は光を失って暗がりに沈む。部屋を出たヒノトは回廊を駆け出しながら、庭を叩きつけるように降り出す雨を見た。


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