第十八章 帰郷への道標 4
「あぁ、お帰りなさいませ」
部屋に戻ると、ウルが笑顔で出迎えた。寝台の傍らに腰掛け、本を読んでいた彼の隣に並びながら、ジンは彼に尋ねる。
「シファカの様子は?」
「変わりありませんよ」
人のよい笑みを浮かべて、ウルが応じた。
「鎮静剤がよく効いているのでしょう。さきほど閣下が出られたときから、変わりありません。よく眠っておいでです」
「……そう」
ジンは手を伸ばし、その指先でそっと前髪を払ってやった。柔らかい髪。額は、少し汗ばんでいるようにも感じる。寝台の上で眠るシファカの表情は穏やかだ。その静謐な表情と、手足を拘束する固く結ばれた布の物々しさが、ひどく不釣合いだった。しかしこの表情を見られるのも、鎮静剤がよく効いているときだけだ。やがて彼女の表情は苦しみに変わり、意識が覚醒すると暴れ馬のごとく手足を振り回して薬を求める。
精神も、やがては壊れていくだろう。
そんなものを見たくて。
彼女を傍に置いたわけではないのに。
「盟主のお話はどのようなものだったのですか?」
茶を淹れながら、ウルが尋ねてくる。彼の差し出した茶碗を受け取りながら、ジンは答えた。
「ハルマ・トルマの事態が収束したそうだよ」
「あぁ。はい」
「知っていた?」
「はい。あと、首謀者である盟主の甥も、ブルークリッカァの宮城で捕縛されたそうです。そのことについては聞かれましたか?」
「いや。それは聞いてないなぁ。甥っていうと、ソンジュ・ヨンタバル?」
「はい。あと彼の側近一人も。あの館で、薬を売りさばいていた男です」
つまり、シファカをこのようにした男もまた、ブルークリッカァで捕縛されたということか。
茶碗を唇にあて、ジンはしばし思案する。
あの館には大勢、薬漬けになった見目麗しい男女が留め置かれていたが、シファカの扱いだけが大きく異なっていた。広い部屋、置かれた玩具、着せ掛けられた美しく白い衣装。
そこには、シファカに対する執着のようなものが見られる。
「ウル」
「はい?」
ジンは茶碗を口元から放しながら、背後で食事の支度に取り掛かっていた男を呼び止めた。彼はついさきほどジンが置き去りにしてしまった食事を、招力石で温めている最中だった。持ち上げていた盆を静かに卓の上に置きなおし、ウルはジンの傍に歩み寄ってくる。
「なんでしょう?」
「……さっき、盟主に、もうシファカを治療する手立てはないといわれたよ」
自嘲気味に吐き出されたジンの言葉に、ウルの動きが止まった。上目遣いにジンの表情を窺うようにして、彼は躊躇いがちに尋ねてくる。
「宮城から出て行くように、と?」
「……そう、はっきりとはいわれてないけどね。ただ……ここにいても、意味はないと」
この国にいても、シファカを助けてやることはできない。快癒に向かう方法は、この国にはない。
「……ブルークリッカァのほうが、研究は進んでいます」
ウルが、シファカに視線を移しながら呟いた。
「この国にある薬は所詮、ブルークリッカァ側が用意したものに、過ぎませんから」
それに、と、彼は付け加える。
「さきほども申し上げましたが、ブルークリッカァにはシファカ様をこのようにした男も捕まっておりますので。薬についても詳しく聞くことができるでしょう」
シファカの瞼が僅かに動く。何か、辛い夢でも見ているのだろうか。眉間に皺が寄り始める。
彼女の頭を軽く撫でてやって、ジンは瞼を伏せた。
「閣下」
「ラルトは、シファカを助けてくれるだろうか?」
あんなふうに、決別したのに。
助けてといって、彼は助けてくれるだろうか。
自分のわがままを、叶えてくれるだろうか。
もともと自分の命はすでに彼に差し出している。彼に差し出せるものなど、もう何もないのに。
「もちろんです」
ウルが言った。面を上げ、ジンは彼を見やる。
穏やかな声音で、ウルは繰り返す。
「もちろんです、閣下」
力強くそう請け負って、彼は微笑んだ。
「帰りましょう。大丈夫です。シファカ様はきっとよくなる。陛下が手を尽くしてくださる。だから……帰りましょう」
あの、美しく優しい水の帝国に――……。
ウルの言葉が、苦く耳に染みていく。
ジンはシファカの手を握り、奥歯を鳴らした。
シファカの指先はひどく冷たい。氷のように。
それは、遠い昔、自らの命を絶った女を抱き上げたとき、指先にまとわり付いていた、溶けかけの雪を思い起こさせた。
ジンが面会を申し入れてきたのは、まだ日も暮れてないというのに、鈍重な鉛色の雲が厚く空を多い、世界が早くも闇に閉ざされ始めた頃合だった。
ジンは世話になったことに対する謝辞を述べ、続けて国に帰ることにしたと告げてきた。その表情は硬く、祖国に帰るためにどうしてそこまで悲痛さを背負わなければならないのか、ユファには理解できなかった。したいとも思わない。
あの、世界でもっとも古い国が負った業など、理解したくもない――……。
それでなくとも、この国の背負った業だけで、ユファは手一杯なのだから。
「わがままを承知で、最後にもう一つ、頼んでもよろしいでしょうか?」
「……何かしら?」
小首を傾げてユファが応じると、ジンは静かに告げてきた。
「伝達の招力石を、使う許可と、そして、馬を」
まったく、この男ときたら。
ジンの言葉を耳にし、ユファは本気で呆れの眼差しを、まるで睨め付けるかのようにジンに叩きつけてしまった。
思わず、低く呻く。
「それは、一つといわずに、二つというのではないかしら?」
ユファの言葉に、ジンはこの部屋に入室してから初めて、笑った。先ほどの硬質な表情はどこへやら。彼の浮かべる微笑は、かつて彼が水の帝国の宰相として、頻繁にこの国に出入りしていた頃に浮かべていたものに違いなかった。彼のそのふてぶてしさは、小憎らしいが、嫌いではない。
その笑みにつられるように、苦笑を漏らしてユファは言った。
「今回は、リクルイト皇帝陛下にはたくさんの借りを作ってしまいましたわ」
甥の件は、本当にラルトには申し訳なかったと思う。
自分が甥をきちんと掌握できていなかったばかりに、彼には迷惑をかけた。しかしラルトはなぜか今回の件を不問にするといっている。恰好の政治の札になりうるというのに。
そこに彼のどんな思惑があるのか、ユファにはわからない。しかしこのまま、彼の言う通り、何もせずに貸しを帳消しにしてもらうというのも気味が悪い。
「――ですから、今回のことは全て、貸し借りなしにしてさしあげます」
何故、宰相が、傭兵に身を扮してこの国にいたのかわからない。しかし彼を水の帝国に送り届けてやることは、そう悪い意味を持つまい。
「ねぇ、その代わり、貴方には元の国に戻って、これから色々便宜を図っていただきたくてよ」
ユファの口にした冗談に対し、ジンが真面目くさって呻く。
「それができるかどうかは、お約束しかねます」
ユファは思わず軽やかな笑い声を立てた。その笑いの合間に、大丈夫よ、と確信を含めて呻いてやる。
ラルトとジンが政敵になって、長い間分かれていたとは思わない。
ラルトはまだ宰相の席をジンのために空けているし、ジンもまた、ただ、ラルトとあの国のことを思い続けているのだから。
それが、わかるのだから。
だから楽しみにしていよう。いつかまた、彼が本当にかの国の宰相として、この国に訪れる日を。
救いを求め続ける同じ呪われた国にできる最後の贈り物として、自分は彼を送り出すのだと、ユファは思った。
――腐敗した甘さが身体を封縛する。それは理性を奪い、思考を奪い、ただ、彼女を闇の中へ引きずりこんでいった。
ぬるま湯のような温度を心地よく思いかけてきたころ、何かがふと、意識を引き止めた。
その何かは、強い力で彼女の腕を引いた。腕というものが自らにあったことを、彼女はその力によって思い出した。
その何かは、力強い声で彼女の耳朶を打った。耳というものが自らにあったことを、彼女はその声によって思い出した。
腕に絡み付いているのは白い腕。呼びかけてくるのは女の声。
やがてその腕と声は、ぬるく甘い闇から、彼女を強引に引き上げていった。