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第十八章 帰郷への道標 3


 扉の前に、ウルは立っていた。
 その部屋に足を踏み入れることが恐ろしい。その部屋に、香が焚き染められていることに恐怖を覚えているわけではない。その部屋の中から出てこない宰相が、もしかして冷たくなっているのではないか――全てに絶望して、自ら命を絶っているのではないか。
 そんな愚かな考えが、脳裏を占めるのだ。
 嘆息して、軽く扉を叩く。間を置いて、返される声。
「誰?」
「私です」
 かちゃりと音をたてて、扉は内側から開かれた。顔を覗かせたのは、憔悴した顔色のジンである。
「食事?」
 視線をウルの手元へと動かし、ジンが問う。彼が生きていることに安堵しながら、しかしウルは彼のあまりの顔色の悪さに眉をひそめざるを得なかった。
「閣下、食事を持ってきておいてなんですが、外に出て取られてください。ひどい顔をしています」
「それでも俺が部屋から出ないって見越して、食事わざわざ持ってきたんじゃないの?」
「持ってこなければ、食事すら取られないでしょう」
「よくわかってんねー。偉い偉い」
「そんなことで褒められても、私、ちっともうれしくありません」
 失礼いたします、と断りを入れて、ウルはジンの横をすり抜けた。
 部屋は、そう広くない。少し大きめの寝台、丈の低い楕円形の円卓、そこに隣接するように置かれた長椅子、そして箪笥。それらが一つずつ、手狭な空間を埋めている。長椅子の上には毛布と枕がとぐろを巻いていた。ジンが、そこで仮眠をとっていたのだろう。
 部屋の隅には香炉が一つ。絶えず薄紫の煙を吐き出しているそれを一瞥したウルは、卓の上に食事の載った盆を置いて、寝台の傍に歩み寄った。
 寝台には、一人の女が眠っている。
 両手両足を、寝台に縛り付けられた状態で。
(シファカ様……)
 あまりにも痛々しいその姿に顔を背けたい気分に駆られながら、ウルは女の名前を胸中で呼んだ。つい先日、甘い菓子を口にしながら、ティアレやヒノトと笑い転げていた姿が、まるで嘘のようだった。
「……今、ようやく眠ったところなんだ」
 こちらの隣に並んだジンが、欠伸をかみ殺しながらそう言った。
「どれぐらい、暴れていらっしゃったので?」
 シファカの手首には、赤く血が滲んでいる。布が擦れて、跡が付いたのだろう。
 ジンが椅子を引き寄せ腰掛ける。卓の上に置いてあった箱を膝の上に載せながら、彼は答えた。
「半刻、ぐらいかな」
「半刻……」
「とはいっても、こっちももう時間感覚が狂ってるから、よくわからないんだよねぇ。でも今回はすぐ鎮静剤飲ませたから、暴れてた時間はそれぐらいだと思う」
 箱の中には、薬が詰まっている。ジンのための気付けの薬はもちろん、解熱剤に鎮痛剤、鎮静剤、睡眠薬。看病のために必要な諸々のものが全て詰まっていた。ジンはその中から真新しい布と擦り傷のための軟膏を取り出す。そして箱を一度床の上に置くと、彼は丁寧に、シファカの手首を拘束する布を解き始めた。
 拘束から解放されたシファカの手首は、ウルの想像以上に赤く衣擦れを起こしていた。痩せてしまったその細い手首に、ジンは丁寧に軟膏を塗り、包帯を巻く。その上から、壊れやすい細工の腕輪でも付けてやるかのように、そっと新しい布を巻きなおし、寝台の縁に布の端を再び固定した。
 もう一方の手首にも、ジンは同じことを施していく。
「……全然、よくなる気配がない」
 処置が終わったあと、精気を吐き出すようにして、ジンは言った。
「手が、冷たいままなんだ……」
 顔を両手で覆って項垂れる彼を見下ろしながら、ウルは目を伏せた。
 瞼の裏に浮かぶのは、サブリナという一人の少女の姿だ。ヒノトの母国である、リファルナの王、イーザの幼馴染であった少女。あの国を離れる間際に見た、月光草の毒に犯され、赤子のようにわめくことしかできなかった姿を覚えている。数年たった今、彼女は無事、どうにか常人としての精神を取り戻したらしいが、それでも長い間毒に置かされ続けてきたこともあって、後遺症が残ったという。
 彼女も、確か、手が冷たかった。
 死人の、ように。
「閣下。食事が終わりましたら、私が看病を代わります」
「顔色が悪いから、という話は聞かないよ」
「そうではありません。閣下がこの状態のシファカ様から離れたくないことは、私も重々承知しておりますよ。ただ――……盟主が、お呼びです」
 こちらの言葉に、ジンが面を上げる。彼は鋭く目を細めて尋ねてきた。
「すぐ?」
「いえ、特には何もおっしゃっておりませんでしたが」
「そういうのは、すぐ来いってことだよ」
 嘆息して彼は立ち上がる。扉のほうへ向かって歩き出す彼を、ウルは思わず呼び止めた。
「閣下、せめて食事だけでも先に取られては?」
「食事なんて悠長にとってる場合じゃない。いろいろ世話になってるし、彼女の機嫌は損ねたくないよ」
 肩をすくめて呻くジンに、では、とウルは助言した。
「せめて顔だけは洗っていかれたほうがよいでしょう。本当に、ひどい顔をしています」
 今にも、自らに剣を突き立てそうな、顔を。
 その言葉を、ウルは呑み込む。
 ジンは、ははっ、と笑い声をたてた。
「忠告ありがとう。場所は?」
「いつもの場所で、と聞いております」
「わかった。行ってくる」
 微笑んだジンはそう言って、ウルに背を向ける。
 扉の開閉音が厳かに響いた後、沈黙した部屋の中で、ウルは嘆息しながら、気付け薬を口の中に放り込んだのだった。


 一度自分に与えられた部屋に戻って、身支度を軽く整える。いくら急ぎだとは言っても、着替えぬまま盟主の前に現れるほど無礼ではない。
 ウルに受けた忠告に従って、顔を洗う。その際、覗き込んだ鏡に映る自分の顔は、確かにひどい。まるで、幽鬼のような顔だった。
 ジンは嘆息して、青龍刀だけを携え部屋を出た。いつも彼女と朝食を取っている部屋へと爪先を向ける。ほどなくして辿り着いた部屋の前では、彼女の側近のソーヤが門番をしていた。
「盟主は?」
「お待ちです」
 ソーヤと短い遣り取りだけを交わし、ジンは開かれた扉の向こうに足を踏み入れた。広い部屋の中央に置かれた円卓、そこに優雅に茶器を口元へと運ぶ盟主がいる。
「あぁ、おいでになられたのね」
 ユファは口元に運びかけた茶器を受け皿の上に戻し、卓の上に広げられていた書類を端へと押しのけた。どうやら、ここで執務を行っていたらしい。
「彼にもお茶を。……どうぞ、お座りになられてくださいませな」
 傍に控えていた女官に指示を出して、ユファが向かいの席を勧めた。彼女の言葉に従って、ジンは一礼をして腰掛ける。
「報告が一つありましてよ」
 ジンに向き直った盟主は微笑んだ。
「報告」
「えぇ」
 頷く盟主の機嫌は悪くはない。報告も悪いものではないだろうと思っていた矢先、案の定、彼女は、朗報をジンにもたらした。
「ハルマ・トルマは無事収束しましてよ、シオファムエン殿」
「……そうですか」
「陛下自らがお出ましになって、事を治めたと聞きました。完全無血とは行かなかったようですけれども、死傷者の数は最低限。浅瀬に兵を展開したことに対する礼状が届きましたわ。ハルマ・トルマに集まった、愚かな私の国民と共に」
 そういって懐から取り出した書簡を、彼女はひらりと振ってみせる。これは皮肉かしら、それとも純粋な礼状なのかしら。そう自問する彼女に、ジンは礼状でしょうと返してやった。礼状と共に拿捕したダッシリナの民を送り届けたのは、単なるついでだろう。本当に。
「私の治世が納得いかない民には、どのように納得いかないのか、重々、後で聞くことにして」
「話を聞くだけなのですか?」
「あら、私が何か処罰を行うような問いかけですこと。この程度のことに処罰を行うほど、私、心狭くはないつもりですけれどもね」
 礼状を再び懐に仕舞いなおしながら呻くユファは、自分ほど優しい人間はいないとでも言いたげに、柔らかく目を細めてみせる。その表情に、女狐め、と胸中で呻きながら、ジンはこっそりと嘆息した。彼女はラルトのようには優しくない。よく考えもせず、隣国との折衝につながりかねない事態を招いた人々に、ただで恩赦をくれてやるような女ではないことを、ジンは理解していた。無論、ラルトもそこまで優しすぎる人間だとは思わないが。
 何はともあれ、彼女がジンの依頼を素直に受けて、ブルークリッカァ側に協力してくれたことは間違いない。
「ありがとうございました」
 礼を言って頭を下げる。ユファはその謝辞に応えるように、鷹揚に笑って見せていた。
 女官がジンの分の茶器を持って、再び部屋に現れる。その白い陶器が卓の上に置かれるのを待って、ユファが別の話題を切り出してきた。
「あの子の調子はどう?」
 あの子とは、無論、シファカのことである。
「……よくなる気配はありません」
 正直にジンは答えた。
「禁断症状を起こしてばかりです」
「……効果がないのね」
 閉じた扇の先を唇に触れさせながら、彼女は嘆息する。
「以前の月光草に対してなら、すぐに効果が現れていたのに……貴方が彼女を引き上げてきて、どれくらい経ちましたかしら?」
「今日で四日目、です」
 そう。
 シファカをあの館から引き上げて、今日で四日が経つ。
 宮城に戻ると、ユファは約束通り、薬漬けとなったシファカの処置の準備を済ませていてくれた。小さな部屋が一つ、それように整えられ、解毒のための香と薬が揃えてあった。量はともかくとして、シファカが薬を吸った期間は短い。以前の月光草ならば、準備された薬で処置を行えば、数日で大方の薬は抜け、禁断症状も徐々に落ち着いてくるはずである。
 が。
「本当なら薬は効き始めている頃合なのに、やはり、本当に効かないのね……」
 ユファが独りごちる。実際、彼女の言葉の通りだった。
 誰かが改良したらしい新種の水煙草は毒性が強く、薬を与えても、シファカは一向に快癒に向かう気配を見せなかった。水煙草を与えていなければ、すぐに禁断症状を起こして、尋常ではない力で暴れまわる。人形のように動かなかったことが、冗談のように。
 そこには当人の意識などひとかけらもない。彼女はジンを見ても、認識すらしない。
「シオファムエン殿、残念だけれど、私にはもう貴方を助けてあげることはできなくてよ」
 これ以上、打つ手立てがない。残酷な事実を、彼女はジンに突きつけた。
「そんな、ことは――……」
「はっきりと言わせていただきます」
 ユファの口調は、決然としていた。
「独自に研究を進めてはいるけれども、貴方の大切な方を蝕む毒を、追いやる方法はこの国にはまだありませんの。貴方もご存知だとは思いますけれど、この国の医師団の権力はさほど強くはない。この国はいわば宗教国家。信心深い国は、現実的な研究には興味がない」
 神と現実は時に相反する。ダッシリナは占いによって形作られている国だ。占いとは神の宣下である。
 ブルークリッカァは神を信じない国として知られている。その代わり国を支配していたのは呪いだった。呪いが解かれた今、国を動かしているのは、一分の人情を除けば、過去の研鑽や統計学を根拠にした確固たる政治の理論である。その結果生み出されるのは、医学やからくり、魔術など、技術の差異だった。ブルークリッカァのほうが研究に打ち込む分、技術の進歩の度合いは大きい。
「これで、薬の改良者が捕まえられていれば、まだましだったのでしょうけれどもね」
 月光草の改良を行ったものは、すでに毒を与えられて館で遺体として見つかった。研究の資料も何も見つかっていない。もともと、医学の研究に積極的ではない国だ。治療法が見つかる可能性は、ダッシリナでは、絶望的とはいわずとも、時間をかなり要するだろう。
「国にお帰りなさいな」
 突き放すように、ユファは言った。
「もともと水煙草の処方箋は、貴方の国が用意し、私たちの国に流れてきたもの。貴方の国でしたら、研究ももう少し進んでいるでしょう。私の元にいるよりも、あの子に対してきちんとした処置を施すことができるのではなくて?」
 その通りだ。
 ユファのいうことは、まったくもって正しい。
 しかしジンは、素直にそうしますと、言うことができなかった。
 喉が渇いて、何かが張り付いたような感触が付きまとっている。
「シオファムエン宰相閣下」
 呼吸だけを繰り返した後、唇を引き結んだジンを、ユファが呆れた眼差しで射抜いた。
「私、貴方に尋ねる気はなくてよ。どうして、こんなに長い間、姿を見せなかったのかしら。どうして、皇帝の婚儀にすら、姿をみせなかったのかしら、などとね。そんな野暮な人間では、ないつもり。でもね」
 かしゃ、と、陶器の触れ合う音がする。ジンが面をあげると、ユファは円卓に手をついて身を乗り出し、ジンの顔を覗きこんでいるところだった。響いた陶器の音は、その際傾いた茶器が立てたもののようだ。
 冷ややかな眼差しで、ジンを見据えて彼女は続ける。
「今、貴方の大切な子が、壊れてしまいそうなのでしょう。私のところにはあの子を救う手立てがない。貴方の皇帝陛下のところのほうが、まだ可能性がある。だというのに、戻ることに、何を躊躇っているのかしら。いい加減、私も苛立ちましてよ」
「盟主」
「大切な誰かを守るためには、自分の矜持、自分の誓い、自分の命、身体、そういったものを犠牲にしなければならないこともある。本当に守りたいのならば、それらを真っ先に切り捨てて、守り抜ける可能性の高いほうに賭ける。それを、貴方はご存知だと思っていたわ。だって貴方は、それをずっと実践していたのですもの。私、それを高く評価していましたのよ」
 自分を、切り捨てるだけでよいならそうしている。
 けれど今更、どんな顔で、あの国に帰ればいいというのだろう。
 傷つけて傷つけて、それでも、どうにか自分を送り出してくれた、幼馴染に。本当は、殺したくてたまらなかっただろうに、それをせず、ただ、自分がしたいようにと、見送ってくれた幼馴染に。
 傷ついていたのに、その傷を抉るように、彼を裏切ってしまった自分が。
 どのような顔で、シファカを助けてと、彼に願えるだろう。
「私は――……」
「逃げ回るのは、いい加減およしなさい」
 嘆息して、ユファは言った。彼女は椅子に、元のように腰掛ける。
「逃げ回ったって、何も変わりはしない。むしろ、悪くなっていくだけでしょう。何を恐れているのかしら。どちらを、恐れているのかしら」
「どちら、とは?」
「あの、シファカという子を失うこと? それとも、貴方の皇帝陛下に罵倒されること? どちらが苦しいかなど、前者に決まっているのではなくて?」
 話して、喉が渇いたのか、茶器の中の茶を一息に飲み干し、彼女は言う。
「失ってはならないものを、選び間違えてはいけないのよ、ジン・ストナー・シオファムエン宰相閣下。選択を間違えることは、私たち為政者にとっては致命的なのですから。たとえ選び取った暁に歩む道が、怨嗟をまとい、罵倒され、血に手を汚し、汗と涙にまみれ、みっともないものだと、他者に嘲笑われようとも、私たちは、選び間違えてはならない」
 そして、と、ユファは微笑んで付け加えた。
「それは、為政者としてではなく、私たち一個人の選択を迫られたときでも同じこと」
 そうでしょう、と、柔らかく同意を求める彼女の声は、母親のもののように慈愛に満ちている。
 そうだ。何を逃げる必要がある。
 ジンは膝の上で組んだ手に、力を込めた。
 逃げて逃げて、それでこうやって、シファカをいつも失いかける。そんな自分の愚かさに、飽き飽きしている。
 それでも、すぐに、ユファの忠言に従えないのは、何故だろう。
「また……後ほど、お時間を頂いてもよろしいですか?」
 ユファは一度眉をひそめたが、えぇ、と頷いた。そしてそのまま、彼女は立ち上がる。
 これで一旦のところ、会談はお開きだった。
 衣擦れの音を響かせ、ユファは黙って退室していく。彼女に続いて女官も一礼して部屋を去り、ジン一人が取り残された。
 組んだ手を額に押し当て、下唇をかみ締める。
 何故に躊躇う。何故に戸惑う。
 硬く閉じた瞼の裏で、悲しそうに笑う幼馴染の顔と、寂しげな糾弾の眼差しを投げかける女の顔が交互に浮かんでは消える。
 ジンは下唇から滲んだ血の味に、深く息を吐き出した。


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