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第十八章 帰郷への道標 2


 時は、少しばかり、遡る。


 ばさりと、外套が翻る。
 その裾をさばきながら、剣を携え足早に廊下を歩いていると、聞き知った女の声に呼び止められた。
「シオファムエン殿」
 穏やかではあるが、抑制力のある声音。足を止めて振り返れば、そこにはこの城の主の姿がある。
「盟主」
 ユファは口元を扇で隠しながら、微笑らしきものに目を細めている。急いでいるときに、と毒づきたくなりながら、ジンは丁寧に頭を下げた。
「言われた通り、川沿いに兵は配置しておきましてよ」
「……ありがとうございます」
 ダッシリナとブルークリッカァの国境沿いに、大きな川がある。ハルマ・トルマ近くならば歩いて人が渡れてしまう遠浅の川だ。ハルマ・トルマに集まる民が、ダッシリナ側に逃げ込まぬように、兵を展開しておいてもらえるように頼んでおいたのだ。
「かまわなくてよ。事は私の不肖の甥が発端ですもの。あの場所に兵を置いておけば、ハルマ・トルマに流れ込んだ、こちら側の民の引き受けにも便利でしょう」
 ハルマ・トルマでの革命運動に参加しているものは、ブルークリッカァの民だけではない。もともと占いがたて続けに外れ、政治が安定しなかったことに加わり、ユファ不在の間の混迷から一気に荒れた世の中を嘆いて、自分の国を作ることを夢見た貧しいダッシリナの人々もハルマ・トルマに集まっている。
 ハルマ・トルマの暴動は一応ブルークリッカァ領内の出来事として、ラルトが処理しようとしているが、本来ならばダッシリナも協力を申し出るべき立場だ。ジンの依頼にユファが二つ返事で了承したのは、そういった背景もあるからだろう。
 頭を上げたジンを真っ直ぐに見据え、ユファが言った。
「見つかったのですってね」
 誰が、と、ユファは口にしなかった。
 ジンは頷く。
「えぇ」
「今からお迎えにいかれるのね」
「そうです」
「どんなところに、いるのか、私も耳に入れていてよ」
 シファカが、見つかった。
 準備は整い、ユファから借り受けた少ない兵と、ウルと共に、今からその館を奇襲する。
 しかしその館が一体どういう類の館を知っていれば、シファカの安否がどのようであるかはおのずと予想が付いた。シファカが見つかったと報告を入れたウルの表情が硬かったのも、そのせい。
「処置の準備をしておいてあげましょう。真っ直ぐに連れ帰りなさい。無事だといいですわね」
 ゆったりと微笑む貴婦人に、ジンは微笑み返し、頭を下げる。
 そして身を起こすと、素早く踵を返し、再び廊下を歩き始めた。


 ここは、どこだろう。
 彼女は闇に包まれる意識の片隅でそう思った。
 ぬるい湯に浸かっているような浮遊感が常に付きまとう。何も見えない。何も聞こえない。何も、感じない。
 身体を動かそうと思っても、感覚がついていかない。それ以前に、手足はもちろん、指先、つま先、顔、目や唇といった部位が、そこに存在するという感覚が得られないのだ。自分には、果たして今もきちんと手足が付いているのだろうか。身体というものが、存在しなくなってしまったのではないだろうか。
 次第に、彼女は、身体を動かそうと思うことすらやめた。
 無駄だと思ったのだ。
 何も感じない。その中で、甘さだけを覚える。
 意識を粘液のように包み込む、甘さだけを。
 彼女は、思うことをやめた。
 虚脱感に身を任せ、甘い香りに身を任せる。とても大切なことがあったような気がするが、それを思い出そうと努力すること、もっといえば、思考すること自体が億劫だった。
 意識を、閉じる。
 ぬるい闇の中に、彼女は再び堕ちていった。


 止まるが早いか、ジンはウルの制止を振り切って馬車から滑り降りた。
「閣下っ……!」
 背後にウルの声を聞きながら、早足に玄関の門をくぐり、扉を押し開く。だん、という破裂音にも似た扉の開閉音が、広い空間に木霊した。
 一度立ち止まり、視線をぐるりと廻らせる。踏み込んだ場所は、水の帝国内にもよく見られる、間取りを広くとった玄関だった。
 慣れぬ、匂いがする。
 甘い甘い、匂い。
 その感覚は、娼館に足を踏み入れた時に似ている。春をひさぐ女達の館には、男を呼び寄せるために叩く白粉や、焚かれた香の匂いが充満している。だが、それよりも鼻につき、神経を逆撫でするような匂いがその館には満ちていた。
 このような場所に、常人が長くいられるはずがない。
「閣下、気付けを」
 追いついてきたウルが、ジンの肩を叩いて茶けた色の粒を差し出してきた。
「これは?」
 差し出された粒を摘み上げながら、ジンは首を傾げる。ウルが答えた。
「ヒノト様が調合した薬です」
「ヒノト……あぁ、エイが面倒を見ている子?」
 銀の髪と肉厚の葉を連想させる緑の目が美しい少女を思い返しながら、ジンは尋ねた。頷いて肯定を示したウルは、片目を瞑りながら、微笑んでみせる。
「効果は折り紙つきです」
 あの少女は、医者の卵なのだと聞いている。リョシュンについて、学んでいるのだと。ウルが保証するということは、よほど効果があるのだろう。
 摘んでいた薬を口の中に放り込んで噛み砕く。刹那、舌先を襲ったのは、まるで刺すような痺れだった。
「っつ……」
 覚悟はしていたが――まさしく、気付けと呼ぶにふさわしい。
 甘さに眩暈を覚えかけていた意識が急に明瞭さを取り戻す。しかし甘さはいつまでも鼻腔の奥にこびりついて、離れようとしなかった。
 ユファから借りてきた兵を率いる女と、ウルは館の構造について会話を始めた。ソンジュから隠れるように潜伏していた彼女に、女官として付き添っていたあの女である。
 ユファも無料でジンに兵を貸し出したわけではない。今、ダッシリナで流行っている中毒性の高い水煙草、それをさらに改良し、悪性を高めたものの売買を行うこの館を、制圧しておくという理由もあったからこそ、優秀な兵を選んでジンに貸し与えたのである。密命を受けているだろう彼女と、手はずについて相談するウルをそのまま置き去りにして、ジンは歩き始めた。
 狭い廊下には厚手の絨毯が敷かれている。ジン一人の足音は殺されているが、階下から聞こえてくる喧騒に反応したのだろう。時折唐突に、屈強そうな男達が廊下に並ぶ扉から現れては、慌てながら襲い掛かってくる。そのうち幾人かは、正気を失っているようにも思えた。
 彼らが奇妙な奇声を絶えず上げるのとは対称的に、ジンは無言のまま彼らを斬り倒し、彼らが倒れる瞬間を待たずに先へ進んだ。
 馬車から見た際、さほど大きなものとは思えなかったこの館は、奥に向かって広がっているらしい。実際の規模は広大で、歩いている今も廊下の先が見えない。
 もともとはダッシリナの公爵か誰かが森の奥に建てた古い屋敷を、ソンジュ・ヨンタバルの側近である男が内々に買い取ったものであるらしい。
 長い廊下に並ぶ装飾の施された窓からは、柔らかな陽光が差し込んでいる。外に見えるのは豊かな緑。静養にはふさわしい屋敷だ。それがこのような、甘い毒に侵されていることは非常に残念でならなかった。
 遠くが、徐々に騒がしくなってくる。この館の警備に当たっている人間と、ウルたちとの乱闘が始まったのだろう。ジンに襲い掛かってくる輩も少しずつ増えてきている。
 奥へ進むたび、意識がぐらつき始める。敵をあしらうことは造作もなかったが、殺さないように手加減することができなくなっていった。元々さほど彼らの生死など頓着はしていないのだが、極力殺さないようにとユファから頼まれている。だが、そんな余裕もなくなりつつあった。
 血で滑り始めた青龍刀の柄を握りなおし、徐々に早足となる。いくら気付けの薬を飲んでいても、この場所に長くいては危険だと、本能が告げていた。
 遠くでの喧騒が聞こえなくなり、警備らしき男達も姿を見せなくなる。そんな中、ジンは一つ一つ、扉を開けて中を覗き込んでいった。
 窓全てに帳の下りた薄暗い部屋には、香炉の明かりと、人の肌だけがぼんやりと浮かび上がって見える。濃密な甘い香りに、幻覚だろうか、粘着質な空気の幕のようなものが見えるような気がした。
 絨毯の敷かれた部屋に横たわるのは、しどけない衣服を身にまとった男女である。
 傍らに膝をついて、その顔を覗き込んでみる。シファカらしき姿は見えなかったが、皆、似たような年だった。まるで砂糖に群がる蟻のように、炊かれる香炉の傍に男女が固まって寝そべっている。その様子は、波打ち際に打ち上げられた魚か何かを連想させた。
 ジンは下唇をかみ締め、次の部屋へと移動する。しかしどの部屋も似たような有様だ。そしてそれは、ジンの胃の腑をひどく冷やした。
 部屋の一つ一つを覗き込み見つける男女の中に、シファカの姿は見当たらない。そのことは、ジンをひどく安堵させると同時に、焦燥を煽った。
 このまま、シファカは、見つからないのでは、ないのだろうか。
 永久に、自分の手の届かないところへいってしまったのでは、ないだろうか。
 シファカの故郷である灼熱の土地で彼女を置き去りにした日から、彼女に再会するまで、本当に身を裂かれるような思いだった。彼女と幸運にも再び出会い、共に過ごして、幸せだった。幸せであると同時に、どうして彼女をもう少し大事にできないのかとも思う。
 まだ、怖いからだ。
 きっと、自分の過去、全てをさらけ出して、彼女に拒絶されるかもしれないということが恐ろしいからだ。
 彼女はずっと待っていた。自分が過去を語るのを。自分が抱える痛みを、少しでも分かち合うために、自分が語るのをずっと待っていた。
 けれどどうしても無理だった。
 怖くて怖くて――結果が、これだ。
 彼女を傷つけて、そうして、この手を離してしまった。大事なのに。本当は一時も傍に放さず、ずっと優しくしてやりたい。彼女の望みを全て叶えてやる。彼女の笑顔が、決して消えることのないように。なのに、また自分は保身のために口を閉ざし、彼女を傷つけ遠ざけている。
 同じ事を、繰り返している。
 不毛の王国のときも、そうやって彼女を突き放したのに。
 自らの意図はなくとも、同じ事を、繰り返している。
 なんと、愚かなことなのだろう。
 どれほどの数の部屋を確認して回ったのか。ジンはやがて、最後と思わしき扉に、行き当たった。
 震える手を扉の取っ手に伸ばす。その手が思ったよりも血に汚れていて、ジンは思わず目を伏せた。
 力を込めて、扉を押し開く。蝶番が錆びているのだろうか。ひどく耳障りな、金属の擦れ合う音がした。
 薄暗い部屋に、廊下から漏れる一筋の光と、ジンの影が刻まれる。
 その部屋は他の部屋と少々趣向が異なっていた。
 広い空間。絨毯の上にさらに敷かれた織物。そこに散らばる意味のない玩具。本。花の鉢植え。ただ魚のように男女の裸体は見えず、部屋は調度品めいたものも見られなかった。甘い香りは絶えず充満している。その部屋に、一つ、椅子と、そこに腰掛ける人形が置かれていた。
 否。
 それは、人形ではない。
「……」
 ジンは無言のまま、一歩踏み出した。一歩、もう一歩。途中、玩具をつま先に引っ掛けた。さした衝撃でもなかっただろう。しかし子供用の木彫りの人形は容易に蹴り飛ばされ、部屋の中央に置かれた椅子の脚に当たって、止まる。
 椅子に腰掛けていたのは、純白の衣装を身に着けた黒髪の女だった。
「……シファカ……」
 ジンは、椅子に腰掛ける女の名前を、囁くように呼んだ。
 しかし彼女がジンの呼びかけに応えることはなかった。
 縛り付けられているわけでもないというのに、シファカは微動駄にしなかったのだ。
 繊細な刺繍の施された光沢ある白い衣装を着せ掛けられ、精緻な彫金の装飾品で飾られている。さらには、化粧まで施され――彼女のそういった姿を見るのはジンも初めてだった。そしてジンの予想以上に、女は、美しかった。
 が、いつも好奇心に溢れて世界を見ていた紫金の瞳は虚ろに開かれ、焦点定まらぬまま、膝のほうを見つめて動かない。時折、思い出したように緩慢に瞬きが繰り返されるのみだ。肌は土気色で、まるで死人のような色艶だった。
「……シファカ?」
 膝をついて、彼女を見上げる。その瞳にジンの姿を映しても、彼女は動かなかった。
 その手を、そっと取り――……。
 そして、驚愕する。
「――……っ!?」
 いつもジンの手を優しく温めていたその手は、まるで極寒の雪の下に眠る水のような冷たさだった。その冷たさは針のように、ジンの皮膚を刺し貫く。
 脈はある。瞬きもしている。呼吸もしている。心音もある。
 一つ一つ、それらを確かめる。彼女がまだ生きていると、確認するため。
 彼女は、生きている。
 しかし、この手の冷たさは何だろう。
 どうして彼女は自分の声に、いつものように、笑顔を返してくれないのだろう。
 彼女の口元に薄く浮かんだ笑みは病んで、口の端から涎がこぼれ、雫となっている。それを親指の腹で拭ってやって、ジンは彼女の身体を抱きしめた。
 ぐったりと、力なく、シファカの身体はジンに崩れ落ちてくる。首が赤子のように座っていない。かくりと傾いだ首を抱えなおし、ジンは膝をついたまま呻いた。
「ごめん」
 いつだったか、同じように、呼びかけても応えぬ彼女に、囁きかけたことがある。
 あれは、雪崩に彼女が、巻き込まれたとき。
 あの時と同じだ。
 自分を守りたいばかりに、彼女を突き放し、そして、同じように、彼女を傷つけて。
 同じ罪ばかりを、繰り返している。
 彼女を蝕んでいるのは、彼女の椅子の傍らに置かれた香炉から漏れる、水蒸気のような煙だ。
 月光草。その効果については知っている。かつて、ジン自身調べてラルトに忠告したのだ。
 人の死臭のような甘い香り、人を狂わせ、重度の中毒者はまるで死体の剥製か何かのように、意思疎通も困難になり――……。
 ジンは瞼を伏せた。
 その先を、考えたくなくて。
 シファカの頭が、ことりとジンの腕の中に転がり込む。筋肉の弛緩した女の身体は、いつも彼女を抱くとき以上に重く感じた。
 横の毛を一房ずつ残して綺麗に結われた彼女の黒髪。
 そこに目元を押し当て、ただ――ジンは、[]いた。


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