BACK/TOP/NEXT

第十八章 帰郷への道標 1


「どういうことだ?」
 イルバの追求に、エイが表情を硬くする。しかしイルバはそれを意に介さず、追求を続けた。
「どういうことだ? 宰相は、外交に出てるんじゃなかったのか?」
 しかし、エイは沈黙を保ったままだ。答える気配は、一向に見られなかった。
 応急処置の後、医務室へと連行され、傷の縫合を受けた。出血のわりに傷は浅く、急所も外れていたことが幸いした。すぐに癒えるだろうとの御殿医のお墨付きをもらい、安静にと言い渡されて、ひとまず部屋を移動した、その後。
 イルバはこうやって、エイを追求している。
 エイはもはや、以前イルバがジンについて尋ねたときのように、外交だと主張することはなかった。どこか苦い表情を浮かべ、視線を彷徨わせている。どう答えるべきか考えあぐねているようだった。
 嘆息して、イルバは言う。
「そんなに言いたくないんだったら、シルキスが言ったときにすっとぼけとけばよかったんだ。ダッシリナにいるとしかいわれねぇ。俺には何のことかわからねぇ。ふつーに、ダッシリナに外交に出てんのかと思ってたぜ俺は……お前らが、必死に、あいつに訊くまで」
 あの時、エイがシルキスに、「ジンがどこにいるのか」などと尋ねなければ、何故シルキスがわざわざジンのことを言い含めていくのかと、怪訝に思っただけで終わっただろう。それほど、以前自分がこの国の宰相の所在について尋ねたとき、エイたちの応対はごく自然だった。彼らの言う「外交に出ている」という言葉に対し、疑いなど一切覚えなかったのだ。
「シノ」
 エイの沈黙に痺れを切らしたイルバは、彼に並んで立つシノに回答を求めた。が、シノもまた、口元を硬く引き結んでいる。その姿はイルバの問いに答えるための、エイの許可を待っているかようにも見受けられた。
「……閣下は」
 シノに代わってエイがようやく口を開いたのは、どれほど時間を経てからだろう。
 沈黙の帳を押し分けるような彼の声音は、重く響いた。
「行方不明なのです。イルバ殿」
「……行方、不明?」
 イルバは思わず、鸚鵡返しに問い返した。その問いにエイは小さく頷いて、言葉を続ける。
「もう四年……いえ、五年、それ以上になりますか。もう何年も、閣下は戻ってらっしゃらない。誰もその居場所を知らない。行方不明なのです」
 驚きに瞠目し、イルバはシノに視線を移した。彼女は沈黙を保ったまま、静かに目を伏せる。肯定を、示すように。
「……そいつ、ラルトは知ってんのか?」
 この部屋には自分たち三人しかいないというのに、声は自然と低められた。
「もちろんです」
 エイは肯定する。
「……何故、閣下が出奔されたのか私も知りません。陛下だけが、その理由を知っている」
「行方不明のジンを、外交に出ていると主張しているのは他でもないラルトか」
「はい」
 神妙に首を縦に振るエイを見て、イルバは嘆息した。そして思い出す。最初に彼にジンについて尋ねたときのことを。
 あの時僅かに覚えた違和感は、決して間違っていなかったのだ。
 宰相の位をジンのために空け続けているということは、ラルトは彼の帰りを待っているに違いない。しかし、シルキスの、「宰相は戻らない」という予言は、一体どういう意味なのだろう。
『大事なものを、粉々に壊して差し上げたのです』
 弟子の壊れた微笑を思い返しながら、イルバは嘆息した。胸中で、低く呻く。
(……お前、一体何をしたんだ? シルキス……)
 シルキスは厳重な警備を付けて独房に監禁されている。今すぐ独房に言って問い詰めたい気分だが、傷のこともあって動けない。また、シルキスも現在は査問官によって尋問を受けている状態だった。安易に立ち寄ることは許されない。
「そういや、副官をダッシリナに残して帰ってきたんだろ? 連絡は取ってみたのか?」
 ふと思い立って、イルバはエイに尋ねた。つい先日まで、彼は副官を伴ってダッシリナにいた。しかし副官は彼とともにブルークリッカァに戻らなかったのである。戻らなかった理由の詳細をイルバは訊かなかったが、エイの副官は今、ダッシリナの宮廷にいるらしい。
「えぇ。二人を捕縛した旨も連絡しなければなりませんでしたし、そのついでに」
「で、なんて?」
「肝心のウルですが、いなかったのですよ」
 エイは僅かに肩を落として言った。
「もともと調査のためにあちらに残っているので……外に出ているのでしょう。招力石が回復するのに時間が要りますので、連絡が付いたら尋ねてみます。仔細を書いた文を持たせた早馬も出していますから、どんなに遅くても五日ぐらいで連絡がつくと思うのですが」
「……長いな」
 五日で連絡がついたとしても、そこから調査には幾ばくか時間が必要だろう。シルキスの言葉の意味が理解できるには、まだまだ日数が必要ということだ。拷問したところで、あの強情な弟子は口を割ることはないだろうし、一方ソンジュは、シルキスが何をしていたかなど知らされてはいまい。自白剤を使うのは最後の手段だろう。使いすぎれば、精神が壊れる可能性がある。
 宰相が、行方不明。
 その意味を、イルバはしばし考える。
 水の帝国がわずか十数年で復興したのは、皇帝の才、そして彼自身の血の滲むような努力の結晶だろう。だが、彼が登極し、その政権交代の一番難しい時を支えぬいたのは宰相だ。
『俺はラルトのためなら命を懸けるよ』
 昔、宰相が少年だった頃。
 臆面もなく、本当に本心から、君主に忠誠を誓っていた彼の言葉を思い出しながらイルバは目を伏せた。
 本当に、一体どうして、彼は姿を消したのか。
 そして、若くして、皇帝を支えるだけではなく、宰相不在の穴を埋めてこなければならなかったエイの苦悩を思いやると、胸苦しかった。
「その間、イルバ殿はゆっくり静養なさってください」
 エイが微笑んで言った。
「二日もすれば、陛下がお戻りになられるはずです。私は雑務に追われて、しばらく顔を出せないと思うのですが……」
「あぁ、そこらへんは気にすんな。俺は俺で適当にやるからよ」
「補佐のための官は付けますので、なんなりとお申し付けください」
「頼む」
「それでは、私は一度失礼いたします。また何か進展があれば、ご報告いたしますので」
 左僕射は深く一礼して部屋を辞する。退室するまで、彼の足取りはゆったりとしていた。しかし、閉じられた扉の向こうでは一変して忙しない靴音が響き渡る。
 事後処理に忙殺されているだろうに、わざわざこちらに足を運んでくれていたということだろう。
「……お前は、いいのかよ? シノ」
 間を置いて、イルバは傍らのシノに尋ねた。彼女もまた女官長として多忙を極める身だろう。が、彼女は苦笑のようなものを浮かべて小さく頷いただけだった。
「……えぇ」
 そして再び沈黙する彼女に、イルバは嘆息する。
「お前も……当然、宰相が行方不明なのは、知ってたんだよ、な?」
 ラルトは、シノを姉のような存在だと、評した。
 物心付いたときから傍にいる、家族同然の存在だと。
 それほど近しい彼女が、ジンのことを知らぬはずがない。
「もちろんです」
 苦笑めいた微笑はそのままに、シノは再び肯定を示す。そして続けて彼女が口にした言葉に、イルバは思わず息を呑んだ。
「私、閣下の乗られた船を見送りましたので」
「……見送った?」
 小さく頷く彼女は、過去に思いを馳せているのか、目を細めて微笑んだ。
「ティアレ様が、どうしても見送りたいのだと、私にせがまれて」
 瞠目するこちらの反応が面白いとでもいうように、口元に手を当ててくすくす笑うシノに、眉根を寄せながらイルバは尋ねた。
「行き先も、知って……?」
「いいえ。閣下はどこへ行かれるのか、何も言い置かれませんでした。港で閣下の乗られる船を捜すのは、とても苦労いたしましたわ。陛下は、そっとしておいてやれと、私たちに言い含めておられましたし」
「……出奔の理由は?」
「存じております。しかし申せません。陛下か、閣下。どちらかのお口から直接伺ってくださいませ」
「皇后陛下は?」
「尋ねられたとしても、私と同じく、口を噤むでしょう」
 ということは、ことを知っている人間は、皇帝と宰相、皇后、そしてシノの、たった四人だけなのだ。
 その四人の間で、一体何があったのか、理由をしばし推察する。ふと、一つのことに思い当たって、イルバは躊躇いながらシノに問うた。
「……呪い、か?」
 この国は、呪われていた。
 長い長い間。
 それゆえに呼ばれていた――裏切りの、帝国。
 イルバの問いに、シノは答えなかった。しかし否定もしなかったということは、当たらずとも遠からずといったところだろう。
「ジンは、帰ってくるとは言わずに、旅立ったんだな?」
「はい」
 行き先を告げずに旅立つ。それは、いつ帰るとも判らぬ旅だということだ。外交ではない。ラルトとジンは、袂を別ったのだ。
「なのに、ラルトは、宰相の席を、空席にしてんのか……」
「幾度かは、その席を埋める話も出ておりました。しかし相当する人材はもとより。陛下の胸中としても、整理が付かなかったのでしょう。……陛下にとって、宰相という存在は、為政者になる、そのように決められたときから、共にこの国の復興を誓った、ジン・ストナー・シオファムエンというお方、ただ一人なのです」
 シノの言葉は淡々としていた。が、ラルトの歴史を長く見つめてきた重みがあった。ふとイルバは思った。あぁ、この女は、今あるラルトの治世における、罪も贖罪も、全て見つめてきた女なのだと。
「そして同時に、閣下にとっても、仕えるべき君主は、ラルト・スヴェイン・リクルイト、その人に他ならないのです。……たとえ、どんなに離れていても」
「……どういう意味だ?」
 エイはジンが行方不明なのだといった。文字通り、彼がどこにいるのか、何をしているのか、消息は一切知れていないということだ。
 ジンの才能は非常に稀有である。身を立てるには、その才能を利用することが一番手っ取り早いだろう。主要国家の話題にも上らないような、田舎の小国でほそぼそと仕えているかもしれないのだ。無論、イルバのように隠遁生活を送っている可能性もある。
 なのに、シノはジンにとっての君主が、ラルトただ一人だと断言する。
「閣下は、どこへ向かわれるのか、私たちに一言も教えてはくださいませんでした。実際、決めていなかったのかもしれません。しかし最初は南大陸を、そして次は北のほうを、回られていたようです」
「連絡が来てたっつうことか?」
 行方不明だというわりに、シノはジンの足跡について饒舌だった。定期的に連絡が来ていなければ、知りえないことだ。
 イルバの問いに、シノは頷く。
「早ければ三月に一度。遅ければ半年に一度。どこで、何をして生活しているのか、怪我や病気をなさっていないのか、次の国はどの国を回る予定なのか。そういった、ご自分のことは一切書かれておりませんが、回られた国の文化、風習、政治的な要素、民族的要素、その国に対する外交政策諸々を書いた書付が」
「……そいつ、俺に言ってもいいことなのか?」
「連絡が定期的に来ていることは、カンウ様もご存知のことです」
「そう、か……」
 命を、懸けるよ。
 ジンの声が、脳裏に蘇る。
 何故、彼らが袂を別つようなことになったのかは判らない。その原因が呪いだろうというのは、所詮自分の憶測に過ぎない。
 しかしどんなことが理由であれ、道を違えることは、彼らにとってどれほどの苦しみだったのだろう。道を違え、遠い空の下で生きていてなお、彼らは仕えるべき皇帝と、忠誠を誓う宰相であり続ける。
 だからこそ、ラルトは宰相としての席を空け続けているのだろう。
 その席は空位ではない。ただ、この国に、その座を温めるものがいないというだけだから。
 宰相は、“外交”しているだけなのだ。
「……閣下はご自分のことをほとんど書かれませんでしたが、一度だけ、誰かと旅を始めたのだということを、書付の中で匂わせたことがございました」
 シノの言葉に、イルバは首を傾げた。
「匂わせるっつうと、どういう意味だ?」
「誰かと旅を始めたのだ、と、しかと文章に書かれているわけではなかったのですが、それでも、誰かが傍にいるのだということが書付の中から読み取れたのです。閣下はあまり人に心を許されることが得意でない方ですし、どうということのない方の存在を、こちらには悟らせないでしょう。書付にそのようなことを匂わせるということは、その人は、閣下にとってとても大事な方なのでしょうと、陛下やティアレ様と言い合ったことがございました」
 シノの言葉を聞くにつれ、イルバは理解した。
 彼女が、何を言わんとしているのか。
「……シルキスが、粉々に壊したっつうのは」
 ものではなく。
「……イルバさん」
 イルバの言葉を遮って、シノが呼びかけてくる。イルバは唇を引き結び、彼女の言葉に耳を傾けた。
「閣下は、もう、たくさんのものを失っているお人なのです。気が狂うくらい、たくさんのものを。だから、閣下の寂しさを埋める誰かが、とうとう閣下のお傍にいらっしゃるようになったのだとわかったとき、私たちは本当に喜びました」
 ジンは、この国にいたかったはずだ。
 だというのに、彼は一人、遠い場所で生きる。
 その孤独を埋める誰かの存在を、自分のことのように喜ぶラルトやシノの姿を、イルバは簡単に想像できた。
 シノはそのときの喜びを思い返しているのか柔らかく微笑んでいたが、やがてその顔が少しずつ、歪み始めた。今にも泣き出しそうな彼女の表情に、イルバはたまらずに呼びかける。
「シノ」
「壊されたのは、その、閣下の大切な人では、ありませんね?」
 震えた彼女の声は、まるで祈りのように響いた。
「ダッシリナにいるなど、嘘でしょう。どうせ、閣下がいない、その噂を聞いて、私たちを絶望に陥れるために、口からでまかせを言ったに決まっています。たった一人で罪を背負った彼に、これ以上不幸があってならない……」
 イルバは手を伸ばし、シノの頭を抱え引き寄せた。肩口に押し付けられた顔から、くぐもった声が漏れる。
「何故、運命は私たちを放っておいてはくれないの。なぜ、私の周りの人々ばかりに、こんなにも、たくさんの苦しみが降りかかるの」
 もう、充分、私たちは苦しんだでしょう――……?
 歩き続けて、歩き続けて。しかしまだ、苦しみに終わりはない。
 この試練は、いつ、終わるのか。
 イルバの衣服に爪を立て、嗚咽を押し殺す女の頭を抱えたまま、イルバは目を閉じる。
 シノの言う通り、シルキスの最後の言葉が、彼の虚構ならいい。
 しかしシルキスは、安易にそういった類の虚構は口にしない。もし仮に嫌がらせのためだけに嘘をついたというのなら、ダッシリナにいるなどといわず、もっと遠くの国で、ジンを殺したとでもいうだろう。
(シルキス、お前は、何をした?)
 ダッシリナで、本当にジンに出会ったのか。
 そして、もし本当に出会ったのだとしたら。
 彼に――あるいは、彼らに、一体何をしたと、いうのだ――……。


BACK/TOP/NEXT