BACK/TOP/NEXT

第十七章 遺言に従って 4


「馬鹿でしょう?」
 シノは笑顔を浮かべていたが、声色はこれ以上ないほど憤っていた。細められた目は非常に冷ややかで、リョシュンたちに手当てを受けながら、イルバは思わず萎縮する。
「いくら貴方様が私よりも頑丈な造りだからといって、血をだらだら流しながら会話を続ける馬鹿がどこにいますか! 会話なんて引っ立てた後でもいくらでもできるのですから、後回しにしたらよろしいでしょう!」
「すまねぇ」
「そしてカンウ様、貴方もこんな馬鹿男に遠慮していないで、引きずり倒すぐらいのおつもりで手当てしなさいな!」
「……申し訳ありません」
 リョシュンに傷の手当の役を明け渡したエイは、女官長に深々と頭を下げた。その顔は非常に引き攣っている。
 イルバは手当てを受けながら、腹部の傷の痛みに、気が狂いそうになった。先ほどまでは興奮していてよくわからなかったが、一度自覚すると激痛は容赦なく身体を蝕む。後で治療室に移動して、縫わなければならないだろう。
 歯を食いしばりながら医師たちが応急処置をしていくのを見つめた後、イルバは視線を動かした。
 衛兵たちに腕を引かれ、今まさに、部屋を退室しようとしている弟子がそこにいる。
 ふと、振り返った彼と目が合った。シルキスは何を思ったのか立ち止まり、口を開く。
「三手四手まで先を読めとおっしゃいましたねお師様」
 シルキスの声音には抑揚がなく、しかしよく通った。
「おい!」
 衛兵の制止もかまわず、シルキスは言葉を続ける。
「私はこの国を私の破滅に道連れにしたかった。どうしてこの国を選んだか、お師様にはお分かりですか?」
「……何故だ?」
 判らない、と首を横に振る。
 確かに、思い返してみればそうだ。
 どうして彼は、この国を選んだのだろう。
 彼の言う、愚鈍な民なら、祖国にこそ、溢れている。確かに、シルキスのいうような輩もいないことはない。あの、ハルマ・トルマに集まった人々がその証左だ。
 しかし、この都に生きる人々の大半は、彼が憎むような人々とは違うだろう。
 何故。
「私のほしいものは、いつも手に届かないまま」
 弟子は言った。
「手に入らないのなら、一緒に壊してしまえばいいと、思ったのです」
 弟子はイルバの問い答えることなく、淡々とそう言って、低く喉を鳴らした。
 民を思う皇帝も、彼を思って働く有能な人々も、彼らを理解し、日々の生活を穏やかに営む民人も。
 かつて自分たちが望んだものだ。けれど、自分たちの祖国では叶わなかった。
 有能だが狂った王。甘い蜜をすすることしか頭にない下官。嘆き、己の不幸の責任を他人に押し付ける、民人。それだけが、自分たちの手元にあった、全て。
「この都が炎に包まれていたら、皇帝陛下はさぞや嘆いたでしょう」
 彼は浮かべる。ゆったりとした、しかし、どこか、壊れた微笑を。
「けれど、今も不在の席が、永久に主を取り戻すことはないのだと知ったら、皇帝陛下は別の意味で、深く嘆くでしょうね」
「不在の、席?」
 何の話だと、首を傾げたイルバの隣で、ふいに声が上がった。
「貴方は」
 口を出したのはエイだった。
 彼の表情は強張っている。彼だけではない、シノもまた、先ほどの憤りはどこへと消えたのか、驚愕にも似た眼差しでシルキスを凝視している。血の気を失いながら戦慄く女官長の拳とシルキスを見比べていたイルバは、エイの掠れぎみに搾り出された問いを聞いた。
「貴方は、閣下に、会ったのですか?」
 閣下。
 エイが、そんな風に敬称を使う相手は、たった一人のはずだ。
「ジンか?」
 エイもシノも、イルバの問いに頷かない。ただ、視線をシルキスに投げかけている。
「一体、いつ、どこで、会ったのですか!?」
 身を乗り出しながら、エイが叫ぶ。その追求に、シルキスは満足げに口元を歪め、踵を返した。
「あの男はダッシリナにいますよ」
 シルキスの回答に、周囲は沈黙する。エイもシノも、実に険しい表情を浮かべ、シノに至っては今にも倒れそうなほど血の気を失っている有様だった。
「けれどこの国には、もう戻らないでしょうね」
「何故だ……?」
 背を向けるシルキスにイルバは問うた。しかしシルキスは振り返らず、衛兵たちを促すようにして歩き始める。
「大事なものを、粉々に、壊してさしあげたのです」
 かつり、と踵の音を響かせて、子守唄を歌うような優しい音律で彼は言う。
「私の望むものはいつも奪われる。ならばたまには、逆に奪ってあげても、よいでしょう?」
 足音が遠ざかり、部屋が静まり返る。
 エイとシノは、沈黙したままだ。二人とも同じように顔を強張らせていたが、微妙に差異があった。
 エイは困惑のようなものを滲ませている。一方のシノが浮かべる表情は、困惑というよりも何かを訝っているように見えた。
 シルキスの言葉の意味、そして二人の表情の理由を尋ねようと口を開きかけたイルバは、男の叫びに弾かれたように面を上げた。
「う、動くな!!!!」
 絶叫したのは、すっかり存在を忘れていた、ソンジュ・ヨンタバルだった。
 彼は女官の一人を腕の中に拘束し、先ほどシルキスも持っていた懐剣を彼女の頚動脈に突きつけている。手にしている剣も、果物の皮を剥くためのものと、さほど大きさの変わぬ小振りのものだったが、人を殺すには充分なものだ。身体検査はしただろうに、いったい検問の官吏は何をしていたのやら。
 ただ、ソンジュの獲物を握る手は、ひどく震えていた。人を殺したことが、ないのだろう。とはいえ、恐慌状態になると何をしでかすか判らないのが素人だ。
「わ、わわ、私を! 私を捕まえようとしてみろ!! こいつを殺すぞっ!!!」
 彼はそう叫び、女官を腕に抱えたまま、じりじりと後退していく。イルバは思わず身を起こしたが、医者たちに肩口を押さえつけられた。
「落ち着きなさい」
 一歩踏み出し、ソンジュに向けて冷静に語りかけたのはエイだ。
「そんなことをしても、何にもなりません」
「く、くるな……!!!!」
「閣下」
 声を上げたのは黙っていた女官だ。彼女は大丈夫だといわんばかりにこちら側に目配せし、沈黙を保ったまま、ソンジュに引きずられていく。
 やがて、扉は乱暴に閉じられた。
「お、おい! お前なんでそんな平然な顔してやがるんだ!?」
 沈黙した扉を指差し、イルバはエイを仰ぎ見て思わず叫んだ。
 力ない女官が一人、人質に取られたのだ。本来なら即座、兵を招集して追跡に当たらせるべきなのに。
「大丈夫でしょう」
 エイは、まるで人事のように言った。
「大丈夫ではありません!」
 叫んだのはシノだ。彼女もまた、部下の身を案じてか蒼白な顔をしている。しかしエイは小さく頭を振り、大丈夫ですよ、と微笑んだ。
「スクネが控えていたはずですから、後を追っているはずです」
 はっとなって、イルバは周囲を見回した。
 そういえば、医者を呼びに行った姿を最後に、スクネを見ていない。ということは、廊下の外辺りで控えていたのか。
「あともう一つ付け加えるなら――……」
 エイはそう言って、彼にしてみれば珍しく、意地悪く口元を歪めて見せる。
「彼女は、私よりも、運動、得意なんですよ」
 エイの言葉の意味が判らず、イルバは大きく首をひねって呻いた。
「なんじゃそりゃ」


 何故だ何故だ何故だ。
 ソンジュは女官の腕を掴み、歩きながら考えていた。何故だ。一体どうして、自分はこんな風に貧乏くじばかり引かされるのだ。
 昔からそうだった。盟主の甥というだけで近寄ってくるものは後を絶たないのに、その誰もが期待する価値が自分にないとわかると、手のひらを返したように去っていく。盟主もまた、そんな輩に制裁を加えるわけでもない。彼女はあくまで、ソンジュには無関心だった。
 盟主の気を引こうと、様々なことに挑戦した。だがどれも、上手くいかない。こんな風に、貧乏くじを引かされる。
 ソンジュは焦燥に苛立ちながら、周囲を見回した。城の造りは一見簡素だが、どれも似たり寄ったりのせいか、ぐるぐると同じ場所を歩いているような気がしてならない。このままでは追いつかれ、つかまってしまう。
 捕らえられたその先を、ソンジュは考えたくなかった。
「くそ、くそ、くそ! それもこれも、盟主のせいだ……シルキスのせいだ! あいつが、あいつが、こんなことを持ちかけなければ……!」
 シルキスが、現れなければ。
 盟主に一矢報いてやろうとは、思わなかったのに。
 こんな風に、追われて逃げ回ることも、なかったのに。
 ふと。
 女官がくすりと笑った。
「――……何がおかしいっ!?!?!?」
 立ち止まって振り返る。腕をとられたまま、女官はくすくすと笑っている。この女、本当に自分の置かれている状況がわかっているのだろうか。それとも、恐怖で気がふれたのだろうか。
 後者の考えを、ソンジュは打ち消した。ひたりと自分を見据える女の眼差しは、とても気の狂ったものの目には見えなかったからだ。
「あの、シルキスという男が、何故貴方が終わりの旅の供に選んだのか、判った気がしたのです」
 女は言った。
「……なんだ、と?」
「貴方こそ、あの男のいう愚鈍な民の代表のようなものだったのでしょう。何も考えず、ただ、自分の不幸を他人のせいにする」
「黙れ!」
「そろそろ終わりにしていいですか?」
 黙れというのに、女は黙らない。
「腕が、痺れてきましたので」
 そういって微笑む女の口を、今すぐ塞いでやりたくて、ソンジュは小さな刃を振り上げた。
 刹那。
 くん、と、何かが体に絡まる。
 それが何か理解するべく視線を下げたソンジュは、女官が自らの手から解放されていたことに気づかなかった。
 ドゴッ……
 鈍い衝撃が、顎を襲う。
 そしてそのまま、ソンジュは仰向けに転倒した。
 次に目を覚ましたとき、盟主の冷ややかな目に見守られながら、彼女から制裁を受けることになるのだと、知らぬまま、彼の意識はずぶりと闇に呑まれていったのだった。


「挑発しすぎではないか?」
 かつり、と靴音を響かせて、文官が一人歩み寄ってくる。スクネと呼ばれる文官は、この国の左僕射の懐刀であり、自分の“同属”だった。
「レン」
「単純な男のようでしたから、少しこちらに気を向けさせたほうが、貴方も近づきやすかったでしょう?」
 レンはスクネに一瞥をくれてやった後、今しがた自分が顎を蹴り飛ばし、悶絶させた男を見下ろした。男は泡を吹いて、廊下の石畳の上にひっくり返っている。その、間抜けな様子といったら。
 傍らで足を止めたスクネが、肩をすくめてレンに応じる。彼は無言のまま、ソンジュの身体を絡め取っていた鋼糸を回収した。
「あまり無茶をしないように」
 ソンジュに強く握られすぎて、赤く跡のついたレンの腕を手に取りながら、スクネが嘆息する。
「貴女はいまや、女官なのだから、あまり生傷を作るべきじゃない」
「それを言ったら、あなたも文官ですよ」
 スクネの手が離れた腕を引き寄せながら、レンは嘆息する。
「私は男ですから、多少は許されます」
「……差別だわ」
 その発言の、何がおかしかったのだろう。
 声を立てて笑うスクネを、レンは怪訝さに眉をひそめながら見上げた。
 彼は笑みを消すと、片膝をついてソンジュの身体を軽々と肩に担ぎ上げた。細身に見えて、さすがというべきか、力がある。男の身体は決して軽いものではないだろうに。
 一緒に回収したソンジュの懐剣を、彼はレンに手渡してくる。
「さて、戻りますか」
 そういって歩き始める文官の横に、レンは嘆息を隠さず並んで歩いた。
 文官だの女官だの、何はともあれ、この国を守る同志には違いない。この国にいるかぎり、自分は決して一人ではない。彼のような同志がそこかしこにいるのだ。
 レンはちらりと、スクネに抱えられている気絶したままの男を見やる。
 哀れで、そしてくだらない男だ。このような男に、自分たちの国を壊されずに事態が終わりつつあることに、レンは安堵を覚え、そして完璧に終わるまで気は抜けぬと、再び身を引き締めながら、足に力を込めたのだった。


BACK/TOP/NEXT