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第十七章 遺言に従って 3


 彼は、金とともに与えられた小さな石を見ていた。玻璃の玉のような小さな石は、これを与えた男の言う通り、突如光を宿して明滅し始めた。合図か、と立ち上がる。招力石、と呼ばれる石の中でも、それなりに価値のあるものではないかと思った。売り払って、このまま逃げ出そうかとも考えたが、確かにこの国に一矢報いてやるのも悪くはないと思っていた。皇帝が代替わりし、誰もが彼の治世で安寧を貪っていたが彼は違った。彼は虫けらだった。いくら働いても豊かにならず、いくら努力しても報われなかった。彼は自分をそのような男だと、信じていた。
 彼に与えられた仕事はたいしたことではない。街角に刻まれた小さな陣に、招力石と同じく金とともに渡された石を、置いて砕くだけ。
 その刹那、この街は炎に包まれるだろうと、金を渡した男は言った。
 上等じゃないか。
 彼は口元を愉悦に歪め、自分を見下し続けてきた少しばかり裕福な輩を思い返した。あの人を小馬鹿にした眼差しが死の恐怖に歪むと思えば、胸がすく思いだった。
 指定された場所、古い建物の礎に刻まれたくぼみと、魔方陣を確認する。そのくぼみに言われた通り石を置き、それを砕くべく、荷物の中から金製の小槌を取り出す。
 彼は、笑いながらそれを振り上げ――そして、鈍い衝撃を後頭部に覚えたのだった。


 がたんと、音がした。
 それは人が一人、後ろ手を縛られたまま、部屋に放り込まれ、転倒した音だった。
 シルキスの目が僅かに見開かれる。イルバは静かに弟子を見つめたまま、口を開いた。
「お前の考えることなんざ、つつぬけだ。シルキス」
 望みは何かと問うたイルバに、弟子は破滅だと繰り返す。
 そんなこと、知っていた。
 己が娘、セレイネが、海に身を投げたその日から。
「ただ、お前の死にたがりに、懸命に生きてる奴ら、巻き込むんじゃねぇよ」
 イルバはシルキスの肩越しに、部屋に投げ込まれた男を一瞥する。浮浪者のなりをした、長い髭を蓄えた老人だった。濁った目には、恐怖の色がある。それはそうだろう。突如捕らえられ、牢屋に入れられるだけでも恐怖だろうに、このような場所に引き出されては。
「お前のことだ。阿呆な小細工ぐらいしてくると思ったぜ。とりあえずあいつみたいな、お前が金で雇い入れた奴らは潰しておいたからな。こういう時、兵士を自由に配置できる権力って便利だよなァ。……他になんか、打つ手はあるか? シルキス」
 イルバの言葉に、シルキスは沈黙している。イルバは膝の上で手を組みなおした。
「昔教えただろう。自分の思い通りにことを運びたいなら、三手四手先まで、準備をしておけってな」
 それとも弟子は、思い通りにならなくてもいいと、思っていたのか。
 イルバは嘆息した。
「変な気は起こさないほうがいい。ダッシリナからは捕縛要請が来ている。生死は問わぬときた。同時に、こちら側からも他国に要請し、お前ら二人を国際犯罪者と認定した。四大陸の主要国家をはじめとするほぼ全ての国家は要請を呑んだ」
 世界で犯罪者と認定されることは非常に稀だ。だが一度認定された者は、国の移動が単独では不可能となる。誰もが持つ内在魔力が、世界中の関所に登録されるからだ。内在魔力は個人差が大きく誰一人として同じ魔力の質を持っているものはいない。そしてどれほど姿かたちをかえようと、魔力の質は変わらない。人の目を欺くことはできても、関所に埋め込まれた招力石は欺けない。
 世界全土を揺るがすと認定を受けた犯罪者を確実に捕縛するための古い技術。これを行うためには、政治的にもかなり根回しが必要となる。短期間に行うことができた理由は、シルキスの今までの足跡――小さな革命じみたものを起こしては姿を消すということを繰り返していた――が一つ、諸島連国による署名を、イルバのかつての同僚アズールが、書き起こしてくれたことが一つ、そして、ラルトの名声によるところが一つ。
「犯罪者ですか」
 シルキスは笑った。
「私の何が、犯罪だというのですか?」
 何も、悪いことはしていない。善悪の判らぬ子供のような目をして、弟子が問う。
「……言っただろう。遠い昔に」
 イルバは答えた。
「民主主義とは諸刃の剣。この世界を根底から覆す。そしてこの世界は民主主義を実行するにはあまりに未熟だ。その理論を、純朴な民に説いて、世界各地で暴動を繰り返した。そして、今回のハルマ・トルマだ。お前のつまらぬ理論の確認のために……一体何人の人間が犠牲になったと思っている!?」
 イルバは立ち上がり、シルキスを半ば立たせるようにして、彼の胸元を掴みながら弾劾した。
 シルキスが、世界各地で引き起こした暴動の規模、一つ一つは小さい。しかしその中に巻き込まれ、人生を狂わされた人は数知れない。
「さぁ」
 イルバの手に、落ち着けといわんばかりにシルキスの手が触れる。
「シルキス」
「何人犠牲になろうと知ったことではありませんよ」
 微笑んで、シルキスは言った。
「どんなことにも、犠牲はつきものです。それを、身をもって教えてくださったのは、他でもないあなたではありませんか? お師様」
 シルキスが、セレイネのことを言っているのは明白だった。最愛の娘。あの、父に裏切られたと知ったときの彼女の表情を、イルバは一生忘れないだろう。
 シルキスが、低く笑いながら続けた。
「貴方こそ、犯罪者だ。えぇ、確かに立派ですよ。幾万の民と、一人の最愛の娘を天秤にかけて、迷うことなく娘を差し出した。とてもご立派です! そして全てから逃げ出した――その結果、ナスターシャ様もお亡くなりになった。ワジール王は狂ったまま亡くなった。セレイネなど、一人で、たった一人で、海に身を投げた。彼女は貴方を信じていた――信じていたのに!」
 興奮からか立ち上がり、暗い光を宿しながら彼はイルバを糾弾する。
「私からしてみれば、貴方こそ、私の周りから大切なものを奪っていった犯罪者です」
「……シルキ」
「何故ですか? お師様」
 シルキスを見返して、イルバは呼吸を止めた。
 狂気に目を見開いたまま、青年は涙を零している。
 血の気の失せた唇は小刻みに戦慄き、握りこまれた拳の色も青白い。爪が手のひらに食い込んでいるのではないか。そう思わせるほどに、強く握られた拳。
 ワジールに傷つけられ、もう光を宿すことのなくなった瞳を覆う片眼鏡が、鈍色に輝いていた。
「何故、今更になって、私の前に、現れたのですか?」
 長い間、逃げ続けてきた。
 イルバは、逃げ続けてきた。
 己の犯した罪から、娘と妻の亡霊から、かつて仕えた君主の呪詛の言葉から、そして――闇の中に置き去りにしてしまった、息子同然だった、弟子から。
 でも、それももう、終わりにしなければならないと、嵐の夜に打ち上げられた、一人の女に気づかされたのだ。
「言っただろうが」
 胸中に湧き上がる後悔に苦いものを覚えながら、顔を歪めてイルバは答える。
「ヒトサマに迷惑かけてる、不肖の弟子を叱りとばすためだ」
 シルキスは、親を見つけた迷子の子供のような顔をして――すこし、身を乗り出した。
 ず、と。
 腹部に、熱を感じる。
「――っ!?」
「わぁあああぁあぁぁ!!!!!」
 イルバよりも早く、起こった事を認識したのは、シルキスの傍らに腰掛け、全てを傍観していたソンジュだった。
 彼が半狂乱になりながら立ち上がり、その場から逃げ出し始める。しかし彼は椅子から数歩離れたところで足を縺れさせ転倒した。
 その、あまりの唐突さに、周囲は怪訝な表情を浮かべたままその場に立ち竦んでいる。一人ソンジュと入れ替わるように早足で近づいてきたエイが、部屋の戸口に控えていたスクネに命令する。
「医者を呼んで!」
 その叫びで、イルバは自分の身に何が起こったのか認識した――シルキスに、懐剣で刺されたのだ。
 熱を持った部位を手で押さえ、椅子の脇息にもう片方の手をついて、よろけた身を支える。腹部を押さえる手の隙間から、徐々に漏れ出る赤い色と、指先を侵食していく生暖かさ、鼻につく鉄臭さに、イルバは思わず舌打ちした。
 立て続けに、耳元に、慌しい足音が弾ける。
「大丈夫ですか!?」
 エイがイルバの身体を傍らから支えながら尋ねてくる。だがイルバには彼の問いに応じる余裕がなかった。
 シルキスを、仰ぎ見る。部屋の外につけていた見張りの兵を、スクネが呼び込んだらしい。衛兵に両腕を拘束され、長椅子の傍から引き剥がされようとされながらも、シルキスの表情には狼狽も恐怖もない。
「私は思うのです、お師様」
 彼の口調は、とても穏やかだった。
「確かに私も罪人ですが、それでもこの世界に罪人は大勢いると思うのです。自分の保身しか考えず、政の知識も無いくせに、執政者の行動一つ一つに不満を訴え、では何をしてほしいのかと問えば具体的なものなど何一つでてこない。守られることに慣れきり、自分の生活を守るために、自分で考え、自分で立ち上がることを一切しようともしない愚鈍な民。あの馬鹿馬鹿しいものたちの命のために、セレイネが……誰よりも、懸命に生き、誰よりも、他者を思い、皆で、幸せになる方法を模索していた彼女が……何故、犠牲にならなければならなかった!?」
「シルキス……」
「そして貴方もです、お師様。あんな者たちのために、セレイネを突き出した、貴方のことが私には理解できないっ!!!」
 傍らを固める衛兵に、小さな懐剣を取り上げられたシルキスは、血に濡れた拳を振り上げるようにしながら、声を荒げた。
「彼女は遺言を残したのです」
 彼は続けた。
「セレイネは、遺言を残したのです。最後に。皆が、幸せになれる方法を、探して――……それが、私の務めだろうと、彼女は笑った。政で、皆を幸せにできる方法を、探してと、彼女は言った。あんなになったのに! あんなふうに、たった一人で、身を投げたのに!」
 知らない。
 そんな遺言を、イルバは、知らない。
 娘と最後に言葉を交わしたのは、ワジールに彼女を突き出す前だった。彼女が何を思って死んだのか、イルバは知らない。ある日、眠りから目覚めると、娘の遺体が浜辺で上がったと聞いた。それだけだった。
「私はその方法を探しましたよ」
 シルキスは言った。
「えぇ、探しました。だって彼女が私に残した最後のものだからです! 私に残された、最後の意義だった! 私が学んで培ってきたものは、本当は彼女を幸せにするためのものだった! それが壊れてしまったのなら、せめて彼女の死の間際の願いだけでも叶えたかった……!」
「シルキス……」
「私は見つけましたよ。皆の意思が反映される方法。皆が、幸せになれるはずの方法! 王などという権力者に振り回されず、自分の意思で世界を決定できる方法! けれど何度も、何度も、何度試しても、同じ結果になる。皆、愚鈍だからだ!!」
 自分の血流の音と、シルキスの痛切さすら滲ませる絶叫だけが、イルバの耳に響いていた。
 貧血で遠くなりかける意識を、彼の叫びだけが繋ぎとめている。あぁ、哀れな、シルキス。彼もまた、ずっと亡霊に囚われて。
「……そんなものたちなど、皆、死んでしまえば、いいのですよ」
「やつらは、皆、自分のことに、手一杯な、だけだ」
 イルバはエイの手を振り払い、立ち上がりながら言った。
「奴らは、愚鈍なんじゃねぇ。ただ、余裕がねぇだけだ! 自分の生活に、手一杯なだけだ! 自分が愛する人間を守ることだけで、手一杯なだけだ!」
 人は余裕がないとき、誰も省みることができなくなる。
 自分の傍にいるはずの人ですら見失うのに、政治家など、彼らが省みるはずがない。
「死んでいい奴なんざ一人もいねぇ! ただの一人もだ! 生まれただけで、幸せになる権利が誰だってあるんだ!」
「しゃべらないでくださいイルバ殿!」
 興奮にイルバが叫んだ拍子に傷口が開いたらしい。押し出されるように、零れた血を見て、エイが叫ぶ。彼の手には、裂いたばかりの布が握られていた。
 手当てに伸ばされる彼の手を押しやり、イルバは叫び続けた。
「時に、親だの、兄弟だの、周囲だのに、愛されてねぇ奴らがいる……幸せの意味を、しらねぇやつらだ」
 大きく肩を揺らしながら、イルバは呻いた。
 誰にも、祝福されずに生まれたものがいる。
 例えば、自分のような。例えば、シルキスのような。
 街の片隅で、虫けらのように生きている人々。
「そういう奴らに、せめて、国からは愛されてるんだって、判らせてやるのが、俺たち政治家の仕事だろう」
 祝福されなかったものが、せめて、幸せや、平穏の意味を知ることのできるように。
 そのための、土台を作るのが、自分たちの仕事だ。そのために、自分たちは名も無き民を案じる。
「セレイネは……お前に、その意味を、忘れて欲しく、なかったんだ……」
 娘はきっと、愛する恋人に、忘れて欲しくなかったに違いない。
「お前に、忘れて欲しくなかったんだ。あの国に、ガキの頃の俺や、お前みたいな奴らが、まだ、手を差し伸べられる日を待ってるっていうこと。セレイネは、お前に、あの国を、人を、愛したままでいてほしかった……」
「セレイネをあの王に突き出し、彼女を死に追いやった貴方に、彼女を語ってほしくない!!」
 シルキスは叫んだ。
「貴方に一体、セレイネの何がわかるっていうのですか!?」
「判るさ」
 イルバの即答に、シルキスが息を詰めて瞠目する。
 イルバは苦笑交じりに、続けた。
「だって、セレイネは俺の娘だからな……」
 シルキスの言葉を聞いて、ようやく判った。自分が、長い間勘違いしていたのだと。
 イルバは長い間、セレイネは父親に裏切られた失意のうちに自らの命を絶ったのだと思っていた。いや、事実、その通りでもあるのだろう。しかしもう一つ、彼女を死に駆り立てたものが、あったのだ。
 セレイネは、人を憎むということを厭う娘だった。それはイルバやシルキスの素性が、もともと誰かから厭われ続けてきたものだということがあったのだろう。優しい娘だった。母親のナスターシャから強さと優しさを受け継いだ、誇りに思える娘だった。
「お前に、誰も憎んで欲しくなかったから、誰かを愛したままでいてほしかったから、お前だけに、遺言を残した。……誰も、憎みたくなかったから、その前に」
 身を投げた。
 憎むのは、父だけでいい。
 そう思ったのかもしれない。
 誰も、憎みたくない。
 そう思ったのかもしれない。
「お前は単純に、死にたかっただけだろう? シルキス」
 イルバは尋ねた。シルキスは、答えない。
「破滅したかっただけだろう? 他でもない、お前が」
 全部全部、終わりにしたかっただけだろう。
「でもお前、この七年で、お前、誰にも、出会わなかったのかよ……?」
「誰にも……?」
「七年だ。もう、八年目になる。世界中あちこち歩いてきて、お前、誰にも、出会わなかったのか? お前を、闇から、引き上げるような奴に。お前が、憎みたくないと、思うようなやつに」
 シルキスは、一瞬あっけに取られた表情を浮かべ、そして思案顔で目を伏せた。
 苦々しく引き結ばれた弟子の口元に、イルバは沈黙する。
 ふと、廊下の向こうから響く慌しい足音を聞きつけ、イルバは面を上げた。扉を勢いよく開いて現れた女に、驚愕する。
「し、シノ?」
 手を前に組んだまま、そそと、しかし怒りを踵に滲ませて歩み寄ってくるのはこの国の女官長だ。彼女はリョシュンを筆頭とする医師数人を率いていた。
 彼女の表情に、振り向いたシルキスも、そして彼を拘束する衛兵も、表情を強張らせる。女官長はシルキスの前に立つと、一度にこりと笑みを浮かべた。
 とても柔らかいが、絶対零度の微笑だった。
「貴方が、ことの首謀者だと聞きました」
 シノはシルキスに言う。
「間違い、ありませんね?」
 シルキスは答えないが、その沈黙を、シノは肯定と取ったようだ。
 そして次の瞬間には、彼女の手がシルキスの頬を思いっきり叩き飛ばしていた。
「――っ!?!?」
「お、し、おまえ、シノ、一体なにやって!」
「右僕射閣下は黙って手当てを受けていなさい!!」
 シノが寄越した一瞥は、氷の刃よりも鋭く冷ややかである。
 その剣幕に呆然となり、力が抜ける。傍らを支えていたエイの腕が、やんわりとイルバの身体を椅子に引き寄せた。わらわらと、光に群がる昆虫のように、医師たちが駆け寄ってくる。
 乱暴な手当てを受けながら、イルバはシノを見つめた。
 彼女の華奢な肩から、怒りが透けて見える。彼女は両手で乱暴にシルキスの胸倉を、文字通り、掴みあげた。
「貴方が起こしたつまらないことで、私の周囲のものが死んでごらんなさい」
 口付けしているのではないか、そう思えるほど顔を近づけて、彼女は言った。
「私が貴方を、なぶり殺しにして差し上げます。一息には殺さない――……地獄を見せてさしあげます。一生を、懸けて」
 そして彼女はもう一度シルキスの頬を叩き、衛兵に尋ねた。
「何故、拘束するだけで連れて行かないのですか? 最高の牢の部屋は、もう準備してありますよ」
 衛兵が困惑し、そして助けをシノの背後のこちらとエイに求める。その視線に嘆息したエイが、命令した。
「連れて行って」


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