BACK/TOP/NEXT

第十七章 遺言に従って 2


「昴の二」
 まず、シルキスが駒を動かす。
「……大層な自信です。貴方はいつも自信ばかりおありになる」
「角の四」
 次に、イルバが間をおかず駒を進めた。
「根拠のねぇ自信を持った覚えはねぇよ」
「根拠?」
 思わず鸚鵡返しに尋ねながら、シルキスは笑った。
「ならばおっしゃってください。貴方には何ゆえ、それほどまでに余裕がおありになるのか」
 一拍置いて、シルキスは駒を進めながら付け加える。
「――皇后の命を天秤にかけているというのに、このような遊戯を持ち出すなどと。皇后の命がそれほど惜しくはないとみえますが」
 自分たちは脅迫したのだ。いざとなれば、今すぐにでも、懐に忍ばせた<伝達>の招力石を使って、ハルマ・トルマに常駐するこちら側の人間に、彼女を殺せと命令できる。
 伝達の招力石はこの世に存在する数も少なく、固定された場所に向けてしか託できぬ上に、一度に遅れる言語数が限られている。さらに一度使えばしばらく使えないという不便さだ。それでも距離をものともせず、遠くへ言葉を伝えられるという利点がある。ある程度の歴史をもつ国ならばいくつか所持しており、ダッシリナも例外ではない。ダッシリナ側から、伝達の招力石が自分たちと共に一組消えたという話は、こちら側には届いていないのだろうか。
「房の一」
 こつん、と駒を置いて、イルバが答える。
「惜しくないわけじゃない。ただ、確信を抱いているだけだ」
「確信?」
「皇后陛下が、殺されることはないという、確信」
 駒が、進められる。師の駒の配置は、相変わらずでたらめだった。すぐに勝敗は決するだろう。勝利へ向かって駒を進めながら、シルキスは嘆息して言う。
「貴方は相変わらず、根拠もなくそのようなことを言う」
「けれど俺の勘が外れたことはない。違うか? シルキス」
 自信たっぷりに師はいう。シルキスは否定しなかった。事実、その通りだった。
 しかし。
「それでも根拠無き、たかが勘などを信じるつもりは私にはありません」
「最終的に物事を判断するものこそ、勘っていうんだ。覚えておけ」
 こつり。音を立てて駒を進めながらイルバは笑う。
「それにすぐに俺の勘があながちでたらめにいっているものではないと判るさ」
 イルバの呟きにシルキスは思わず眉をひそめる。彼の言葉の意味をシルキスが尋ねるよりも先に、答えは 扉の向こうよりもたらされた。
 こんこん
 軽い叩扉の音が聞こえ、扉傍近くに控えていた文官が扉を開く。シルキスが振り返ると、一人の文官が深く一礼し、部屋に足を踏み入れているところだった。
「ご報告いたします」
 ゆっくりと面を起こした後、文官は言った。
「ハルマ・トルマから連絡が。無事制圧し、皇帝皇后両陛下共、無事とのことです」
 その報告にシルキスの傍らでソンジュが息を呑む。シルキスも僅かばかり瞠目した。ソンジュは、あのラヴィが守っていたハルマ・トルマが奪還されてしまったことに驚いているのだろう。ラヴィのソンジュに対する忠誠心とやらを頭から疑っていたシルキスは、ハルマ・トルマが制圧されたことに関してはさほど驚かなかった。むしろ驚いたのは、皇帝があちらにいるということだ。
「……皇帝陛下自らが出兵されたのか」
 たかが、ハルマ・トルマの暴動如きに、合理的と有名な皇帝が。
 シルキスの呟きに、イルバは笑う。
「囚われの姫君を救うのは、姫を心から愛する王子だと相場は決まってる」
 子供向けの昔語りで使われる王道の設定に、イルバは皇后と皇帝をなぞらえた。
「言っただろう? でたらめに言っているんじゃねぇってよ。皇帝が剣を携え、命を懸けて皇后を迎えに出たんだから、皇后は無事なのは当然だろうぜ」
「命を懸けたから救われるとは限らないでしょうに」
「確かにそうかもしれねぇ。けれど現実に、皇帝と皇后は無事なんだ」
 イルバの駒が盤の上を行く。最後の配置を見下ろして、シルキスは眉根を寄せた。こちらが勝っているとばかり思っていた駒が、いつの間にか伏兵に追いやられ、勝敗を覆されていたからだった。
「さて、これで脅迫の種は無くなった。それでも望むか? デルマ地方の独立を?」
 勝敗の決した盤を放置し、イルバが悠然と手を膝の上で組む。かつての師を仰ぎ見ながら、シルキスは口元を引き結んだ。傍らにいるソンジュは何も言わない。上手くいきそうだったことが上手くいかないということがはっきりと判った。そのことに、彼は恐れ慄いている。
「望みます」
 シルキスは微笑んで答えた。
「政に虐げられ、人の尊厳を奪われ続けた民人が、彼らだけの国を手にするためには土地が必要です」
「本当に、そう思っているのか?」
「……本当に、とは、どのような意味でしょうか?」
「政に虐げられた民人が、土地を与えられただけで、本当に、独立できると思っているのかと訊いている」
 師は、シルキスの胸の内を見透かしている。
 シルキスは静かに瞼を閉じ、イルバの言葉に耳を傾けた。
「見てきただろうシルキス。お前は、見てきたはずだ。土地を与えられても、自ら考え、自ら選び、自らの選択に責任を持てぬ民に、国を興すなどできるはずもなければ、当然国を維持することなどできるはずもない。バヌアでも、他の国でも、思い知ったんだろう? シルキス。未熟なこの世界では民主化など夢のまた夢だ。たとえ土地を与えられたとしよう。バヌアのように、民人が一つの土地を勝ち取ったとしよう。けれどその後どうなる? 無知なものたちの残されるのは何もない荒廃だ。そして、その荒廃を嘆き、今度は皇帝や、王ではなく、独立を唆したお前を責めるだろうよ」
 事実、バヌアの民はシルキスを責め立てたのだ。シルキスだけではない。イルバもまた、責め立てられた。
 バヌアの革命の熱が冷めたとき、民人は呆然とした。誰も政などわからなかった。誰も国を運営するなど、考えてもみなかったからだ。産声を上げたばかりの国を助けるはずの官夫たちは皆、革命の勢いに、自らの首も取られるのではと、恐れおののき国を捨てていた。国が立ち行かなくなったことを知った人々は――……当然の、ように。
「えぇ、知っていますよ」
 この、あまりにも馬鹿げているソンジュの計略に一枚噛んでやったのは、別段、貧困に喘ぐ民を救うためでもなければ、彼らの英雄になってやるためでもない。かといって、ソンジュを哀れみ、彼に同情を寄せたからでもない。
 全てが終わった後、責められ、追い立てられることなど、知っている。
「シルキス」
 イルバが、尋ねてくる。
「お前は、本当は、何を望んで、こんなことをしでかしやがった?」
「決まっているでしょう」
 シルキスはただ、微笑んだ。
「私が望むのは唯一つ」
 イルバの糾弾の眼差しに、真っ直ぐ応えてシルキスは言った。
「破滅ですよ」
 シルキスの回答を聞いたイルバの顔に、驚きの色は無い。
「……シルキス、何を言っている?」
 呻いたのはソンジュ。シルキスは彼の言葉を無視し、イルバに続けた。
「独立を勝ち取ったあと、阿呆な民は呆然とするがいい。己の無知を思い知り、ただ、破滅すればいい」
「ふん。シルキス、俺は言わなかったか? 皇后は救い出され、ハルマ・トルマはすでに制圧されている。こちらがデルマ地方の独立を認める理由など何もない」
「果たして、そうでしょうか」
 シルキスの呟きに、イルバが口を閉ざす。シルキスは懐から小さな石を取り出した。
 <伝令>の招力石。実際に言葉を伝える<伝達>の招力石に質は劣るが、合図を送るだけならばこれで充分である。シルキスが呪を唱えれば、金を握らせた男たちの手元にある招力石に合図がいく。
「確かに、今となっては、デルマの独立などどうでもいい。……お師様、皇帝皇后両陛下は、今、こちらへの帰途にあるのでしょうね」
「……たぶんな」
「では、彼の方々が、自分の帰りつく街が火の海になっていたとしたら、両陛下はさぞや、お嘆きになられるでしょうね」
 この、都に。
 仕掛けを施してきた。
 何も考えぬ無知なものは愚かしく、けれどひどく扱いやすい。
 金子を握らせるだけで、その意味を考えずに、事を実行に移してくれるのだから。
「お前の本当の望みはなんだ?」
 師はその問いばかりを繰り返す。そのことに半ば飽きを覚えながら、シルキスは再び答えた。
「破滅ですよ」
 そして小さく呪を唱える。
 手元の招力石が、鈍く光った。


 遠い昔、人を憎んでいたことがあった。
 皆、自分を虫けらのように扱った。憎かった。同じ形の手と足を持ちながら、一体何が違うのだろうと。
 遠い昔、人を愛していたことがあった。
 皆、自分を優しく見守ってくれた。愛していた。
 そして自分が学んできたことは、彼らを守り幸せにするものだと信じていた。
『ねぇ、シルキス』
 あれは夜更けだった。一瞬夢かと思った。夢だったのかもしれない。海は凪ぎ、満天の星は宝石のように煌いて、静寂が優しい、あの国の、最後の平和な夜だった。
 白い衣装を身に着けた彼女は窓辺に立っていた。裸足の足のくるぶしを、なぜか奇妙に覚えている。しばらく、姿を見なかった。久方ぶりに見た彼女は、ひどく痩せていた。
『ごめんなさいシルキス』
 振り返った彼女は泣いていた。紫紺の瞳は暗く、白目が青白く濡れ輝いていた。
『シルキス』
 泣きながら、彼女は幾度も名前を呼ぶ。
 もう、呼ぶことがないのだとでもいうように。
 惜しむように。
『私、あなたの妻に、もう、なれない』
 愛していた。愛していた。愛していた。
 自分の周囲の人々を。自分を救い上げてくれた人々を。
 そしてこの幸福が、当然のように続くと信じていた。そのために、彼らが幸せであり続ける国を作るためだけに、ただ、自分は政を学び続けてきたのだから。
 その努力は、必ず結実すると信じていた。
 彼女はゆっくりと歩み寄り、その血の気失せた指先をこちらの頬に触れさせる。
 そして最後に、彼女は遺言を残したのだ。


BACK/TOP/NEXT