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第二章 多幸の採択者 1


「納得が、いかん!」
 頬を膨らませてヒノトは机を叩いた。その振動で積み置かれていた書物の類が大きく傾ぐ。慌ててそれを支えながら、向かい合う青年が小さく嘆息を漏らしていた。
「落ち着いてくださいよ」
「これが落ち着いていられるか!」
「ならば声だけでも潜めてください」
「消音の招力石が揺れておったであろうが。誰が壁や天井に耳をつけたところで、この部屋におらぬものには聞こえはせぬ」
「おや、気付いていましたか」
「お前よりは目端利くつもりじゃぞ、エイ」
 左僕射エイ・カンウ。ヒノトの身柄を預かる青年は、疲労を滲ませながら、浮かせていた腰を再び椅子につけた。ずり落ちかけた書物の角を机の上で揃えて、彼はまったくもう、と再び嘆息。
 黒髪黒目の、人の良さが滲み出た優男。遠目にみれば女にも見えるかもしれない。この国の宮仕えの人間の多分にもれず、長い髪をうなじの辺りで縛っている。青竹色の袍に黒の帯だけという上級官職にはあるまじき簡素な出で立ちだ。ここが、誰も彼に物言わぬ、彼に与えられた一室だからであろうが。
「まぁ、言い分は判りますけどね、ヒノト」
 彼は机の上に頬杖をついて言った。
「いや、全然お前はわかっとらん。ティアレがどれだけ喜んだと思っている。彼女は、ずっとずっと待っておった。ずっとずっと、願っておったのじゃ。その末にようやく叶ったことを、何故諦めなければならぬのじゃ。ほかでもない、ラルト自身の言葉で」
「ヒノト、陛下だって告げるには身を切られそうな思いをしているんですよ。なぜよりによってご自分のおこ……いだっ!」
 ヒノトは無言でエイを殴りつけるために使った本を机の片隅に戻した。かなり厚手の本だ。改めて題目を見ると、何かの辞典であるようだった。
「招力石があっても、明言するでない。だからお前は間抜けであるといわれるのじゃ」
「私を間抜け間抜けと繰り返し言うのは、貴方ぐらいのものですよ……」
 本の角で殴打された頭を撫でながら、エイが呻く。ヒノトは鼻息を荒げて、唇を引き結んだ。
 ラルトが無論、理由なしでティアレに堕胎を勧めたわけではない。彼もまた十分に苦しんでの結論だったのだろう。それが判らぬほど、ヒノトは馬鹿ではなかった。
 ラルトが堕胎を勧めた理由。それは、ティアレの身体能力上の問題だ。
 リョシュンの言葉を噛み砕くと、ティアレはどうやら昔、長期間に渡って子供を生ませないようにする類の薬を飲んでいたらしい。それは一般的に避妊目的で使われる避花祥とよばれる丸薬ではなく、もっと禍々しい類のものだ。それも、複数。
 どうしてティアレがそのようなものを口にしていたのかはわからないが、なんにせよその影響で、とりわけ出産時、母体への危険性が高くなるという。
「陛下は今、妃殿下を失うわけにはいかないのですよ」
「そんなことはわかっておるわ」
「だったらヒノト」
「それでもじゃ。それでもじゃぞ。もう少し、言い方があるじゃろう。あんな風に言い切ってしまわんでもいいじゃろう。もっともっと、最後まで、諦めず、ぎりぎりまで、可能性を探ろうとか、そういう言葉が、あるじゃろう」
 ラルトはティアレに、堕胎してほしいと言い切った。ほんの僅かな可能性に掛けるということすらしなかった。それは、どれほどティアレの心を抉ったのだろう。
 彼女は、泣いていたのに。
 ラルトに家族を作ってやれるのだと、泣いて喜んでいたのに。
「リョシュン殿が無理だというからこそ、陛下もあぁいわれたのでしょう」
 リョシュンはこの国での医術の最高術者だ。彼の医学に関する見識と技術は他者の追随を許さない。同じ医学の徒として尊敬してやまない、最高の師であると、ヒノトは思っている。
「リョシュンは無理だとはいうておらん」
 エイの言葉に、ヒノトは口先を尖らせて反論する。
 彼は、こう判断を下したのだ。
「可能性が、高い、じゃ」
 最悪の場合、母子共に、死ぬ、可能性がある。
 ならば母子共に生き残る可能性もまた零ではないのだ。
「それでも、低い可能性にはかけてられない」
「それは大人の屁理屈であろう」
 ティアレを失いたくないのは、ラルトばかりではない。自分も同じだ。
 それでもヒノトは、ティアレのあの涙を見ている分、たとえ可能性は低くとも、母子共に生き残るほうに掛けていたかった。
 そして。
「なぁエイ。妾たちは医者じゃ。人が少しでも生き残る可能性を探り、その術を探し出し、実行することが、妾らに課せられた使命じゃ」
 人を、救い続ける。
 それこそが、養母が死に間際ヒノトに託した使命であり、医学の徒、誰もが胸に抱くもののはずだ。
 リョシュンも、その一人であるはずだ。
 なのに、なぜ。
「必死に、勉強もする。研究する。人が生まれるまで十月十日。今が三月目だとしても、まだ半年程度はある。どうして、可能性をどうして探ってはならぬのじゃ」
「探ってはいけないとはいっていません。ですが、私も、陛下も、賛同はしかねます」
「何故じゃ!? ティアレはあぁも苦しんでおるのに!」
「陛下も苦しみながら出した結論ですと、先ほどから何度申し上げればよいですか?」
「ならば一緒に希望を探ればよいではないか! 何故、そうも一つの命を死に追いやろうとする!?」
「失ってはならない命を、失ってしまう可能性が高いからです、ヒノト」
 いいですか、とエイは言った。
「どんな間違いがあったとしても、妃殿下を失うわけにはいかないのですよ」
「ティアレを囮に使ったくせに」
「あれは……! 妃殿下もご承知の上です。確かに危険な目にあわせてしまいましたが、あれは厳重な警備を前もって引いて、逃走経路も相談した上です。今回のこととはわけが違います」
「どうわけが違うのだ!? 同じではないか!!」
「少し……落ち着いてください」
 エイは過熱してくる論争に、疲れたといわんばかりに渋面になった。
「違いますよ。可能性の高さが違います。暗殺者は我々が注意することによってどうにでもできます。しかし、妃殿下のお体のことは、私たちにはどうすることもできない。けれど、その危険を簡単に回避する方法が一つだけあるとしたら、我々はそちらを取ります」
 堂々巡りだ。
 ヒノトは思った。エイの瞳には、怜悧な叡智の光が宿っている。冷静な、合理的な判断を下すものの目。それが、どれだけ残酷な方法だと知っていても、最善ならば躊躇いなく決断を下せる目。
 エイは普段、そういった様相をヒノトの前ではあまり見せようとはしない。ヒノトが知るエイは、大抵どこかぬけているお人よしがすぎる青年だ。だがこういった局面で、ひやりとした彼の本性が浮かび上がる。
 彼もまた、権謀術数の網を操り、また他者のそれを掻い潜ってきた人間なのだ。
「ヒノトの気持ちは、わかりますよ」
 エイは微笑み、真綿で肌を撫でるような、柔らかな声をヒノトに落とした。
「ですが判ってください」
 彼は静かに続ける。
「私も、陛下も、そしてリョシュン殿も……最小限の犠牲で最大の利益を生み出すことを追求していかなければならない。なぜなら、私たちは」
 エイは瞼を閉じ、躊躇を見せた。ヒノトは知っていた。彼が今から口にしようとしている言葉は、自分と彼の立場を線引きするものだと。
 しかし結局、再び目を見開いて、揺るがぬ強さを宿したまま彼は言ったのだ。
「政治家、なのです」


 ティアレの懐妊について知る者はごく僅かだ。ラルトを除けば、御殿医のリョシュン、その付き人兼見習いであるヒノト、そして宰相のジンが行方不明であるせいで、実質政治のうえで第二位の決定権を持つ冢宰、左僕射エイである。
 奥の離宮の女官たちですらまだ知らぬ事実を、ティアレはシノに打ち明けた。シノにならば、許されるだろうと思ったのだ。堕胎するにしろ、ティアレの体調を知って世話する女官が必要である。その判断を下すのは女官長であるシノに他ならない。
 何より、この胸中を吐露する相手が欲しかったのだ。
 だがティアレは、胸のうちを吐き出すまでに至らなかった。懐妊と、ラルトによる堕胎の勧め、その理由を聞いた時点で、彼女が黙考するように静かに目を伏せたからだった。
「お体を、大事になさってくださいませ」
 奥の離宮の談話室。シノはティアレの手を握ってそう言った。
「お子そのものは歓迎すべきことです。本当に、生まれるというのなら。ですが私はティアレ様を失いたくはございません。陛下の后であらせられる、そのことを差し引いたとしても、ティアレ様は私にとって何者にも代えられぬ唯一の方だからです」
 シノが静かに告げる言葉の意味を、ティアレが判らぬはずはなかった。シノは既に、一度主人を失っている。再び主人を失わせることは、彼女にとってひどく酷なことであるだろう。
「それが、私の本心でございます。ですがティアレ様。お生みになられるか否かは、結局のところティアレ様ご自身が、お決めになられるべきこと。私はティアレ様のご決定されたことなれば、その道を行くティアレ様をこの身尽きるまで支えていくつもりですわ」
 それはティアレに一番近しい女官の言葉ではあったが、ティアレが欲しい言葉ではなかった。
 急に、肌を孤独が舐める。
 子供を生みたい。生みたいのだ。ただ、それを後押しする言葉が欲しい。立場と可能性を考えれば、まだ見ぬ命である子供を殺してしまうことが一番いいことは、ティアレにも判っているのだから。
 判っているのだ。
 娼婦の時代、名も覚えていない主だったものたちに飲まされた数々の薬、数々の仕打ちが、今このような形で、ティアレの願いを阻むとは思ってもいなかった。
 だが知っている。
 それが、自分に架せられた業というもの。
 娼婦として世界を渡り歩き、訪れた国を滅ぼし、星の数ほどの人の怨嗟を、自らの身に浴びて、それでも生きている女の業だ。ティアレが望まぬとも殺してしまったものたちが、ティアレの身体にまとわり付いて、ティアレから幸せを引き剥がそうとしている。
 ティアレは目を伏せ、身体を支配する孤独を押し殺した。この話題は終わりにしようと、思った。
「シノは、どうなさるのです?」
「私ですか? 陛下から、溜まっている仕事を処理するようにと仰せつかっております」
「鬼ですね、ラルトは」
 なんと人遣いが荒い、と呆れかけたティアレを、シノが笑って制した。
「いいえ。きちんと七日ほど休みをとってからと命ぜられております。……が、もう十分、休暇はとりました」
 諸島連国はよいところでしたと、シノは付け加えた。
 ティアレはまだ、諸島連国には足を踏み入れたことはない。あの連合国家に、娼婦を引き入れようとする病んだ人間はいなかったということだろう。后の位についてから、外交で訪れるといったようなこともなかった。美しい国だ。寝物語にラルトは言う。貿易国家として名高い島々の集まりは、水の帝国とまた違った青で四方を囲まれ、見るものの心を奪うという。
「今は、ティアレ様のお傍にいさせてくださいませ。それが何よりも、私の癒しでございます」
 女官長の言葉は温かく、親しみ溢れるものだった。それは、出会ってから今まで、ティアレが魔女だと知ってすら、一度も変わることのなかったものだ。だがどうしても、ティアレは彼女との間に隔たりを覚えてしかたがなかった。
 ぎこちなく笑って、ティアレは言った。
「ありがとう、シノ」
 シノはもちろんですといって微笑んだ。だが風に揺れる長い髪といつもと違う衣装が、彼女を見知らぬ誰かのように見せていた。


 エイも官職相応に、屋敷が城近くに与えられている。仕事が立て込んでいるとき以外は、ヒノトを拾ってそこに帰る。だが昨日は軽い口論をしたためかヒノトは帰らないと言い張って、結局エイも宮廷内にある自室で仮眠を取ることになってしまった。書斎をかねた自室には仮眠室が併設され、かなり上等な寝台が用意されてはいるのだが、ヒノトのことに頭を痛めている間に机に伏して眠ってしまい、朝から体中が痛い。
 ぎしぎしと痛む身体を押して執務室に足を踏み入れたエイは、既に席に着いている皇帝の顔色を確認して、思わず零れかけたため息をどうにか飲み込んだ。
 彼の背負う、暗い影が透けて見える。ここのところずっとだ。エイが屋敷に帰らなかったように、彼もまた昨夜は奥の離宮に戻らなかったのだろう。召し物が、夜半最後にみたときのままであった。
「おはよう」
 ラルトが面を上げて、小さく微笑む。その表情をみて、エイはどうにか笑うことができた。
「おはようございます陛下」
 一年程前だったか、エイが腕をふるって強制的に片付けた執務室。その本来の姿はかなり広い。そこに持ち込まれた机を陣地として、エイは日ごろ仕事をしている。
「エイ」
 自分の席に着いて、山積された書類の一枚目を、目を通すために取り上げたエイは、皇帝の呼びかけに面を上げた。
「はい陛下」
「確かお前、あと少しでダッシリナに行く予定だったよな?」
「え?」
 外に出ての外交が得手ではないエイは、めったに国の外に出ることはない。だがいくつか例外があって、その中でもとりわけ出かけ先として指定されることのある国が、隣国ダッシリナだった。エイは脳裏で予定表をめくりながら、頷いた。
「あぁそうでした。ばたばたしていて忘れるところでした。星詠祭[せいえいさい]の日付がそういえば間近ですね」
「しっかりしてくれ」
「申し訳ありません」
 皇帝の言葉に咎めの響きはなく、単純にからかっているだけのようであった。ラルトはくすくすと笑っている。エイは肩をすくめ、書類に再び目を落とした。
「それが、どうかなさったのですか? あ、星詠祭が中止になったとかですか?」
「勝手に中止にしてやるなよエイ。いくら世情がきな臭いからといって、星詠祭を取りやめにすることはないだろう。何せこの祭りは、あの国にとって一年を決める祭りだ」
「それはそうですが。ウルからは報告をうけていましたし」
「ラヴィ・アリアスの件か」
「はい」
 ラルトの前に姿を現したという、暦官長と入れ替わっていた男、ラヴィ・アリアス。
 全身に魔術の刺青を施したというその目立つ容姿は、各国どこの手配書にも記載されていなかった。しかしその名前はひどく有名なものだ。
 約五百年前に存在した、水晶の帝国ディスラ。その大国の覇権の立役者ともいわれる将軍の一人が、ラヴィ・アリアスである。あまりに有名すぎるため、北の大陸の出身者などにはラヴィという本名をもつものは数多い。名前から探し出そうとしても、骨が折れるだろう。
 その男がもたらした情報は真実であった。
 ダッシリナに、革命の動きがある。
 革命とはいわないかもしれない。それでも、民や政治家たちの間に不穏な動きがある。きな臭くなりつつある国を特使として訪れたいと思う官史は誰もいないだろう。
「では、準備をしなければなりませんね」
 星詠祭の日取りは、既に半月を切っている。来週には出立しなければならないだろう。近頃ばたついていてすっかり忘れていたが、もうそのような時期なのだ。
「それなんだが、少し早めにいってもらっていいか?」
「はい? ダッシリナにですか?」
「あぁ」
 ほかに何処にいけというのだ、と、皇帝が苦笑した。
「ということは、すぐにいけと」
 もともと予定していた日取り自体が、すぐに迫っているのだ。少し早め、という言葉の意味は裏返せば即日、ということである。
「準備が整い次第な」
 労いの意味も込められているのだろう。穏やかな声音でラルトが言う。
「二日後辺りを目安に」
「それは随分と急ですね」
「調べてほしいことがあるんだ」
 ラルトが机から一枚の書類をだし、エイに差し出す。ラルトに歩み寄り、それを受け取ったエイは、紙面に記載されている内容を一瞥した。
 そこに記されている内容は、政治の徒ならば誰でも知っているような、あまりに有名な事件を引き起こした一冊の本についてだった。
 民主化教本。
「コレ、禁書になったやつですよね?」
「そうだ。バヌアのな」
 各王国を震撼させた小さな事件。それがバヌアという島国で起こった民主革命だ。民が蜂起し、王族を撃ち、自らで政治を動かそうとする。その理論は、王もしくは皇帝、あるいは盟主といった、頂点を戴いて国を動かしている国々に衝撃を与えた。その理論が、この長い歴史において全くなかったわけではない。それを、実行したという点に皆が衝撃を受けたのである。
 民を動かし、結果としてひとつの国を滅ぼした本。
 それが、民主主義の理論が説かれた本、『民主化教本』である。
「どうして今更これが?」
 革命は失敗し、バヌアという国は既になく、諸島連国に併合されている。民人の行く末は様々だ。エイ自身も、一人様々な国を放浪し、最終的にリファルナの御殿医に落ち着いた、バヌア出身の知人がいる。
 バヌアが滅びたのは、もう六年も前の話だ。
「シノを助けてここまで連れてきてくれた客人がいるんだが」
「報告は受けています」
「彼な。イルバ・ルスだ」
 イルバ・ルス。
 一体誰の名前だっただろう。エイはこめかみを押さえながら記憶をさかのぼった。その名前に聞き覚えがあることは確かなのだ。イルバ・ルス。確か。
「……バヌアの、王監査役?」
 皇帝はエイの回答に、満足げに頷いた。
「宰老イルバ・ルス。バヌア最後の王監査役だが、暴走しがちな私腹を肥やすことしか能のない貴族たちと、才気溢れる文人もしくは武人たちとの均衡を上手くとり、王を支えた名相」
「うわぁうちの女官長もいい加減悪運強いですね! どうやったらそんな人と出逢ってここまで引っ張ってこられるんですか! バヌア崩壊後引き篭もってしまって、バヌアの人たちも探し回っているっていう話ですよ! 間違いないんですか!? 同じ名前を語っているだけの偽者とか」
「いや、あれは本人だな。ジンから以前聞いていた風貌と容姿が合致しているし、雰囲気が違う。小物じゃあぁいう雰囲気は纏えないだろう」
「会ってきたんですか?」
「会ってきた」
 面白そうな男だったと、ラルトが感想を口にする。彼がこういうときは決まって、一癖も二癖もあるツワモノなのだ。


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