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第十七章 遺言に従って 1


『どうして、いるばさまは、わたしをたすけてくださったのですか?』
 子供の小さな手に不似合いな分厚い書物を抱え、澄んだ目をして少年は尋ねる。
 彼は答えた。
『俺はな、お前が気に入ったのさ』
 貧民窟でまさしく虫のような生活をしていても、この子供は礼節を忘れていなかった。人は清貧があって初めて礼節を知る。しかし彼は子供の純粋さを失わず、真っ直ぐに自分の目を見たのだ。
 それが、とても気に入った。
『きにいった……』
『俺もそういわれてオヤジに拾われたんだ』
 ぎらぎらとした獣みたいだ。その力、もてあまさずに、ワシのところへくるといい。
 そんな風に言って、壮年を過ぎた師に拾われたのはずいぶんと昔のことだったが、この少年を見たとき、師の気持ちが判ったような気がしたのだ。
 気に入った。だから、助けてやりたい、と。
『おやじって、いるばさまのおししょうさまですか?』
『そうだ』
『おししょうさまが、いるばさまのおとうさまになるのですか?』
『俺にとっちゃ父親みたいなもんだったからな』
 勉学だけではない。礼儀作法から酒の飲み方、女の口説き方まで、ありとあらゆることを豪快に自分に叩き込んだのが師だった。今はもういない、老人の背中を思い出す。
 一方、少年は欠けた歯を見せて笑った。
『でしたら、いるばさまは、わたしのおとうさまになるのですね』
 嬉しそうな、無邪気な笑みだった。


 彼はとうとう自分を父と呼ぶことはなかった。控えめに、師と呼んだ。
 あぁ、けれど自分は、師としても父としても不十分だった。
 闇の中に、一人、彼を置き去りにしたのだから。


 ダッシリナとブルークリッカァの建築様式は酷似しているはずだ。しかし初めて足を踏み入れる宮廷の造りは、ダッシリナのそれとは一向に似ていなかった。招かれた宮城はどちらかというと、シルキスの出身地である、北の大陸の気配を偲ばせる。青白色の床石は磨き上げられ、足音をよく響かせる。通路の両脇に流れる水が、絶えず音楽のように音を立てていた。
 シルキスは、前を行く女官の背を見つめなおした。先導する彼女の背はきびきびとしていて、一片の隙もない。人気のない複雑な回廊を、慣れた足取りで颯爽と行く。訓練された女官だ、とシルキスは思った。女官だけではない。自分たちを迎え入れた門番も、取り次いだ文官も、皆、身のこなしに隙がない。
(一体、何が違うのだろう?)
 この国は、長らく混迷に喘いでいた。民は皆、絶望の中にあった。それほど誰もが貧しく、誰もが卑しく、誰もが地獄を見たという。
 だというのに、新皇帝が即位して十数年。確かに国の端はまだまだ貧しいが、中央に近づけば近づくほど、誰もの顔が精彩を帯びている。
 自分の祖国とは、大きく違っていた。
 革命によって瓦解したあの土地は、今も混乱したままだという。
 もう、長く帰っていないけれど。
「申し訳ございません」
 女官が一度振り返り、声をかけてきた。
「長らく歩かせてしまいますこと、お詫び申し上げます」
 女官は微笑み、申し訳なさそうに礼を取る。
「まったくだ、一体いつになったら着くんだい?」
 大丈夫だと口に仕掛けたシルキスを制して、忌々しげに口を開いたのはソンジュだった。ダッシリナから碌々外に出たことのなかった彼は、馬車の長旅にも閉口していたし、降りてそうそう腰を下ろす間もなく、広い宮殿を歩かされていることにも苛立っているようである。
 女官は微笑み、ソンジュの怒りをやんわりと受け流してみせた。
「申し訳ございません。もうすぐ、到着いたします」
 そのように告げてくるわりには、長く回廊を歩かされているような気がしなくもない。ソンジュの怒りも、判らないではなかった。
 ずいぶん長い間――……。
(歩かされているというのに、そういえば、人はあまりいない……)
 回廊を行く人を見かけない。ずいぶんと人の少ない城だと、シルキスは改めて感想を抱いた。この国の皇帝は、身づくろいを自分で行うのだという。余分な人員は配置していないのだろうか。
 女官がようやく立ち止まった場所は、一枚の扉の前だった。
 女官は扉に一礼して、告げる。
「ダッシリナからの使者の方がお見えでございます」


 扉が開かれる。
 遠い過去に思いを馳せていたイルバは目を開いた。
 ゆっくりと回廊に向けて口を開ける扉の向こうに、一人の男がいる。
 自分が、あの闇の中に置き去りにしてしまった、男が。
 イルバは自嘲に笑いながら、男に言った。


「久しぶりだなァ、シルキス」
 その声は。
 また耳にするなど、夢にも思っていなかった声だった。
「お……!?!?」
 ――……お師さま……。
 喉から漏れ出でた声は、驚愕のためか裏返り、ひどく掠れていた。
「何だ? 知り合いか?」
 傍らでソンジュが怪訝の声を上げたが、応じる余裕はシルキスにはなかった。ただ、唇を引き結び、目を見開いて、彼の人を凝視する。広い来賓室の中央、円卓の傍に佇む男は、にっと口元を吊り上げて、静かにこちらを見返していた。
「……なぜ……何故、貴方が、このような場所に……?」
「不肖の弟子がヒトサマに迷惑かけてるっつんで、叱りに来たんだよ」
 おどけたように手を広げ、男はシルキスの問いに答える。シルキスは胸の奥からこみ上げてくる怒りに、喉を焼かれそうだった。絶句したまま、彼を見返す。挑むような、目だっただろう。
 叱りに、きた、など。
 どの口がいうのだろう。
「……ま、積もる話は、さておきだ」
 シルキスの視線に苦笑を覚えたらしい。苦々しい表情を浮かべてみせた男は、背の低い楕円形の卓を挟むようにして備え付けられた、瀟洒な長椅子を指し示す。
「どうぞ、ご着席ください?」
「もう一度訊きます」
 シルキスはそう言い置いて、奥歯をかみ鳴らした。一体、これはどういうことなのか。胸中で呻いて男を見やる。
 男は、水の帝国の衣装を身に着けていた。そしてまるでこの部屋が我が物であるかのように振舞う。扉近くに控える女官は、彼に向かって一礼している。
 本当に、これは、一体。
 どういうことなのか。
 シルキスは尋ねる。
「何故、貴方がここにいるのですか?」
 しかし返答は彼から得られなかった。
「それは彼が我が国の右僕射だからです」
 師に代わってシルキスの問いに応じた男は、シルキス自身も見覚えのある男だ。
 人の良さが前面に滲み出る、黒髪黒目の若い文官だ。しかしその頭脳は明晰で、若年ながらもこの国の第三の位に腰を下ろすのが、他ならぬ彼だった。
 彼は言う。
「ようこそお出で下さいました、ソンジュ・ヨンタバル殿。そしてシルキス・ルス殿。どうぞ、こちらの席へお出でいただき、ご着席を」
 柔らかな声で誘われて、疲労と苛立ちに支配されていたソンジュがまず動く。彼はシルキスの横を鼻息荒く通り過ぎ、乱暴に長椅子に腰を下ろした。
 シルキスも、無言のまま倣って腰を下ろす。その間、己の目が一人の男の上から動かないことを、シルキスは認めぬわけにはいかなかった。
 右僕射、と、呼ばれていた。
 右僕射は左僕射に次ぐ国府の上級官職だ。事実上、この国の第四位に当たる。だがそれは、長い間空位だったはずだ。
 そして自分の目の前に、その水の帝国の右僕射として姿を現した男は、長い間、自分と同じように行方が判らなくなっていたはずだった――あの、革命の日から。
「改めてご紹介いたします。我が国の右僕射、イルバ・ルスです」
 左僕射、エイの紹介を受けて、イルバ・ルスは深く頭を下げる。
「イルバ・ルスと申します。此度は貴公お二方のお相手を勤めさせていただくことと相成りました。誠によろしく、お願いいたします」
「……あぁ」
 シルキスは、やはり皇帝自らが出てくることはないかと多少落胆し、ソンジュはイルバの挨拶に、低く呻いただけだった。突然現れた異人の男に、多少面食らっている。東の大陸の中でも小柄にあたるソンジュより、イルバは二回りほど体格が違う。政治家、というよりも武人といっても通じそうな粗野さがある。その雰囲気に、呑まれているのだろう。
 大体、体格云々よりも、イルバの纏う雰囲気に呑まれぬ男など数少ないのだ。
 彼は祖国で王の側近として、有名だった。とはいえ、バヌアは所詮小国に過ぎない。それでも彼の名前は、政治の世界に轟いた。
 彼が、類稀なる政治家であったからだ。
 修羅場をいくつも越えてきた、老獪さすら持ち合わせる、宰老とよばれる男。
 それが、シルキスの師、イルバ・ルスという男だった。
 シルキスは椅子に腰掛けたまま目を細め、イルバを見つめる。
 櫛を通され、丁寧に撫で付けられた赤茶の髪。髪の色と相反する藍の瞳には叡智が宿る。褐色の肌と肩幅のある体躯に、黒と緑で纏められたこの土地の衣装はよく似合っていた。いつから、彼はこの土地にいたのだろう。政治の舞台からぱたりと姿を消したはずの男は、どうしていまさら、このような場所で、このような形で、自分の目の前にいるのだろう。
 イルバは器用に衣服の裾を捌いて長椅子に腰を下ろした。エイは彼の背後に控えている。紹介された通り、自分たちの相手はエイではなく、イルバが主に勤めるらしかった。
「それでは、早速ですが」
 イルバが口を開く。
「本題の方に移らせていただきたいと思います」
 口元に薄い笑みを刻んでイルバが言う。シルキスは小さく頷いた。
「此度、遠路遥々、貴公お二方が我が国にお出でくださったのは、要望がおありになるからとか」
「要望ではありません」
 シルキスはざわざわと落ち着かない心をどうにか平常に建て直し、冷ややかに言った。
「これは、要請です」
「……要請」
「我々が貴方がたに要請することは、唯一つ、城塞都市ハルマ・トルマを含むデルマ地方の独立です」
 淡々と告げるこちらの横で、ソンジュが満足げに微笑する。あぁ、馬鹿な男だと思う。この場で、何も判っていないのはおそらくこの男だけなのだ。
「デルマ地方は貴公の国、暁の占国とこちら、水の帝国、双方の合意のもと、締結された条約にのっとって合意されております。それを簡単に覆すことなどできはしない」
「申し上げましたでしょう。これは要請ですと。デルマ地方を解放するがよろしい。さもなくば、行方不明になっている貴方がたの皇后――命なきものとなりますが」
 イルバもエイも、シルキスの言葉に表情を変えなかった。予想していたことではある。彼らはすでに全てを知っているのだ。名のある大国ならば、国の隅々を調べる諜報機関は必ずある。
 イルバは微笑んだ。
「それは脅迫というのですよ。言葉の選び方は誰に習われましたかな?」
「師に」
「さぞや、出来の悪い師だったでしょう」
 どの口が、そのような戯言を述べるのか。
 くすくすと笑っていたイルバは、その藍色の目を細め、さて、と呟いた。
「折角です。盤を使う遊戯などをして、会話を進めていきましょう」
「……遊戯?」
「互いの緊張を解すためです」
「そのようなことをしている時間は、ありませんが」
「では、この遊戯で貴方がたが勝った場合――貴方がたの要請を呑む、というのは?」
 不敵に笑い、そう告げてくるイルバに、シルキスは絶句した。一体、何を考えているのだ。この男は。
当惑するシルキスと逆に、ソンジュが顔を輝かせる。
「シルキス、やるんだ」
「しかし」
「命令だ。やれ」
 ソンジュの命令に、シルキスは知れず渋面となる。彼にしてみればイルバの提案は、願ったり叶ったりだということなのだろう。なにせ、こちらが遊戯に勝つだけでいいのだ。
 イルバは微笑み、背後に控えるエイに手を伸ばした。待っていたといわんばかりに、間をおかず、左僕射はイルバに箱を渡す。
 組み木細工の箱の中には、黒漆の塗られた上等な盤と、白と黒に塗り分けられた駒が収められていた。嘆息して、その盤を挟み、かつての師と向き直る。
 イルバは、この手の遊びが得意ではない。かつて、常に勝つのは自分だった。
「やり方はおわかりですね?」
「えぇ」
 用意された遊戯は、世界どこでも見られるもので、下級階層の人間にも伝わっている。無論シルキス自身嗜んだことのあるものだ。イルバは黒を、シルキスは白の駒を手に取った。まず、駒を最初の配置につかせる。
「……久しぶりだ。こんなものをするのは」
 そう独りごちて笑うイルバに、シルキスは尋ねた。
「久しぶりだというのに、私に勝負を挑んだのですか?」
「負けるつもりはねぇよ」
 問いに帰ってきたのは、この国の右僕射ではない、イルバという人間の不遜な声だった。


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