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第十六章 古城の決闘 5


(くるしい)
 ティアレは呼吸を整えながら、下唇をかみ締めていた。
(くるしい)
 硬く閉じた瞼から涙がこぼれる。自分の無力さが憎い。それ以上に、自分の浅はかさが憎い。
 今、この空間で、二人の男が命の削りあいをしている。ラルトの投げた短剣がラヴィを襲った隙に、ラルトは魔術の呪縛から解放されたらしい。そのままラヴィと、剣の撃ち合いとなっている。
 ラルトの身体からは血がこぼれ、石畳の上に染みを作っている。それでもラルトは剣を振るうことをやめない。ただ、目の前の男を倒し、全てが無かったことになるように、命を削る。
 苦しかった。どうして彼が血を流さなければならないのだろう。
 わがままを繰り返し、たくさんの人を傷つけて、この事態を招いたのは自分なのだ。自分が、血を流してしかるべきだろうに。
 苦しかった。ラヴィの言う通りだと思った。自分は、彼の足手まといになってばかりだ。彼を、支えたいとずっと思っていたのに。
 理解、できていなかった。
 自分の皇后としての立場。その意味。ラルトにとっての自分の存在価値。彼の愛情。
 その全てを、自分はきちんと理解できていなかった。
 彼は繰り返し言っていたではないか。
 ――ティアレさえ、いれば……。
 ジンを奪ったことを悔やんでいた。何もできぬ自分に、ふがいなさを覚えていた。
 違うのだ。傍にいるだけでよかったのだ。自分が、彼にとって、生きる意味そのものだというのなら……。
 寂しさも、覚える必要はなかった。彼の心はいつも傍にあったのに。
 ティアレは下唇をかみ締め、呼吸を整えると、辺りを見回した。ラヴィが張ったと思わしき、魔力の結界がティアレの周囲を取り囲んでいる。
 魔術の構成自体は単純で、ヤヨイのそれと比べるとあまりに拙い。だが魔術を支えているのは、圧倒的とも思える量の魔力だった。
 指先をそっと触れさせる。魔力の壁はティアレを雷と共に拒絶した。嘆息をして、指先を見る。
 そして、ふと思った。
 この手は、ヤヨイを振り切って部屋を出るときに、確かに彼女の魔力に焼かれたはずだ。だというのに、どうして無傷のままここにあるのだろう。
 思い返せば、あの部屋をどうして出ることができたのかと考える。あの正方形の部屋は、ヤヨイの結界によって封鎖されていたはずだというのに。
 必死だった。手を焼かれても腕を焼かれてもいい。ただ、外に出たいと、ラルトに会いたいと強く願い、扉の取っ手を握った。
 そして、ばちんという大きな炸裂音と共に、自分は外に飛び出していたのだ。
 ヤヨイが、手加減をしたということは考えにくい。だとしたら、どうして――……。
 口元を引き結んだティアレは、意を決し、魔力の壁に触れた。銀色をした魔力の粒子がティアレに反発して、急速に触れている部分に集まり始める。
(あつい)
 熱く、そして、針で刺したような痛みがある。魔力はやがて雷に姿を変えて、小さく弾け始めた。ぱちぱちという放電音。
(今、ここで足手まといになっているわけには、いかないの)
 もしラヴィが劣勢になれば、また自分を人質として使うかもしれない。そうなる前に、せめてこの場から逃げ出さなくては。少しでも、安全なところに。
 ラルトを、これ以上、苦しめることの、ないように。
 魔の粒子はさらに高密度に、ティアレと壁の接点に集まり始める。手をひどい痛みが襲う。これ以上、壁に触れ続ければ確実に手が駄目になるだろう。
 けれど。
 魔力の壁の向こうで、血を流し、剣を振るう男が抱いているだろう痛みに比べたら。
 ふと、白い手が背後から伸びてきた。
「……え?」
 驚きに、息を呑む。
 白い手はティアレの手を優しく包み込んだ。白い袂が風に揺れる。視界の端を黒髪が流れ、ティアレは驚愕に口を開く。
「れい、やー」
 向こうに景色を透けさせた細面がにこりと微笑む。
 刹那、光が膨張し、ティアレの視界を塗りつぶした。


 バチッッ…………!!!
 何かが、弾け飛ぶ音が大きく響いた。
 湯気が立ち上り、一瞬ラルトの視界を遮る。事態を認識すべく意識を廻らせたラルトの視界に飛び込んできたのは、腕を押さえながら身体の均衡を崩したラヴィの姿だった。
 何が起こったのかはわからない。ただ、身体は自動的に剣を振るい、ラヴィを追い詰めていく。ラヴィも片手で応戦していたが、徐々に後退し、最後には、その背が窓際に突き当たった。
 潮風が、窓から吹き込んでラヴィの黒髪を揺らす。窓の向こうに広がるのは暗い青。
 海だ。
「……終わりだな」
 ラルトの言葉に、ラヴィは緊張感もなく同意する。
「みたいだなぁ」
 彼の視線が、ちらりと彼自身の腕に向けられた。焼け爛れた右腕。何故、突然そのようになったのか、ラルトには見当もつかない。しかしラヴィには原因を推察できたらしい。彼は一つ頷いて、ラルトの背後を透かし見た。
「やれやれ。……こうやってヤヨイを振り切ったんだな」
 彼の言葉が、誰に向けられているのかは判る。
 ティアレだ。
 ラヴィを逃がさぬために、彼から視線を外すわけにはいかない。しかしゆったりと近づいてくる裸足の足音から、ティアレが無事なのだということは理解できた。
「訊きたいことがある」
 剣の切っ先をラヴィの喉元に突きつけながら、ラルトは彼に言った。
「お前、何故このようなことをしでかしたんだ?」
「だからさっきから、暇つぶしだっていってるだろ? 人の話聞いてくれよ。お願いだからさ」
「……本当に、暇つぶしでこんなことをしでかしたのか?」
「本当だって。そんな理由で国を滅ぼそうとするようなやつもいるんだって、知っておいたほうがいいぜ、オウサマ」
 ラヴィは剣を捨て、降参だとでもいうように、焼け爛れていないほうの手を胸元まで上げる。それでも、ラルトは警戒を怠らなかった。ラルトの一瞬の隙をつき、形勢を逆転することが、この男にとっては容易いことのような気がしたからだ。
 血が、ラルトの腕を滴っている。彼の腕が焼け爛れているように、ラルトの身にもあちこち切り傷が刻まれていた。命に別状あるようなものではない。しかし、放っておいていいものでもない。
 ラヴィは、肩を軽くすくめて言った。
「まぁ、楽しい暇つぶしだった。俺は満足だよ」
「……貴様」
「それに、時間切れみたいだしな」
(時間切れ?)
 ラルトが鸚鵡返しに訊き返すよりも早く、背後から聞き知った男の声が響く。
「陛下っ……!!」
(将軍か)
 このハルマ・トルマへ軍を率いてきた、将軍だ。ラルトに、追いついてきたらしい。彼の声と共に、いくつかの足音も反響している。
 ラヴィは、微笑む。
 そして。
「楽しかったよ」
 その一言が、置き去りにされた。
「お、おいっ……!!!」
 ラヴィの身体がそのまま後ろへと傾ぎ、窓へと吸い込まれていく。ラルトは反射的に剣を捨て去って窓から身を乗り出し、ラヴィの腕を掴んでいた。
 驚愕したのは、彼のほうらしい。
「お、おいおい。何してるんだ……?」
「何しているはこっちの台詞だ! ここをどこだと思っている!? 城の最上階に近いんだぞ!!!」
 ラヴィの身はラルトの掴む腕一本を支えに、宙吊りになっているような形だった。この部屋は、どうやら海の切り立った崖側に位置しているようである。彼の足元の遥か下には切り立った岩場がむき出しとなっており、その更に下に、激しく波打つ海が見えていた。
 見下ろすだけで、落下しているかのような錯覚に襲われる。文字通り、目の眩むような、その高さ。
 ラヴィには大して焦った様子も見られない。彼の瞳に浮かんでいるのは、どちらかというと困惑だった。
 ラヴィを支えるラルトの手に、困惑している。そのように、見えた。
 なかなか昇ってこようという意思を見せないラヴィに、ラルトは歯噛みしていた。足元が滑り、じりじりと窓際へ近づいている。
 舌打ちしたラルトの横から、ふと、白い手が伸びてきた。
「ティアレ……!?」
 ティアレの、手だった。


「私も訊きたいことがあるんです、ラヴィ」
 ティアレはラヴィの手首を握るラルトの手に、白い手を添えながら言った。
 たくさん、たくさん、訊きたいことがある。
 軟禁生活の間、彼がティアレに与えた謎かけや、ヤヨイとの日々は、ティアレに自分の幼さを自覚させた――皇后としての自覚が、足りなかったと。
 そして不可解なのはヤヨイの存在だ。最後はあのように別れてしまったが、軟禁生活中の彼女は本当にティアレを労わってくれていた。食事を管理し、薬を与え、休養させる。どうしてそこまでする必要があったのか、わからない。
 そして最後に、ヤヨイがティアレに何を施そうとしていたのか、この男ならば知っているはずだった。
 それらの理由。そしてなにより――……。
 男の体重を受け痺れる手に食いしばった歯の隙間から、ティアレは呻いた。
「私も聞きたい。貴方が、なぜ、私たちの前に現れたのか」


「……ほんっとうに……まったく。君たち実は、似たもの夫婦だよな」
 疲れたように吐息したラヴィは、小さく微笑んだ。
 本当に、どうしてそこまで余裕があるのかがわからない。呆れ声を上げようとしたラルトの視界を、ふと、ちらりと光が過ぎった。
「もう、二度と」
 ラヴィの言葉を聞きながら、ラルトは驚愕していた。隣にいるティアレもまた、その瞳を零れんばかりに見開き息を呑んでいた。
 ラヴィの焼け爛れた右腕に、魔の燐光が集まっていく。やがて彼の腕は水蒸気を上げて、信じられないことに、元の姿を取り戻し始めた。
「大事なもの」
 水蒸気と燐光の狭間から、何事もなかったかのような無傷の手が現れる。
 そしてその手元に吸い寄せられるように、光が急速に集まり始めた。
 光は剣を形取り、そして質感を持ったものが、何もなかったはずの宙に現出する。それは確かに、つい先ほどラヴィが床に落とした剣に相違なかった。確かめるように、ラヴィがその剣の柄を強く握り締める。
 目の前で起こった嘘のような事象に驚愕していたラルトの耳に、ラヴィの声が滑り込んできた。
「間違えるな――見失うなよ、二人とも」
「ティアレ!!!」
「きゃ……!」
 反射的にラルトは、ティアレの身体を庇いながら身を伏せていた。一拍遅れて、つい先ほどまでラルトとティアレの手があった場所を、銀の刃が一閃していく。ティアレの身体を抱え込み、受身をとったラルトの肩を、床との激突に際する衝撃が襲った。
「ぐっ……」
「ら、ラルト……」
 心配そうに身を起こして顔を覗き込んでくる彼女をひとまず置いて、ラルトはよろけながら身を起こした。ティアレもこちらの動きに感化されたのか、続いて立ち上がる。
 二人で、慌てて窓から身を乗り出し、外を見下ろした。
 男が、落下している。
 こちらを、見上げながら。
 徐々にその距離は広がっていたが、ラルトの目にははっきりと、男の笑っている顔が映った。何がそれほどまでに嬉しいのだろうと、ラルトは思った。そう、落下していくラヴィの顔に映るのは、明らかに喜色だったのだ。
 彼が空中で、懐から仮面を取り出す。距離が開きすぎて、一体どのような面であるかは判別がつかない。ただ、顔全てを覆ってしまうような、白い面だった。
 彼はそれを、空中で身に着ける。
 刹那、見えたような気がした。
 相手は今、指先ほどの大きさだ。それほどまでに距離が開いて、見えたというのもおかしい。
 けれども、確かに見えたのだ。
 落下に黒曜石色の髪を揺らしながら、こちらを仰ぎ見ている男の目に[はま]る、鮮やかな暗い炎の色にも似た、葡萄酒色の瞳が。
 やがて彼は、海が海面に作る薄靄の中へと消えていく。
 ざん、という音は、果たして彼の着水音か、それとも大きな波の音だったのか。
 それ以降、ラヴィ・アリアスという男を、ラルトが見ることは二度となく。
 ハルマ・トルマで起きた小さな革命は、首謀者を海の向こうへと隠したまま、静かに終わりを告げたのだった。


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