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第十六章 古城の決闘 2


 遠くで、ラルトの声が聞こえた気がした。
 朦朧としながら、砂が詰まったかのように重い瞼を押し上げる。体がうまく動かない。また、発熱しているのだろうか。
 ぼんやりと霞む視界が明瞭になるにつれて、喧騒のようなものが聞こえてくる。ティアレは一体何が起こっているのか確認するため、ひとまず重い頭を動かした。しかしどう頭を動かしても見えるものは、白塗りの壁ばかり。おかしい、と、ティアレは思った。
(窓は、どこ……?)
 ティアレに与えられた寝室には窓がある。ティアレの寝台の傍に大きくとられた風通しのよい窓が。
 しかし視線を廻らす限り、どこを探しても窓は見つからない。部屋の一角に、入り口と思しき木製の扉があるばかりだ。
 力を込め、どうにか頭を動かす。そこでティアレは、驚愕しながら叫んだ。
「何をしているのですか!?」
 ティアレの声に反応して、ヤヨイが息を詰めながら手を止めた。
 彼女の手には筆が握られている。ヤヨイはその筆を器用に滑らせ、ほぼ裸身に近いティアレの身に、明らかに魔術のものと判る文様を、赤黒い墨で描いている最中であった。
「いけませんティアレ様、急に動いては……」
「私は何をしているのですかと尋ねたのです!」
 ティアレは上半身を起こして、周囲を見回した。ティアレの記憶は、いつもの部屋で眠りについたところで途切れている。しかし今ティアレが寝かされている部屋は普段使いの寝室とは別の部屋だ。ハルマ・トルマから移動させられたとは考えにくかったが、見たことのない部屋――ティアレが足を踏み入れたことのない部屋だということは確かだった。
 部屋は、正方形に近い形をしている。寝台も椅子も、家具の一切見当たらぬ部屋の中央、文様の描かれた敷布の上に、ティアレは寝かされていた。
 ティアレの傍らに膝をつく少女は下唇をかみ締めて躊躇いを見せ、やや置いてからティアレの問いに答えた。
「――……その質問には、答えかねます」
「なぜ!?」
「答えてもよいと、許可を、いただいていないからです」
 そして彼女は再び口を噤む。
 ティアレは己の身が決して拘束されているわけではないことに安堵しながら、少女の顔を覗き込んだ。
「ヤヨイ」
 ヤヨイが、ティアレの呼びかけに応えるかのように、弾かれたように面を上げる。
「答えられません。ですが……ティアレ様に害成すものではありません! それだけは本当です!!」
 本当なんです、と、涙すら目じりに滲ませて少女は主張する。
 ヤヨイは実際、この数日間、ティアレによくしてくれていた。ティアレを庇うこともよくあったし、少女の素朴な率直さには好感が持てていた。彼女の今の叫びを、信じてやりたいとも思う。
 しかし同時に、ティアレは懐疑の目で少女を見つめざるを得なかった。今までのヤヨイの対応全てが演技だとしたら、この少女は相当の曲者だということになる。
 ヤヨイを信じるべきか否か、逡巡していると、さらに大きな喚声が扉の外から響いた。
「何の騒ぎですか?」
 しかしヤヨイは、ティアレの問いに答えない。ティアレの肩口を押さえこんで、床の上に寝かせようとする。
「ヤヨイ!」
「お願いいたしますティアレ様」
 ヤヨイはティアレの激昂に苦渋の表情を浮かべて懇願する。
「これはティアレ様のためでもあるんです。大人しくなさっていてください」
「理由を話してください。でなければ、はいそうですかと大人しくなどしていられません」
「申し訳ありません。理由はいえないんです。将軍が、いうなとおっしゃられた。ならば私はティアレ様に答えてあげたくとも、答えられないのです。お願いいたしますティアレ様。大体は終わったけど、あと少し……終わらせないと、ティアレ様がお辛いと思います」
 お願いしますと繰り返し懇願する少女に、ティアレは肩の力を抜いて嘆息した。
「ならばせめて、一体外で何が起こっているだけは話してください。それも、話せないのですか?」
 ヤヨイは、ティアレの言葉に表情を曇らせて沈黙する。黙ったまま再び筆をティアレの肌の上に走らせ始めた彼女に、ティアレは唸った。
「ヤヨイ……!」
「ティアレ様もご存知のはずです。水の帝国がこのハルマ・トルマの外に、兵を常駐させていたことは」
 この、ハルマ・トルマ。
 ヤヨイの言葉でようやっと自分がハルマ・トルマから移動していないことを知る。しかしそれに安堵する前に、ヤヨイの含みある言葉に胸がざわめいた。
「兵……。この、外から響く声は、押し入ってきた兵のもの……?」
 ティアレの呻きに、ヤヨイは答えない。しかし、解答としては妥当だろう。
 ティアレは再び上半身を起こして身をよじった。視線を廻らせ衣服を探す。だが衣服らしきものは、この部屋のどこにも見当たらなかった。
「いけません、ティアレ様」
 ティアレの行動に、ヤヨイが反応して声を上げた。
「じっとしていてください!」
 ティアレは彼女の叫びを無視した。床に敷かれた白い布を引きずり出して、手早くその身に巻きつける。
「きゃ……!」
 布に足をとられたヤヨイが、小さな悲鳴を上げてその場に転倒した。今まで自分によくしてくれていた少女のもがく姿を見て申し訳なくは思う。しかしこの場でじっとしているわけにもいかなかった。ティアレは衣服の代わりにした布をそれらしく整えながら、その場から走り出す。
「だめです! 外は危険なんです!」
 立ち上がったヤヨイが悲鳴じみた叫びを上げ続ける。沈黙したまま扉に取り付こうとしたティアレは、ばしり音を立てて放電した扉に、慌てて手を離した。
 青白い、光が扉を包んでいる。
 扉だけではない。部屋全体を。
 魔の粒子が美しい織物のような文様を作り出して部屋全体を覆っている。このような見事な魔術を見たのは、ティアレも久しぶりだった。ティアレがかつて滅ぼしてしまった魔の公国メイゼンブル、その国に時折このように美しい構成を編む腕のよい魔術師がいた。
 ひたり、と。
 裸足の足音がする。ティアレは近寄ってきた気配を、弾かれたように振り向いた。
「いっては、なりません」
 部屋の中央に佇む少女が、静かな眼差しをティアレに向けて言った。
「外は兵だけではなく、この城に寝泊りしていた人々が殺気立ってうろついています。危険です」
「貴方が何を私にしようとしているのか答えない限り、中も外も私にとって危険であることは変わりありません」
「でしたら、全力でお止めさせていただきます」
 そういって、少女が手で印を組む。ティアレには理解しがたい古い言葉で何かを呟く少女を見つめ、ティアレはラヴィの言葉を思い出していた。
『このヤヨイこそ、腕利きの魔術師だ』
 魔の織り成す美しい網が、折り重なって部屋を包んでいく。美しい綾の薄布で、大事な何かを包み込むかのように。
 それは、確かにティアレを傷つけるために作られたものではないと、ティアレには判った。ただ、この部屋にティアレを閉じ込めて、優しく守るためのものであると。
 ティアレはしかし、微笑んで彼女に言った。
「行かせてください、ヤヨイ」
 ヤヨイの表情が暗く沈む。哀切の表情でティアレを見つめる彼女は、しかし無言でティアレの懇願を否定した。
「そう……」
 ティアレは一度、瞼を閉じる。
 本当は、彼女の言う通り、おとなしくしているほうがいいと思うのだ。わがままを言うたびに、自分は誰かを傷つけてきたのだから。
 けれど。
「ヤヨイ、この問いには、答えられますか?」
「……どんな、問いでしょうか?」
「ラルトは、ここに、来ているのでしょうか?」
 ここに、来ているはずがない。
 兵を出しても、皇帝である彼自身がわざわざ乗り出してくる可能性はひどく低い。彼の仕事は兵を率いることではなく、国を治めることなのだから。
 けれど。
 声が、聞こえたような気がしたのだ。
 彼の、わたしを呼ぶ声。
 ヤヨイは今までと同じように沈黙した。この問いにも、答えるつもりはないらしかった。
 嘆息に視線を伏せたティアレに、囁くような少女の声が届く。
「おいでですよ」
 再び面を上げたティアレに、ヤヨイが微笑した。
「皇帝は、おいでです。貴方のために。貴方を、迎えるために」
 ティアレは、踵を返した。
 ばしっ……!!
「ティアレ様っ!!!」
 ティアレが扉の取っ手を握り締めた瞬間、ティアレを拒絶するように魔の粒子が激しく放電する。手を焼く痛みに顔をしかめながら、ティアレは力を込めて扉を押した。
 ぱんっ……!!!
 破裂音が、した。
 それが一体何の破裂音なのかは確かめなかった。扉の開音に混じってヤヨイの低い呻きが聞こえる。しかしティアレは振り返らなかった。身に着けている布の裾を抱え上げ、裸足のまま、廊下を駆け出した。


「っつ……ぅ」
 右手を押さえつけながら、膝をつく。ヤヨイは焼け爛れた手の苦痛に耐えながら、その場に膝を突いた。
「いって、しまわれた……」
 ティアレを押さえ続けることに、自信はなかった。彼女は魔女なのだ。神の系譜を継ぐ女を、いくらなんでも自分一人で押さえ続けていられるはずがない。
 しかしこうもあっさりと、彼女を外に出してしまうことは想定外だったし、まさか魔術をそのまま返されるとも思っていなかった。彼女がそれを自覚しているのかどうかは知らないが。
 嘆息して、懐から<癒し>の招力石を取り出す。念の為、持っておいてよかったと思う。そうでなければ役目を果たせぬところだった。
 魔術を返されたのは逆によかったのかもしれない。ティアレが受けたはずの傷は全て自分が引き受けている。もし彼女が傷ついていても、立ち去った彼女を追いかけて治療するのは難しいだろう。招力石の魔力を受けて、徐々に平常に戻っていく手を見ながら、ヤヨイはそう思った。
 手の治療が終わったところで、立ち上がる。床には魔術の陣が描かれている。遠隔の陣。他にももう一箇所用意してある。
 ティアレの身体に描かれた呪は有効だ。ほとんど描き終わっていたことも幸いだった。全て完了していたのならば、彼女は苦しまなくてもすんだが――いまさら言っても仕方がない。ティアレは、行ってしまったのだから。
 あとは彼女の意思と、体力だけが頼みの綱だ。
 もう、彼女とも会うことはないだろう。自分は一足先にハルマ・トルマを脱出する。
 彼女が無事、呪いに打ち勝てますように。
 ヤヨイはそれを祈りながら、術の印を切った。


 どれくらい歩いたのかは判らない。
 一つ一つ部屋を確認しながら古城を踏破していったラルトが、ティアレを見つけ出せぬままたどり着いた最上階は、小さな広間になっていた。謁見の間ではない。このハルマ・トルマの古城、そしてその謁見の間には幾度か足を踏み入れたことがある。しかしこの広間は、ラルトにも見覚えのない空間だった。
 高くとられた天井には、美しい色つきの玻璃がはめ込まれた窓が並ぶ。窓枠に施された精緻な細工は、ブルークリッカァの国花を象っていた。柔らかな陽光が色を与えられて玻璃の向こうから、広い空間に降り注いでいる。天井を支え並び立つ幾本もの柱は、重厚さを感じさせた。
 何のための空間なのだろう。荘厳な、けれど物悲しい何もない広間。
 かつん、と、足音がした。
 下げた剣の柄を握る手に力を込める。警戒心から身構えながら、ラルトは足音の方向に目を凝らした。
 かつん。再び、足音が響く。
 柱の向こうの暗がりから徐々に姿を現したのは、一振りの剣を提げた男だった。
 身に着けている衣装は暗い赤に染め抜いた袍。それに黒い帯を締めている。頬半分と襟ぐり、手には、禍々しさを纏う赤い紋様が浮き出ていた。鴉よりも漆黒の、髪と瞳。
 薄い唇を歪めて、彼は笑う。
「やぁ、待ってたよ」
 ラヴィ・アリアスは、まるで親しい友人に声をかけるかのように、手を上げて気さくに言った。


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