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第十六章 古城の決闘 1


「しかし、自分の奥方を人質に取られたぐらいで、皇帝が交渉に応じるのか?」
 馬車は順調に路を踏破していき、とうとう残すところ一日程度。
 馬車の揺れに酔ったのか、青白い顔でしばらく沈黙していたソンジュが、宛がわれた濡れた手ぬぐいを額からつまみ上げ、口を開いたのはそのような時だった。
「応じますよ」
 シルキスは日記帳に道程を書き付けながら彼に短く応じてやった。だがその答えに納得がいかないらしい。ソンジュは横たえていた身体を僅かに起こして続ける。
「皇帝は情に厚いと聞くが、同時に冷徹な政治家だとも盟主が言っていた。自分の奥方程度で、簡単にこちら側にデルマ地方を引き渡すのだろうか?」
「そう思っていらっしゃるのでしたら、なぜデルマ地方の奪取などを企てたのです?」
 書付をしていた冊子を閉じて、シルキスは尋ねる。質問に問いを返されて、当惑を見せながらソンジュは応じた。
「……デルマ地方を盟主たちは泣く泣く手放した。もともとこちらの領地に属していたものだ。取り返そうとして何が悪い?」
 彼の回答に、シルキスは内心嘆息する。
 デルマ地方は古くはダッシリナに属していた領地。それが、傭兵が流れ込んだことでハルマ・トルマを中心に独立の形を取った。だがもっと遡れば、ダッシリナ全域がブルークリッカァの領地だったのだと、シルキスはあえて指摘しなかった。
 それに、盟主は別段、デルマ地方を泣く泣く手放したわけではないだろう。双方にうまみがあるように、繰り返し話し合いが持たれた上での合意だったはずだ。
 その意味も分らず、この男は、デルマ地方を手に入れられれば、祖国において、何らかの形で認められると信じている。
 愚かな。そもそも、盟主に反逆した時点で、ダッシリナ国内で認められるなどあるはずがないのに。
「……シルキス、私の質問に、答えていない。皇帝は、奥方を人質に取られた程度で簡単にデルマ地方を引き渡すと思うのか?」
「渡すでしょう」
 渡すはずがない。
 シルキスは男を安堵させるためだけに嘘をついた。そして単純に男はその嘘を信じ、安堵の表情を見せる。
 単純で、明快。だまされやすい。ソンジュ・ヨンタバルが、愚鈍と呼ばれる所以だった。
 この男も、盟主の甥という立場に生まれず平民に生を受けたならば、少し気が弱いだけの男で、終わったかもしれないのに。
 男の人生に僅かばかり同情を覚えながら、シルキスは続けた。
「それに、布石も打ってありますから」
「そうなのか?」
「えぇ」
 奥方を人質に取られた程度では、デルマ地方を引き渡すなどとは思えない。
 政治家とはそういうものだと、シルキスは知っていた。
 だから布石を打っておいた。金がないと嘆くものたちに、僅かに施しをしてやるだけで、面白いようにことは動く。
 シルキスは視線を窓の外に移動させ、ほら、と指をさした。
「主、遠くに、都が見えてきましたよ」
 窓の外、地平の向こうに、黒い都市の陰影が見え隠れする。シルキス自身、初めて訪ねる古き都。
 シルキスは瞼を閉じた。自分の破滅に、世界でもっとも古い国を道連れにできたなら、このやるせなさも慰められるのではないかとふと思った。


 地鳴りに近い音を立てて、門が開け放たれた。
 地平に日が差し掛かり、世界を眩しいまでの橙に染め上げる暁。とろとろと、夢現の狭間にいた人々は、その音に叩き起こされる。何が起こったのかいち早く理解した者が、地を駆け出しながら、叫び声をあげた。
「兵が来たぞおぉおおおおぉおおっ!!!!!」
 わぁあああぁあぁああぁっ……!!!!
 水の帝国の民は、長く貧困にあえぎながら、それでも兵というものを間近で見たことがないものが大半を占める。
 それは兵自体を出すことができぬほど水の帝国が疲弊していたことも理由のひとつであるし、隣国であるダッシリナもメルゼバも、領土拡大を狙って水の帝国へ向けて派兵することをしなかった。どちらの国もまた呪い、もしくは国内に巣食う膿に苦しんでおり、瓦解していく古い国にそれほど興味を持っていなかったことが大きい。
 よしんば兵というものを見たとしても、国境や領土の境目に警備のために置かれる衛兵程度だろう。
 よって、密かに入り込んだ間者が夜更けに[かんぬき]を抜き、彼らの手によって静かに、明け方までかかって開けられた門から津波のように押し寄せてくる馬と、それに跨った武官たちを見たとき、人々は本格的に恐慌状態に陥った。自分達が密かに抱いた夢も理想も、彼らの頭からはすっかり忘れ去られ、ただ逃げることしかできなかったのである。


「逃げる民がダッシリナに逃げ出さないように注意しろよ」
 ラルトは人々が溢れ喧騒に包まれる街の通りを、足早に進みながら将軍に指示した。将軍は了承に首を立てに振りながらも、怪訝そうに尋ねてくる。
「ダッシリナにですか?」
 あぁ、と頷いて、ちらりと視線を動かす。その先にあるのは、先ほど入ってきたハルマ・トルマの門だ。大きく開かれ、その向こうに草原の地平が薄もやの中に霞んで見える。
「開けた門は東の門だからな。西の門から恐慌状態に陥った民は逃げ出そうとするだろう」
「西の門のほうには多めに手勢を割いておりますが」
「三分の二だったな」
 昨晩執り行った、将軍たちとの軍議を思い返しながらラルトは言った。三分の二という数は、その際に決めたことである。
 兵の数はそれほど多くない。水の帝国は軍事国家でもなかったし、何より金銭的に持つ余裕がなかった。全て引き連れてもメルゼバ共和国の三分の一程度の兵しかいない。その中で、さらに三分の二程度に絞って、兵はハルマ・トルマに布陣を引いている。その総人数は、ハルマ・トルマの中に集まる人々の数の二倍程度。
「それでも恐慌状態の人間を、手傷を負わさず捉えようとしたらそれでも足りない」
 恐慌下にある人一人を押さえつけるには四人以上が必要だ。ある程度の人数はハルマ・トルマ内で抑えたとしても、西の門から流れ出る人々を押さえつけるには、倍の人数が欲しいところだ。
「逃げた人間はダッシリナに向かうだろうな。ここから目と鼻の先だ」
「そうですね」
 デルマ地方自体が、ダッシリナに隣接する地帯。ハルマ・トルマは特にその中でもダッシリナに近い。人の足でも一日足らずで到着するだろう。ただその間に、ひときわ大きな川があるのだが。
「浅瀬際に兵を置きたいところだが、余裕がないな……」
「それですが陛下、浅瀬際にダッシリナ側が兵を展開しています」
 将軍が口を挟み、ラルトは傍らを歩く彼を見やった。
「ダッシリナが?」
 上げた声に驚きが混じっていたことは否めない。ダッシリナ側に兵を動かすように要請はしていないはずである。ダッシリナ側の軍の采配も盟主が行っているが、あのユファが無駄に兵を動かすようなことをするはずがない。
「こちらへ踏み込んできそうなのか?」
「いいえ。ただ、展開しているだけです」
「……あちら側との連絡は?」
「今とっております。連絡が付くまでには時間がかかるかと」
「……そうか」
 会話はそこで一度終わり、空間を怒号と悲鳴が占める。やがて道は終わり、城の敷地内に入った。丹精に手入れされた庭にも折り重なって倒れる人の姿が見え隠れする。兵士達には殺すなとは注意しているが、厳命はしていない。命を狙われれば、自分の身を守ることを最優先に指定している。戦いがあれば、傷つくものもあるだろう。
 ラルトは歩調を緩めることなく進みながら、庭の終わりに見える扉を見つめていた。
「じゃぁ俺は行ってくるから」
 城の中へと続く扉に手をかけながら、ラルトは言った。
「ダッシリナと連絡が済んで大事ないようだったらこちらに来い」
「……かしこまりました。あと橋のほうの警備は?」
「そうだな……」
 ダッシリナとデルマ地方の狭間に流れる川は、遠浅ながらも雨季に頻繁に氾濫が起きる。その氾濫にも耐えられるように、改修工事がなされたばかりの橋が架かっている。ジンから送られてきた手記に、設計図の走り書きのようなものがあって、それを専門のものに持ち込んで設計図を起こした、かなり大掛かりなものだ。
「人が本格的にそちらに流れ込んでいくようだったら、橋を破壊してもいい」
「破壊!?」
 去年完成したばかりの橋を、平然と破壊しろと命じたこちらに、驚愕の眼差しを向けて将軍が叫ぶ。ラルトは微笑んだ。
「あぁ、壊すならそのときにはなるべく派手に。民の混乱が一気に吹き飛んで、放心してしまうようなやつを」
「……本気なのですか陛下」
「壊した暁には、貧しさで革命を起こしたやつらに、橋を再び架けるための仕事をやれるだろう?」
「……はぁ」
 ラルトの言葉の意味が判らぬのか、将軍が間の抜けた呻きをもらす。ラルトは彼をそのままに、扉を開いた。


「……始まりましたか」
 外がひどく騒がしい。おそらく、“其の時”が近づきつつあるのだろう。自分の役目の終わりを悟って、ヤヨイは長椅子から身を起こした。
 足音を殺して、寝台に歩み寄る。そこにはこの世のものとは思えぬほどに美しい女が眠っている。体調は落ち着いている。が、もともと身体が弱いせいもあるのだろう、妊娠している女は本当によく眠る。顔を覗き込むと、その美しい柳眉が僅かに歪んでいた。苦しい夢でも、見ているのだろうか。
 ヤヨイは小さく呪を唱えて、手を女の固く閉じられた瞼に翳した。女の表情が幾分か和らぐ。それに安堵して、ヤヨイは懐から数枚、人型に切り抜いた紙を取り出した。
 紙を両手で包み込み、今度は違う呪を唱える。手を離すと、紙はひらりと地に落ちた。やや置いて、その紙を中心に燐光を放つ人形が現出する。それはヤヨイの指示を受け、のそりとした動作で寝台の上で眠っていた女を抱き上げた。
「お話が終わる前に、お役目を終えなくてはいけませんもんね」
 光人形に話しかける。だが知恵のない彼らは主人であるヤヨイの声に反応し、首にあたる部位を僅かに傾げるのみだった。


 ハルマ・トルマの古城内には、慣れぬ様子で剣を握る男達が屯していた。おとなしく、隠れて震えていればよかったものを、彼らは雄叫びを上げてラルトに斬りかかって来る。
 農具を突如剣に持ち替えたところで、どうにかなるものでも、ないだろうに。
 無碍な殺生は避けたい。自分の政治が到らず、この民に苦行を強いたというのなら、再び話し合いを以って解決する道も探すこともしよう。しかし、自分に斬りかかってきた、その時点で、相手は敵となる。
 ラルトは無言のまま相手の胸部を切り裂いて階段を登っていった。
「うがぁあぁぁ!!!」
 どどどどだんっ!!!
 やや間をおいて、胸部を斬られた男が、呻きをあげながら階下へと落下していく。その道程には、ラルトに無謀にも斬りかかり、そして返り討ちにあった男達が死屍累々と倒れていた。
 殺したつもりはないが、死んでもかまわないつもりで斬っている。生きているかどうか確認するつもりもない。下手に手加減をすれば、傷は浅くなる。するとさらに死に物狂いで襲い掛かってくるからだ。恐慌状態の素人は、下手な玄人よりも厄介だった。
(あぁ、こんな風に、ティアレを探して歩いたことがあったな)
 行方不明になったティアレを捜し歩いたことがあった。
 こんな風に、ただその存在だけを追い求めて。
 そのときは確か雨だった。ジンの手引きを受けてダッシリナのほうへ向かったティアレを、追いかけていったのだ。
 ラルトは思わず笑ってしまった。どうして懲りずに、こんな風に、同じ事を自分達は繰り返してしまうのだろう。
 階段を登りきり、周囲を見回す。窓の外から見える景色を見る限り、どうやらかなり高い階層まで登ってきたようだ。順番に古城を見て廻ってきたが、まだティアレの姿はない。もぐりこんでいた間者の話からすると、下の階層にはいなかったようであるし、下の階ですれ違った可能性は低いだろう。
 ちらりと、壁際で影が動いた。
 気を取り直し、血に濡れた剣の柄を握りなおす。
 震えながら、それでも斬りかかってきた男を、ラルトは打ち倒した。悶絶する男の呻き声を背後に置き去りにし、様子を確認することもなく、歩き始める。
 ただ、離れて久しい半身の女を追い求めて。


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