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第十六章 古城の決闘 3


 身体が、急に重くなる。まるで、皮膚の下に砂を詰めたかのように。
 もう長い間伏せってばかりだった身体にとって、たとえ短い距離であっても廊下を駆け抜けることは苦行だった。衣服の代わりにした白い布を引きずっていくことにも労苦を要した。幸いにも誰にも追い掛け回されるようなことはなかったが――時折廊下に反響する足音や怒号、通路の片隅で昏倒している男達を見かけるたびに、肝が冷えた。
 本当に、ラルトはここに来ているのだろうか。
「……はぁっ」
 廊下の一角、誰もいないことを確認して、壁にもたれかかったティアレは大きく吐息した。肩を揺らし、空気を求めて喘ぐ。肺が引き絞られるように軋み、わき腹が痛んだ。
 昔を含めて、この城にはかなり長い間滞在しているはずだったが、この城の構造をティアレはまったく理解していなかった。さほど難しくも広くもない城のはずであろうに。
 ラルトを探すどころではない。
 いったいどこへと向かえばいいのか、それすらも判らない。
(平常だったら、下へ向かえばいいのでしょうけれど……)
 下の階へ降りていけば、確実に外へ通じる道に出る。下の階にはここよりも多くの人がいるはずだったが、おそらく戦場となっているはずだ。そのような場所に一人丸腰で出て行く勇気はない。
 嘆息したティアレの視界を、ひらりと、何か白いものが過ぎった。
 鳥の羽かと思った。
 思わず面を上げて周囲を見回す。しかしそれらしきものは見当たらない。廊下には、誰一人として見当たらなかった。再び視線を落とす。
 ひらり。
 また何かが視界の隅をよぎる。
 緊張に息を詰めて面を上げたティアレの視界の隅を、衣服の裾を翻し、裸足の足が、駆けていった。


「やはりお前が黒幕か」
「やな呼び方だよなぁ、黒幕ってさ。響きが悪い」
 剣の柄を握り締めながらラルトが呻くと、相対する男――ラヴィ・アリアスは、肩をすくめてみせた。
「別に俺がこの革命を思いついたわけじゃない。俺が率いているわけでもない。発案者っていうか、首謀者は俺の同僚だけど、こんなこと、俺にとっちゃどうだっていいから。ちゃんと忠告してやっただろう? 革命の動きがあるってさ」
 剣を一振り提げ、明らかに革命側の立場としてここにいるだろうに、部外者だと主張するかのようにあっけらかんと男は言う。その、彼のあまりに緊張感に欠けた声色に、ラルトは顔をしかめた。
「革命がどうだっていいというのなら、なぜお前はここにいるんだ?」
 ラヴィが提げる剣は飾りではないだろう。相対するものを攻撃するために提げられた獲物だ。やってきた水の帝国の軍が、その一振りの剣を見て、敵意あるものとして男を捕らえようとするだろう。
 部外者が、ここにいるべきではない。
「あーうん。暇つぶし」
 真剣なラルトの問いかけを馬鹿にするかのように、ラヴィが答える。ラルトは、頭痛を覚えて思わずこめかみを押さえた。
「なんか、覚えがあるぞこの問答……」
 水の帝国の城の本殿。その中庭で初めて彼と相対したときも、彼の行動の理由を問うた。そして彼は先ほどと同じように答えたのだ。暇つぶしだと。
 皇后暗殺に、革命。そのどちらも、暇つぶしなどで起こせるようなものではないと思うのだが。
 男は微笑み、一歩踏み出した。
 刹那。
 殺気を覚えて、ラルトは剣を縦に構えながら後ずさる。しかしその時にはすでに、男の身体が肉薄していた。ぎっと響く、耳障りな金属音。ラヴィの剣を受け止めたまま、ラルトは戦慄していた。
(早い……っ!!)
 踏み込みも、剣の振りも。
 見えなかった。
 そのようなことは、生まれて初めてだった。
 男が息を詰める。ぞっとする。何かが来ると思った。通常ならば飛び退いていただろう。しかしラルトの中に宿る本能のようなものが歯止めをかけた。逆に踏み込んで、ラヴィの剣を押しのける。ラヴィが驚いたように瞬きを繰り返し、ラルトの剣を受け止めながら微笑んだ。
「そうだな。なんでこの場に俺がいるのかっていう問いに対してなら答えられる」
 ラヴィは易々とラルトの剣をはじき返し、一度くるりと身体を反転させた。数歩、踏み込めばすぐに詰められる距離を間に開けて、彼は剣の切っ先を床に向ける。
 いつでも攻撃に移ることのできる自然体の構えを取ったまま、彼は続けた。
「こんなふうに、君と剣を交えてみたかった」
「いつでも国の兵に志願するといいさ。俺の剣の稽古役に推挙するぞ」
「光栄だな。そんな大役、俺に務まるはずがない。世界でも指折り数えられる剣の徒である皇帝の相手など」
「冗談を」
 ラヴィの言葉を、ラルトは鼻で笑った。戯言を。本気でそう思ったのだ。
 ほんの僅かしか打ち合っていないが、相手の力量を測るには十分だった。たった一、二撃、引き受けただけだというのにもう手が痺れている。
 ラヴィはラルトをはるかに超える剣の徒だ。あまりに違う技量の差を見せ付けられたことに対する動揺を押し殺しながら、ラルトは男を改めて見据える。ラヴィはラルトの眼差しを受け流すように、肩をすくめて見せた。
「こんなふうに、会って話もしてみたかったんだ」
 微笑んで言う男に、ラルトは失笑する。
「ふざけるな。会って話がしたかった、だと? ……それだけなら方法はいくらでもあっただろう? 貴様ほど簡単に、宮城に侵入できるなら!」
 ラヴィと初めて出会ったのは、城の内部、それも許可の与えられたものしか入れないような本殿、最奥の中庭だった。しかも彼はラルトの部下に扮して半年以上ものうのうと宮城の中を闊歩していたのだ。ラルトと会話する機会はいつでもあったし、正体を明かす機会にも事欠かなかったはずだった。
 だというのに、ラルトと会話をしたいがために、革命に参加し、このような場所に剣一つを携えて立つのだと男はいう。
 本当なんだけど、と、どこか緊張感の欠いた声音で彼が続けた。
「確かに最初はさ、君のいう通り、城にいる間にこういう機会を設けてもいいかなと思ったんだ。その気になれば簡単に二人になることはできたし、暦官じゃなくて兵士として紛れ込んでも俺は構わなかったんだけど……。俺の話、たぶん痛い目みないとわかんないんじゃないかなぁと思ってさ」
「……どういう意味だ?」
 眉をひそめてラルトはラヴィを見やった。彼は人を食ったような表情を浮かべ、ラルトの問いをはぐらかす。再び、彼は一歩ラルトに向けて踏み出した。
 響き渡る金属音。ちかりと閃く青い火花。
 ラヴィの一撃をラルトがやり過ごすと、彼は数歩ラルトから距離をとった。にぃ、と楽しげに細められたラヴィの目に不快感を覚えながら、ラルトは再度彼を睨め付ける。
「一つ、昔話をしよう」
 ラヴィは人差し指をぴっと天井に向けて、提案した。
「昔話?」
 鸚鵡返しにラルトは尋ねる。彼と語る昔話などないに等しい。ラヴィが暦官長と入れ替わっていた時期を含めても、彼と交わした言葉の数などたかが知れているだろう。
「昔々の物語、一人の男がこの国に呪いをかけた」
 しかしラヴィは、ラルトの思わぬ話を持ち出してきた。
「裏切りあえ、呪いあえ」
 そして皆、憎み合え。
 それは古い古い物語。
 歪んだ形で、現世に伝わる物語。
「呪いの神話」
 ブルークリッカァがどのように呪われたのか、その始まりを語る神話。
 ラルトの言葉に、ラヴィは微笑んで言葉を続けた。
「男は、この国を創った本人だったが、愛する女を奪われて、この国に生きる全てを憎むようになっていた」
 この国の創始者、始まりの魔女と共に神を討った英雄、ヴェルハルト・パダム・リクルイト。
 彼はこの国に呪いをかけた。この国を覆った、亡き魔女の魔力を使って。
 ふと思った。どうして今ラルトの前に対峙するこの男は、ヴェルハルトがこの国に裏切りの呪いをかけたことを知っているのだろう。
 一般的には、魔女が呪いをかけたと認知されているというのに。
 ラルトですら、ジンとのことがあって、仕事の片手間に調べている際に偶然知りえたことだというのに。
 ラヴィは淡々と続ける。
「男は、彼の妻、つまりこの国の土台となる土地を持っていた女だが、その女と、彼女に従うこの土地に生きる人間全てが、男の愛した女を奪っていったかのように思った。だから男は全てを憎んだ。そして、彼は自分自身を誰よりも憎んだ。愛する女も夢を語り合った仲間も、むざむざ死なせてしまった己自身を」
 ラルトは読んだ古文書を思い返す。
 魔女ではなく。
 この国を創り出した紛れもない本人である男が呪いをかけた。もっとも憎む自分と、愛する女を奪った妻、彼女に従うもの、その血脈全てに。
『私に彼女を裏切らせ、死に追いやらせたものたちよ。今度は貴様らが、愛するものたち同士で、裏切りあい、憎みあい、殺しあうがいい』
「さて、ここで質問だ」
 唐突なラヴィの問いかけに、ラルトは沈みかけた意識を引き戻した。
「この古い呪いを解くためには、一体どうしたらいいだろう?」
 その問いかけは、まるで子供が得意げに謎かけをするかのように、弾んで響いた。
 男の真意判らぬまま、ラルトは思いついた回答を口にする。
「呪いの元となっている……魔力を、取り除く……?」
 呪いというものは、代価と支柱が必要となる。呪いを発動させるための代価。呪いを持続させつづけるための支柱。代価は時に命や血といった触媒であり、支柱は主に魔力を意味する。
 創世の皇帝は死した魔女の魔力を支柱に使った。呪いを打破するためには、その支柱を取り除く必要がある。
 つまり、魔力を取り除くということだ。
「ま、解呪法の基礎中の基礎だな」
 少し小馬鹿にしたようにラヴィは言った。
「確かに呪いの源はそれで取り除かれるだろう。……だがそれで、本当に呪いが解けると思うのか?」
「……なに?」
 どういう意味だと、ラルトはラヴィを睨め付ける。
 呪いは確かに解かれたのだ。ティアレの魔力をぶつけ、呪いの支柱となっていた、始まりの魔女の魔力を取り払った。
 その際に、天に昇っていた美しい一対の亡霊を、自分は忘れない。
 呪いは解かれた。
 解かれたはずだ。
 ――……本当に?
「質問の言い方を変えようか」
 呪いは解かれたと断言できぬラルトの逡巡を見て取ったのか、ラヴィが提案する。
「この国の呪いは確かに解かれた。魔女と英雄が出逢い、愛し合うことによって。この国に呪いとして作用する魔力は消えた。――……だが、それだけで本当に、呪いは解かれたと、君は思っているのか?」
「俺は」
「思っていないだろう」
 ラルトの言葉を遮り、ラヴィは断言する。反論の言葉も思い浮かばず、口を噤んだラルトに畳み掛けるように、ラヴィが言葉を続けた。
「しばらく君のところの暦官として仕事をしながら、君のことを観察させてもらったよ。呪いが解かれたことを知っているにもか関わらず、君はいつだって、いつまた裏切られるのかと脅えているようだった。呪いによって君自身が殺してきた者たちの念に報いるために、玉座を温めているように思えた。裏切りの帝国の、裏切りの皇帝――……」
 ラルトをせせら嗤っているのか、口元をくっと歪めたラヴィは、両手を大きく広げた。
「滑稽じゃぁないか! この十年、復興していく国に民人は、呪いはもう解かれた、この国は裏切りの帝国ではないのだと胸を張って言い切るのに、その国の頂点に座する皇帝は、いまだ過去に囚われ続ける。そんな国が本当に、呪いから解放されたと君は思うのか!?」
 ラルトは呆然と立ち尽くす。ラヴィの問いには答えることができなかった。彼の指摘は的を射ている。
 ラルト自身、ずっと、自問自答し続けてきたことだったからだ。
 ラヴィはすっと窓の外を指差した。
「今、この土地に、人が集まっている。ダッシリナの民もいる。が、少なくとも半分は君の治世を不服とする君の国の者たちだ。この十年の間、君の手の及ばなかったものたちが、痺れを切らし、君の手を振り払ってこの土地に集まっている。愚かな民。君の尽力を理解せず、己で思考せず、目先の甘言に騙されてこの土地に立つ民を、君は裏切りの民と呼んで憎むか? 思い通りにならず、うまみの少ないことに不満を覚え、皇帝を逆恨みする大臣たちに、裏切られたと失望するか?」
 めまぐるしく、過去が蘇る。
 即位してからこの十数年、繰り返し失望を味わってきた。無責任に政治を責める民に、己の私服を肥やすことしか考えぬ大臣達に。
 何もいえず、ラルトは立ち尽くして男を見返す。
 黒髪に漆黒の瞳、そして、どこか己と似通った風貌をした素性のわからぬ男を。
 彼は問い続ける。
「この騒ぎが起きてから今まで、誰かが裏切った。そんな風に思ったりはしなかったか? その可能性に脅え、見失ったものは、なかったか?」
 はっとなってラルトは息を呑んだ。
 見失ったもの。
 見失いかけたもの。
 このわずか半月程度の間に。
「裏切りの呪いなど……。本当に大事なものを見失わなければ、呪われることなどないんだよ、ラルト」
 ラヴィはその笑みを、侮るようなものから、慈愛に満ちたものに変える。柔らかい微笑は、まるで父親が子供を見守るときのそれに似ていた。
「何故、俺がこの国の初代皇帝ヴェルハルトのことを話に持ち出したかわかるか? ヴェルハルトは<始まりの魔女>ルーベン・ルーシアを愛していた。だが彼女は死んだ。彼女は、ヴェルハルトが、誰もが誰もを虐げることなく、互いを思い合い、愛し合い、信じ合い、笑い合える、豊かな国を創り出すこと、そして彼自身と、彼の末が、永遠に幸せであることだけを願って死んだんだ」
 この国を永劫たらしめていた魔女の祝福。
 この国が、幸せであることだけを祈って、かけられたはずの。
 けれど。
「しかしヴェルハルトはこの国を呪った」
 魔女の祈りは皮肉にも、ねじれてねじれて、この国の不幸の連鎖を終わりのないものにしてしまった。
「失われてしまったルーシアの未来を悼み、彼女を助け出すことのできなかった己を、人々を、心から憎んだ。ルーシアの信頼と愛に応えるならば、夢に描いた国を実現し、誰よりも自分自身が幸せにあるべく、努力すべきだったんだ。しかし彼は、憎しみに囚われるあまり、本当に大切なものを見失った。愛するものや仲間を失い、傷ついた彼を支えようとした妻、彼に愛されることを待っていた子供、彼を支えようとした国民、家臣、そして――ルーシアの祈り。彼こそが、この国で、最初に人々の信頼を、愛するものの信頼を、“裏切った”んだよ」
 ラヴィの言葉は悲痛さに痛々しく響いた。滑稽さを嘲笑う彼の虚ろな声は、静かに空間に響き渡る。
「他者への悪意や恐怖は暗闇のようなものだ。皇帝の目を覆い隠し、大切なものを見失わせる」
 静かに瞼を下ろし、ラヴィは言った。
「大切なものを見失ったとき、人はヴェルハルトのように、誰かを憎むだろう。それが知らぬ間に悲劇の連鎖を引き起こす。たとえ魔力そのものが姿を消したとしても、大切なものを見失った誰かが怨嗟を吐いて、呪いを引き起こす。国は呪われる――……永劫に!」
 まるで歌劇の舞台に立つ俳優のように、その[かいな]を広げて声を張り上げる男を、ラルトは見つめ低く呻いた。
「貴様は、一体何のために、俺の前に姿を現したんだ……?」
 この、どこか自分に似通った雰囲気をたたえる男が何者なのか。
 一体、どこから来たのか。
 尋ねても男は答えぬだろう。以前尋ねたときのように、はぐらかされるだけだと判っている。
 ならばせめて確認しておきたかった。
 男が、自分の前に、現れた意味。
「呪いに囚われ続ける皇を永劫に頂いていかなければならぬ、民人は不幸だ」
 ラヴィが厳かな声で言った。
「いつ狂うかも知れぬ皇帝に、脅え暮らさなければならぬなど。そしてそんな風に、君が心儚くある皇ならば――……」
 一度ラヴィが言葉を区切る。刹那、ラルトは粟立った背に反射的に剣の柄に力を込めていた。
 体重を、動かす。
「暇つぶしがてら」
 ラヴィが目にも留まらぬ速さで持ち替えた剣の鋼が、ラルトの目の前を一閃する。それをどうにか受け止めながら、ラルトは目前に迫って笑う男の囁きを聞いた。
「俺が殺してやってもいいだろうと、思ったんだよ」


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