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第十五章 会戦前夜 3


「ハルマ・トルマか」
 馬から下りて、その首筋を撫でてやりながら、ラルトは遠くに見える街を見つめた。城塞都市の名前を関するだけあって、その街は高い壁に囲まれている。守りも鉄壁だ。兵を率いて乗り込むのなら、この壁が一番の難関だろうと思っていた。
 中に立てこもっている民もまた厄介だ。今は革命だのなんだのという熱に浮かされているが、いざ兵が乗り込めば恐慌状態に陥ることは間違いない。彼らが暴動を起こすことは無論、自傷行為に走ることも考えられる。ここはダッシリナとの国境も近い。かの国に民が流れる可能性も念頭においておかなければならなかった。
「もうよろしいですか?」
 視察に来たラルトについてきた将軍が、声をかける。すでに夜は更けているのだ。他ならぬラルト自身が兵士たちに休息を厳命したというのに、まだ起きてこのような場所にいる。そのことが、この将軍には許せないらしい。
 馬一頭にまたがって、身一つで現れたラルトに、将軍は当初驚いた様子だった。当然だろう。皇帝が自ら出向くとは、報告されていないはずだ。それでも将軍はすぐさま言った。お待ちしておりました、と。
『こちらの馬とはかち合いませんでしたか? 陛下をお呼びしようと思っていたのです』
『俺を? なぜ?』
『妃殿下とは一刻も早く、お会いになられたほうが、よろしいのではないかと思いまして』
 実際、ラルトを呼ぶために馬など出してはいないだろう。しかし機転を利かせてそのように告げて笑った将軍の顔を見て、ラルトはずいぶんと心安らいだ。
 ふとイルバの言葉を思い出す。
『みんな、お前の幸せを、祈っている』
 自分の幸せが、どういうものなのかは、まだよくわからない。人は自分の不幸については考えても、幸せについて、そう深く考えるような生き物ではないだろう。ラルトもまたそうだ。
 ティアレを迎えにいくため、単身飛び出したラルトを、驚きこそすれ、誰も責めなかった。この将軍のように、当然のように迎え入れられることは、ラルトを勇気付けた。
 まだ、間に合うだろうか。
 取り返しのつかぬ前に、またこの手に、ティアレを抱くことができるのだろうか。


 うっすらと瞼を上げ、開けた視界の隅には、少女の顔があった。
 その空色の瞳が、安堵に緩む。
「よかったです。気が付かれたんですね」
 ティアレは痛む頭を抑えながら上半身を起こした。いつもの頭痛だが、何度経験しても慣れるということがない。ぼんやりした視界で周囲を探る。案の定、そこはティアレに与えられたハルマ・トルマの部屋で、ティアレが横たわっているのはいつもの寝台だった。
 駆け寄ってきたヤヨイが、ティアレの顔を覗き込む。
「ご気分はいかがです?」
「喉、渇きました」
 少女の問いに、ティアレは正直に答えた。喉が張り付いたようにからからだ。今すぐにでも、潤したい。
「ちょっと待っててくださいね。お水お水……」
 ティアレの要望を聞き入れて、ヤヨイが慌しく部屋を右往左往する。彼女が水差しを手に高杯に水を注ぎいれている間、ティアレは窓の外を見た。
 太陽が、地平の端にある。
 その位置から、太陽が沈もうとしているのではなく、今まさに昇ろうとしていることを知った。
「また私はずいぶんと眠っていたのですね」
 革命の始まりに立ち会わされて以後、またこの部屋に軟禁される日々が続いた。しかしその間、ティアレは以前のように古城内を歩くことをしなくなっていた。睡魔が、断続的に襲ってくる。
 昨日も、昼までしか記憶がない。
「仕方がないことです。もともと妊婦というものは、眠ることがお仕事なぐらいよく眠るんですよ」
 水の注がれた高杯を差し出しながら、ヤヨイが言う。労わりに満ちた彼女の言葉に、ティアレはぎこちなく笑いを返した。
「……外が緊迫していますね」
 窓の外から、緊張感漂う空気が流れ込んでくる。魔女であった頃の名残だろう。ティアレはそういう空気の微妙な揺れに敏感だった。魔術の粒子は、人の感情に素直だからだ。
「兵が駐屯しているそうですので」
 ヤヨイが、ティアレの着替えらしき衣服を用意しながら答える。ティアレは驚きに彼女を振り返った。
「兵が?」
「はい。ブルークリッカァ側の兵です。見張りのために伏せてあったようですが、本格的に布陣を敷いたみたいですね」
「ハルマ・トルマに乗り込んでくるのでしょうか?」
「そうするでしょう。本格的布陣を敷いた原因は、ティアレ様にあるようですし」
「……私に?」
 なぜ、と問いを口にしかけ、ティアレはすぐにその答えを悟った。シルキス・ルスに、革命の宣告の場に付き合わされたことを思い出す。無論、ハルマ・トルマにはブルークリッカァの間者が入り込み、事を報告されているはずだ。もしくは、ハルマ・トルマ側からラルトの元へ通知がいったのかもしれない。どちらにせよ、ティアレがこの場にいると知れば、兵を展開せざるを得ないだろう。
「……誰も傷つくことなく、終わるとよいのですけれど」
「誰も傷つくことなく……この場にいる、国へ反逆しようとする人々もですか?」
「もちろんですよ、ヤヨイ」
 ティアレの着替えと手ぬぐいを両手で抱えて傍らに佇むヤヨイに、ティアレは答えた。
「できれば、誰も傷ついてほしくはないと、思っています」
 祈りのように思う。
 誰もが、笑い会える国を。
 けれど幸せは人の数ほどにあり、人は己一人支えるだけでも苦心するほど心弱いのに、大勢の国民の望みをできる限り叶えて幸せにしたいと昼夜問わず働く人々は、あのちっぽけな宮城に属するものがすべてだ。
 誰も傷つかぬということは無理だ。屍を踏んでいかなければならぬこともある。ティアレはそれを知っている。
 それを知っていてもなお願う。
 このハルマ・トルマに集まった人間もまた、ティアレが愛すべき水の帝国の人々なので。
 自分は、彼らの母であるので。
 どうか、誰も傷つきませんよう。
 長く己のことばかり考えて、自分の責任をないがしろにした自分を、ラルトはまだ、愛そうといってくれるだろうか。
 この手を、とってくれるのだろうか。


 月の明るい夜。昇っていった魔の光。その中で、まぼろばの土地へ旅立っていった男と女の亡霊。
 男は女をその腕に抱き。
 女は男の腕の中で男の手をとり微笑んでいる。
 死ぬことでしか遂げられなかった彼らの想いを受け継いだ自分たちは、再び彼らのように、手をとり笑いあうことができるのだろうか。


 エイからの申し出を引き受けてすぐに、宮城の奥のほうにある一室に押し込められ、準備が始まった。自らが暇つぶしに読んでいた文献やラルトから口頭で聞いていた水の帝国の機構。それ以上のことを知るために、最低限のことが書かれた文献を押し付けられた。作法の教師として事情を知る女官が一人つけられ、人前に出ても粗相がないように、東大陸のそれを徹底的に仕込まれる。中年の、硬くなった頭と身体に、それはかなりの苦行だった。
 たった一日の付け焼刃で城内をうろつかなければならない。これから細かい部分は、シルキス達がこちらに到着するまでに、どうにかしていくということらしい。なんともいい加減な。
 昨日と同じく城のそこかしこに薄靄の浮かぶ早朝、文献を枕に転寝していたイルバをたたき起こしたのは、畳紙に包まれた真新しい衣装を抱えたシノである。
 イルバには着慣れぬ衣装。それは、東大陸ならではの刺繍が凝らされた絹綺物だった。
 それの着付けを手伝うこの国の女官長に、イルバはふと、疑問に思って尋ねた。
「俺なんかを安易に信用していいのか?」
 シノが腰帯を口にくわえながら面を上げ、小さく首を傾げて見せる。
「ほかに適切な方はおりませんでしょうし、陛下から不在時はことを一任されているカンウ様がよいのだと仰る。なら、私はよいのだと思います。私はあくまで裏方ですので、決定権はございません」
「この国の奴らは、なんでそんなに得体の知れない俺なんかをほいほい信じられるんだ」
 エイのいうことも分かる。だが引き受けてみて、改めてイルバは思うのだ。
 イルバの素性自体はおそらく諸島連国の議会で働いているアズールにでも照会したのだとは思う。しかしそれにしても政治の世界から七年も――もう、八年といってもいいかもしれない――遠ざかっていた男を、平気で使う神経が信じられない。
 大博打にもほどがある。
 そうですね、と軽く思案したシノが、柔らかく微笑んだ。
「私たちは、裏切りの帝国の民ですから」
 裏切りの帝国。その忌み名を呼ぶなとかつてイルバを叱咤した女が、そんな風に言う。
「答えになってねぇぞ」
「裏切り、裏切られる。それは裏を返せば、誰かを信じていた、ということです」
 引きます、と声がかかり、腰帯が強く引かれる。腹部を圧迫されて、イルバは思わず咳き込みそうになった。
 てきぱきと衣服の着付けを進めていきながら、シノは言葉を続ける。
「誰かを強く、信じていたから、裏切りが成り立つのです。誰も信じなければ、裏切る裏切られた、と騒ぐこともできない。私たちは、裏切られ続け、それでも、誰かを信じずにはいられなかった、民なのです」
 できました、と彼女はイルバの背を軽く叩いた。等身大の姿見には、別人のように成り代わった男がそこにいる。髭をそり、髪を整え、上物の衣服に身を包んだ男は、積んできた経験がそうさせるのか、それとも不遜な態度のせいか――確かに、この国の上級官夫であると告げれば、信じずにはいられないような雰囲気をかもし出していた。そのあまりの違和感のなさ、馴染み具合に、自分のことながら、イルバは笑いたくなる。
 丁度よく、部屋の戸が叩かれる。外に控える兵の低い声が、左僕射の到着を告げていた。
「準備は整われましたか?」
 年若くありながら、この国を支える柱の一つである男は、微笑んでイルバに問うた。
「あぁ」
 イルバは頷いた。
「見ての通りだ」
「では、参りましょうか」
「いってらっしゃいませ」
 頭を下げる女官長は、口元に不敵な笑みを宿している。イルバは呆れた眼差しで、この国最強と呼ばれる女官長を見やり、そして左僕射を伴って足早に部屋を出た。
「準備は整ってんのか?」
「えぇ、もちろん。貴方様の指示の通りに」
「仕事がはえぇこった」
「陛下の教育が鬼なんですよ」
「なるほどな」
 イルバは笑った。
「なら、見せてやろうか」
 これから自分たちに刃向かってくる、現実味のない理想に凝り固まった輩に。
「これが、古臭い、政治屋たちの戦い方だってな」


 イルバを見送った後、久々に奥の離宮の女官達に召集をかけた。ティアレがハルマ・トルマにいることが明かされ、静養地に送られていた身代わりの女官も呼び戻されている。
 シノを除けば五人しかいない奥の離宮の女官達を待つ間、シノは窓から古い庭を見下ろしていた。
 並び立つ樹木の枝を、鈴なりに蕾が飾っている。それでもまだ開く気配はない。気候もずいぶんと暖かくなった。春も半ばだ。しかし、きっと主が不在のままのこの庭にとって、まだ季節は冬なのだろう。
(フィルが死んだときや、レイヤーナ様がお亡くなりになられたときも、このようだった)
 彼らが死んで、特にレイヤーナが死んだ冬以降は、永遠にその季節が終わらないのではないかという寒い一年が続いた。今のころ、霜柱を踏み、フィルやレイヤーナの墓に毎日参ったことをまだ覚えている。
 ティアレがやってきて、凍り付いていた国の時が動き出した。なのにまた、ゆっくりと、季節が閉じようとしていると思うのは、シノの意識がそうさせているのだろうか。
「シノ様」
 控えめな女官の声に振り返る。そこにいたのは奥の離宮の女官達全てだった。
「さて、話は聞いていますね」
 これから、数日後に迎える客人のこと。ティアレのこと、ラルトのこと。
 それら全ての説明はすでにしてあるはずだ。
 女官達は頷く。
「殿方たちは殿方たちで、あるものは自らの命を盾に、あるものは知略を武器に、戦っていらっしゃる」
 女官達は背筋を伸ばし、シノの言葉に神妙に耳を傾けている。彼女らの素性はばらばらだが、皆一様に、この国と、ラルトとティアレを愛しているものたちばかりだと思う。
 私達の国は、私達で守るの。
 だからどうか助けて。
 古い庭の片隅で、思い出の中にだけ眠る男と、かつての主人に小さく祈る。
 どうか誰も、悲しみませんように。
「ならば私達は私達で、戦わなければいけません」
 女官達が微笑む。
 裏切りの帝国。そう呼ばれた国の闇を、彼女達もまた何かしらの形で潜り抜けてきたはずだ。不敵に微笑む女達は、誰もが力強さに満ちている。
「異国からの客人に、存分なもてなしを。この国の男達が存分に力を震える舞台を、私達の手で作り上げ、飾り立てていくのです」
 シノもまた微笑んだ。
「さぁ、戦いが始まりますよ」


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